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ホウケンオプティミズム  作者: 高城 蓉理
第二章 依頼に関して
8/32

第五条

◆◆◆



 嘘でしょっッ!?

 ここって、かなり本格的なホールだよね? 


 桃佳は顔面蒼白になりながら、想像以上の会場の規模に圧倒されていた。東京二十三区の中心地かつ、駅から歩いて三分という高立地。それに思わず見上げてしまう重厚なビルのコンサートホールとなれば、集客はそれなりの人数になるに違いない。

 

「ああ、なんでこんな大事な日に限って、田町先輩がいないんだろう。一人で初仕事にいかなくてはならないなんて、無茶振りにも程があるっッッ 」


 いつもならば有り得ない台詞を呟いてしまう自分が憎らしい。でも泣こうが喚こうが、夜まで授業がある田町は引率になど来れはしないのだ。


 自分は 歴二週間の超ド新人の学生アナウンサーかつ、まだまだ見習いの立場だ。確かに今回の依頼を受けたことを後悔はしたけど、でも今日までの数日間は 田町のスパルタトレーニングに耐えに耐えたのだ。辛かった特訓の数々が頭の中を駆け巡る、その高揚感が否定できない。

 こうなったら腹を括る。胸を張って練習しまくったと言い切る自信だけはあるのだ。いや、逆にそれしかないっッ。

 

「よしっッ、私は出来るッ。絶対にやりきれる! 」


 桃佳は震える声を圧し殺し 自分自身に頬に渇を入れると、鼻息を荒めにしてホールの裏口を目指すのだった。


 と、意気込んだものの、地図を見ただけでは、舞台裏が どの場所なのかが分からない。それに緊急連絡先に電話をしても、繋がる気配がまるでないのだ。

 どうしよう。コンサートホールって、電波状況が微妙かも。

 桃佳がロビーの中で一人で右往左往していると、その様子が 挙動不振だったのだろう。こちらの動きに気付いた部員が、こう声を掛けたのだった。


「もしかして、あなたは天沢さん? 」


「えっ? はい、そうですけど 」


「ああ、やっぱり。こんなところで話が出来て、光栄だよ 」


「……? 」


 部員はパリッとしたワイシャツ姿で、手元にバイオリンを持っていた。向こうは桃佳のことを知っていたようだったが、桃佳は残念ながら彼のことは初めて見る顔だった。


「昨日 うちの部長から、影ナレに天沢さんが来てくれるって聞いて、驚いたところだったんだ。まさか #うちの学部__法学部__#の有名人に こんなところで会えるなんてね 」


「はい? 」


 自分が法学部の有名人? なんて、にわかに信じがたい話だったが、今はそんなことはどうでもいい。桃佳としては舞台裏に行く道を知っていそうな人に出会えただけで、取り敢えずは御の字だった。


「舞台袖はこっちだよ。影ナレのマイクは下手(しもて)にあるんだ 」


「案内をしてくれるんですか? 」


「ああ。自分の音を最終確認したくて、ロビーに出てきただけだからね。楽屋はすし詰め状態だから、音が混ざってしまうんだよ。それに俺もそろそろ袖に戻るところだったから、丁度いいんだ 」


「……ありがとうございます 」


「段差と傾斜があるから、足元には気を付けてね 」


「はい。了解です 」


 桃佳は名も知らぬ部員の後を、小走りで続く。年季の入ったカーペットは 所々に輪ジミが出来ていて、通路の壁は幾度とペンキを塗り替えたような跡があった。


「ここのホール、かなり古くて吃驚しただろ? 俺らの年齢のトリプルスコアでも足りないくらい、昔からあるホールらしいよ 」


「えっ? 六十年以上前からあるんですか? 」


「ああ。もちろん耐震工事はしているみたいだから、安心だけどね。このホールは音響がとてもいいんだ。先人の知恵に感服するくらいにね。学生の俺たちが使うには、手に余るような舞台(ハコ)だよ 」


「定期演奏会は 毎回 この場所を借りているのですか? 」


「そうみたいだよ。まあ、運営的には毎回厳しいみたいだけどね。入場料金を取っているわけではないから、会場の利用料金とか楽器の運搬費用とか、いつも予算はカツカツなんだ 」


