サラダにレーズン
「さすがですよ、おヨシさん。」
演奏が終わると師匠に褒められた。新しい課題曲を与えらえてから2か月でヨシはその曲をすっかり弾きこなせるようになっていた。終わって体の力を抜いてももう汗をぬぐう必要はない。夏場ははめた爪も汗で滑るので大変だった。今や季節はすっかり秋になっていた。
「短い期間でこれだけ弾けるようになるなら免許皆伝の日も近いですよ。おヒサさんも…これっ、何をボケっとしているんですか。」
師匠に叱られて明後日の方向を向いていたヒサが慌てて謝る。
(どうしたんだろう。)
もともと女らしい芸事があまり得意ではないとは本人も言っていたが、ここのところのヒサは特に集中できていない気がした。断り続けていた縁談がついにまとまりそうなのか、それともほかに悩み事ができたのか。聞き出そうと思いあんみつ屋に誘ってもほかに約束があるからと断られてしまった。家に帰っても妹のミツは最近付き合い始めたソース屋の次男ヒデオと出かけてしまっているし、キヨシを尋ねても家にいないことが多い。
(前はこんなんじゃなかったのに。)
今日も琴の稽古の帰りがけにソース屋をのぞいたが三男のヒデカズが幼い末っ子のマスミの相手をしているだけだった。このようなことが続くとヨシは空いた時間を琴や三味線の練習か、体が弱くて寝ていることが多い姉サチの話し相手をすることばかりに費やすようになった。腕が上がったと師匠に褒められてもどこか物足りない。妹のミツは読書家なので一人でも楽しめると言っていたが、ヨシはにぎやかな方が好きだった。なんとなく物悲しくなるこの季節がヨシは嫌いだった。
「ごめんくださーい。」
家の台所の勝手口から声が聞こえてヨシは琴を弾く手を止めた。日中は家とつながっている表通りに面した呉服屋の仕事で忙しい母に代わって家のことはヨシとミツが行っていた。料理人の父も朝早くから仕込みに行ってから夜のディナータイムが終わるまで帰らない。店が休みの日も仕入先の農家を回ったりと家にいることはほとんどなかった。それでもたまに時間を見つけて娘たちに料理を教えてくれることがあった。父に包丁の握り方から教わり三姉妹は料理が上手になった。中でもヨシは卵料理が得意だった。
「はーい、ただいま。」
台所へ行くと全身を白い制服に身を包んだ青年が籠を持って立っていた。昼間でも薄暗い台所に日を浴びた真っ白い布地がまぶしい。ヨシは目を細めて話しかけた。
「いつもありがとう、かっちゃん。」
父の弟子であるカズユキは、店のツテで父が手に入れた珍しい農産物や舶来物の食品をよく家まで運んでくれていた。こういう時父はそれらを使ってカズユキも一緒に洋食を教えてくれた。
「シェフは後で来るから先に野菜を洗って待つように、だってさ。井戸まで持っていけばいいかな。」
「うん。私も行く。」
ざるを手に取り、勝手口にいつも置いてある共用の下駄をつっかけて庭に降りた。井戸端で二人で並んで野菜を洗う。今日は葉物が多かった。静かな日曜日の午前11時。見上げると青い空に白い雲が浮いている。日差しを浴びた水滴が手元でキラキラと輝いた。
「今日は何だろうね。」
顔は下に向けたままカズユキに話しかけた。
「うーん、ロールキャベツ?でもこれはタマナにしては柔らかすぎるな…。パンがあれば卵とか挟んでサンドイッチになるけど…。」
自信なさそうに声がしりすぼみになって消えていく。真面目だが優柔不断で押しが弱いところのあるカズユキらしい。のっそりとしたクマのような大きな体をしている割に気が小さいところが面白い。人は見かけによらないものだとヨシはカズユキから学んだ。野菜をちぎる手はヨシの3倍は分厚いだろうなと思った。
「今日みっちゃんは?」
ヨシたち”呉服屋の3姉妹”は上からサチがさっちゃん、ヨシがよっちゃん、ミツがみっちゃんと呼ばれていた。
