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補足

◆◆◆



 目の前には薄紅色の光の粒が広がって、桜が風に靡く度に、ヒラリヒラリと宙を舞う。刹那の芸術を、出来ることなら切り撮ってしまいたい。母校の桜を眺めるのは、これで何回目になるだろうか。


 桃佳は感慨深いものを感じながら正門を潜ると、迷うことなく部室棟へと足を運ぶ。土曜日の昼時ともなれば、建物の中は軽音やら金管楽器が入り交じり賑やかだ。まさか自分が卒業してからも この青春のど真ん中に何年も通うことになろうとは、当時は夢にも思っていなかった。

 慣れ親しんだ階段を上り、夜になると真っ暗になる廊下を颯爽と抜けていく。窓の隙間からは少しだけ桜の花びらが入り込んでいて、うっすらと床をピンク色に染めていた。


 大学を卒業してからは、はや数年。桃佳は月に一回、放送研究会のOGとして、後輩たちのアナウンス技術指導のために大学へと通っている。桃佳は社会人になってからアナウンサーを生業にしているわけではないけれど、その後三年生、四年生時代とメキメキと実力を上げ、全国大会ではテッペンを取るまでに成長していた。


 定刻の五分前、桃佳が部室のドアを開くと、そこには幾人かの新入部員と上級生数名が、パイプ椅子に腰かけていた。毎年の初回の授業は新入部員に対しての講習なので、取っ付きやすい内容を考えるのに四苦八苦をするのだった。


「初めまして。月に一回、アナウンスを教えに来ている放送研究会OGの天沢桃佳と申します。本業が修羅場のときは講習会をお休みすることもあるかもしれませんが、その辺りはご了承下さいね 」


「…… 」

     

 あちゃー、幾らなんでも これは反応が薄すぎではないだろうか?

 春先の部員たちに覇気が感じられないのは毎年のことで、桃佳は思わず苦笑いを浮かべる。桃佳は胸元にルビーのネックレスを揺らしながら学生たちに背を向けると、ホワイトボードのペンを手に取った。


「えーっと、まずは簡単に私の自己紹介をしますね。アナウンスを始めたのは大学二年の春からで、今までに全国大会では三度本選に行きまして、優勝したことがあります。

 私には恩師が二人います。一人は私に初めて正義を説いた人です。私はその人と同じ道を志したいと思って、在学中に国家資格を取得して、今は映画配給会社の法務部で知的財産管理を担当しています。

 もう一人は、私にアナウンスを教えてくれた人です。その人は今は地元のケーブルテレビで、アナウンサー兼ディレクターをされていて、最近は全然連絡を取っていませんが、風の噂では元気にしているらしいと聞きました。

私は最初はアナウンスを自発的に始めたわけではなかったのですが、その人は私にこんなことを言いました。

 ことばによる表現のすべて知るものは、ことばで心情の豊かな表現をなし得ることなんだそうです。

 つまり簡単に言うと、私たちが普段使っていることばは、まだ磨かれる余地があって、やがて磨かれるべき存在である。だから喋り手は言葉の担い手として、正しい日本語を身に付けて極めるべきだと言われました。

 私は学生時代に自分が何かに一生懸命に取り組み、物事を成し遂げることの喜びを知りました。だから今は私は一生懸命に誰かの作ったものの権利を、人の可能性を守る仕事を頑張りたいと思えます。この経験がなかったら 私は制作者に心から寄り添えない法律家になっていたかもしれません。

 私の学生時代の部活仲間の中には、地方局のアナウンサーになったり、制作会社で働いたり、第一線で物体にならないモノ作りに励んでいる人たちが沢山います。

 だから私からは、何でもいいから一生懸命に打ち込めるものがあると、学生生活は充実しますよ、ってアドバイスはしておきますね 」


「…… 」


「というわけで、私は最初から暑苦しいくらいの授業をします。では皆さん、立ち上がりましょう。さあ、皆さんまずは発声練習から。初回だからといって、容赦はしません。明日の朝は腹筋が筋肉痛になるくらいに、バリバリやりますからね 」

  



 

◆◆◆



 桃佳は講義を終えると、研究室棟へと足を向けていた。たまに図書館で本を借りることはあっても、最近は研究室にまでは足は運ばない。だけど今日ばかりは大森に会っておかないと、気が済まないような気がしていたのだ。

 エレベーターに乗り込み、法学研究室のフロアーに降り立つと、休日だからか他の教授陣の気配は感じられない。それなのに大森ばかりがいつも大学に籠りきりなのは、少し納得がいかないのと、若干の不安要素が拭えなかったのだった。

 

