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2  『幸福論』


 くだもの店の おじさんに

 お顔をきれいに みがかれて


      ●


 私は人間の多さに驚いていた。


 外の世界にはこんなにも人間がいたのか。いかに私がこれまで狭い世界で生きてきたかがわかるというものだ。おじいさんだけではない。ありとあらゆる人間が私の前を通りすぎていく。ここは人間の世界だった。


 しかし私は孤独ではなかった。言葉は交わせないが私の仲間がたくさんいた。私が見たことのない果物もいた。それらが私と同じように並べられていた。あれらが何という果物なのか、私は知っている。不思議な感じだ。初対面であるはずなのに昔どこかで会ったことがあるようだった。


 あれはみかん。当面の私のライバルになりそうな佇まいをしている。あれはバナナ。なかなか手ごわそうだ。何の勝負をしているのか自分でもわからないが、果物としてのプライドが彼らに負けたくないという気持ちを自然と生み出していた。


 私の前はとても賑わっている。やかましいというより活気があるといったほうがいい光景だった。


 ここはここでなかなか居心地がよかった。


      ●


 私を育ててくれたのは老人で、そして私をここに並べたのもまた老人だった。いや老人というにはまだ少し若さが残る顔立ちなので、老人と決めつけられるのはこの人間にとっては不本意かもしれない。なのでおじさん、と呼称することにしよう。


 おじさんは奥に座り、うなだれるようにして眠っている。多くの人間が前を通りすぎるだけで、こちらに目もくれない。だから寝ていて問題はないらしい。しかしこんなに美味しそうなりんごがここにいるのだ。ちょっとは気にかけてほしい。このまま誰にも貰われず腐り、捨てられるのだけはごめんだ。それは最悪の死だ。私とて私の味を永遠に保証できるわけではない。新鮮なうちに食べてほしい。


 しかし早く食べられるとこのひとりごとが終わってしまう。そう考えるともうちょっとだけ待ってほしいと思わなくもない。こういうのを人間の世界ではジレンマというのだろう。それくらいは知っている。


 私は道行く人間ひとりひとりを観察することにした。


      ●


 だが一人の人間もここへ来なかった。大丈夫なのだろうか。おじさんはまだ眠りこけている。私はここへ運ばれてよかったのだろうか。不安になってくる。幸せはここにあるのだろうか。


 心配になってきた頃、誰かがやってきた。腰の曲がったおばあさんだった。しかしおじさんが起きる気配はない。おばあさんは彼の肩を揺すった。


「あんた、起きねえ」


 おじさんはさすがに目を覚ました。


「ああ、立川さん。いらっしゃい」

「呑気だねえ。あんた寝てる暇があるんかえ」

「滅多に人が来ないんだから、寝てても問題ないさ。今日は立川さんが初めてのお客さんだよ」

「あんた大物やねえ」

「ハハハ。立川さんみたいな常連さんのおかげでうちは潰れずに済んでるよ。最近はみんな大きいスーパーのほうへ行っちゃうからねえ。それで、今日は何を?」

「そうだねえ、おすすめは?」


 どうやらおばあさん、はっきりとした目的があって来たわけではないらしい。まあ彼みたいな人間は、ちょくちょく様子を見に来たくなるのかもしれない。


「ああ、おすすめとなると」

 おじさんは果物たちを見る。そのなかには私も含まれている。もちろん私のおすすめはりんごだ。というかこの私だ。私を選ぶくらい見る目がある人間なら、間違いなく私をおすすめするだろう。この綺麗でたわわな赤い体を前に、心を動かされない人間はいないだろう。他の果物には悪いがここは先陣を切らせてもらおう。


 おじさんは指差して、

「今日はみかんがおすすめだよ」

 とにこやかに言った。何ということだ。


「あらそう。じゃあみかんを四つ貰おうかいね」

 おじさんはみかんを入れ物に詰めた。おばあさんはそれを受け取り、丸く平たい何かをおじさんに渡した。


「あんた嫁さんもおらんのやから、ちゃんとしやんと」

「へえい、毎度ありがとうね、また来てねえ」


 おばあさんが去るとおじさんはまた座って目を閉じた。しかし私はそれどころではなかった。みかんに負けてしまった。これは悔しい。プライドが傷つけられた。私の何がみかんに劣っていたのか。わからない。


