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ホウケンオプティミズム  作者: 高城 蓉理
最終章 発表に関して
28/32

第四条

◆◆◆



 光の粒は隙間なく眼下を覆い、人々の生活の営みが瞬いている。知らない街の夜景なのに胸がざわつく。それは単純に美しい景色に心が揺れているからなのか、それとも今の自分の置かれた立場に酔っているのかは分からない。

 時折、窓に映る自分の姿が、まるで他人のように冷静に見える。何故、私はここに居るのだろうと思っても、それは自分の起こした行動の結果なのだ。


「少しは落ち着きましたか? 」


「はい。あの…… 先生、ごめんなさい。急に押し掛けるような形になってしまって 」


「いいえ。本当にたまたまですけど、僕が大阪に来ていて良かったです 」

 

 結局、先生に助けを求めてしまった。正直なところ大森から電話を貰って、かなり安堵した部分は否めない。しかも ちゃっかり宿泊先にまで押し掛けてしまったのだから、状況としては穏やかではなかった。桃佳の事情を聞き、大森は一緒になって宿を探してくれたのだが、今晩はどこのホテルも満室だ。何でも今週末は師走ならではの音楽イベントが大阪市内各地で開かれるらしく、すっかり近隣の宿泊施設は埋まってしまったのだそうだ。

 今宵の大森の部屋はクライアントが手配したらしい。梅田の一等地、しかも開業したばかりの立派なシティホテルに、無料で転がり込んでしまったのは気が引ける。ベッドはキングサイズのものが一基 しっかりと設置され、隣のリビングルームには横になれるソファーが配備されている。一般的な部屋よりはハイグレードになっていて、とても学生の身分で泊まれるような場所ではなかった。


 どうしよう……

 確かに部屋は別々に出来そうだし、リビングルームのソファーが借りられたら、かなり助かる状況ではある。でも このまま一緒に一夜を共にするのは気が引ける。大森には親密な女性がいるようだし、何より自分達の関係性は教員と学生なのだ。 


「さて、君は明日は何時にコンテストの会場に行きますか? 」


「あっ、すみません。えっと、私は十時には京都駅に着くように出発しようかと。大会自体は午後からなのですが、田町先輩と待ち合わせをして会場に向かうので 」


「そうですか。それなら今日は早くお風呂に入って、寝てしまった方がいいですね 」


「えっ? あの…… 」


 大森は部屋の引き出しをガサゴソと弄ると、浴衣とタオルを桃佳に押し付ける。そしてバスルームを指差すと、桃佳の心の中を読んだかのようにこう言った。

 

「僕は大丈夫ですよ。今晩は適当にやり過ごせばいいだけな話です。でも君はそうはいかないから、しっかり休むべきだ。明日の仕事は僕の人生を左右する訳ではないし、優先順位は君にある。

そうだ。やっぱり不健全さが気になるようなら、今晩は僕はロビーのソファーでも借りますよ。さすがに宿泊客なら、多少ロビーでグダグダしていても 追い出されることはないだろうし 」


「いや、それは駄目です。元々、こんなことになったのは、私が宿の手配をミスしたことが原因です。それなのに先生がクライアントから提供されてる部屋を出るなんて、そんなのおかしいですから 」


「では…… 僕は隣の部屋のソファーでも借りて休ませて貰います 」


「いや、ベッドは先生が使って下さい 」


「はあ。まあ、確かに僕は君よりは年齢は遥かに上だけど、世間的にはまだ若者の括りですからねえ。多少の睡眠不足はなんとかなるんですよ 」


「でも私が先生を追い出す感じになるのは、どうなのかと思いまして。それに…… 」


「それに? 」


「いや、その…… 」


 桃佳は思わず言葉に詰まると、じっと大森を見つめる。危惧することは沢山あるけど、それを口にしてしまうわけにはいかない。自分達の間には お世辞にも信頼関係があるとは言えないと思っていた。


「まあ、確かに君の言いたいことは分かりますよ 」


「えっ? 」


「大学にバレたら、僕は間違いなく懲戒免職ですかね。この場合って、君と僕との間に 誓約書でも交わしておいたほうがいいのだろうか? 」


「はあ 」


「ははは、冗談ですよ。今回は本当に人道的な理由ですし、そもそも関係者に見つかる可能性は限りなくゼロに近いから 」


 誓約書……

 その手があったか、と感心したいところだけど、そんなものは只の紙切れだ。このまま自分がここにいたら、先生にはリスクしかない。先生はS大学で教授になることを目標としている。堅実タイプの先生が危険を冒すなど、あってはならないことだと思えた。