「あの、大森先生 」


「ああ。誰かと思ったら君ですか。卒業生だからって、君は大学に来すぎではないですか? 」


「私は放研の講師を任されているんですから、大学に足を運ぶのは当たり前です。それに私を引っ張り出したのは、先生ですよね? 」


「まあ、それを言われてしまったら、元も子もありませんね。で、どうですか? 今年の新入部員の様子は? 」


「まだ一回では分かりませんよ。でも、そのうち彼らにはコンテストで頑張って貰わないと。放研の活躍は、少しでも先生のロビー活動の役に立って貰わないと困りますから 」


「ああ。それはとても充分すぎるくらいに、君たちの後輩の活躍は有り難い限りだよ。

でもそのお陰で今の僕が切羽詰まっているのは、自業自得ですね。本業以外の雑務のせいで、全く研究が捗らない。若いって辛い。いや、世間一般で言えば、僕はもう中堅くらいなハズなんだけどなあ 」


 大森はいいつつサイドボードに散乱した資料を端に寄せると、桃佳に湯気の立ったコーヒー差し出す。大森の研究室の汚さは昔から変わらないけれど、今は志願者施策やら入試やら大学の運営業務も担当しているようで、忙しさには拍車がかかっているようだった。


「あの、先生。それより、たまには私の相談に乗ってください 」


「はあ? 」


「最近、恋人が私のことを全く構ってくれないんです 」


「君の想い人は忙しいんだろ。それなら仕方がないし、お互い様だろ 」


「でも、ちょっとは心配をしてしまいますよ。だって最近は全然デートもしてないし、付き合いは長いのに発展しないし。もう別にコソコソしなくていいし、私は立派な大人だし。実は向こうは私に興味がなくなっちゃったんじゃないかって、不安にもなります 」


「はあ…… 」


「それに、その人は仕事のためなら手段を選びません。女性と手を繋いだり、何より自分の学生に手を出しちゃう不道徳なところがありまして。大学にばかり入り浸ってたら、また新しい学生に手を出してないか心配にもなりますよ 」


「ハッ? 何それっ? もしかして僕は君にそんなにヤバい人間だと思われてたのっ? 」


「だって前科があるんだもん 」


「あれは違う。僕は無実だって。っていうか、僕はそもそもロリコンではないし、何も法を犯すようなことはしてませんよ? 」


 大森はアワアワとしながら全力で桃佳の言い分を否定すると、罰が悪そうに視線を逸らした。


「だいたい、この研究室が悪いんですよ。あと、どうにかしたら大学に住めちゃうシステムもよくない。ついでだから、業務課に文句でも言いに行きますかね。先生が研究熱心なことは承知してます。でもたまには釣った魚にサービスもお願いしますね 」


「それは、僕の方が釣られた感も否めませんけどね 」


「ハイッ? 」


「……冗談ですよ 」


「それなら今すぐ証明してください 」


「はあ? 」


「一応、何年も前にお約束はしていただきましたが、未だにあんまりピンと来なくて。たまには不安になるんです 」


 桃佳は首元のネックレスに手を掛けると、わざと見せつけるように弄ぶ。さすがに大森もそれには焦ったようで、ハアと頭を抱えていた。 


「ったく、君はたまに少しだけ強引なところがあるのは気のせいかい? つーか、やることは一通りやっているんだから、今更それはないと思うけど 」


「それとこれとは話は別です 」


「はあ…… 」


 大森は他に誰もいないはずの研究室を見渡すと、ドアの鍵を掛ける。そして再び頭を抱え込むと、盛大な溜め息を付いた。


「この場所は大学で、一応は聖域ではあるはずなんですけどね。まあ、そう言う意味では、僕も大概か。まあ、世間一般的にはあり得えない所業ですが、僕は君にだけは信義は通しますよ 」


「……えっ? あっ、大森先生? 」


 大森は言いつつ、部屋のブラインドをピシャリと閉めると、そっと桃佳の肩を抱き 頤に手を掛ける。


「あの、私の今の発言は、直ぐ様どうこうして欲しいって意味ではないですよ 」


「それは、僕も分かってますよ。君の一番の理解者は僕であって、僕の一番の理解者は君なのだから 」


「あっ、ちょっ 」


「僕はいつでも、そのルビーを半分返して欲しいって本気で思っていますよ 」


「えっ? 先生。あの、それって…… 」


 先生の指先がいつもより熱いのは、絶対的に気のせいではない。幾度となく揺れ動いてきた天秤は、これから先もこうやって振り切れていくのだ。

 

 こんな場所で、こんなことをしているなんて、罪悪感が半端でない。やっぱり今でも少しだけ夢みたい。でもまあ、深いことは考えるのは自分の学問の時間だけにするのは悪くはないか……


 桃佳はその大森の無言のサインを受け入れると、ゆっくりと自分の瞳を閉じたのだった。





◆◆◆







ホウケンオプティミズム 終






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