 部員はチラリと桃佳を振り向くと、また何事もなかったようにスタスタと道なりを進む。同学部の同級生なのに正装にバイオリンを携える後ろ姿は、何だか少しだけ格好よく見える気がしていた。 


「節約をするならば、本来は影ナレは自分たちでやるのがいいのだろうけど。生憎、うちの部活は全員で演奏会の場に立つのをモットーにしているんだ 」


「ぜ、全員ですか? 」


「ああ。だから舞台は少し窮屈だし、音を合わせるのも大変だけど。でも何の(しがらみ)もなく 楽団員が平等な状態で同じ舞台に上れるのは学生時代、つまり大学がラストチャンスだからね 」


「……それは、確かに 」


 社会に出てしまえば、この先に出会う交遊に純粋な友好関係のみを築くのは難しいかもしれない。企業に属せば 同期は仲間でもあり、出世()を争うライバルになる。それこそフリーランスとして社会に出れば、周りはライバルだらけの環境だ。


「うちは音大ではないから、部員同士で競うことはしない。勿論、お客さんの貴重な時間を対価にしての講演だから、手抜きは一切しないけど。絶対に定期演奏会(定演)に出られるってところに驕らないのが、僕らの部の唯一の約束事なんだ 」


「…… 」


 関係者以外立入禁止の看板を無視して、二人はグイグイと舞台袖へと向かう。立入禁止区域は 先程まではの古びた造りとは打って代わり、現代的な空間になっている。一歩中に踏み入れると 、煌々とした蛍光灯が目に眩しく感じられた。


「ここが影ナレさんの待機場所だよ。正面のモニターは舞台の様子と、客席の様子が分かる。このリモコンで操作をすると、客の様子が三百六十度でバッチリ見えるんだ。詳しい内容は、後でホールのスタッフさんに聞いてみて 」


「あっ、あのご親切に案内までして頂いて、ありがとうございます 」


「いいえ。こちらこそ、今日の演奏会では宜しくね 」


「はい 」


 部員は軽く手を上げると、颯爽と奥にある楽屋へと消えていく。その姿が少しだけ羨ましく見えるのは、気のせいではないと思えた。



◆◆◆



「よしっ…… 頑張るか 」


 桃佳はいつものレジュメを広げると、囁き声で調音(早口言葉)を唱え始める。そして手にアロハポーズを携えると、マイクと座り位置の距離を測った。普通のハンドマイクならば自分の口までの距離は十五センチくらいが推奨されているらしく、田町からは座り位置に関しても一通りのレクチャーは受けていた。


「あの、影ナレさん。そろそろ開演時間で袖から光が漏れるので、照明を落としておいてもいいですか? そこに豆電球があるので、スイッチを押して下さい 」


「はい、了解しました 」


 桃佳は劇場スタッフに促されて机上を整えると、ふっと息を吐く。

 ナレーションを入れるタイミングは、助っ人に来ている管弦楽部のOBが指示を出してくれるらしい。喋り始める前にカフと呼ばれるレバーを上げる必要があるらしいが、その他は特殊な作業はないと聞いて 少しだけ気持ちは楽になっていた。

 

 不思議だ……

 一人でブツブツ喋っていても緊張は紛れないのに、人と会話をしたことで少しは緊張も紛れた気がする。

 結局、さっきの部員の人は何者だったのだろう? 法学部(同学部)らしいけれど、名前を聞くタイミングを失ってしまったから、こうなったら 人伝に後で確認してみるしかない。


 桃佳が原稿を眺めていると、舞台袖には続々と部員が集まり始めていた。部員たちは皆、自分の楽器や弦を握りしめ、顔を真っ赤にしながら深呼吸を繰り返している。開演時間は刻一刻と迫っていて、部員たちの硬い表情がこちらにまで伝染しそうな勢いだった。 

 桃佳がクレジットを読み上げるのは、指揮者とコンマスだけで、その他は名前を紹介されることはない。だけどオーケストラという場においては、演奏者全員が主役であり脇役でもあるのだ。


「そろそろ会場時間ですね。天沢さん、では注意喚起のアナウンスをお願いします」


「はい、了解しました 」


 桃佳は自分でも驚くくらいに冷静に返事をすると、一息ついてカフに手を掛ける。噛んでしまったらどうしようとか 思うことは沢山あったが、頭の中に田町の顔を浮かべて気持ちを落ち着ける。司会進行と異なり、今回は裏から客の顔が見えない部分が功を奏していた。


