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ホウケンオプティミズム  作者: 高城 蓉理
第二章 依頼に関して
6/32

第三条

 

◆◆◆




「アーアーアーアーアー って、このトレーニングは、かなり苦しいっッ 」


「オイコラ。俺は まだ止めていいなんて、許可は出してないぞっッ 」

 

 桃佳は裸足で教室に倒れ込むと、肩で息をする。あの日から放課後は毎日のように田町の鬼特訓を食らい、夜の九時までの特訓が続いていた。

 一昨日から導入されたのが、アーと発声をしながらジャンプをするトレーニングなのだが、これが運動不足の身体にはかなり堪えるのだ。


「田町先輩っっ。あの、一般的に発声練習って、こんなにハードなんですか? 」


 桃佳は乱れた呼吸から絞り出すように声にすると、ペットボトルの水を煽る。日に日にレベルアップする発声練習は、文化部の領域を軽く越える運動量だった。


「俺がまだ高校生の頃は、発声だけで一時間くらいは練習していたな 」


「えっ? そんなに? 」


「ああ。いま思えば、普通に運動部並みのハードさだったな。まあ、あのときの貯金があるから、俺は今はのんびり出来てるけど 」


「…… 」


 桃佳は無言で靴を履くと、そのまま近くの席に腰を下ろす。教室に二人きりというシチュエーションには だいぶ慣れてきたけど、それでも一定の距離は保たずにはいられなかった。


「取り敢えず続音は伸びてきたな。そろそろ調音(ちょうおん)の滑舌法でも始めるか 」


「滑舌法? 」


「まあ、簡単に言うと、早口言葉みたいなものだよ。毎日毎日、アーだのアイウイエオアオだの唱えてても、面白くないだろ? 」


「それは、まあ確かに…… 」


 桃佳は従順に従うと、クリアファイルの中からアナウンス教本を取り出す。練習初日に貰ったレジュメは 刷り出しのゴミが刻まれた年季の入った紙だった。


「アクセント記号の付け方は、時間があるときに教える。先ずは俺を模倣して音で覚えろ。あと、忘れないように録音しとけ 」


「はあ、分かりました 」


 正直なところ、スマホに田町の声を記録するなど全く気乗りはしないけど、背に腹は代えられない。桃佳は致し方なくスマホのボイスレコーダーを立ち上げると、教本を抱え込んで姿勢を正した。


「先ずは、ア行からな。青は藍より出でて藍より青し。赤穂(あこう)の塩と、安芸(あき)の宮島。はい、続けて 」


「えっ? あっ…… 青は藍より出でて藍より青し。赤穂の塩と、安芸の宮島 」


「はい、次ッ。慌てるときは粟を食うのではなく泡を食う 」


「えっと、慌てるときはアワを食うのではなくアワを食う? 」


「オイオイ。その発音だと、言葉の意味が伝わらないだろう? 」


「えっ? 」


「最初のアワは粟だ。穀物の粟。頭高(あたまだか)と言って、アクセントは()わで、【あ】にくる。泡に関しては、あ()にアクセントがくるから尾高(おだか)の発音になる。【わ】の音が高くなるんだ。俺の細かいイントネーションの違いも聞き分けて、模倣を意識しろ 」


「えっ? 頭高? 尾高? ちょっ、もっと丁寧に説明してくださいっッ。全然、頭が追い付かないんですけどっッ 」


「だから今は覚えなくていいんだよ。影ナレーションの依頼を乗り気ったら、基礎は徹底的にやるからな。

取り敢えず、今は耳で聞こえた通りに、俺のアナウンスを真似てみろ 」


「なっ、そんなことを言われても 」


「……いま お前が知らなくてはいけないことは、アクセント記号の見方じゃない。先ずはイントネーションを間違えると、正しく意味が伝わらないことを身体で覚えて欲しいだけだ 」


「はい? 」


 この田町って男は、人にモノを教える才能が絶望的に欠落してるっッ。確かに、あと数日で自分を使い物にしなくてはならないから、プレッシャーはあるのかもしれない。それにしても一切の説明がなくて、色々なことが飛躍しすぎているのだ。


「……お前さ、案外 不器用なんだな 」


「はあ? 」


「大森先生の肝煎り新入部員だって聞いていたから意外だよ 」


「なっ、それって普通に私に対する悪口ですよね? 」


「別に悪口ではないだろ、俺は事実を言ったまでだ。どんな手段を使っても、最終的に完成させればいい。俺だってプロセスに拘るつもりはないからな。アナウンスはガッツがあれば、誰でも上達する。お前がそれを証明しろ 」


「はあ? 」


 桃佳は半ば飽きれモードで、田町の言葉を流していた。

 いろいろな理不尽に納得がいかない。もしアナウンスを始めた理由が自主的であったなら、気合いが湧くのかもしれないけど、今回に限っては とてもそうは思える気分ではなかった。

 

「ったく、分かったよ。こうなったら、作戦を変えた方がいいな。調音は五十パターンくらいの種類があるから、アクセント記号を書いたものを明日渡す。記号の見方もレクチャーしてやるよ。影ナレーションの台本も、特別に俺が記号を振れば少しはマシだろ 」


