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オイルタンカー  作者: げのむ
2/15

オイルタンカー 第二話 留学生

修正が足りません。

年内は、これ以上の投稿は無理ですね。

 2


 なじみの店というのは、真壁が最近通うようになった。

 街の繁華街の雑居ビルの途中階にある。ありふれた小さな店舗だった。

 明るい照明と騒々しくない程度の音楽が流れるなかで、軽食とアルコール飲料を提供する。一般的にはスナックバーと呼ばれる、カウンター付きの飲食店だ。

 真壁は仕事帰りにこの店によっては。度数が高い酒を飲んで、したたかに酔っ払い。仕事上の不平不満をバーテンやほかの酔客相手に語っていた。

 そのせいだろう。最近では店に出向くと。バーテンやこの店の顔なじみの客から、あの人が来た、と笑顔で迎えられる。不名誉な事態になっていた。

 ありがたいことに、店は今夜も営業中だった。

 真壁は、カウンター席の隅の方にすわって蒸留酒をロックで注文する。

 コースターと注文した酒を顔見知りのバーテンが運んでくると。今夜も仕事帰りですか、と真壁に親しげに呼びかけてくる。

「うん。そうだけど。明日からひさしぶりの休暇だから、今夜は気晴らしに飲んでいこうと思ってさ」

「そうですか。でも前回みたいに前後不覚になるまで飲み過ぎないように注意してくださいよ。では、ごゆっくり」

「う、うん。そうするよ。忠告、どうもありがとう」

 笑顔のバーテンダーから、そうクギを刺されて。真壁は頸をすくめると。そんなに飲んだっけ、と複雑な心境で酒を飲み始める。

 今夜は一人で飲むつもりでいたが、どうやらそうはいかなかった。 

 蒸留酒の次に。アルコール度数がもっと高い飲み物を注文すると。それが到着する前に。

 他の席からやってきた人物がカウンターの真壁のとなりの席にすわって。親友に話しかけるような態度で、彼にこう呼びかけてきたからだ。

「あっ、真壁さんじゃないですか。どうも、ひさしぶりです。この前に店に来て以来ですよね?

 この前に二人で話したことを、まだ覚えてますか? あれからあたしも勉強して、あの問題について少しは言い返せるようになったんですよ?」

「え?」

 真壁は眼を丸くして、自分の隣にすわってニコニコとこちらに笑いかけている、その見知らぬ女性のことを見やる。

 年齢は30歳代だろうか。アジア人特有の年齢不詳の外観から、もっと若いようにも見える。

 特徴あるフチありメガネをかけて、ボリュームある黒髪を頭の結んでたばねた髪形をしている。

 大きめのサイズのメガネと、人目を引く髪型のせいで。そればかりが印象強くて。この女性の特徴を思い出そうとすると、まずそればかりがよみがえってしまうだろう。

 身長は175センチくらい。だが足もとを見れば、底の分厚いサンダルのような履き物をはいている。そのせいで正確にはわからない。

 体つきにしても、布地が厚い、肩から吊って膝下まで覆うようなサイズが大きめの一体型のワンピーススカートをすっぽりと着用しているために。体型の特徴をとらえることができない。

 この女性が、じつはかつらかヘアピースかも知れない特徴ある付け毛をとって。メガネをはずして。厚底の靴を脱ぎ。衣装を着がえて印象が異なる格好になったら。当人であるかどうか判断がつかなくなるはずだ、と真壁は考える。

 真壁が自分の姿格好をジッと見ているのに気付いて。現れた女性は嬉しそうな表情で、さらに熱心にこう語りかけてくる。

「真壁さんからいろいろと教えてもらいましたが、どれも知らないことばかりだったんで驚きましたよ。

 輸入している化石燃料の問題から、停止させている原発の問題まで、きいてるこっちがびっくりすることばかりで」

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。そんなことを、おれが初対面の君に話したって言うのか? おれはまるで記憶にないんだが……」

