第三条
◆◆◆
夏目漱石の夢十夜は、様々な考察がなされている。そのなかでも第一夜は「生と死」を意識させられる物語らしい。
男が枕元に座っていると、その前で横たわっている女が 真白な頬の底に 温かい血をほどよく差して、赤い唇を携えていた。
女は とても死にそうには見えなかったが
「死んだら、埋て下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」と言い残し絶命してしまう。
男は墓を掘り、その中に女を埋めると、女の願い通りに星の欠片を乗せることにした。そしてそれから苔の上に座り、待ち続けた。
男が もしかして自分は女に騙されたのではと思い始めた頃、真白な百合の花が男の目の前で咲いた。男は その白い花びらに接吻すると、 最後に「百年はもう来ていたんだな」と呟いたのだった。
「うーん、文学が悩ましい…… 」
桃佳は学食の隅で納豆ご飯を頬張ると、モグモグと口を動かす。学食にモーニングメニューがあるなどとは初耳だったけど、ご飯に味噌汁、納豆と焼き魚が付いて二百五十円ならば、毎日でも立ち寄りたくなる安さだった。
夢十夜は夏目漱石が残した数少ない短編集で、特に第一夜の最後の台詞は、色んな解釈が出来るのだ。ハッピーエンドとも取れるし、その逆に思えなくもない。
百合の花が女の人の生まれ変わりだったとしたら、姿形が違っても再会できたことが嬉しいかもしれない。でも元の姿ではないから、その点で主人公が納得できたのかは よく分からない。それに、何より一番気になるのは、何故 大森はこの物語を桃佳に託すようなことをしたのだろうと言うことだ。偶然にしては、些か不自然過ぎるのだ。
「おっ、朝から珍しい人に会いましたね。隣に座ってもいいですか? 」
「えっ? 」
不意に頭上から声を掛けられたような気がして、桃佳は思わず振り返る。そこには同じく朝定食のトレーを抱えた大森の姿があった。
「なっ、何で大森先生が学食に? 」
「いやー 昨日は勉強会の資料作りに没頭していたら、終電を逃しまして。仕方なく研究室に泊まったんですよ。だから朝飯を食べに来たんです 」
「そ、そうなんですか…… 」
桃佳はまだ若干の湿り気がある髪型の体裁を整えると、睫に指を当てて悪あがきを試みる。運動部の朝練終わりに混じってシャワーは一応は浴びたけど、ドライヤーがなくて髪は乾ききってはいなかった。昨晩は録音ブースで三時間くらいは仮眠を取ったけど、完全にすっぴん状態なのは、油断が招いた結果だった。
「さてと、初の校内合宿は どんな感想でしたか? 」
「あっ、えっと、そうですね。トイレに行くのが怖かったです 」
「あはは。それはかなり素直な感想ですね。確かにあのボロ校舎は、夜はお化け屋敷を軽く凌駕する不気味さですし。僕も学生時代は、夜な夜な部室棟に入り浸ってましたよ。夜にロケをするから、画面が黒っぽい作品ばかりになりましたけど。でも撮影するときに天候や時間帯に左右はされなかったから、いま思えば結果オーライってやつですかね 」
「あのっ、先生は学生時代は映像制作をメインでされていたのですか? 」
「ええ。ただ部員は多くはなかったから、演者、撮影、編集は全部自分でやってましたよ。だから あの頃の作品は見返したくはないですね。若気の至りで 色んなことをしましたから 」
大森は懐かしそうに昔話を繰り出すと、湯気の立った味噌汁に手を伸ばす。大森にも青春時代があったのかとは思うけど、イマイチその光景は想像が出来なかった。
「ところで田町くんはどうしました? もしかして朝食も取らずに、一限から授業ですか? 」
「いえ。田町先輩は朝はバイトがあるそうで、駅前のカフェに向われました。今は授業が逼迫しているそうで、朝だけシフトに入っているそうで 」
「そうでしたか。それは若さが成し得る技ってやつかな。まあ、早朝は少しは時給も上がるだろうし、効率的ではあるよね 」
「はい。でも最近は私の指導で、かなりの手間を取らせてしまって。その辺りは私の責任でもあるので、申し訳ないのですが 」
「そこは君が気にする必要はないと思うよ。先輩が後輩を指導するのは、部活という社会においては当たり前のことだしね。ところでコンテストには何でエントリーするかは決めたかい? 」
「えっと、一応、朗読部門でエントリーをしてみようかと 」
「朗読か。いいね、君は喋り方がソフトだから、朗読に向いていると思うよ。どの課題作にするかは決めたのかい? 」
「ええ、まだ候補ではありますけど、これにしようかと思っている作品はあります。ただ…… 」
「ただ? 何か気になることでもありましたか? 」
「はあ、まあ…… あの、私はその作品を どう解釈したらいいのかが分からなくて。その物語はハッピーエンドにもバッドエンドにも読めるのです。だから私は何に重きを置いて作品を伝えたらいいのかが掴めなくて 」
「そうでしたか。田町くんは どう言ってました? 」
