6話:山久一雄の結婚式と太陽光発電
結婚式場など全て悦子さんに頼んだ。悦子さんの実家は、千葉の大きな漁師一家だった。その2週間後、悦子さんの実家のある木更津へ行き御両親に挨拶して結婚を申し込んだ。すると、お母さんが、付き合って長いそうねとか慶応ボーイなんですってねとか悦子さんから情報が既に多くの情報が入っていた。
そして、お父さんも喜んで尾頭付きの鯛を用意して待っていた。その後、鯛のさしみ、鯛のお汁、鯛めし、焼き物などを出してくれた。さらに、くれぐれも悦子を宜しくと言われた。その後、夕方、木更津の奥さんの実家を出た。2006年4月10日、桜が咲き始めた頃、和式の結婚式を終え上野精養軒で披露宴を開いた。
披露宴の参列者は、70人以上も来てくれ盛大に結婚式をあげた。新婚旅行は、ハワイに4泊6日のハネムーン・ツアーだった。ホノルルに2泊とカウアイ島に2泊して、シダの洞窟やハワイのグランドキャニオンを見て回って、日本に帰ってきた。日本に帰ってきて山久一雄は、やはり和食が旨いと喜んだ。
その後、実家に帰った山久一雄に父が実は、相談があるのだがと言われ実家に来る様に言われた。実家に行くと一緒に、新しい仕事をしないかと言われた。その仕事というのは、太陽光発電など自然エネルギー関連の仕事だと言った。実は、昔からの友人の木下工務店と山根工務店と共に大手プラントメーカーで働いていた。
そして太陽光、風力発電、小水力発電の技術の仕事をしてる仲間、斉藤と北野さんの総勢6人がメンバーだと打ち明けた。父の資産が1億円、山久一雄が5千万円持っていて自分達がスポンサーになり太陽光発電の工事、設計、設備購入は、他の4人が担当してくれることになっていると話した。
これからの時代は、自然エネルギーの時代だと言った。火力発電による大気汚染、地球温暖化の問題が、今後、必ず来るはずだから、その先駆者として道を開いていこうと語った。結婚したので、奥さんの了解も取りつけないで、一存では決められないと答えた。
この話を山久一雄が、奥さんに話すと良い事じゃないですか自然エネルギー開発の先駆者になるなんて、素晴らしいわと、喜んでくれた。資産の話は、以前話していて、いずれ、何か、新しい事を始めたいと言うことは、既に話していて賛成してくれていた。
私は、銀行の仕事を続けるから、あなたは、その道のパイオニアになってと後押しされた。この結果を父に伝えると喜んでくれた。今年の冬、勤めている東京三菱銀行に退職願を出すと話した。その後、2006年12月付けで退職した。ちょうど、その頃、奥さんが妊娠したとわかった。
山久家では大喜びしていた。そして、その頃、父は、蒲田にマンションを建てた。そしてマンション経営をしていて、そのマンションの屋上に3DKのマンション2つ用意して住んでいた。以前、片方の3DKのマンションに住んでいた長女と次女は、既に結婚して長女は福岡に住み、次女は仙台に住んでいた。
そして2人とも商売をしていたので、空き家になって帰って来ることはなかった。そこに山久一雄が入ってくれば良い父が話してくれ、子供が生まれたら、そこに住むことを決めた。山久の奥さんの悦子さんの出産予定日が2007年5月12日と告げられ、双子の可能性が高いと言われた。
やがて2007年を迎えた。ところが太陽光発電の設置費用が、価格が、かなりに下がった。そのため、2006年から日本政府からの太陽光発電設備補助金制度も一度廃止された。それでも父の仲間の大手プラントメーカーの担当者が、近いうちに、再び補助金制度は復活すると話した。
さらに世界では、ヨーロッパ、技術立国ドイツに対しライバルと目されている日本が太陽光発電技術で対抗していくため補助金が復活すると考えていた。また大手プラントメーカーの斉藤と北野さんが新型の太陽電池、太陽光発電機で得られた直流電気を交流に買える整流器、得られた電気を貯めておく大型蓄電池の会社と懇意にしていた。
そのため新製品のモニターとして一定期間無料で利用できたり格安の価格で施工してもらえるという利点を持っていた。さらに仲間の工務店で格安で機材の設置工事をしてもらえる訳で、このメリットが一番大きかった。山久一雄も銀行の上司で、2005年に定年退職をむかえた上司の山上泰三専務が協力すると言ってくれた。
これからの世界は、持続可能な世界をつくるべきだと考え、東京でそれを支援する経済団体の銀行の関係者になっていて、多くの富裕層が賛同しメンバーになっていた。その中からスポンサーを募ろうと考えて根回ししていた。太陽光発電の製造、管理出来るグループへ支援すると話してくれたのだ。
この頃、大手電気プラントメーカーの斉藤と北野がSM電気が開発した企業秘密の数種類の電解液を使い酸化と還元反応で長時間、耐久性のある新しい大型蓄電池に注目していた。その他、サンヨー、パナソニック、京セラ、シャープが太陽光発電用パネルを作っていた。