 女性の話をきいて、真壁は前回にこの店を訪れたときの記憶を大急ぎでなぞってみる。その夜はずいぶんと痛飲したせいだろう。スッポリと抜け落ちたように記憶が甦ってこない。

 頼まれた強い酒をグラスにロックで持ってきたマスターに、真壁は請うように視線を向ける。ええ、そのお嬢さんがおっしゃる通りですよ、とマスターが頷いてかえすのを見て、真壁は頭を抱えると、しぶい顔になる。

 真壁はしばし考え込んでから、あらためて隣にすわっている見知らぬ女性に、慎重に質問をする。

「こんなことをきくのは失礼かもしれないが……。それでその、おれはほかに、どんなことを言っていたのかな? できたら、話した内容を教えてくれないかな?」

「なんでも、南シナ海、東シナ海を抜けるルートは。共和国海軍の強硬なやりかたのせいで危険性が高まるばかりなのに。いつまでも石油や天然ガスを従来通りに輸入できる、と思い込んでいるのは危険だ、と言ってました。

 それだけじゃありません。震災後に原発を停止させて、輸入する燃料の費用や依存度は高くなる一方なのに。原発さえ停めていれば問題ない、安全だ、と思い込んでいる世間に対してハラが立つ。いいわけがない。って訴えてましたよ?」

「……うん。たしかにそれは、じつにおれが言いそうなことだな……」

「なんだか、ずいぶんと仕事上の不平不満がつのっていた様子ですね。ほかにも、なんだかよくわからないことも言ってましたよ?」

「そうか。そりゃぁ、まいったな。おれは初対面の君に、そんなことをペラペラと喋ったのか。ちょっと無用心だな……」

 真壁は、突然に現れたこの見知らぬ女性が親しげに語るその話をきいてあらためて納得すると、困った様子でこうききかえす。

「酔っ払いの相手は大変だったろう。イヤな思いをさせて、すまなかったね」

 まるで記憶にはないが、自分がしでかした不始末でここにいる見知らぬ相手に迷惑をかけたらしい、と知って。真壁は頭を下げるしかない。

 ところが相手は笑顔で、このように真壁の考え違いを訂正する。

「そんなことありませんよ。それどころかずいぶんと面白い話だったもので。私の方でも教えてもらったことについて調べてみたんですよ。ちょっと待ってくださいね。えぇと、たしかここに……」

 そう言いながら女性は、脇に抱えていた肩掛けバッグからノートを取り出すと。ページをひらいて、書きとめておいたメモの内容を、真壁を前に読みだす。

 真壁が話したことをきっかけに、この女性が興味を持って調べたのは、我が国の輸入燃料に関する情報だった。

 彼女が話した内容は、以下の通りである。

 2011年に起きた原発事故により。我が国では現在、同様の事故の再発を防ぐという理由から。国内にある建設済みの原子力発電所の多くを停止させた状態にある。

 そのために原発から供給されていた電力分をおぎなう方法として。国内にある石油や石炭を燃料とする従来の火力発電所をこれまで以上にフル稼働させて。

 それでも足りない電力分は新型の火力発電所の増設することで。国内で必要とされている電力需要をなんとかまかなっている。

 当然だが輸入する石油や天然ガスなどの燃料費の総額も。それにあわせて増大することになった。

 2013年は3、6兆円のコスト増大となった。と経済産業省は報告書をまとめている。

 だが前回に、どうやらこの店で自分は酔っ払い。この女性にむかって。この3、6兆円の燃料費の増額の発表だけでは、具体的にこの問題がどうなっているのかがわからない。事故が起きる前とあとで、輸入していた燃料費の総額がどう変化したのかを比較すべきだ。と主張したらしい。