「本日はS大学学友会文化会管弦楽部 第七十三回定期演奏会にお越しいただき、ありがとうございます。開演に先立ちまして、ご来場の皆様に幾つかのお願いがあります 」


 桃佳は上々の滑り出しを見せると、まるでお経を唱えるように染み付いた文言を口にする。田町と必死に練習した成果なのか、身体で覚えた台詞の数々を間違えるイメージは浮かばなかった。

 今日の主役はあくまでも管弦楽部のメンバーで、影ナレの自分はあくまでも黒子だ。だけど空気のような存在がミスを犯せば、それはそれで目立ってしまう。プレッシャーがゼロな訳ではないが、間違えない限りは自分に注目が集まることはないのだ。


「それでは開演までは、今暫くお待ちください 」


 桃佳は前置きを言い切ると、恐る恐るカフを下ろす。脇汗が酷くて 手のひらは紅潮していたが、不思議と鼓動は落ち着いているような気がする。桃佳は持参していた水を一口含むと、胃を冷やすように流し込んでいた。


「天沢さん、どう? 緊張は少しは和らいだ? 」


「あっ、まあ、そうですね。少しは落ち着いた気がします 」


 桃佳に声を掛けてきたのは、例の部員だった。彼はバイオリンを小脇に抱えると、手のひらをズボンに押し付けて汗を拭っている。彼の向こうでは部員がそろそろと壇上に上がり、スタンバイを開始していた。


「天沢さん、あのさ悪いんだけど水を一口恵んでくれない? 口がカラカラに乾いてきたんだけど、今からだと楽屋に戻れないから 」


「えっ? 」


 部員はテーブルに置かれたペットボトルに手を掛けると、桃佳の返事を待つことなく 水分補給をしていた。桃佳はあまりの唐突な出来事に目を点にしていたが、本番前の人間に対して文句を言えるわけもなかった。


「やっぱり何度何回経験しても、舞台に立つのは緊張するんだよね。俺は一人であの場に立つわけではないのに 」


「……緊張するってことは、それだけ良いものをお客さんに見て貰いたいっていう、自分の潜在意識の表れなのだと私は思います 」


「なるほどね。ありがとう。そう言って貰うと、少しは気が紛れる気がするよ。今回は大役を仰せつかったからね、さすがに昨日はよく眠れなかった 」


 部員は横目で舞台に吸い込まれていくメンバーを見送りながら、桃佳に水を返却する。そして大きく深呼吸をすると、再び桃佳を振り返った。


「……モラトリアムはあと三年。学生のうちだけだからね 」


「えっ? 」


「僕らは物としては形に残せないものを追い求めている。それが音楽の醍醐味なんだろうけど。

まあ記録用のテープは回しているけど、僕たちの演奏は一瞬しか形に出来ないからさ。基本的には人の記憶の中と、自分の心にしか残らない 」


「…… 」


「このメンバーで舞台に立つことは一度しかないし、一期一会なんだよ。そんな貴重な機会を天沢さんに送り出して貰えるなんて、こんな役得はないね 」


「えっ? 」


 桃佳は部員が言っていることがよく分からずに、無意識にまばたきを繰り返していた。

 壇上で部員の名前を一人一人クレジットすることは叶わない。そんな中、桃佳が送り出すことが出来るいうことは……


「あの…… 」


「ああ、申し遅れて悪かったね。僕の名前は日笠廉。以後、お見知りおきを 」


 日笠という響きは、何だか疑視感というか聞き馴染みの良さがある気がした。

 日笠廉って? 日笠廉!?

 ってことは、彼は……


「あっ、あなたはコンサートマスターの日笠廉さん? 」


「ああ。そうだよ。僕は今日が人生初のコンマスなんだ。今はドキドキとワクワクが半々だよ 」


「あの、コンサートマスター頑張って下さい。私は 今日のために沢山 あなたの名前を練習したので全力でアナウンスをしたいと思います 」


「えっ? あっ、ありがとう。まさか天沢さんに本番前にそう言って貰えるとはね。少しだけ気が逸れて、リラックスして挑めそうだ 」


 日笠はそう言うと、片手を上げて桃佳に背を向ける。そして扉の向こうに繰り出すと、客席から最大級の拍手を浴びたのだった。




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