第五条
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夢十夜は夏目漱石が晩年に書いた短編集で、珍しく幻想文学に寄っている。
この十の物語の舞台は、自身が生きた明治を舞台にした話もあれば、神代や鎌倉、そして百年後の未来まで 多岐に渡るのだ。
「こんな夢を見た、こんな夢を見た、こんな夢を見た、うーん…… やっぱり、何かがしっくりこないっッ 」
桃佳は非常階段から夜空を見上げると、ふと溜め息を漏らした。「こんな夢を見た」の一言に、百も二百も表現の可能性がある。考察すればするほど 作品の可能性は広がっていくのだが、それを体現できるフラットなラインが見つからない。
蒸し暑さの中に、時折 冷たい風が吹く。最近は夜が短く感じられるけど、それが物理的なものなのか 体感的なものなのかは 桃佳には知る術がなかった。
答えは出ない、正解もない。相手に答えを委ねる読み方など、自分自身に完成させられるのだろうか?
桃佳は原稿を眺めると、少しづつ作品を朗読する。声に出して、録音して、聞き返す。その度に自分が主人公に肩入れをしている気がして、どうしても納得が出来ないでいた。
「あっ、いたいた。姿が見えないから、探したぞ 」
「えっ? もしかして田町先輩? バイトは終わったんですか 」
「ああ。急遽の助っ人だったから、閉め作業は免除だった。また数時間もしないうちに、店に行くのは面倒だけど 」
「……すみません。急に部室を抜け出して 」
「いや、別にそれは構わない。この時間は映像ユニットが部室で騒ぎまくってるから、もう少し夜中にならないと録音は無理だろ。ただ行き先くらいは誰かに言っとけよ 」
「映像ユニットも 今夜は学生会館に泊まるのですか? 」
「ああ。高輪が全国大学放送コンテストとは別に、学生ショートフィルムコンテストに応募するらしい。最近はウェブで応募できる大会が増えたから、ハードルは低くなったな 」
「そうだったんですね。私はてっきりホラーコンテストにでも参加するのだと思ってましたよ。皆がゾンビの被り物をしているから 」
「あはは。今回はフィルムコンテストのお題が恐怖体験なんだってさ。まあ、毎回毎回 お堅いドキュメンタリーとか、ヒューマンドラマばかりじゃ代わり映えもしないしな。それにしても先に全国大会の準備をするべきだよな。後でヒーヒー騒ぐ様が、今から想像に容易いな 」
田町は踊り場の壁に背中を付けると、手にしていた水を煽る。中には本番前に炭酸を飲みきる強者アナウンサーがいるけど、大多数の喋り手は水を愛飲するのが定番だった。
「で、進捗はどうなんだ? お前の中で納得出来るラインは見つかったのか? 」
「いえ、どちらかというと毎日 悩んでばかりいます。そろそろ本録音をしなくてはならないのに、どうしても自分の感情が主人公に乗り過ぎている気がして 」
「そうか。まあ、一人称の作品だと どうしても主人公目線にはなりやすくなるな 」
田町は桃佳の手元に腕を伸ばすと、しわくちゃになった原稿を眺める。おそらく文庫本から全ての文章を打ち直したのだろう。原稿はニュアンスが変わらない範囲で、句読点や段落の位置が調整されたものになっていた。
「この原稿のカスタマイズは、お前がやったのか? 」
「ええ。そうですけど? 」
「あのさ、もし必要があるなら、俺が手本を吹き込んでやろうか? 」
「えっ? 」
「さすがに今日中とかは無理だけど、少し時間があれば二、三日で読めると思う 」
「いや、でも それって狡くないですか? 」
「別にそんなことはないだろ。子どもは親の模倣をして、喋ったり、飯を食ったり、トイレに行けるようになる。手本があるのは悪ではないだろ。それに第一、お前は結果を残して大森先生の授業を受けたいんだろ? 手段を選んでいる余裕があるのかよ 」
「それは…… 」
桃佳は言葉に詰まると、思わず目線を逸らす。
確かに自分は初心者で、作品を高めるにはお手本をなぞるのが一番手っ取り早いのかもしれない。でもそれでは全く意味がないのだ。