 そこでこの娘さんは、見知らぬ酔っ払いの言葉を真に受けて。後日に自分一人で、そのことを調べてみた。

 それでわかったことは、以下の通りになる。

 我が国が輸入していた、石油や石炭、天然ガスといった燃料費の総額は。原発事故が起きる前、2000年以前はだいたい、10兆円以下ですんでいた。

 ところがそれ以降は、世界的な原油価格の高騰にあわせて、価格はどんどんと上昇を続けた。

 2007年には20兆円となり。2008年には30兆円にせまる金額となる。だがこの頃に世界同時金融危機、リーマンショックによって値崩れすると、2009年にはまた10兆円以下となる。

 その後は再び値上がりを続ける。原発事故が起きた2011年以降は。原発停止にともなう輸入燃料の増加もあわせて。2011年は22兆円。2012年は24兆円となり。2013年は27兆円にまでなった。ただし2015年は、原油の価格低下にあわせて、20兆円代になる、と言われている。

 通産省の発表によれば。この輸入する燃料コストの増大が原因となり。我が国は2011年以降、年間の貿易収支が赤字となる事態におちいっている、という。

 貿易赤字の額は、2012年には6、9兆円。2013年は過去最大となる11、5兆円の巨額の貿易赤字となった。

(2023年の貿易赤字は、18、6兆円で、二年連続で過去最大になる。これは石油を始め、火力発電所に使う石炭や天然ガスの価格の世界的な高騰による)

 女性が話す説明を一通りきいてから、真壁は。こちらの反応を待つように自分を見ている女性に、次のような質問をしてみた。

「なるほど。で。あなたの考えは、どうなのかな? 調べてみて、なにか自分なりに気付いたことがあるよね?」

 真壁の質問の内容を予想していたのか。それとももともと度胸がすわっているのか。女性はスラスラと、このように自身の考えを述べる。

「はい。輸入している毎年の燃料費用の総額の推移をみると、原油価格はその年ごとに激しく上下していますから。原発停止による燃料費用の増額が貿易赤字の原因だ、と一概には判断できないのではないか、と思います。

 でもそんなことよりも先に気付かなきゃいけないのは。20兆円以上もの、とんでもない莫大な金額を。原油や天然ガスや石炭といった燃料を買うのにあてていることじゃないか、と思うんですよ。

 金額が大きすぎて、もはや具体的なイメージすらできませんが。不景気だ、格差だ。また税金がアップだ、と騒いでいるわりには。毎年20兆円もの燃料費を支払い。オイルタンカーを連ねて、中東から原油を買い続けているこの状態に対して、だれも疑問を抱いていない。

 なんだかもう、そうするのが当たり前になってしまい。状況を改善するとか、だれも考えなくなっている。

 もしも石油が買えなくなったらどうするのか。あるいはなにかの事情で海上ルートが封鎖されて石油が入ってこなくなったらどうなるのか。そういうことを考えなくなっている。

 この状態を放っておくと、後々大変なことになるんじゃないか、と。そんな感想を抱いたんですが?」

 女性の意見をきいて、真壁はグラスの酒を飲む手をとめると。ちょっと驚いた様子で、メガネの奥からこちらをうかがっている女性の顔を見やる。

 それからフッと笑うと。カウンターの横の壁に背中をあずけてグラスを差し出し。相手にこう言いきかせる。

「たいしたもんだ。この仕事を始めてらこのかた、おれが毎日に味わっているくちに出せないこの気持ちを。君はズバリと代弁してくれた。

 いまの指摘をきいて、ずっとわだかまっていた胸のつかえが取れた気がする。

 なぁバーテン君、このお嬢さんに注文をきいて、おれのオゴリで、なに好きな飲み物を出してやってくれ。

 ずいぶんと勉強熱心のようだけど、君は学生さんかね?」 

「ええ、そうです。留学生として、この国に来ました。いまはこの国の大学で、政治と経済を専攻しています」

「留学生?」

 怪訝そうな顔をする真壁に、そのメガネの女性は屈託ない笑顔と態度で、自分の名前と身上を紹介する。

「メイリン、と言います。共和国から来た学生です。父親がこちらの国の国籍なので、しょっちゅう両国のあいだを行き来していたせいなのか、こちらの言葉も普通に話せるんですよ。むしろ共和国語よりも、こちらの言葉の方がなじみがあるくらいです」

