やさしい配達人
朝、目が覚めると台所から朝食の準備をする音が聞こえる。ヒサは「あーあ」とため息をつきながら階下の台所に顔を出した。
「あらっ、どうしたのよこんな時間に。」
白いかっぽう着を着た母が目を丸くしている。
「こんな時間?」
時計を見てもまだ寝坊をしたとはいえない時間。
「あなたいつも朝食がはじまるぎりぎりまで起きてこないじゃないの。どこか具合悪いんじゃあないの?」
「…違います!」
いつも朝に弱いため早起きを大げさに驚かれたのがしゃくに障り語気を荒くしてしまう。
(私だってやればできるんだから、失礼ねっ。)
師匠の家に向かう道中、再びかっかしてしまう。遠回りでも映画館の前を通るのがもうヒサの日常になっていた。
(今日もいない。)
すでに朝晩の冷え込みが激しくなった。いないと分かっていてもヒサは映画館の側の階段に人影を探さずにはいられなかった。
「えー、寝過ごしたのぉ?」
あんみつ屋アプリコットで向かい合ったヨシの眉間に小さく、しかしかわいらしくしわが寄った。不満げな顔までかわいく見せられるなんて不公平だと思う。ヒサは今朝、偶然出くわした猫に威嚇されたというのに。きっとヨシには犬も猫も自分からすり寄って行くに違いない。だからというわけでもないのだが開き直って返事をした。
「そ、悪かったわね。」
「ざーんねんっ。」
そういってヨシはやっぱりかわいらしい仕草であんみつをつつく。
(残念なのは私の方よ。)
キヨシが学校に行く傍らで朝の新聞配達の仕事を始めたらしい。担当地域はちょうどヒサの家の周辺だと知ったヨシは興味本位でヒサに様子を見て教えるように言ってきたのだ。もちろん言われなくてもそうしたが昨日の夜ヒサはいつもよりずっと早く床に就いたのだった。ヨシにキヨシとのことは話していない。別にお互い気持ちをはっきり打ち明けたわけでもなく、けれど会えれば何となく一緒に過ごすようになっていた。朝起きて障子の色で寝過ごしたと気づいた時にどんな気持ちだったかなどヨシが知るはずもなかった。
「でも毎朝来るわけだし。いいなー、最近のキヨちゃん、忙しいって全然かまってくれないの。」
「そうなんだ…って、あなたにはカズユキさんという人がいるじゃないの。」
ヨシは最近できたという恋人の存在などなかったことのように『キヨシの甘えん坊な妹』の部分をのぞかせた。
「それはそれ、これはこれっ。」
何がどう違うのか、幼馴染など持たないヒサには分からない。恋人ができたらもう少しカズユキの話ばかりになるのかと思っていたがそうでもない。ヨシのことを単純に天真爛漫なお嬢様とは思わないヒサだったが、最近よく分からないと思うことが増えていた。
(残念…か。)
キヨシのことを考えるとヒサはいくつものことが残念に思える。ヨシのように才色兼備でない自分。気軽にお互いの家を行き来できて『キヨちゃん』なんて気軽に呼べて、たくさん二人だけの思い出がある関係がうらやましかった。帰り道、ヒサは明日は絶対に自分しか知らないキヨシの姿が見たいと思っていた。
翌朝、空が白み始めた頃に目を覚ましたヒサは静かに二階にある部屋の雨戸をあけた。窓辺に腰掛け部屋の真下にある台所の勝手口まで来るはずの新聞配達人を待つ。朝の空気が全身にしみて思わずまだ温かい布団を引き寄せた。ふと、こんな寒い中働く人を興味本位に覗き見るなんて不謹慎な気がした。もし、気付かれて目が合ったときどんな顔をされるのだろう。真面目なキヨシに対して自分のしていることがひどく幼稚なことに思えてならない。とりあえず障子を閉めて足音だけ確認することにした。
「ヒサ―、降りてらっしゃい。朝食よー。」
どうやらそのまま窓辺で眠ってしまったらしい。気が付くといつものように母に起こされる時間になっていた。
「あれっ、新聞は?」
「何言ってるの、もうとっくにお父さんが読んでらっしゃるわ。それよりいい加減一人で起きなさい…」
毎度のことながら母は自分に起こさせるなと説教を始めた。今年の夏、母は階段の下からヒサを呼んだ。この時家じゅうの窓が開け放たれていることをすっかり忘れ、思いっきりおなかから声を出したらしい。その後で門の前をはき掃除していると、お向かいに一人で暮らす栗田のおばあ様から
「朝から元気ねえ。」
とニコニコ笑って言われたそうだ。
「…私の人生であんなに恥ずかしくて決まりの悪い思いをしたことはありません。全くもう、いい歳して親に起こさせるなんてみっともない。いい加減にお嫁に行く自覚というものをお持ちなさいっ。」
ここまで言わないと気が済まなくてかえって話が長くなることを知っているので黙ってうなずいてやり過ごす。
「はーい、はいはい。」
「はいは一回!」
適当に返事をすれば足元の弟に叱られた。毎朝の母娘のやりとりを完全に覚えられている。いつの間にか母に叱られてばかりのヒサは弟の中で敵と認識されてしまいしかめ面ばかりを向けられていた。こんなかわいげのない子供は好きじゃない。結果として姉弟仲はいつまでも深まらないままだった。
