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ホウケンオプティミズム  作者: 高城 蓉理
第二章 依頼に関して
9/32

第六条

◆◆◆



 都心のビルの隙間から覗いても、満月だけは平等なんだ。


 高揚感と喪失感、達成感と虚無感で、心の中がザワザワする。こんな気持ちになったのは、もしかしたら初めての経験かもしれない……


 桃佳は頭上を見上げながら、手に一通の茶封筒を握りしめていた。慣れないリクルートスーツはウエストが擦れて不快感があるし、滅多に履かないパンプスの踵が痛い。駅を目指す道すがら、今宵の客の感想がポツリポツリと耳に入る。勿論、自分の影ナレーションへの感想などは一つもないのだけど、演奏への称賛の声を聞くのは何故か自分まで嬉しい気持ちになっていた。


 今、桃佳が握りしめているもの。それは今回の影ナレーションへのギャランティー(対価)だった。交通費込みで五千円。これが相場な金額なのかは分からないけれど、アルバイトをしたことがない桃佳にとっては、初めての給料だった。あの拙いアナウンスで、お金を頂いてしまうのは烏滸がましい気持ちは拭えない。でも素直に嬉しい気持ちと、達成感は込み上げていた。


「あっ、いたいた 」


「……んっ? 」


 誰かが こちらに駆け寄るような足音がして、桃佳は思わず 後ろを振り返る。雑踏の中にいても分かるその声は 桃佳をこの場に引っ張り出した張本人のものだった。 


「なっ、えっと…… 何故、先生がこんな場所に? 」


「田町くんから もしもに備えて演奏会に行ってくれませんかと頼まれましてね。でも杞憂に終わって良かったです。彼にはしっかりと任務を全うしていたと報告しなくてはいけませんね 」


「もしかして、客席にいらしてたんですか? 」


 桃佳は意外な人物の登場に、少しだけ声が裏返っていた。

 そんな桃佳を他所に、大森は息を切らしながら額にハンカチを当てると、肩で呼吸を整えている。舞台袖にいると客席の様子などは分からないから、大森が会場にいたことなど気が付く余地はなかった。


「僕は授業が終わってから来たのでね。結局、開演ギリギリに滑り込んだ感じですけど。影ナレ、とても良かったですよ。優しい語り口の中に、誠実さも垣間見えて、聞き心地が良かったです 」


「……あっ、ありがとうございます 」


 桃佳は初めての大森からの褒め言葉に、思わず口調がタジタジになる。当然だけど影ナレーションは裏方であって主役ではない。ミスをすれば非難されるが、上手く出来たところでナレーションにスポットは当たらない。だからこそ予想外の声掛けに驚かずにはいられなかったのだ。


「初めての声のアルバイトは どうでしたか? 少しは楽しめましたか 」


「えっ? それは正直なところ、楽しむ余裕はなかったかもしれません 」


 桃佳は反射で封筒を握りしめると、思わず視線を落としていた。いまの自分に出来ることはやりきったとは思う。でも何かもう一つ、自分の中で消化できないものが喉の奥でつかえている感覚があった。


「でも部員の方に気を遣っていただいたりして、少しだけ気が紛れる瞬間がありました。たぶん周りの方の配慮があって、無駄に固くならないで済んだ気がします。私には役不足な部分もありましたが、素敵な演奏会に立ち会えて良い経験をさせて貰いました 」


「そうでしたか。きっとそれは君の将来にとっても、大切な経験になりますね 」


「私の将来? 」


「はい。君は今日をもって、当事者の立場も分かる人になったということですから 」


「……? 」


 桃佳は唐突な大森の意味深な物言いに、思い当たる節がなかった。すると大森は少しだけニコリと笑みを浮かべると、こう話を続けた。


「まあ、これは君が専攻してくれたらの仮の話ではありますが…… 

僕らが研究している知的財産権は、物に対する権利である所有権とは異なって、目には見えません。君が踏み入れようとしている学問は、()()()()()()なんですよ 」


「あっ 」


 桃佳は大森の言葉にハッとすると、思わず口元を押さえていた。


「知的財産権は、沢山の人たちの努力と叡知の結晶です。その権利を僕たちは守りたいし、後世に財産として繋いでいきたい。人間は技術を探求することを止めれない生き物で、僕らはその躍進する力を他者から守りたい。人間の文化の守りたいんですね 」


「…… 」


「さあ、そろそろ帰りましょう。駅まで一緒に行きましょうか 」


 大森は言葉を言いきるか言いきらないかくらいのところで、ゆっくりとコンコースに向かって歩き始めていた。

 追いかけたい背中は、近くて遠いい。そこには桃佳を突き放すような冷たさと、まるで道標を示すような柔らかさが共存していた。


「……あの、先生っッ 」


「んっ? どうかしましたか? 」


 桃佳はアドレナリンの赴くままに声を上げると、大森を裾に手を掛けていた。


「先生、私は 部活を頑張りますっ 」


「えっ? 」


「私が目指したいたいのは、一生懸命に取り組む人たちの権利を守ることです。だから全力で物事に取り組んだ経験は、今後の法律家人生の糧になるって信じてます。私は()()()()()を胸にしっかりと刻みましたから 」


「……そうですね。僕も君には期待してますよ。まあ、もう少し肩の力を抜いて、気楽に行きましょう。学生生活はまだまだ長いですから 」


 大森はそう言うと、桃佳の目を見て満足そうな笑みを浮かべた。

 追い付こうだなんて 恐れ多い。でも先生が自分に試練を課したのならば、その感情を知る必要があるはずなのだ。


「君自身も、部活動を通して目には見えない宝物が増えていくといいですね。きっと何かに夢中になることは、君の将来の原動力になるはずです。さあ、そろそろ先を急ぎますよ。明日も授業はあるんですから 」


「ちょっ、先生! 歩くのが早すぎますっッ。もう夜が遅いのだから、自分の学生のことは気にして貰わないと 」


「えっ? あっ、ちょっッ…… 君、ちょっと距離が近すぎませんか? 」


「そんなことはありません。夜道は一人で歩くなと、母には口酸っぱく言われてきました。それにみんな今宵の演奏に酔いしれているから、私たちのことなんて誰も見てはいませんよ 」


 桃佳は少しだけ駆け足になると、大森の横をピッタリと陣取った。

 そう、学生時代というモラトリアム(猶予)には終わりがある。だからやれるだけはやってみる。

 桃佳は胸のうちで決意を新たにすると、大森との数刻のランデブーを独占するのだった。






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