「……」

 予想外の事実に驚かされたせいだろう。真壁は、すっかり毒気を抜かれた、といった様子で、目の前の女性をまじまじと眺めるよりない。


 真壁はそのあともメイリンという名前の共和国の留学生と飲んでから。適当なところで切り上げて彼女と別れると。寝泊りしている部屋がある賃貸マンションへと帰った。

 長期の外出となるので、真壁は部屋を出るときには室内にあるブレーカーのスイッチを切るようにしていた。

 そのせいだろう。久しぶりの帰宅でカギをあけて借りている部屋に入ると。室内は真っ暗でしんと静まり返っていたし。フローリングの床は冷えきっていた。

 真っ暗な室内の床に、部屋を出たときと同様に。使っている布団と毛布が放り出したままになっているのを見て。真壁は物悲しい思いにとらわれる。

 冷蔵庫の電源を落として中身をカラッポにしていったせいで、けっこう飲んだ咽喉がかわいていた真壁は。靴を脱いで流し台ところまで行くと。蛇口をひねって水道の水を両手で受けて、そのまま飲もうとする。

 部屋の窓があいていて、そこから夜風が室内に吹き込んでいる。真壁はそこで、何者かがマンションのこの部屋に侵入したことに気付いた。

 だが特に驚いたりショックを受けた様子もなく、真壁は水を飲み終えて蛇口をひねって閉めると。

 真っ暗な室内のどこかに隠れているのだろう、その相手にむかって。疲れた口調で呼びかける。

「いまのところ、予定通りにうまくいってるよ。さがしていた対象は。今夜、むこうの方から接触してきた。

 本人は共和国の留学生だと名乗っていたが、正体はそうじゃないだろう。おれがやっている仕事に興味があるといって、オイルタンカーが移動する海上ルートや、今後の運行計画の内容について、根掘り葉掘り質問をしてきた。

 共和国の関係者が出入している、って情報があったあの店に通い。酒を飲んじゃあ、仕事上の不平不満を訴えてきたかいがあったってもんだ。

 スマホのカメラでいっしょに写真の撮影もしたから。その写真を使って、そちらで相手の素性を確認してもらえないか?」

「いや、それには及ばない。まだ様子をみている段階なんだしね。それでその相手とは、また会う約束をちゃんと取り付けたのかい?」

 真壁が話しかけると、暗闇のむこうからそんなふうに素っ気ない問いかけの声がかえってくる。

 真壁は問いかけを発した相手をたしかめるよりも、タオルで顔を拭きながら、片手でОKのサインをしてみせる。

 真壁が部屋の電気のスイッチを入れて。室内灯を点灯させる前に。隠れていたその相手は、部屋の奥から足音も立てずにそっと出てくる。

 それは、薄汚れたジャンパーのポケットに両手を突っ込むと、裾をまくったズボンにシャツという格好をした。まるで浮浪児のような女の子だった。

(前回に会ったときと違うのは、伸ばしかけた黒髪を頭の後ろで適当に結んでいことだろう。それがいつもの彼女の定番の外観とは違っている)

 その名前を、片切ヒロという。

 ヒロはふくれっ面で。疲れた様子でいる真壁のことをジロリと見やると。水蓮様への連絡役としてきたよ、でもいまの話じゃ特に報告することもないけどね、とぶっきらぼうに告げる。

 なにやら不機嫌そうなヒロにむかって。今回の件で色々と思うところがある真壁は。自身の胸中を打ち明ける。

「でもさ。正直言って、こういう仕事は気が進まないんよ。

 話してみてわかったが、あのお嬢さんはカネで雇われた素人じゃないか、って気がするんだよ。

 こちらを凋落するつもりで近づいてきたんだろうけど。その相手を逆に利用するなんてさぁ……。根っからの悪党を相手にするなら罪悪感もわかないが。なんだかどうも気がとがめるよ……」

 真壁がそんな風に自分なりの感想を述べると。ヒロというその女の子は、まるで真壁の内心を見透かそうとするように。腕組みした格好で真壁の顔をジロジロと眺めてから。冷ややかに忠告をする。

「罪悪感ねぇ……。戦ってる相手を思いやるのもいいけど、そいつが共和国の人間だってのを胸に刻んでおいてくれよ?

