1 『孤独のあかつき』
私はまっかなりんごです
お国は寒い 北の国
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私の赤い体は太陽の光に照らされて、きらきらと輝いている。
私はりんごだ。この畑で育てられている無数のりんごの一つだ。
私はいずれこの木からもぎ取られて、こことは違う場所へ運ばれ、そしてどこかで人間に食べられる。そう決まっている。そういう運命なのだ。それを私は知っている。いや私たちは知っている。まあ腐って捨てられるという結末もあるだろうが。
私たちりんごは人間の前で弱者だ。勝ち目などあろうはずがない。食う者と食われる者、その関係は絶対に変わらない。
しかしそれに文句があるわけではない。
私がこうして想いを巡らせることができるのは、他でもない人間のおかげなのだ。この先に死しか待っていなくとも私には希望しかない。人間に食べられることこそが最高の幸せなのだから。周りのりんごも同じように思っているに違いない。
空を見る。今日もいい天気だ。
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私の一日はとても退屈なものだと思う。何せ生まれてから一度も動いたことがないのだから。まあ景色は綺麗で空気も澄んでいるので不満を抱いたことはないが、それだけではいくらりんごといえども暇を持て余す。
私に人間のような足があったなら、こことは違う景色を自由に見れただろう。まあ私の体に足が生えていたら気持ち悪いことこの上ないが。
そんなことをつらつらと考えていたら、私はたわわに実った。周りのりんごより少し大きく、綺麗なりんごになった。同じりんごなのでそこまでの差はないが、見比べれば明らかに違いがわかる。
味にも自信がある。もちろんこれまで誰かに食べられたことはないが、私はとても美味しいりんごだと思う。このみずみずしい果肉にかぶりつきたくならない人間はこの世にいないだろう。
するとこの畑の主であるおじいさんが木々のあいだを歩いてきた。おじいさんは何か歌を歌っていた。やけに上機嫌な様子だ。何かいいことでもあったのだろうか。おじいさんはいつものようにりんごを一つ一つ確認していく。虫に食われていないかとか、形がいびつではないかとかを見ているのだろう。
そして一息つくとその辺に腰を下ろして白い棒を加え、煙を吐いた。首に巻いた布で顔を拭いて、おじいさんは空を見上げる。歌がまたうたわれる。このおじいさん、歌うのがとにかく好きなのだ。それがどんな歌なのかはりんごの私にはわからないが、何とも気持ちよさそうだ。やがておじいさんは立ち上がるとどこかへ行った。でも日が落ちる頃になったらまた来るはずだ。それまで景色に変化はない。
だが直感でわかる。近いうちに大きな変化が訪れると。私は食べごろなのだから。
まだ見ぬ世界にわくわくしている自分がいるのに気づく。そして同時にりんごとしての死が迫っていることにも。
しかし繰り返すように私はそれを怖いとは思っていない。
果たしてこことは違う世界の景色はどのようなものなのか。私はそれを想像しながらその日を待つことにした。
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おじいさんの話をしよう。
この世界にはたくさんの人間がいることは知っているが、私のなかで人間といえばこのおじいさんだけだ。
だがこのおじいさんについて私が語れることはほぼない。私はりんごで彼は人間。私はおじいさんの名前すら知らない。
しかし一つだけ語れることがある。それは、彼はとても優しいということだ。それは間違いない。
たとえそこにどのような思いがあろうとも、私たちを大切に育ててくれていることは事実だ。雨の日や雪の日を乗り越えられたのは、おじいさんがいてくれたからだ。
なぜ彼がたった一人で私たちを育てているのかとか、他に手伝ってくれる人はいないのかとか、想いを巡らせてみたことはある。しかしすぐにやめた。そんなことはりんごにとってはどうでもいいことだからだ。私に私の物語があるように、彼には彼の物語があるのだ。
だが死を迎えるとき、私はおじいさんの顔を思い出すことにしよう。それが私にできるせめてもの恩返しだと思う。
私はそのときをりんごらしく待つのみだ。
誰にも聴かれることのないひとりごとに耽りながら。
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この体を枝からもぎ取られるとき、物凄い痛みを感じることを私は知っている。不思議なものだ。私はその痛みを知らないのに。
私は日が昇るたびに今日がその日ではないかと思う。せめて誰かに訊いてみたいものだが訊ける相手は誰もいない。
思えば今年は特に色々世話をしてもらった。念入りに消毒をしてもらったり、太陽の光がよく当たるように葉っぱを切ってもらったりした。急にこの景色が名残惜しく思えてきた。私はこれまでのあらゆるものを振り返った。
さあ覚悟はできた。いつでも来るがいい。旅立ちの日よ。
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よく晴れた、私が好きな空だった。おじいさんが入れ物を持っていつにもまして上機嫌に歌をうたいながらやってきた。そしてりんごを丁寧に木から切り離し、入れ物へ入れていく。
そこまで広いわけではないとはいえ、おじいさん一人ですべて収穫しようとすればかなり大変なはずだ。見ているこちらが心配になる。だがそんな心配はいらないようで、おじいさんは馴れた手つきで進めていく。まるで我が子を扱うようだった。私は彼に育てられたことを誇りに思う。
心地よい風が吹いている。どこかで鳥が鳴いている。隣の木からりんごがなくなった。入れ物のなかはりんごでいっぱいだった。次は私たちの番だった。ついにこのときが来た。優しい彼の手が今だけは別の生き物のように思えた。手が迫ってくる。緊張が高まる。
そして手が私の体に触れた瞬間、物凄い衝撃が体を駆け巡った。すべてが真っ暗になった。
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気がついてもまだ真っ暗だった。それにやけに窮屈だった。どこか狭い場所にいるようだ。周りにはりんごがたくさんいた。時おりがたんごとんと揺れていることから、どこか別の場所へ運ばれているのだろうことがわかった。
さて私はどこへ行くのか。どんな世界が待っているのか。
そしてその世界でどんな死を迎えるのか。
興味は尽きない。尽きるはずがない。自分の知らない世界がそこにあるのだ。心躍らないわけがない。それはりんごも人間も同じのはずだ。
しかし覚悟していた激痛はなかった。形容しがたい衝撃には襲われたが、痛みはなかった。死ななくてよかった。私の生はまだ続く。私は死ぬときまでこのひとりごとをやめないことを自分に誓った。
さようなら、おじいさん。あなたに逢えて幸せでした。育ててくれてありがとう。
行ってきます。