3 『りんごのうた』
今頃どうして いるかしら
りんご畑の お爺さん
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これまで何度もひとりごちてきたことだが、私は死ぬことは怖くない。重要なのはどう死ぬかだ。生きている以上必ず死ぬ。それはりんごでも人間でも同じことだ。
だからこそ私はこれまでの生が決して無駄にならない死に方をしたい。たかがりんごの私がそれを望むのは分不相応だろうか。
私には人間のような手も足もない。言葉も喋れない。だが心はある。このひとりごとがその証だ。誰にも届かない想いは初めからないのと同じだろうか。いや違う。私はここにいる。ここにいて、あなたに想いを伝えている。
あなたは私を選んでくれた。運命は今繋がったのだ。私の生はあなたのためにあったのだ。あなたに逢うために私は生まれてきたのだ。私を終わらせるのはあなたなのだ。
だから私を美味しく食べてください。
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「お父さん、お見舞いに来たわよ」
「おじいちゃん、大丈夫?」
私は暗闇のなかで声を聴いている。
「ああ、百合子、健太、ありがとう」
姿を見なくてもその声の主が老人だとわかった。
「入院したって聞いたから心配したけど、何だか元気そうね」
「検査でちょっと悪い数字が出ただけだ」
「ならすぐ退院できそうね」
私はこの女性が嘘を言っているのに気づいた。なぜならここへ来る前に別の人間と話していた内容と違っていたからだ。病気を治す立場にあるらしいその人間が言うには、この老人の病気はとてもひどいものらしい。長くない命らしい。しかし私とて人間の心の機微くらいはわかる。
「ハハハ。わしは健太が嫁さんを連れてくるまでは死ねんからな」
「ぼくまだ小学生だよ」
温かい雰囲気だった。それから彼らは色んなことを話した。そのうちにこの老人の人生を振り返る流れになった。戦争というものを経験したこと、家族を養うために必死に働いたこと、娘が生まれたこと、その娘が大きくなって結婚というものをしたが長いあいだ子どもができなかったこと、だがようやく孫の顔が見れたこと、そしてばあさんという人間がその孫の顔を見る前に死んでしまったことなど、老人は自分の人生を語った。ひとりごとのようなその話を、女性と少年は静かに聞き続けた。
「お母さん、本当に残念だったわね。もう少し生きててくれたら、健太を会わせてあげられたのに」
「ああ残念だ」
「私がもっと早く」
「誰が悪いわけじゃない」
「わかってる。でもたまに考えちゃうのよ」
「運命はどうにもならん」
老人の言葉には重みがあった。きっと様々な死を見てきたのだろう。まったくその通りだった。
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「あ、りんご持ってきたんだった。おじいちゃん、りんごが好きって言ってたから」
少年が言う。入れ物が揺れた。老人は「おお、ありがとう。おじいちゃんはりんごが大好きなんだ」と言った。
私は外に出された。私は老人を見た。今にもその命が終わろうとしているのが私にもわかった。
「いいりんごだ。色も形もいい」
老人が目を細めて言う。そんな風に褒めてもらったのは初めてだった。
「わかるの?」
「ああ、おじいちゃんは昔りんごを作っていたからね」
老人は私を掴み、手の上で転がす。
「それって私が生まれる前のことよね」
「うちはもともとリンゴ農家だったんだ。まあ東京に出てきたから、後を継ぐことはなかったがな」
老人は遠くを見るように言った。
「親父がいつも言ってた。りんごにも心があるんだって」
「心が?」
「りんごだけじゃない。他の何にだって心はあるんだ。それを忘れてはいけない」
少年は老人の言葉を聞いて何を思うのか。
「だからわしは健太に、そんな心の声に耳を傾けられる人間になってほしいと思う」
私も思う。りんごを代表してそう思う。
「うん、わかった」
少年はうなずく。
「いい子だ」
老人は少年の頭を撫でた。慈愛を感じた。私はそのやりとりを見て、生まれてきてよかったと、不意に思った。
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女性が私に刃物を当てた。私はゆっくり回される。皮が少しずつ剥かれていく。切れることなく繋がったままの皮が下へ垂れていく。
痛くないわけがない。痛い。皮を剥かれるだけでこれほど痛いのなら、この体をばらばらにされるときはどれだけ痛いのだろう。今まで経験したことのないような激痛に襲われるのだろう。
でも私は大丈夫だ。育ててくれたおじいさん、選ばれなかった仲間たち、そして選んでくれた人間たち。そのすべてに感謝の気持ちしかないからだ。痛みなんてどうということはない。
私は知っている。この痛みに辿り着けなかった痛みのほうが大きいことを。
皮がすべて剥かれ、私は体のすべてを晒した。
しかし当然これでは終わらない。刃物が私の真上にあった。女性は私を置くと、刃物を食い込ませた。私は二つになった。綺麗な断面が見えた。
自分の体が二つになろうとも意識は一つのままだった。それは私がさらに四つに分断されても同じだった。
「健太も食べるか?」
「いいの?」
「ああ、百合子も、一緒に食べよう」
「そうね、いいりんごだしね」
女性は細い枝のようなものを一本ずつ私に刺した。
「いただきます」
少年が手を合わせて言った。老人と女性も同じように言った。それがとても嬉しかった。
だから私はこう答える。
召し上がれ、と。
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彼らの口のなかで細かくなりながら、私はようやく自分の旅が終わったことを理解する。色々あった旅だった。色々あった生だった。
私は死ぬ。でもそこに意味はあったはずだ。私自身がそう思うのだからそうなのだ。
老人はこれからどうなるのだろうか。そして少年は、どんな人間になるのだろうか。それは私にはわからないが、しかし私を選んだのだ。幸せになってもらわなければ困る。
私が私でなくなっていく。意識が遠くなっていく。
ついに誰とも通じ合うことはなかったが、りんごにも心があると言ってもらえて私は満たされていた。
おじいさん、あなたが育てたりんごはちゃんと誰かに食べてもらえましたよ。
きっとあなたは今も、そしてこれからも大好きなあの歌をうたって、煙を吐きながら、りんごを育てていくのでしょう。私は本当に幸せでした。
それではさようなら。
「ごちそうさま」
消えていく意識のなかで、一つの言葉を聞いた。それは私のすべてを肯定してくれる言葉だった。
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りんご りんご りんご
りんご かわいいひとりごと
〈了〉