 あたしたちはこの国のために働かなきゃならないんだ。くれぐれも自分の役目とやるべき仕事を忘れないでいてくれよ?」

「モチロンだとも。それくらい、承知しているって。個人的な感情を仕事には持ち込まない。そんな真似をしたら失敗する。それは、おれ自身が一番よくわかっている」

「だと、いいんだけどねぇ」

 ヒロは妙に含んだところがある態度と物言いで、真壁にそうクギを刺すと。それじゃ、と告げて背をむける。

 そして、侵入してきたときと同様に、音を立てずに素早く、入ってきた窓をくぐって部屋の外へ出て行く。

 下の道路までの距離は3メートルから4メートルはあるはずだった。だが道路に着地した音も、走り去った音もしない。

 窓のところまで行って下を見下ろすと。街灯の光に照らされた無人のアスファルトの道路と。道路の路肩に停車している乗用車があるだけで。ヒロの姿は消えていた。

 真壁はため息をついてかぶり振ると。今度は窓をきっちりと閉めて施錠してから。部屋の電灯をつけるために、部屋の扉の上にあるブレーカーのスイッチを上げる。


 ここで、共和国からの留学生について簡単に説明をする。

 我が国における、他国からの留学生について語るなら。1983年。1984年に。当時の首相が大々的に打ち出した「留学生10万人計画」を最初にあげなければならない。

 この計画によって、共和国からの留学生の数が大きく増加したからだ。

「10万人計画」の実施にあわせて、我が国にやってくる留学生の数は、1983年の10428人から、1992年の48561人へと増加した。

 特に共和国からの留学生の増加はめざましかった。2136人から20437人へと、なんと10倍もの増員となった。ちなみに現在に至るまで、受け入れた留学生の国籍は、共和国からの学生がもっとも多い。

 2003年に計画が達成されると。2007年頃に。政府の有識者会議等で、再び留学生の受入数を拡大する議論が始まる。

 2008年には、新たな「留学生30万人計画」が決定される。

 これにより、2004年には117302人だった留学生が。2010年には、留学生は141774人に拡大をする。

 共和国からの留学生は、77713人から86173人へと増加して、国別では相変わらず受入数のトップを保つことになる。

 10万人計画は、途上国の人材育成を通して国際協力を行う、という名目のもとで。70年代からの経済成長を背景に、その後の共和国との国交回復のために行われた、と言われている。

 その後の30万人計画は、そこにさらに。少子高齢化にともなう人材不足をおぎなう目的も持っていた。

 だがその目的が達せられた、とは言い難い。

 留学生の在留期間が、留学ビザで在籍できる、2年間であるために。日本語を習得するので精一杯なのと。

 学生として入国しても、そのまま行方をくらます者が大勢でたからだ。

 もともと留学の制度というのは。相手国に公費で自国の学生を送って。その国の進んだ学問をさせて。優秀な人材を育てるための仕組みだ。

(共産主義体制をとっていた共和国では、留学生が在学中の学費や生活費を無償とするかわりに、卒業後は国家への奉仕義務が課されており、政府が計画的に職業を割り当てる仕組みが取られていた。

 だが共産主義国から出て行って帰ってこない学生も多かったわけで。こうした留学生の不帰国の問題を解決するために。高等教育を受けた学生については、一定期間、共和国内において就業をし。国家への奉仕義務を果たすか。またはその者の高等教育のために国が支出した費用〈高等教育培養費〉を国に償還しなければ、私費留学を認めない、とする措置が共和国側でとられるようになった)

