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3話:一流銀行に入行、ヤフー株入手

 1995年4月3日月曜日、東京三菱銀行、蒲田支店に徒歩で行き身体検査、医者の診断書を提出した。人事部に行くと、明日から事務をやって欲しいと言われた。昼食後、ソロバンの腕前を見たいので5人の名前が呼ばれた。まさに慶応ボーイでエリートコースへのエスカレーターに乗れた気がして楽しかった。


 14時に、5人が集められて暗算とソロバンの読み上げ算の試験を受けた。その後、16時に銀行の窓口業務と終了時の検算の仕事をするように言われた。定時に終わると18時15分には、自宅に到着。意外と楽な仕事じゃないかと、内心拍子抜けした。


 それでも割り切れない何かを残して一流大学を卒業して一流銀行に入って楽な仕事に就いたのだった。しかし実際に勤務が始まると2,3日に1回、女性行員全員の計算があわない。そのため、検算をすることが増えていき、間違える人が限定していくと、その女子行員は、メンバーから外されていった。


 なんか、悪い気がするが、これがプロの世界かと割り切るしかない。その後、検算で合わない回数が減り春が過ぎ夏になった。そんなある日、検算があわない。4回、再計算をしても合計金額は、合っているが、お金が足りない。5千円、どうしても足りない。


 山久一雄は。仕方ないので検算した自分のせいだと思い5千円を自腹を切って支払った。そして、御明算として解散した。その後も毎月に数回、1万円以内だが、合わない日が続いた。たまらず日比野課長に話すと調査してみると言った。

「9月に入ってから女子行員1人ずつ課長が呼び出した」


「午前、午後、面接をして5日目、ついに犯人がわかった」

「その犯人は、A子、商業高校を出て入行し4年目の派手目の女の子」

「課長がA子を呼んで山久一雄と3人で話すとA子が、ごめんなさいと言った」

「それに対して、なんで、何故こんな、しょうもないことをしたのか!」

と山久一雄が声を荒らげた。


「すると、その女子行員が、最近付き合った男の子に貢いだと話した」

「不足分の3万4千円を返却したが課長が信用をなくした行員はクビだ!」

「静かな声だがきっぱりと言い渡し即刻解雇され退職金も出なかった」

「さらに始末書まで書かされて泣きながらA子は、走り去る様に銀行を退職」

「この事件で山久一雄は、銀行員でも信用できないと驚いた」


 それで、2,3年に1回ずつ、近くの支店への移動が頻繁に行われるのかと納得した。そん事件の数週間後、その日比野課長が、ちょっと今晩のみに行こうと言われ、蒲田駅近くの居酒屋に入った。東京三菱銀行に入って、女性行員の横領を見て驚いたろうと言い、日比野課長も経験したと笑いながら言った。


 もちろん入社試験、受ける時からそんな事をするつもりはないのだろう。

「しかし彼氏ができたり自宅の経済状態などで善人から悪人に変わるんだ」

「人間というものは、金も見ると、気持ちが変わる人が多いと言った」

「これは、決めつけるわけではないがと前もって述べた」

「お金持ち、そうでない人とどっちの方が、心変わりしやすいと思う」

「そう、課長が山久一雄に質問した」


「金持ちですかと答えると、逆だと述べた」

「そんな話をして君は計算が早いから内勤業務で良かったと言った」

「日比野課長は、外勤業務も経験して融資先で困っている経営者を大勢見た」

「バブルの時代に借金を返せなくて首をつった商店主も見たと述べた」

「そう言うと、ため息をつき、し部屋の天井を見ると涙が浮かんでいた」


「銀行員という者は、感情的になっちゃ駄目だと上司に教えられた」

「でも、この時ばかりは、本気で銀行員を辞めようと思ったよと語った」

「そんな事件も経験して、やがて冬が深まり12月となる」

「師走、まさに走るような忙しさで銀行も多くの商店を訪問して回った」

「銀行員は、年末ゆっくり、していられない事が良くわかった」


「銀行に戻っても検算を済ませなければならないので帰りが遅くなる」

「銀行を出るのは、たいてい、21時、近かった」

 日比野課長が、昨年は、計算が合わず0時頃に終わりタクシーで帰ったと話した。


 そうして1994年が過ぎて、1995年となった。ゆっくり正月休みを取り、初詣でに行き、仕事、投資の成功を祈った。1996年、山久和彦と息子の山久一雄も携帯電話を買った。その後、1997年11月4日、初値で200万円の値がついた。


 その頃、山久和彦は、既に野村証券を通じて株投資をしていて1億円を超える資産を作っていた。山久一雄も証券口座を開いただけであった。そして証券会社からヤフー株の新規公開株を山久名義で2株が手に入ったと担当者から電話が入った。その後、ヤフーの新規公開株の価格が1株70万円となった。


 1997年11月4日、初値で200万円の値がついた。それを見て山久親子が喜んだ。山久一雄が200万円で売らないのと父に聞くと初値で、ここまで来れば、かなりの人気株だから下げ始めるまで持つべきだと言い張った。すると父の言う通り順調に株価が上昇し12月には、320万円を越えた。やがて1998年を迎えた。

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