「確かに、君自身もおじさんと二人きりで夜を明かすのは、とても気が乗らないとは思います。でも現状は他に手段がなさそうですから、ここは一つ我慢をしてもらってですね 」


「いえ、我慢とかではありません。むしろ、私としては正直なところ好都合な部分もあります。でも先生にご迷惑が掛かるのは、ちょっと…… 」


「そうだね。確かに危険な側面はあるか。でもここで選択を間違えたら、こっちも夜な夜な後悔することになりそうだ。君は僕にとっては大事な存在だから 」


「えっ? 」


「……まあ、君はまだ分からないままでいいんだけどね。その方が幾らか平和だし 」


「……? 」


 大森は顔を歪めると、桃佳の背中を押してバスルームまで連れていく。桃佳としては、大森の発する言葉の端々に疑問ばかりが浮かんでいた。




◆◆◆



 大学生になって、初めて心が震えた瞬間。

 それは大森先生のガイダンスと言う名前のスピーチを聞いたときだった。

 それから約二年の歳月が経った。大学の先生は最初は雲の上みたいな存在で、自分には縁遠い存在だと思っていた。あらゆる方法を考えて、どうしたら先生に近付けるのか、ずっとずっと考えていた。

 だから控え目に言って、最近の状況は自分でも快挙だと思う。どうやら私は先生にとって、大切な学生まで昇格したらしい。認知されたことだけでも凄いことなのに、現在進行形では同じ部屋で一夜を明かそうとしている。


 でも別の意味で緊張が止まらない……

 バスルームからはシャワーの音が響いていくるし、色々と意識せざるを得ない。何も起きないのは確定事項な筈なのに、どうも自分の意識がコンテスト以外のことに集中している。 

 自分にとっては、今日は一生忘れられない思い出になるのだろう。私は人に興味を抱くことを知らなかったけど、大学に入ってからは沢山の縁に恵まれた。ろくに恋などしてこなかったけど、今は純愛物語を朗読して、全国大会に進めるまでには感情が成熟したといえる筈だ。


 あと一つ、自分に何か足りないものがあるならば、それは他人から愛される幸せをまだ知らないということだけだ。

 夏目漱石の作品のなかで、キスの描写があるものは少ない。だから夢十夜の第一夜は、とても珍しいのだそうだ。何故、先生は自分に第一夜を勧めるようなことをしたのだろう。課題図書は他にも沢山あった訳で、何かメッセージでもあったのではないかと つい勘繰ってしまう。


「…… 」


 桃佳はペットボトルの水を片手に、飽きることなく大阪の夜を見下ろしていた。新幹線を降りてからは、原稿は一度も見てはいない。もはや暗唱だって出来るのに、頭の中は自分の原点(先生)のことでいっぱいになっていた。


「おっ、まだ起きていましたか。やっぱり眠れませんか? 」


「大森先生…… 」


 石鹸のいい香りが漂って、部屋のなかに微かな湯気が舞う。大森はホテルの備品のガウンを纏っていて、その姿は桃佳にとっては まるで毒でも浴びたような刺激があった。


「君、大丈夫かい? 顔がいつもより真っ赤ですよ? 明日に向けて緊張してきましたか? 」


「ありがとうございます。でも大丈夫です。多分、私がいま緊張しているのは、先生と同じ部屋に宿泊することが主な要因なので。でも逆に気が紛れて助かります 」


「……ははは、そうですか。それは非常に良くない傾向ですね。必要があれば、僕には構わずしっかり練習をしてくださいね。髪を乾かして 水分を取ったら、私は隣に移動しますから 」


「あっ、いや。まだ私は寝ませんし、そういうつもりで言った訳ではないので 」


「はあ、そうですか? まあ、別にいいけど 」


 大森はまだ水が滴る髪の毛を掻き分けると、一瞬だけ眼鏡を外す。思わぬタイミングでもたらされた大森の素顔に、桃佳は思わず目が釘付けになっていた。吐きそうなくらいに胃が痛い。心臓はギュッと鷲掴みされたように苦しくて、上半身の内臓全てが悲鳴を上げていた。


