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ホウケンオプティミズム  作者: 高城 蓉理
第二章 依頼に関して
5/32

第二条

 田町は徐に立ち上がると、桃佳にパーソナルスペースまで近づく。そして桃佳の手を取ると、有無も言わさず自分の腹にあてがったのだ。


「なっ、チョッとぉっッッ 」


「今から俺が発声するから。腹にどんな力が入っているか、手元で感じろ 」


「ハイッッ? 」


 私…… 人生で初めて男の人のお腹を触ってるッッ!? 

 桃佳は茹でダコみたいに顔面を真っ赤にすると、ジタバタと足を揺らしていた。男性の握力は思いの外 強くて、振りほどくことなど困難だった。


「これでもう言い訳は出来ないよな? 」


「ちょっ、待っ 」


 いくらシャツ越しとはいえ、ほぼ初対面の男性にボディタッチをしている。桃佳が手汗を感じる余裕もなく閉口していると、急に指先から力が伝わってくる気がした。


「んっ? あれっ? 」


「いま、俺は腹式呼吸してるけど分かる? 」


「はい。まあ、何となくですけど 」


 桃佳は空いてる反対の手を自分の腹にやると、ハッと声を上げる。男女差というのはあるかもしれないが、明らかに田町の腹部にはしっかりと力が込められているのが分かるような気がした。


「まあ、誰でも練習をすれば腹式呼吸は出来るようになる。常日頃から意識すればいいんだよ 」


「常日頃から? 」


「ああ。二十四時間意識してれば、腹式呼吸は三日でマスターできるよ。たまには身体で覚えるのも悪くはないだろ? 」


「それは…… 」


 桃佳は思わず視線を逸らすと、ギュッと唇を噛んでいた。大学生だからといって、これほどまでに男女の距離が近いのは許されるのかは分からないけど、腹式呼吸がどんなものかは分かった気がする。 


 それにしても気まずい……

 密室で(教室だけど)、ほぼ初対面の人のお腹を触ってるなんて破廉恥が過ぎるではないか。

 完全に手を離すタイミングを逸してしまった。桃佳は背中に嫌な汗を掻いていることを自覚していると、後方でガタンと大きな音がした。桃佳と田町がその方向を振り向くと、教室のドアの前には大森が目を丸くして立ちつくしていた。


「んんっ? 君たち、一体何をしてるの? 」


「えっ? せっ、先生? 」


 大森は開口一番、強めの口調で桃佳たちを叱責すると、厳しい表情を浮かべている。桃佳は慌てて手を引くも、後の祭りとはこのことだ。憧れの先生にこんな醜態を晒してしまうとは、ダブルの意味で大打撃だった。


「同意の有無は問わずに、セクハラは推奨は出来ませんよ 」


「指導の範疇です。だいたい、大森先生が無茶を言うから こんなことになってるんですよ? 初心者を全国大会の本選に通せだなんて、ハッキリ言って無謀なんですよ 」


 田町は逆ギレのような態度を表すと、ハアと大きな溜め息を付いていた。


「確かにコンテストで結果を出すようには言いましたけど、手段はもう少し選んでください。あまりに露骨だと、僕も庇いきれませんから 」


「じゃあ最初から常識の範疇を超える無茶なリクエストはしないでくださいよ 」


「えっ、あの…… 」


 うわ。これって少しエグいかも。

 自分のことで、大人ふたり(しかも男性)が口論みたいになっている。桃佳は若干の気分の高揚を覚えたが、今はそれどころではない。

 とにかく、今後は立場が危うくなるような行動は避けるべきた。桃佳がそう決意を新たにしたとき、またしても教室のドアが開く音がした。

 

「お疲れ様ですって、あれれ? 大森先生に田町先輩、それに新しい部員の方ですか? 」


「…… 」


 ドアの向こうには女子学生が一人、大荷物を携えて立っていた。モデル並みのスタイルに、小さな顔立ち、それにパッチリとした瞳は明らかにオーラと呼べるオーラを纏っていた。