次の日も、その次の日も同じようなことが繰り返された。眠らないように本を読んでいても足音は聞こえなかった。
(おかしいな。)
時間を持て余した昼下がり、キヨシのいない階段に座り込んで考える。勝手口に新聞を置くには一つしかない門をくぐり、玉砂利の敷いてあるヒサの部屋の下を通って回り込むのが普通だ。昼間はそれなりに足音がするのでなじみの酒屋などがやってくると分かるのだ。
「おっと。どうしたんだよ、こんなところで。」
顔をあげると目の前に制服を着たキヨシが立っていた。
「今学校帰り?」
「ああ、今日は試験最終日。やーっと解放されたところだぜ。」
丈夫そうな歯を見せて笑った顔は昨夜は夜なべでもしたのだろう、心なしか顔色が悪く思えた。
「お疲れ様、それじゃあね。」
帰って早く休みたいかと思って腰を上げると「え、待って。」と引き留められた。
「えっ…?」
切羽詰まった引き留める声が思いがけないものだったのはきっとお互い様だろう。見つめられた声の主自身も驚いた顔をしていた。そして照れくさそうにこう言った。
「あ、いや、いつもはもう少し話すから…。」
「疲れてるかと思って。」
「平気平気。ちょっとだけ付き合えよ。」
寒いからと言ってヒサに自分のマフラーを巻いて誘う。さっきのぎこちなさが嘘のようにいつものさわやかな好青年に戻っていた。
「…するってーとこれはお前さんの実の父親の形見なわけか。って先生は言ったのよ。」
「あはは。」
森のはずれの使われなくなった水車小屋が二人のいつもの場所だった。ヒサが学校で世話になった恩師の『仔熊先生』はこの前ヒサたちの間でちょっとした事件を巻き起こした。よく知らないからもっと知りたいというキヨシにヒサは先生の口癖だった「するってーと…」を交えて説明した。先生の担当教科は国語だった。
「それでお父さんの歌集の内容を教えてもらったから恩師ってわけか。」
「そ、おかげで句会だけは楽しいの。」
芸事全般苦手なヒサだが、茶話会と称して茶の湯の師匠が趣味で催す句会だけは楽しむことができていた。
「なるほどね。これで少しわかった気がする。」
納得した様子でキヨシがうなずいた。
「何が?」
「言葉だよ。いろんな言い回しがあるのにヒサのはいつもきれいな気がする。」
「そうかな?」
特に意識しているわけではないので首を傾げた。
「うん。好きだな、俺は。…きれいだよ。」
「あ、そう。」
まっすぐ見つめてそんなことを言われれば誰だって勘違いしたくなる。褒められているのはそんなことじゃないはずなのに照れくさくなって返事はそっけなくなってしまった。
「寒い?もっと足そうか。」
小屋に残っていた薪ストーブにその辺の小枝を入れて暖をとっていた。ぱちぱちという小さく枝がはぜる音が心地よい。さっきのやり取りのせいで顔だけが熱かった。。
「顔赤いよ、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。えへへ…。」
「毎朝窓辺になんかいるから風邪ひくんだよ。ちゃんとあったかくして寝てろよ。」
はーいと答えて次の話題を探しているとふとあることに気が付いた。
「…なんで毎朝窓辺にいるって知ってるの?」
「え?」
最近のヒサが実は早起きなことはヨシしか知らない。それもヒサとの二人だけの秘密のはずだった。家で話したとしてもソース屋と一番近いヨシの妹のミツはしっかり者でめったな口はきかないはずだ。閉じられた障子の向こう側の人物が誰かなどとは家に上げたことのないキヨシが知るはずのないことだった。
「ヨシからうちの新聞屋さんはあなただって聞いてるのに庭を通る足音がしないの。どうして?」
「全くしないわけないと思うけど…、でも普通起こしたくないだろ、障子に揺れてる女の子の頭が映ってたらさ。」
「え?」
キヨシが黙って壁に映った影をコンコンとたたくの見て、今度はヒサが驚く番だった。
「障子に影って…うそ…。」
「ほんと。」
枝をくべ終わってキヨシは間隣に座って来た。おかしそうに顔を覗き込んでくる。
「あの時間に雨戸が空いてる部屋は下から目立つよ。明かりが点いてればなおさらだ。髪型からお母さんじゃないことはすぐにわかったよ。」
髪を長く垂らした髪型は主婦には邪魔だ。嫁入り前の娘とあたりをつけるのはそう難しいことではないだろう。まさか居眠りしている姿を一番見られたくない人物に見られていたと知って恥ずかしさに顔を覆った。いい歳して恥ずかしい…、母の言葉が身に染みる。もう決して歳不相応な真似はしないと心に誓った。
「どうせヨシの差し金だろう。こっそりのぞいて様子を教えろとか、違った?」
全くその通りな推測に顔を覆ったままただ黙ってうなずいた。
「そうだと思った。俺はちゃんと仕事してるからヨシにはそう言っときな。風邪でも引いたら大変だからもうあんな真似するんじゃないぞ。」
まるで小さな子供に言い聞かせるみたいに言われてせっかく二人きりでいい雰囲気だと思っていたのが台無しだ。すねた子供のように膝を抱えていると再び笑われて気分はますます落ち込んだ。