 1992年以降は。社会主義市場経済への移行によって、共和国が飛躍的な経済発展を遂げる。

 その影響によって共和国政府は、高等教育の高度化と。高度人材の育成のために。「一流の人材を選択して、海外の一流大学に派遣し、一流の研究者の指導を受けさせる」という方針をとるようになった。

 例として、2011までの5年間にわたり。国内から優秀な大学院生を毎年5千人選抜して。海外の一流大学に国費で派遣するプロジェクトなどが実行される。

 またこれは留学生にかぎったことではないが、海外で博士号取得後に有名大学で教授等のポストに就いている55歳以下の優秀な研究者を共和国に招いて。

 彼らが国家の重要プロジェクトや先端技術産業などにおいて研究に従事したり。研究成果を活用して起業することを重点的に支援する「千人計画」を、2008年から始める。

 こうした優秀な人材には、研究資金、給与等が支給されるほか。配偶者への就職斡旋や、子女の就学支援等の優遇措置が与えられる。

 近年では、共和国政府としては、留学生の国家への貢献は、自国で奉仕する活動だけに限定されずに、本拠地を海外に置いたままでもなんらかのかたちで祖国に貢献すればいい、とする考え方をとるようになった。

 海外の留学生に対して、多様な方法で祖国への奉仕を奨励する、としたわけだ。


 真壁とメイリンが店でいっしょに飲んだ、その翌々日の夕刻のこと。

 二人が次回の待ち合わせ場所にしたのは。真壁のマンションから近い、駅前のロータリーだった。

 その日に、真壁が駅前に行くと、円形広場はそこに集まった待ち合わせの人々で混雑していた。

 メイリンは例によって、フチありメガネと後でまとめた黒髪に、大きめサイズのワンピーススカートに厚底サンダル、という前回とまったく同じ格好で、大きなバッグをさげて真壁を待っていた。

 デートとはいっても、前回に店で飲んだのと代わり映えしない内容だった。とりあえずはメイリンがよく利用するという店に二人で出向くと、そこで食事をすることになる。

 前回のスナックバーよりは高級そうな店だった。

 照明は薄暗くて。流れている音楽も小さく。それぞれのボックス席のあいだには仕切りが設けてあり。隣の席の様子がわからない構造になっていた。

 二人が店に入ると、顔なじみらしい店員がやってきて、メイリンに頷いてみせ。二人を隅の席へと案内する。

 席に着いた真壁は、店員が持ってきたお絞りで手を拭いて。落ち着いた雰囲気のいい店だね、と感想を述べてから。カメラとマイクが隠してあるならどこだろうか、と考えをめぐらせる。

 その後は、二人で適当な話題をみつけて談笑しつつ、楽しく食事と酒を進めていった。

 真壁とメイリンは好きな料理とアルコールを頼んでは、届いた料理を食べつつ、酒のグラスを重ねていった。

 真壁は早々に酔っ払うと。前回にも増して、仕事上の不平不満や問題点を、打ち解けた様子でメイリンに話してきかせた。

 そんな話ばかりされたらデート中の女性なら不機嫌になりそうなものだが。メイリンは辛抱強く真壁の話に付き合ってくれて。いちいち相槌を打っては、その通りだ、私もそう思う、と同意をくりかえした。

