英雄と書きます。
「さっきあんみつ屋の方に向かってた。とりあえず行こうっ。」
もうすっかり気温が下がって肌寒い夕暮れ時、キヨシに誘われてヨシは最近動きが怪しいソース屋の次男、ヒデオの後を追っていた。これから何を見ることになるのか、それは見るべきものなのかヨシは不安だった。
「暗くなったら帰るからな。」
「きよちゃんが誘ったくせに。」
「だからだ。」
相変わらずの子ども扱いに頬を膨らませる。幼い頃からしっかり者だったキヨシはみんなの世話役だったが今のヨシは大人の女性として扱われたい年頃だった。前を歩くキヨシは背中しか見えない。
(でもこんな時はいつも手をつないでくれてたっけ。)
今は二人とも大人でヨシにはカズユキという恋人もいる。もう二度と手を引いてくれることなどないのだと初めて気づくと寂しさに胸が痛んだ。
「ねえ、ヒデちゃんはどうして隠し事なんかできるんだろう。」
歩きながらキヨシに尋ねた。ヨシはヒデオはヒデちゃん、ヒデカズのことはカズちゃんと呼んでいた。
「私だったら顔に書いてあるっていわれたりするけど…。」
「それがヨシのいいところだよ。」
「本当?」
「ま、好き同士でも言えないことはあるさ。」
「そーお?私かっちゃんに隠し事なんて何にもない。」
するとキヨシが驚いた顔でこちらを見た。
「かっちゃん?え、お前、カズユキと?」
そういえばカズユキとのことをキヨシにはまだ話していなかった。二人はたしか小学校の同級生だった。
「あ、話してなかったっけ。えへへ…。」
「えへへじゃないだろう…。」
あきれられても咎められる理由は分からない。
「じゃあなーに?」
見上げても答えを聞き出すことはできなかった。
二人が向かう道の先に突然ミツが現れた。待ってという声がして明らかに動転した様子のヒデオがミツの後を追って小路から飛び出してきた。再び反対側の路地に入ってしまった二人をキヨシとヨシは慌てて追った。
「まずいよキヨちゃん。私はミツから話を聞くからキヨちゃんはヒデちゃんの方を…」
二人が外で修羅場を迎える前にそれぞれが間に入ることを提案しようとした。ヒデオはただでさえ目立つ。別れるにしてもミツが噂の的にされるようなことはできるだけ避けたかった。急いで二人がいる路地に入ろうとしたヨシを後ろからキヨシが止めた。
「待った。」
「…!?」
手で口を押えられてヨシの心臓は跳ね上がった。そのまま体ごと引き寄せられて心拍数はますます上がる。
「来ないでよっ、この浮気者!」
やはりと思ったがミツはヒデオの所業を自分で突き止めていた。手に持った白い封筒はヨシがヒサに見せられたものと同じだった。
「あの女学校の女に聞いたんだからっ。この会ってほしいって書かれた紙を別の女に渡すように頼んでたんでしょう。」
「それは…そうだけど、」
「他に好きな人がいるくせによくも平気で私に会えたわね!この女たらし!悪魔!」
悪魔と聞いてどうやらミツもヨシと同じことを考えていることが分かった。
「違うよ、僕が好きなのは君だけだ。信じてよミツ…。」
なよなよとヒデオは今にも泣きそうだ。そんな姿も憎らしいほど色っぽい。積み上げられた木箱のかげでキヨシに抱えられたままヨシは黙って二人の会話を聞いていた。
「私がいなくても王子を慰めてくれる人はたくさんいるんでしょう。さようなら。」
ミツは冷たく言い放ってくるりと後ろを向いて行ってしまう。ヨシは帰ったらなんて声をかけたらいいのだろうか考えた。
「…仔熊先生辞めちゃんだ!」
「えっ」
口を押えられていなければヨシもミツと同じ反応をしたはずだ。仔熊先生とはヨシたちが通う学校で国語を教えている老教師のことだった。たしかキヨシが卒業した後に赴任して来てヒサは世話になったと言っていた。高齢ではあるがやめるなどとは聞いたことがなかった。
「先生病気で、もう今年度を最後にするんだって。たまたまうちのソースを届けに行ったときにその話を聞いてさ、でも年明けまではみんなに内緒にしてほしいって。だからこっそり有志の卒業生からカンパを募って記念品を贈ろうと思ってたんだよ。」
女学生に渡した手紙はカンパのことを説明するために会いたいというこものだったのだ。そういえばその老教師ははなぜか女生徒に人気だった。自然にヒデオと協力するのも女になる。結果的にヒデオが先生のためにしたことは周囲に誤解を振りまきヨシもミツも勘違いすることなったのだ。
「え、でもあの女はこれが証拠の恋文だって…。」
おそらくその女学生はヒデオに気があったのだろう。会いたいという内容のところだけ渡して二人の仲が壊れることを目論んだのだ。別れないにしてもぎくしゃくさせる効果は十分だったようだ。
「そんなわけないじゃないか。…君に愛想をつかさせれるくらいなら恩師のことも裏切ってしまう。僕はやっぱり駄目な男だけどそれでも…。」
一時は悪魔のように思っていたことが申し訳ないほどヒデオはミツに一途だった。
「…ずるいわ。そんなこと言われたら見捨てることできないじゃないの。」
顔を赤くしてそっぽを向くミツはきっともうヒデオを許している。
「ミツ聞いて。僕は君の王子でしかいたくはないんだ。誰が来ようと君のことしか見えていない。そんな僕は君の前ではかぐや姫さ。どうかその蜜色の輝きでとわに僕だけを照らしておくれ…。」
かげで聞いているこちらが赤面するセリフを吐いてヒデオはミツと仲直りを果たした。
「…あいつすごいな。」
二人が行ってしまうとキヨシはため息をついてつぶやいた。役者顔負けのセリフは誰にでも言えるものではない。ヨシも息をついてそばに置いてあった空き箱にへたり込む。ずっと中腰だったし短い間に刺激的なことが多すぎてへとへとだった。何にしてもキヨシが弟を褒めるなんて珍しい。面倒見はいいが年下のヨシや弟たちには何かと小言が多かった。
後日あんみつ屋でヨシに事件の話をされたヒサがもっと詳細を知りたがっても、二人とも恥ずかしがって決して答えることはなかった。