 だがこの程度でへこたれる私ではない。次は必ず勝ってみせる。選ばれてみせる。


      ●


 だが現実とは残酷なもので、私はそれをまざまざと思い知らされることになった。


 それから何人か人間がやってきたが、私は一度も選ばれなかったどころか他のりんごですら選ばれなかった。おすすめを訊かれてもおじさんはやれみかんだバナナだぶどうだの言うばかりだった。梨にまで負けるとは思わなかった。


 実は私はそんなに大した果物ではないのかもしれない。りんごは果物のなかで最上の存在であると思っていた。人間の歴史は私たちを食べたことから始まったと認識していたから。しかしこれが結果だった。現実だった。


 私は落ちこむ。こんな気持ちでは見た目や味に影響が出てしまうだろう。そういうものだ。果物だって生きているのだ。


 するとまた誰かやってきた。小さな女の子だった。おじさんは「いらっしゃい」と微笑んで言った。


「あの、お母さんに、おつかいをたのまれてきたんですけど」

「偉いねえ。もうおうちのお手伝いしてるんだ?」

「でも、わたしおつかいって初めてで」

「ハハハ。はじめてのおつかいか。そりゃ緊張しちゃうよねえ」

 おじさんはしゃがんで少女と目線を同じにする。

「お母さんは何を買ってきてって、お嬢ちゃんにお願いしたのかな?」

「えっと、りんごを三つ、って」


 私は小躍りしたくなるほど喜んだ。私に手足があれば間違いなくそうしていただろう。ついに私の出番が来たのだ。りんごを求める人間はいるのだ。


「じゃあ好きなりんごを選ぶといいよ」


 おじさんは私たちを指差す。心なしか私を指差したような気がした。少女がぺたぺたと足音を立てて私の前に来た。真剣そうな眼差しだった。


 さあ私を選ぶのだ。君が私を食べるのだ。


「どれが一番いいりんごですか?」

「お嬢ちゃんが一番いいと思ったりんごが、一番いいんだよ」


 その言葉を受けて、少女が私を見た。

 手が近づいてくる。


      ●


 青い空を見上げるとりんご畑のことを思い出す。あそこで見ていた空と同じ色をしているからだろう。空はどこから見ても変わらずそこにある。


 しかし私があの場所へ帰ることはないだろう。失って初めてその大切さに気付いた。


 私はまたしても選ばれなかった。少女の手は違うりんごを掴んだ。


『りんごは好き?』

 おじさんがりんごを入れ物に詰めながら少女に訊いた。

『うん、大好き』


 少女は笑顔で答えた。


『それはよかった。このりんごたちも、お嬢ちゃんに選んでもらえて嬉しく思ってるはずだよ』


 それはその通りだろう。今頃少女に感謝しているはずだ。


『じゃあそんなりんごが大好きなお嬢ちゃんに、もう一つおまけしてあげよう』


 しかし私はそこでも選ばれなかった。少女は入れ物を受け取ると『おじさん、ありがとう』と嬉しそうに去っていった。


『気をつけて帰るんだよ』


 その笑顔を見送ったおじさんは、少しして『俺も結婚してたら』と呟いた。それもまたひとりごとだった。


      ●


 私はこんなにも必要とされない存在だったのか。人間は私を食べるために育てたのではないのか。選ばれたりんごと選ばれなかったりんごでは何が違うのか。私が彼らより劣っていたというのか。色か、形か、大きさか。わからない。だが何かにおいて負けているから私はまだここにいるのだろう。


 畑にいた頃は自分がこんなことになるとは思ってもみなかった。私の未来は輝きに満ちたものであると。誰もがこぞって私を求めてくれると思っていた。それを信じて疑わなかった。


 しかしそれは間違いだった。


      ●


 一番古い記憶は私が芽を出したところだ。当然まだ小さく、赤くなければりんごの形もしていない。冷たい風と温かな光を浴びて少しずつ大きくなっていたところだった。


 葉が開き、やがて花が咲くと畑の景色は壮観だった。色鮮やかなりんごの花があたりを埋め尽くしたのだ。そのなかに自分も含まれているとわかっていても、感動せざるをえなかった。花が満開になると黄色と黒色のぶんぶんうるさい虫がやってきて、花粉を持っていった。