 いい気になった真壁はさらに酒の追加を続けて酔っ払い、饒舌になると。自分が語るだけでなく、メイリンからきかれた質問に、知っていることを包み隠さずに話してきかせる。

 適当な頃合を見計らい、メイリンは態度をあらためると。デート中とは思えない話題を、真壁に持ちかけてくる。

「ところで、真壁さん。あなたはいまの自分の職場と仕事に、いろいろと納得がいかない様子ですね。

 もしかすると、その問題を解決する手伝いを。私ができるかもしれませんよ?」

 笑顔でさりげなく切り出すが、メイリンがチャンスをうかがっていたのは間違いなかった。

 真壁は。前回よりも飲む酒量をひかえて、酔わないように注意をして。あたりさわりない話題で時間を稼いでいた。

 メイリンがその話題をだすのを、真壁は待っていたわけだ。

 それでも真壁は気付かないフリをして、すっかり酔っ払った上機嫌な態度と口調で、メイリンに尋ねる。

「そりゃ、どういうことだい? まさか君が、じつはどこかの大会社の社長の娘さんで。そのコネを使って。おれになにか好待遇の仕事でも紹介してくれるとか。そういう楽しい話しかね? だったら大歓迎なんだがね?」

「いいえ、そうじゃないんですが。じつはですねぇ……」

 そういってメイリンが真壁に求めてきたのは、次のような驚くべき要求だった。

 真壁さん、じつはあなたが次の護衛の仕事でオイルタンカーに乗り込んでいる最中に。そのオイルタンカーが襲撃されるか。あるいは襲撃されるに等しい事態となります。

 そこで真壁さんには、その襲撃が完了するまで、待機している海保の巡視船に連絡するのを遅らせてもらいたいのです。

 どうか驚かずに、私の話の続きをきいてください。

 そんな真似をすれば当然ですが。護衛への連絡役としてタンカーに乗り込んでいる真壁さんに、襲撃犯に協力した疑惑が向けられるでしょう。

 ですから前もって真壁さんとは別に。高額の報酬で雇い入れた別の仲間が乗組員としてタンカーに乗り込んで。船内に爆発物を仕掛けるようにします。

 襲撃が開始されるのと同時に。船内に爆発物がある、よけいな連絡をしたらタンカーを爆発させる、と襲撃者側から無線で宣告がされるのです。

 真壁さんには。爆発物がどこに仕掛けられたかわからず、協力者が誰かもわからない以上は、襲撃者たちの命令に従わざるを得ない、と乗組員たちを沈静化させてもらいたいのです。

 必要な用事が済みしだい。襲撃者たちは、正体をあらわした協力者とともに退散しますから。どうかそれまでは真壁さんは、なにもせずに事態を静観していてください。それを、私はお願いしたいのですよ。

「……」

 真壁は、メイリンの話が終わるまで。ぽかんと驚いた表情で、席で硬直していた。

 それからテーブルに置いた酒のグラスを取ろうとしたが、ひっくりかえすという。衝撃を受けて内心の動揺を隠しきれない男というベタな演技をする。

 そして、そんなことはとても信じられない、という。かすれて裏返った声で。視線をそらせているメイリンに尋ねる。

「きっ、君はいったいなにを言っているんだ? 私をからかっているつもりかね?

 いくらなんでもそんな悪質な冗談を言われたら、温厚な私だって笑ってやりすごすわけにはいかないよ?」

「残念ですが、これは事実です。でも真壁さん、これはあなたにとって、本望なことじゃないんですか?

 だってあなたは。いままで、会社のやりかたに対して。あんなに不平不満を唱えていたじゃないですか?

 よっぽど不満を鬱屈させていたんでしょう? だったら私たちが、あなたのその気持ちを晴らしてあげますよ。

 私たちはあなたの力になりたいんです。だからそのかわりに、私たちに協力してもらえませんか?」

 メイリンは、こういう場合の常套手段ではあるが、自分は理解ある親しい友人だ、という態度で。真壁にそう語りかけてくる。

 真壁はメイリンが、私たち、という文句をくりかえすのをきいて、何事か気づいた様子で、こうききかえす。

「私たちだって? つまり君はだれかと組んで、タンカー襲撃をたくらんでいるのか? 襲撃の目的はなんだ?

 狙いはタンカーに積んだ33万トンの原油か? それともタンカーそのものか?

