大八車
住む世界が違う二人とはこういうことか。ヒサと出会ってからキヨシは物語の言葉の意味をかみしめていた。外国の童話が好きな幼馴染からたまに借りる本の中には身分違いの恋に苦しむ男女が多い。普段は接点を持たない二人が出会ってしまい、一時はその運命を恨みさえするが魔法使いの力を借りて最後に二人は幸せになるのだ。
(最後まで二人は幸せに…か。天女の羽衣伝説とは違うんだな。)
伝説では羽衣を見つけた天女は最後に男のもとを去る。幸せな時間などかりそめに過ぎないところが自分と重なった。どんなに想ったところで日々の暮らしにも事欠く自分と花嫁修業と称して贅沢な芸事の稽古に励むヒサではきっとどこかでかみ合わない。今はまだ見えない行先に何も待ってはいないことを心だけが否定していた。ただでさえ家賃を滞納しがちで大家であるヒサの父親からの印象が悪いのだ。嫁入り前の娘と二人きりでいるところなど見られたら今度こそ本当に追い出されるかもしれない。。
(どうせこんな事すぐにできなくなるんだ。)
だから、
「きれいだよ。」
ふとつぶやいた主語を省いた言葉の意味はどちらで受け取られてもかまわなかった。
帰ろうとすると急に雨が降り出した。傘を持たない二人は足止めされる。「遺らずの雨」だと言った彼女をやっぱり好ましいと思って、どうしようと戸惑う言葉を聞きながらキヨシは別のことを考えていた。
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (僧正遍昭)
(どちらでもない気がする。)
ヒサにとって世の中の人間は大きく二つに分けられる。昔大怪我をしたせいで少しだけ左手の小指が短くなっていることを話せる人と話せない人。キヨシと仲良くなってからしばらくたっているがわざわざ言い出す折を見つけられずに困っていた。きっと彼には伝える必要なんてないと思う。けれども過去の見合い相手の中には顔色を変えて隠すようにとはっきり言った者もいた。子供のころには男子たちにからかわれたことも一度や二度ではない。そのたびに相手にしてケンカをしてきたことが今のヒサの強気な部分を作りあげた。反撃はやるなら徹底的に。それが自然に身につけた戦術だった。できれば何事も白黒はっきりさせておきたいと思っているのにキヨシのこととなるとそうはいかなかった。
(誰にも言えない。)
むろん父はキヨシとの恋仲など許すはずがない。家の玄関先からキヨシを連れ出した一件後、ヒサはほとんど父親と口をきいていなかった。こんなことをしているとを知られたら今度こそ強引に嫁に行かされそうだった。キヨシもそのことを理解しているからか自然に二人きりで会う時は人目を避けた。寒い冬、落ち着くのはいつも町の喧騒から離れた古びた水車小屋だった。
気にならないよと期待通りの言葉を聞いて安心したい一方で、万に一つの恐ろしい可能性に身がすくむ。ストーブに熱せられた空気の向こうに揺れて見えるキヨシは、ヒサにとって初めてどちらにも当てはまらないひとだった。
(止まないな…。)
小屋の扉を細目にあけて外の様子を窺った。先ほどから降り始めた雨は止む気配どころか激しさを増している。このままだとずぶぬれになって帰ることになりそうで思わずため息をついてしまった。
小屋に残されたもので少しでも雨をしのげないものかと探ると藁で編まれた古い笠と蓑が一つづつ見つかった。格好はつかないがないよりはましだろうと思ってキヨシに話しかける。
「最悪の場合、これをかぶって走ろうか。」
「うん…。」
返事の声は想定よりずっと力のないものだった。
「大…丈夫?」
壁に背中を預けて座っている体が傾いでいて明らかに具合が悪そうだ。近づくと顔色が悪いのが見て取れた。恐る恐る額に触ると驚くほど熱かった。
「どうしよう…。」
もう歩くこともしんどそうなのに雨はいっこうに止む気配がない。暗くて寒くてひと気が無い。心細くて一瞬泣きそうになった。できることを考えて声を励ましてこう言った。
「私、お医者様呼んでくるから待ってて。」
ズドンッ
天井近くの小さな窓の外が一瞬白い光で明るくなって軽い地響きとともに近くで大きな音がした。ザアッと天井をたたく雨音が一気に強くなる。近くで雷が落ちたと分かるのとキヨシに縋り付いていることに気づくのは同時だった。
「ご、ごめんなさいっ。」
あわてて体ごと離れて距離をとる。胸の動悸は雷のせいだけではなかった。
「いいよ、森が近いから外に出るのは雷が危ない。もう少し雨が弱まったら帰ろう。」
「帰るって…。ちゃんとお医者様に診せないと。」
顔は笑っていても息が乱れているのが分かる。話をするのも苦しそうだ。
「少ししたら落ち着くから大丈夫。」
会話の間にも小屋のすぐ近くに雷が落ちる。なんとなくそわそわしていると手を握られた。熱すぎるはずの手がこの時ばかりはありがたかった。せめて部屋を暖めようと適当に小屋にあった廃材をストーブにくべて嵐が通り過ぎるのを待つことにした。この時おとなしく待つ選択をしたことを後々後悔することになろうとはヒサは思ってもみなかった。