「文章をそのまま読め、と言われました。でも私はそれがどうもしっくりこなくて。私のイメージですけど、朗読って感情を豊かにするものですよね。よく図書館でやっているような読み聞かせは、声色や表情が豊かなイメージなので 」
「まあ、それらは一つの手法ではありますけど。田町くんは、相変わらず少し説明不足だっかかもしれませんね 」
「えっ? 」
「田町くんが言っていることは合ってますよ。まずは文章に関しては、書いてある通りに そのまま読むのが一番です。
確かに小説の文章は黙読を前提に作られていますから、句読点の位置などは 声に出したときに違和感を覚えることはありますけどね。朗読をするときは、文章の意図することが変わらない範疇で、間の取り方を調整したりはします。でも基本的には、そのまま読むのがアナウンス朗読なんです 」
「アナウンス朗読? 」
「ええ。読み聞かせは子どもに対して行うものなので、読み手側で感情を乗せることが大半です。
読み手側でイメージを補完しないと、子どもが物語を耳で聞いただけでは 内容が伝わりずらいですから。
最近だと朗読を主体とした舞台などもありますが、あの手の手法は 演出家の中に ある程度の作品の答えがある。だからその演出家の意図に合わせて、感情を乗せる行為が成立するわけです。
ではここで君に一つ質問をしましょう。君はアナウンスにおいて一番重要なことは、何だと思いますか? 」
「アナウンスにおいて重要なこと? それって、相手に内容を伝えること、ですよね? 」
「はい、その通りです。アナウンスにおいての最大の命題は、原稿の内容を相手に伝えることに尽きます。そこには君自身の主観は必要ではなくて、相手が文章を聞いて どうとらえるのか。選択肢を相手に残すのが、アナウンス朗読の基本と言えるでしょうね。作者の作った文章、その意図すること全てを読み手に伝える。田町くんは、そのまま読めと言ったみたいですが、これが簡単そうでかなり難しい技術なんです 」
「…… 」
「そのためには、二つの方法がありますね。
一つは田町くんの言ったように、そのまま読むことです。心を無にして、自分は文庫本の文字なんだ、それを音に変換するんだくらいの勢いでね 」
「えっ、それって…… 先生はあっさりと仰っていますけど、そんなことは可能なんでしょうか? 」
「ええ。難しいと思いますよ。人間には感情がありますから、どうしても文章を読むと自分の主観を抱いてしまう。それを無かったことにするのは、プロでも至難の技らしいですよ 」
「はあ、なるほど 」
桃佳は歯切れの悪い返事をすると、茶碗を一点に見つめていた。今の自分の力量では、心を無にする方法は得策ではない。それならば もっと現実的な手段を選ぶべきだと感じていた。
「あの、先生。その、二つ目の方法って…… 」
「二つ目は、自分のなかで文章の正解を何パターンも作り出すことです 」
「正解を作ってもいいのですか? 」
「はい、まあ、そうなりますね。ただ正解は幾つも自分の中で持たなくてはいけませんし、そのニュアンスが全て伝わるように 自分の読み方を研究しなくてはいけません。地道な努力と根気強さが肝になりますね 」
「そうですか 」
ローマは一日にして成らず、とは言うが、先日の影ナレの特訓はチート状態のようなものだった。ズルとまでは言わないが、他人を模倣しただけのナレーションになっていたのは、否定が出来ない事実だった。
「こちらも高度な技術が必要ですね。単純に読みのテクニックを上げて、一音単位で言葉を調整しないとマルチな表現は出来ません。それに何より高度な読解力がないと、作者の考えた文章を考察することなど出来ませんから。でも君の認知特性ならば、やってやれないことはない。僕はそう思ってますよ 」
「…… 」
確かに自分は文字から情報を得る性質なようだけど、高度な読解力などあるのだろうか。そんなことを言われても、自分の能力に自信などないから不安が募る。
桃佳が眉間にシワを寄せていると、ガラガラと椅子を引くような音が響く。大森はいつの間にか食事を間食していたようで、空のトレーを持っていた。
「さてと君もギアを入れて、今日も一日乗り切らないと 」
「えっ? あの、先生はもう召し上がったんですか? 」
「ええ。早食いは得意だし、学生時代から ここの朝定は食べ慣れているからね。でも君は喉に詰まらせないように、しっかり噛んで食べて下さい 」
「はい、分かりました。あの、先生。アドバイスをありがとうございます 」
「いいえ。まあ、僕がいま言ったことも、正解とは限りませんから 」
「…… 」
食堂の窓から朝日が差す光景も、大学で朝食を取る人が意外と多いことも、今までの桃佳ならば知るよしがなかった。放研はただのきっかけに過ぎなくて、興味のなかった事柄が どんどんと桃佳の中に入り込んでいる。
将来の役に立たないだろうことは、一ミリも興味がなかった。自分の興味の範疇外の出来事は、全て無駄な労力と切り捨ててきた。
でも、それがけが社会で生きる術の全てでないなら、今までは自分は何をしていたのだろうか。
桃佳は ハアと溜め息を付くと、己の矜持を考えるのだった。