「あの…… この前のときは、時間もなかったし、絶対に失敗できないし、田町先輩の力は必要でした。でも本来は田町先輩が努力して積み上げたものを、私が簡単に手にしてしまうのは少し気が退けます 」
「いいんだよ。別に俺のアナウンス技術には、特許も何もない。それに俺は去年は朗読部門で優勝したから不足はないだろ 」
「……でも模倣は駄目です 」
「えっ? 」
「田町先輩の模倣するんじゃ、私の朗読にはならないんです。私が伝えないと、朗読したこと自体の存在意義が分からなくなる気がして 」
「…… 」
「私は学生アナウンサーとして、田町先輩のことは凄いと思ってます。でも模倣が正義になることは稀有なんです。真似と模倣は似て非なるもので、子どもは大人の真似をして成長をするんです。形を似せて、自分なりのやり方を編み出すのが真似です。模倣の「模」の字には「かたどる」という意味があって、「倣」の字は「ならう」とも読めます。だから私が田町先輩の模倣をするのは駄目なんです 」
「…… 」
「すみません、せっかくのご配慮を無下にするようなことを言って。少し頭を冷やしてきます
」
桃佳はそそくさと立ち上がると、一気に非常階段を駆け降りる。コツンの乾いた音がして、自分が何かを落下させたのは分かったが、今は一刻も早く この場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになっていた。
◆◆◆
やってしまった……
先輩に盾をついた。これまで散々 世話になっておいて、恩を仇で返すようなことをしてしまった。自分の問題なのに八つ当たりをするなんて、
酷いにも程がある。後悔してもしきれないし、ただただ申し訳ない気持ちが先行する。
それにしても、夜は深い時間だというのに、構内はポツリポツリと電気が点いてる。理工学部の窓からは 人の影が浮かんで見えるし、法学部研究室も半数近くから光が漏れていた。
部室に戻りづらい、いっそのこと このまま辞めてしまおうか。
行く宛てなんて、まるでない。こんな調子だから、自分は法学部の絶対エースとか言われてしまうのだ。正論を武器にするなんて、人付き合い検定があるならば一発で落第ではないか。
温い風の中に、ポツリポツリと冷たさが混じり始めていた。桃佳が その物体が雨粒だと気づいた頃には、原稿はしっかりと湿り気を帯びていた。
「もしかして通り雨? あっ、大変っっ 」
桃佳は慌てるようにして、中庭の木に潜り込むが、時は既に遅かった。手にしていた原稿は 直ぐにでも破けてしまいそうなくらいに湿気を帯び、今までメモしたタイミングだとかアクセント記号の数々が、雨雫に滲んで紙の上で虹色に広がっている。原稿が ここまで悲惨な状態に成り下がっては、この辺りが潮時なのだと 天からのお告げにも感じられた。
男はこんなときも ずっとずっと、あの場所で女を待ち続けていたのだろう。百年もたった一人で空の下で待ってるなんて、心が折れたりしなかったのだろうか。
「……私なんて誰も死んでいないのに、自分自身に嫌気が差して心が折れそう 」
桃佳は盛大な独り言を呟くと、その場に小さくうずくまる。いつの間にか髪も服もビシャビシャで、気分は最悪としか言いようがなかった。
「君、大丈夫ですか? 」
「大丈夫じゃないです 」
「こんなところにいたら風邪をひきますよ 」
「そうかもしれませんね…… でも、いいんです。逆に少し熱を出して、自分の思考回路をリセットしたいくらいですから 」
「君は いつから直感的な物言いをするようになったのですか 」
「私は元来は、そういう人間です。私が自分のことを後付けの論理で縛っているって、先生は本当はお見通しなんじゃないですか? って、えっ……? 」
桃佳が顔を上げると、そこには大森が立っていた。大森の肩は殆ど濡れていて、傘の大半は桃佳に向けられている。
「何故、先生がこんな場所に? 」
「それはこちらの台詞ですよ 」
「…… 」
何故、こんな真夜中に大森が大学にいるのかは
分からない。そして、今 桃佳に対して傘を差し出している事実に、もっと色々と訳が分からなくなっていた。