 今年は原油の価格が下がっている。現在1バレルあたり68ドルだが、それでも33万トン分あれば相当な金額にはなるだろう。

 タンカーの価値は百万トンあたり2百億円の計算だから。30万トン型タンカーなら6百億円から7百億円になる。中古とはいえ大量生産している船ではないのだから。こちらも相当な金額になるはずだ。

 だがどちらも容易に盗めるようなものじゃない。

 なにしろ、東京タワーに匹敵するサイズの巨大船に。ドラム缶150万本分の油だ。

 奪ったところで、どうやって運ぶ? どうやってカネにかえる? そもそも盗品だと知った上で、買いとる相手がいるのか?

 報告書によれば。南シナ海ではタンカー狙いの海賊行為の件数が増えているとのことだが、まさか君はその仲間なのか?」

「真壁さん、それはあなたが知らなくてもいいことですよ。よけいな質問をしない方が、その身のためですよ?」

 メイリンから、やんわりと拒絶されて。真壁は表情を硬くすると、追って質問を続ける。

「だがそんな襲撃事件が起きれば、その影響でいろいろな問題が生じるに違いない。タンカーが襲撃されたとなれば、今後の原油の受け入れ計画に大きな混乱が生じるはずだ。タンカーの運行が一時的にストップするかもしれない。

 そんなことになれば、我が国の経済活動や国民の生活に、多大な混乱が生じる。混乱が長引けば、深刻なダメージになる。おそろしいことだ。そんな事態を想像しただけで、冷汗が噴き出してくる……。

 と、とても君の話にはつきあえない。私は先に帰らせてもらう。もう二度と会うこともないだろうっ……!」

 真壁はそう言って席を立つと、立ち去ろうとするが。

 こうなることを見越していた様子のメイリンが、その背後から声に力を込めて呼びとめる。

「真壁さん、どうか落ち着いてください。もう少し冷静になって、こちらの話をきいた方がいいですよ?

 いいですか。真壁さんには、どうあってもこの計画に協力をしてもらいます。あなたに拒否は許されません。

 じつは、真壁さんが私に暴露した会社への不平不満や。タンカーの航路や運行計画といった職務上の機密について。こちらで勝手に映像や音声の記録をとらせてもらいました。

 この記録を証拠として、船会社やあなたの雇用会社に送付されたくはないでしょう?

 大人しくこちらに協力すれば、記録は処分します。相応の謝礼も支払いましょう。報酬は金銭だけにかぎりません。ほかに望むものがあれば、どうぞ言ってください」

 いかにも自分は交渉事が巧みだという、強面の脅迫者を装っていたが。メイリンの言動には、こうしたことには馴れていない、危なっかしいところがあった。

 だいたい、相手を脅迫して命令通りに従わせるつもりなら。そのためにはもっと決定的な弱みを握っておかなければならない。

 だが真壁は、まさかそれを指摘するわけにもいかず。それどころかここでくじけて失敗されては困るので。

 躊躇しながらもメイリンの脅迫に同意する素振りをしてみせる。

「ううっ。まさか、そんな……。でも、たしかにそうだ。なにか事件が起きた方がいい。そうすれば会社も、きっとやりかたをあらためるはずだ。

 それに、おれがいくら忠告しても耳を貸さない会社に、そこまでしてつくす義理もないしな……」

 真壁はそうやって、提示された報酬や条件を前に心が動いている、という素振りをしてから。いやでも協力するわけにはいかない、と言って立ち去ろうとする。

 その後姿にむかって、メイリンはしっかりとクギを刺しておく。

「気が変わったら、私に連絡をください。くれぐれも記録が私たちの手もとにあるのをお忘れなく。

 よけいなことを漏らせば身の破滅ですよ。いいですね?」

 真壁はいったんは逃げるように店から立ち去ったが。

 その翌々日に。そちらが支払う報酬の額しだいでは協力を考えてもいい、と。

 メイリンの携帯電話に。協力をする、という了承の連絡を入れたのだった。

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