「初めまして。一年の#蒲田有紗__かまたありさ__#です。私はダンス部と掛け持ちしてて、遅くなってすみません 」


「あの、こちらこそ初めまして。二年の天沢桃佳です 」


「天沢先輩ですね。どうぞ宜しくお願いします 」


 有紗はニコニコ笑顔で桃佳に会釈すると、手前の席へと腰かける。そしてマーカーだらけの教本を手に取ると、軽く発声を始めるのだった。


「あの、蒲田さん。早々に申し訳ないんだけど、私はアナウンスは初心者なんで、先輩と敬って貰える立場ではないといいますか。私のことは普通に天沢と呼んで下さい 」


「あら、それは奇遇ですね。私もアナウンスは、この春から始めたんです。天沢さんは人生の先輩だから先輩とお呼びしたいところですけど、それなら無理強いはしません。それなら私のことは有紗と気軽にお願いします。その代わりに私も天沢さんのことは、桃佳さんって呼ばせて頂いてもいいですか? 」


「ええ、それは勿論構わないけど 」


「私は小さい頃からアナウンサーになるのが夢なんです。もう少ししたらアナウンサースクールに通おうと思ってるんですけど、先ずは基礎を付けたくて放研に入った感じで 」


「それは物凄い #志__こころざし__#ですね 」


「いえいえ。今は田町先輩の御指導に付いていくのでいっぱいいっぱいです 」


 有紗が先ほどまでの微妙なやり取りを察知しているのか否かは分からないが、ほんの些細なやり取りでパッと場の空気が明るくなった気がする。ただ可愛いだけでなくて、人を和ませる雰囲気を併せ持つなんて、本当に羨ましいと思えた。


「ところで大森先生は、何故 部活に顔を出しているのですか? 」


「えっ? ああ、そうだった。色々あって、本題を忘れていました。放研にアルバイトの斡旋が来ましてね。それを見せに来たんですよ 」


「アルバイト? 」


「ああ。うちは学内では唯一の放送系の団体だから、たまに撮影やアナウンス、変わり種だとイベントの機材操作のアルバイトの依頼があるんだ。

他にも入学式や卒業式なんかの式典のアナウンスをアルバイトで受けることもあるし、撮影依頼や機材フォローに駆り出されることもある。大学の活動に貢献していると、交付金にも色が付くし、それが新しい機材の購入資金になるって寸法だよ 」


「なるほど。それはウィンウィンな関係性って訳ですね 」


 大森は手にしていた資料を机に広げると、学生たちは一斉に覗き込む。そこには学内の他の部活やサークルの発表会から、お堅そうな学術発表会まで様々なラインナップが並んでいた。


「この法学部定例研究発表会は、今年も田町くんを指名させてもらってもいいかな? それとオープンキャンパスのイベントの司会も頼むよ。先日の出来が、入試課から好評だったんだ 」


「はい。分かりました 」


 田町は粛々と承諾すると、スマホに予定を入力しているようだった。

 田町は得体が知れない存在だけど、何だかんだで先生からの信頼は厚いのかもしれない。桃佳としては いまいち田町の実力が分かり兼ねていたが、取り敢えず新人の自分には関係がないことなので、深く考えるのは得策ではない気がしていた。


「んっ、これは…… 」


「ああ。そうなんだ、それが少しネックなんだ 」


「……? 」


 大森と田町は一枚の紙に目をやると、うーんと同時に唸り声を上げた。


「先生。これって、女性限定の案件ですよね 」


「ああ。引退した四年生に代打を頼むのもアリだけど、いまは就活が忙しい時期だろうし 」


「でも断るのは微妙ですよね。管弦楽部とは付き合いも長いから 」


 事情が読めてこない桃佳と有紗は、二人して目を点にしている。でも次の瞬間、田町はハッとした表情を浮かべると、ギロリと桃佳を振り返ったのだ。


「そうだ。お前さ、依頼に行ってこい 」


「へっ? 」


 田町は桃佳を指差すと、一枚の紙を突きつける。そこには【管弦楽部定期演奏会】と銘打たれたタイトルの下に【影ナレーションのご依頼】という文言が添えられていた。


「あの、影ナレーションって、何ですか? それに この依頼って一体…… 」


「影ナレーションは、顔を出さずに曲目をアナウンスする役回りのことだ。残念ながら 今はこの依頼の適任者は一人しかいないから、お前が管弦楽部の演奏会のバイトに行ってこい 」