「はあっ…つ…。」
相変わらず天井を叩く雨音に床板のきしむ音とうめき声が混じる。激しく燃えるストーブの煙が湿気を含んで空気はここだけ重く濃かった。ヒサは涙目で床に横たわる熱い体を抱きかかえた。あれからどれくらいたっただろうか。日が沈んで空は暗い鉛色をしている。雨が少しだけ弱まった頃キヨシが胃のあたりをおさえてうめきはじめた。どうやら激しく痛むらしい。こうなっては一刻も早く医者を呼びに行こうと外に飛び出したとき、小屋の側に立てかけられていた大八車が目に入った。
(歩けなくてもこれでなら…)
普通ならそんなもので大の男を運ぼうなどとは思わない。けれどこの時ヒサはキヨシの苦しみ方からもはや一刻の猶予もないことをさとっていた。医者をここまで連れて来るより手っ取り早い。壁から下ろすと持ち手が少し緩んで危なっかしい。そばにあった名前も知らない大工道具で応急処置をしてから小屋の中に引きずり込んだ。
「お願い、もう少しだけ頑張って。」
汗のにじんだ服の上にもう一度制服を着せて笠と蓑をかぶせた。
「…いいよ、ここで待つから。」
この期に及んで力なく抵抗されて腹が立った。大八車を使うと決めてからヒサは少し気が立っていた。笠をかぶせるとキヨシは遠慮してそれをヒサの頭にのせてきた。
「こんな状態で遠慮しないでっ。」
強引にキヨシを荷台に押し込んでから自分の上着を被衣のように頭からかぶって町はずれにある一番近い診療所を目指した。
「あっはっはっは。」
ヒデオの笑い声が診療所の廊下に響き渡る。
「しーっ、寝てる人もいるんだから。」
翌朝、キヨシを運び込んだ診療所を訪れると着替えを持ってきたヒデオと鉢合わせた。昨日の出来事を手短に説明すると大八車のくだりで爆笑された。
「ごめんごめん、そうだった。」
口は閉じたが顔のあちこちが引きつっている。こっそり目をぬぐうのを見てそこまで笑われたことにため息が出た。
(だって必死だったんだもの。)
いつもは冷静でさわやかな笑顔が似合うキヨシのあんな姿を見たら誰だって驚くはずだ。その時はただただ早く医者に診せることしか考えていなかった。だが後から思えばたしかに大八車に人を乗せて運ぶ発想も姿も日本の大和撫子からは程遠かった。
やっとの思いでたどり着いた診療所でキヨシはすぐに胃潰瘍と診断された。おそらくは心労がもとだろうと医者が話していた。その日は最初から顔色が悪かった。あの時何も言わずに出かけたことが悔やまれた。
診療所には電話があったので借りて家に電話した。こんな時は家が裕福でよかったと思う。割にハイカラなものが好きな父親が自宅に設置させたのだ。近所ではまだ商店街の八百屋に借りに行く者が多かった。キヨシの名前は出さずに事情を話すとすぐに迎えに行くとのことだったので待合室で待たせてもらった。キヨシは入院することになった。
午後9時。目を吊り上げた母が来ると思っていたら迎えに来た人物は意外なことに父だった。夜なので当然かと思い直して詫びを入れると一言、「あいつはやめとけ。」とだけ言われて凍り付いた。何をどこまで知られているのか確かめたくても何も言えない。黙って夜道を父の後に従って歩いた。
母親が亡くなってからキヨシの家は彼なしでは立ち行かなくなったという。そのうえ彼は勉学に励む優秀な学生だった。きっと日々少しずつそのやせた肩にのった重圧がキヨシの体を蝕んでいたに違いない。こんな境遇のなかで頑張っても好きな勉学が続けられるのはキヨシより成績が劣る金持ちの子息だけ。今まで関わってきた人たちとキヨシが背負うものがあまりに違って、そして初めて知る世の中の理不尽にヒサは戸惑っていた。
「よっ、兄さん元気?」
「入院してるんだ、元気なわけないだろう。…何笑ってるんだ。」
病室に入るとキヨシがベッドの上で起き上がっていた。顔色は相変わらずだが普通に話している姿を見るだけでほっとした。
「昨日は本当に悪かった。ヒサは命の恩人だよ。ありがとう。」
律儀に頭を下げられて恐縮した。
「本当にあなたはすごいな。兄さんを車で運ばれる都のお姫様にしてしまうんだから。」
ヒデオがしつこくからかってくる。詳しくは知らないがヨシの妹とけんかした時には半べそかきながら自分をかぐや姫に例えた人とは思えない。こっそりキヨシと覗き見たというヨシがヒサにまで話したと知ったらどんな顔をするだろう。
「車?」
キヨシが首を傾げた。
「だから京の都のぎ…」
「牛車って言ったら許さない。」
ヒデオにだけ聞こえるように忠告した。
「…御所車だよ。」
「ああ、あれか。」
意味は同じでもキヨシの前で牛に例えられるのは絶対にごめんだった。その後すぐに泣きながら部屋に飛び込んできたヨシによって会話は打ち切られてしまった。帰り際、キヨシと話すヨシを離れたところで横目に見ながらヒデオが言った。
「御所車…ねぇ。」
「何?」
「…車争いにならなきゃいいけど。」
そう言ってどこかへ行ってしまった。細身で長身のヒデオは大人びていてどこか謎めいた雰囲気がある。和歌に詳しくても古典には明るくないヒサには言われた意味が分からなかった。