「あの、どうかしましたか? 」


「いえ、何でもありません。ちょっと気が動転しただけで 」


「……? 」


 桃佳は気持ちを落ち着けようとペットボトルの水を煽ると、深く呼吸をする。そして手元に原稿を広げると、自分を落ち着けるように こう話を続けた。


「私は明日が大切な本番だというのに、まだ朗読の答えが見つからないんです。正解を求めたいわけではないのですが、まだ自分の中で納得が出来なくて 」


「そうでしたか。君は今、具体的に何を疑問に感じているのですか? まあ、僕に解決出来ることはないと思いますけど 」


「……あの、先生は何故、私に第一夜の存在を教えたのですか? 」


「えっ? 」


「何で、私に恋の物語を朗読するように勧めたのだろうって、私はずっと不思議に思っていました 」


「それは…… 」


 やはり大森は桃佳に夢十夜を読ませようとしていたらしい。否定も肯定もしないというのは、そういうことなのだろう。

 大森はベッドに腰を下ろすと、ふっと溜め息を付く。そして髪を掻き分けながら、こう小さく呟いた。


「別に深い意味などありませんよ。君があの物語をどう読むのだろうって、ただ単純に興味を持っただけだから 」


「…… 」


「第一夜は、待つ人間と待たせる人間の物語だよね。君がその物語を どう消化するのか、個人的に知りたかった。僕は遠くで君を見ていることしか出来ないから 」


「そうなんですね。でも私にはやっぱり難しい内容です。私は愛する人から愛される喜びを まだ知らないですから 」


「そう。じゃあさ、それが分かったら何とかなるって解釈でいいんだね 」


「えっ? 」


 大森は一歩二歩と桃佳に近付くと、桃佳の頤に触れる。そして少しだけ自らの状態を屈めると、桃佳の耳元でこう言葉を続けた。


「もし仮に僕が君に想いを告げて、キスをする、それで君の朗読は完成するのなら、それは素晴らしい大義名分ですね 」


「えっ? あのっ、ちょとっッ、それは一体どういうことですか…… 」


「それくらい君にも分かるでしょう、もう子どもではないのだから 」


 桃佳は状況の理解が追い付かず、その場で何度も瞬きを繰り返す。

 今、先生は何と言った? いや、もはや鼓動が五月蝿すぎて、言葉が何も入ってはこない。

 大森は 急にアワアワし始めた桃佳に苦笑すると、その場にゆっくり腰を下ろす。そしてそのまま桃佳の手を取ると、ゆっくりと自分の顔に近付けた。


「これは僕から君への枷です 」


「えっ? あっ 」


 ……咄嗟に声が言葉にならなかった。

 大森は桃佳の手の甲にゆっくりと唇を落とすと、愛おしそうにキスをした。桃佳は驚きのあまり反射で手を引きそうになるが、グッとその気持ちを押さえる。


 長いっッ…… ちょっと待って、キスがこんなに柔らかくてゾクゾクする感触だなんて聞いてないんだけどっッ。

 時折、桃佳の手に呼吸が触れて、身体中がじわりじわりと熱くなる。桃佳はいつの間にか自分も強く手を握りかえすと、一本一本の指を深く絡めていた。

 それは時が止まってしまったかのような静寂だった。長い長い口付けは、ゆっくりと全身を巡って、少しづつ奥深くまで蕩けていく。頭の先から指先まで、まるで自分が人のモノになってしまうような不思議な感覚に溺れていた。

 どのくらい、こうしていただろう。大森はゆっくりと唇を離すと、桃佳を見上げたのだった。


「あの、先生…… 」


「君はこのキスの先を必ず知りたくなる。それが愛する人を待ち続ける理由と同じことだと思いますけどね 」


 大森はゆっくりと手を離すと、そのまま桃佳の頭に手をポンと乗せる。髪の毛越しに伝わる先生の体温は、想像以上に熱を帯びているような気がした。


「では、桃佳さん。おやすみなさい 」


「…… 」


 それは不意打ちの出来事だった。

 初めて面と向かって名前を呼ばれた。しかも下の名前を。

 桃佳は思わずその場で脱力すると、暫く床の上で頭を抱えるのだった。


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