「ハイッっっ? 」


 桃佳は大声を上げると、思わずドンと机を叩く。あまりの急展開な指令を言われて、桃佳は開いた口が塞がらなかった。


「依頼の演奏会は二週間後だから、断るにしては時間が無さすぎる。お前には今日から特訓して、何とか体に技術を刷り込むんだ。人の名前、曲名は絶対に噛むなよ 」


「ハア? そんな無茶な。私は三日前に仮入部して、尚且つ 今日初めて練習を始めた完全素人なんですよ? そんなスーパー素人が重宝される業界って、■■以外にあるんですかっッッ 」


 桃佳は勢い余って一般的な女子大生が発しない思考を口にしていたが、本人がそこに気づく素振りはない。一瞬だけ田町は怯んで、大森は苦笑いを堪えていたが、ここは黙殺することにしたようだった。


「……別に経験年数や練習経験は関係ないよ。要はクライアントの要望に お前がちゃんと応えられるパフォーマンスが出来たら、歴が一日だろうとお前はプロを名乗っていいんだ 」


「はあ? なんですか? それって無茶苦茶かつ不誠実な言い分じゃないですか? 」


「アナウンスの世界は、要は結果が全てなんだよ。お前、本当に法学部なのか? 」


「なっ、失礼な 」


「それに演奏会までは、俺が責任を持って、お前を徹底的に鍛え上げる。それなら先方も納得してくれるだろうし 」


「はあ……? 」


 田町の自信は、一体どこから湧いてくるのだろう? 大森先生も田町の発言を否定しないし、桃佳としては納得が出来ないところだった。


「でも、何で私なんです? 女性限定なら、有紗ちゃんもいますよね? 」


そいつ(有紗)はアナウンサー志望だから、完璧な状態なるまでには、バイトもコンクールも引っ括めて人様の前には出さない。どこかで映像が残りでもしたら、堪らないからな。今はアナウンスユニットは三人しかいないし、女性希望ならば お前しか適任はいないってことだ 」


「なっ…… 」


 桃佳は声に詰まりながら絶句すると、顔面を真っ青にする。そもそも、自分は発声練習を含めて羞恥心を拭いきれてはいない。もう少しこちらの事情も鑑みて、お手柔らかにお願いしたいところだった。


「桃佳さん、ごめんなさい。私が戦力になれなくて。入部するときの約束で、私は黒歴史になるような事柄は回避することにしているんです 」


「いや、えっと、その有紗ちゃんは何も悪くないというか。何というか…… 」


 有紗は目をウルウルさせながら、桃佳に向けて手を合わせている。

 そんな風に懇願されたら、断れないっッ。桃佳は明らかに顔を歪めると、静かに書類に目をやった。  


「…… 」


 大森先生の視線が痛過ぎるっッッ。

 確かにコンテストに出るという条件で仮入部届けにサインをしたけど、あまりヤル気がない様子でいたら大森先生の心象が悪くなるかもしれない。となると、選択肢は最初から一つしかないのだ。


「……分かりました。やれるだけのことは、やってみます。田町先輩にはご迷惑をお掛けしますが、ご指導をお願いします 」


「ああ。大変だとは思うけど、宜しく頼む。そうと決まれば本番まで毎日特訓だな 」


「毎日? 特訓? 」


「ああ。さすがに、俺も今のお前では胸を張ってアルバイトに出すことは出来ないからな。さっそくだけど、発声練習を再開するぞ 」


「えっ、あっ、ちょっ 」


 桃佳はその場で力尽きると、一連の自分の発言を後悔する。

 でもっッ、先生のマンツーマン授業のためにはやるしかないっッ。桃佳は今一度 自分を鼓舞すると、今一度 呼吸を整え 腹式呼吸を意識するのだった。





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