 花が落ちると実が膨らみはじめた。しかしすべての実が大きくなるわけじゃない。私の周りには何個も小さな実があったが、私以外は切り取られてしまった。これは一つの実に栄養を集中させるためだろう。そうしなければいけないのだろう。仕方ないとは思いながらも何かの巡り合わせが違っていればあのとき切られていたのは私だったかもしれない。


 私はあのとき死んでいった仲間たちの想いを背負っている。彼らの犠牲があったからこそ今の私がある。


 りんごの形になっても、まだ私は緑色だった。赤くなるのは、雨に打たれて猛烈な暑さを乗り越えて、太陽の光をもっと浴びてからだ。


 やがてりんごとして成熟を迎えた。私はどこからどう見てもりんごだった。


 ここに至るまで大切に育てられてきた。競争を生き残った。だから私は自分が一番だなどと勘違いをしてしまったのだ。


 だが現実を知った今ならば、もうそんな考えにはならない。


 負けたのは、やっぱり少し悔しいけれども。


      ●


 私は待った。ただ待った。

 こっちを見てほしい、振り向いてほしい、私を必要としてほしい。


 そこで私は自分のなかに新しい感情が生まれたのを知る。何だか不思議な気持ちだが、りんごの私にもそれが何なのかくらいわかる。


 私は恋をしているのだ。想い、焦がれ、望み、求める。それが恋心でなくて何なのか。


 りんごには不要な感情かもしれない。だが、りんごだって生きている。


 それは悲しいほどに一方通行な気持ちではあるが、辛くはなかった。待つ楽しさを知ったから。どんな人が私の運命の相手になるのか考えるだけでドキドキするから。


 別に何かが大きく変わったわけじゃない。ただほんの少し物事を見る視点が変わっただけだ。しかしたったそれだけのことで世界は変わるのだった。


 誰かにこの気持ちを伝えたい。伝わらなくても伝えたい。


 私はここにいる。私はあなたに恋をしている。


      ●


「ごめんください」

「あ、中村さん、いらっしゃい。それに健太くんも。大きくなったねえ」

「こんにちは!」

「ハハハ。元気だねえ。今何年生?」

「小学二年生!」

「そうかいそうかい」

「ご無沙汰しております」

「お久しぶりですね、全然おいでにならなかったので寂しかったですよ」

「お世辞がお上手ですね」

「いやいや商店街の男連中はみんな中村さんが来るのを待ってますよ。女神様だって思ってますよ。いやあ旦那さんが羨ましい」

「またご冗談を」

「ハハハ。今日はどんな御用ですか?」

「父が入院をしまして、そのお見舞いの果物を」

「それは大変ですね」

「このあいだ会ったときはすごく元気だったんですけどね。もう年も年ですから、何が起きてもおかしくありません」

「でもお父さんもこうして自分のことを心配してくれる娘や孫がいるってのは、本当に幸せでしょうね」

「そうだといいんですけど」

「おじいちゃんが少しでも元気になるように、果物をいっぱい持っていってあげるの!」

「そっか。おじいちゃんは何が好きなのかな?」

「りんごが好きって前に言ってた!」

「へえ、じゃあいっぱい食べてもらわなきゃね」

「うん!」

「健太くんは優しい子だね。その気持ちは絶対おじいちゃんに届くと思うよ」


      ●


 そして私は短くも世話になったおじさんに別れを告げることになった。私は入れ物のなかで他のりんごたちと身を寄せ合った。まるでこの幸せを共有するかのように。


 ここで選ばれていなければ、私はどうなっていたのだろうか。私が選ばれたことで選ばれなかったりんごが生まれたのだ。残された彼らはどうなるのだろう。誰かに選んでもらえる未来が来るのだろうか。来てほしい。ほんの少し巡り合わせが違っていればそこにいるのは私だったのだから。あのときと同じだ。私を生かすために他の小さな実が死んでいったときと。私はまた仲間を犠牲にして前へ進んだのだ。彼らの犠牲を決して無駄にはしない。してはならない。


 背負わなければならないものが、また増えた。


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