「またソース屋でしょ。」
「ああ、そっか。」
ソース屋の次男ヒデオはちょっとした男前として有名だった。小さい頃は喘息持ちだったため皆と一緒に遊びに行けず、色白で体は女のように細かった。最近急に背丈が伸びて男らしさが備わるとヒデオを一目見ようと隣町からも女学生がやってくるほどの評番になった。そんな様子だったのでミツからヒデオと恋仲であると明かされた時はひどいやっかみを受けるのではないかと心配したが、ふたを開けてみれば案外お似合いな二人として通っていた。
「お、始めてるな。」
父が庭に顔を出した。
「はい。もうすぐ洗い終わります。」
「しっかり頼むぜ。なにせ今日は生だからな。」
「生!?」
思わずあげた声が重なった。
日本人に生野菜を食べる習慣が根付くのはもっとずっと後のこと。ヨシが火を通さずに食べるのは漬物か水菓子くらいのものだった。
「洗ったタマヂシャはこれくらいにちぎって置いておく。」
父がみずみずしい薄緑色の葉を一口大にちぎって深めの大皿に入れた。その他にも水菜などの野菜が刻まれて入っている。二人も同じようにざるから葉をとると手元の茶碗にちぎって入れた。
「次にソースを作る。」
そう言って湯呑にオリーブ油と舶来物の酒の香りがする酢、それに塩、コショウを加えた。オリーブ油は高価だがどんな料理にも使えるうえに肌につけてもよいとされていたので三人娘のいる我が家の必需品となっていた。
「それで終わり?」
「いや、まだだ。これにマヨネーズを入れる。」
「マヨ…ネーズ?」
聞いたことのない食品は太いビンに詰められた整髪料のように見えた。どうやらカズユキは知っているらしい。何のためらいもなく湯呑に放り込まれたその白いなにかは独特なにおいがした。
「うん、うまい!」
味見をした父は満足そうだ。
「僕にも一口下さい。」
匙を向けられても用心深いヨシは遠慮した。
「さ、これで終わりだ。」
「え、これだけ?」
そういえば父は『生で』と言っていた。
「このソースを葉っぱにかけて食べるんだよ。サラダっていうんだ。おっと、大事なものを忘れるところだった。」
そう言ってカズユキが持ってきた籠の中を探る。小さな木箱に詰められた干しブドウをソースをかけた皿の上に散らした。
「さ、召し上がれ。」
透き通った薄緑色の菜っ葉の上にとろりとした白いソースがかかっている。その上の黒い無骨な干しブドウは見た目にも合っているようには思えなかった。カズユキが口にしたことを確認してからフォークを口に運んだ。
「!?」
酢の酸味が油のコクでまろやかになって、でも後味はくどくない。塩味と干しブドウの甘味が相まったあまじょっぱさを次々と味わいたくなる。全体的に洋酒の香りがして口の中に洒落た余韻が残った。
「うまいだろ。」
「うん。」
「はい。」
「…今日はよくかぶるね。」
今日、カズユキと言葉が重なるのは2回目だ。ミツがいなくて二人だからか、なんとなく距離が近くてくすぐったかった。
(だからなのかな。)
夜、鏡台に向かって髪をとかしながらミツに今日の出来事を話してヨシは思った。あの後父はすぐにどこかへ行ってしまいカズユキと二人で後片付けをした。恋人のいるミツがうらやましいと言うと皿を洗いながら振り向きもせずに好きだと言われた。恋人にどうかなと言われて素直にうんと答えた。
タマヂシャは外国の言葉でレタスというらしい。干しブドウはレーズン。マヨネーズを知っていたように食材に詳しいカズユキのことは尊敬できたし二人とも料理が好きだ。似合わないと思ったサラダのレーズンはおいしかった。ヨシは今まで自分とカズユキが付き合うなんて考えたこともなかったが、意外な組み合わせも案外うまくいくかもしれない。
「よっちゃん、ほんとに後悔しない?」
何度も聞いてくるミツにヨシは
「大丈夫大丈夫。」
と笑って答えた。