「えっ?  」


 田町の急な方針転換に、桃佳は思わず目を丸くする。出来ないことを咎められるかと思ったが、あっさりと譲歩案を提示されたのが意外に思えたのだ。


「アナウンスの基本は、聞き手に正しい情報を伝えることだ。

お前はオーケストラの影ナレーションをするわけだけど、大事なのは題名や指揮者、コンマスの名前から会場のルールまで、クライアントの意図をきちんとお客様に周知することだ。

そのためには、一語一句、お前の解釈ではなくて、基本的な日本語のルールに乗っ取ったアナウンスが重要になる。先ずは、そのルールの存在を調音から知ってもらう。基礎が大事なのは、そういうことだよ 」


「はあ…… 」


 そう言えば……

 基礎が大事って言葉は、日頃から大森先生からも口酸っぱく言われている。田町のやり方はかなり雑だけど、一応の意図はあるらしかった。


「分かりました。つまり発声練習は憲法で、調音とやらは、民法という解釈でいいですか? 」


「まあ、その例えが合っているかは個々人によって違うとは思うけど…… お前がそれで納得するなら、それでいいんじゃないか? 」


 田町は呆れた表情で桃佳を見ると、ハアと大きめの溜め息を付く。人には感覚で物事を進めるタイプと、一つ一つ理由を積み重ねたいタイプがいるが、桃佳の場合は後者よりのハイブリットなのだろう。


「これは、俺の高校時代の恩師の受け売りだけど…… 」


「高校の恩師? 」


「ああ。俺は高校からアナウンスを始めたから、そのときの顧問が言ってたんだ。

ことばによる表現のすべて知っているものは、ことばは心情の豊かな表現をなし得るものなんだとよ 」


「……随分と哲学的な言葉ですね 」


「ああ。俺にも未だにこの言葉が指す意味は、分からないし、自分なりの答えも探し途中なんだけどな。

俺たちが普段使っていることばは、まだ磨かれる余地があって、やがて磨かれるべき存在である。だから喋り手は言葉の担い手として、正しい日本語を身に付けて、極めろってことなんだろうけど 」


「…… 」


「もうすぐアナウンサー志望(有紗)も来るし、一旦 休憩でもするか。腹式呼吸の発展途上だと、根を詰めて練習をすると喉を枯らすし 」


「あの、質問があるんですけど、田町先輩はアナウンサー志望なんですか? 」


「いや、違うけど? 」


「では何故、そんなに一生懸命にアナウンスに向き合ってるんですか? 」


「はあ? そんなことは、考えたこともなかったな 」


 田町はハッとした表情を浮かべると、うーんと俯くような仕草を見せた。


「ただ単純に好きなんだと思う。色々と考えながら、文章を音にする行為が。俺にとってはアナウンスは、唯一他人から誉められて 認めてもらえることだから 」


「…… 」


 桃佳は意外な田町の言葉に、思わず息を飲んでいた。田町は真摯にアナウンスに向き合っているのに、こうして毎日 不純な動機の素人の相手をしてくれている。そう思うと、少しだけ申し訳ない気持ちが芽生えていた。


「っていうか、今は俺の話はいいんだよ。つーか、お前は今日から これを使え 」


 田町は何かを思い出したかのように席を立つと、鞄の中から袋を取り出す。そこには大きく花粉症用と書かれたマスクが握られていた。


「あの、これってマスクですか? 」


「そうだ。本番までは無駄な時間は一分一秒もないからな。授業中と暇な時間はそれを装着して、小声で滑舌の練習をしろ。移動時間も全部だ 」


「えっ、なな、それって 」


「おっと、時間だ。俺は一旦、授業に行ってくる 」


「授業? って、これからあるのは五限ですよ? 」


「ああ。残念ながら、俺は単位スレスレの馬鹿学生だからな。足りない教養科目は五限に回さないと、時間割が組めないんだ。今年は民Ⅰ民Ⅱを落としたらガチでヤバイから、必修を優先すると朝から晩まで授業だよ 」


「なっ、田町先輩って、もしかして法学部なんですかっッ? 」


「ああ、一応はお前の先輩だよ。ただまあ、ギリギリで進級したから、取得単位は大して変わらなそうだけど 」


「えっ? じゃあ、あの初日の白衣は何だったんですか? 」


「ああ、あれね。学生用のコピー機が込んでたから、高輪(理工学部)の白衣を借りたんだよ。理工学部専用のコピー機はいつも空いてるし、授業がパンパンに詰まっていて、お前に渡す資料のコピーが取れてなかったから 」


「ハアーッッッ?? 」


 田町が学部の先輩かつ、留年候補筆頭格だなんて……

 桃佳はあまりの衝撃に、開いた口が塞がらなかい。一瞬だけ尊敬の念を抱きかけたが、それは全部撤回だ。学業が適当だなんて、学生の本分をまるで無視な暴挙なのだから。


「つー訳で、今日は噂によると出席をとるらしいから、ここはおとなしく授業に出とかないとな。九十分後に成果を聞くから、練習しておけよ 」


「なっ、ちょっ、田町先輩…… 」


 ちょっと、待ててイイっッッ! 五限が終わるのって、何時だっけ? っていうか、私はエンドレスで練習しなきゃいけないってことっッッ?


 信じられない…… 

 あのポスターを見つけた、数日前に時を戻したい。今すぐにっッッ!

 桃佳は急展の数々に呆気に取られると、無言で田町を見送るしかなかった。






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