ソース屋の息子
午後2時。急がなければいつも家に来てくれる習字の先生を待たせてしまう。琴の稽古の帰り道、あんみつ屋でヨシと別れてからヒサは駆け足で家まで向かった。幼馴染のことを面白おかしく話すヨシといるとつい時間を忘れてしまい、帰りはこうして慌てることが多かった。
(お客さまかな。)
玄関の引き戸には曇りガラスがはまっていて中に人がいればぼんやりと影が映る。たいていは土地の他に長屋も貸している父に家賃を払いに来た人だった。そういう時ヒサは裏の勝手口から家に入るようにしていた。
(今日のお客はずいぶん若いな。)
勝手口から家に上がり込むと広い家でも玄関の声は筒抜けだ。父と話す男の声の若さに興味をひかれた。もしかすると年が近いかもしれない。仲の良かった同い年の友人は皆、女学校に通うかすでに結婚して遠くへ行ってしまっている。ヨシのような気楽に話せる友人が少ないヒサは自然に声の主のことが気になって聞き耳を立てた。
「…本当に申し訳ありませんっ。」
「まあ仕方がない。今日のところは帰ってくれ。また次の時はよろしく頼むよ。」
ガラガラと扉を開ける音が聞こえて帰る前に声の主はもう一度わびの言葉を言ってから去っていった。今まで家賃を払いに来た店子たちは年配者しか見たことがない。声の調子からしっかりした感じの男性は一体何をしでかしたのだろう。廊下に立っているところを母に見つかりヒサの思考はそのまま放置されることになった。
翌日母に買い物を頼まれた帰り道、街に一軒しかない映画館の前を通り過ぎようとしたときにヒサは自分の名前を耳にして立ち止まった。
「あ、やべえよヒサだ!」
映画館のわきにある階段に座っている本を持った青年を数人の子供たちが取り囲んでいる。声はその輪の方向から聞こえてきた。まるで自分が悪者のように感じる言い方は勘弁してほしい。
「また悪さしていないでしょうね。」
「してねーよ。な、キヨシ。」
キヨシと呼ばれた青年が本から顔を上げてうなずいた。きれいな二重瞼が印象的だった。
「それならよしっ。」
そのまま映画館の前を通り過ぎて家の方向に向かう。早く帰らなければ心配性の母の小言が長くなる。
「待って、…ヒサさん。」
しばらく歩いてから呼び止められた。振り向くと息を切らしたさっきの青年が後ろに立っていた。
「何でしょうか。」
「ハンカチ、落としましたよ。」
「…ああ、ありがとうございます。」
かごの中身に埃が付かないようにかぶせていたハンカチを落としていたようだ。気が付いてわざわざ追いかけて来てくれたことが分かって親切だと思った。
「あの、もしかして呉服屋のヨシを知っていますか。」
「はい…。」
思いがけずヨシの名前が出てきたことに驚きつつぶかしげに返事をした。町で美人と評判の『呉服屋の3姉妹』にはもちろん付き合いを申し込みたい男子が多いことは箱入り娘のヒサでも知っていた。彼はヒサを通してヨシを紹介してほしいのだとすぐに察しがついた。
「でも琴の師匠が同じなだけでロクなつながりはありませんよ。」
「え、おかしいな。聞いてた話と違うんだけど…。」
「誰に何を聞いたのか知りませんけど他をあたってください。おあいにく様っ。」
やはりと思ってハンカチを受け取ってすぐにその場を離れようとすると意外にもキヨシが嬉しそうに表情を明るくした。
「やっぱりヒサだ!あ、俺キヨシっていうんだ、ソース屋の。ヨシから俺たち兄弟の話聞いてるだろ?ヨシがいっつも稽古から帰るとお前の話をするから気になってたんだ。」
一気にしゃべってしまってから彼は「送っていくよ。」と当たり前のように言った。真夏の午後7時。だんだん暗くなるあたりの色が目に涼しかった。
「お使いか?夕飯はまだなんだな。」
「うん。暑いから最近は日が沈んでから。」
買い物かごには母に頼まれた食材が詰め込まれていた。
「持ってやるよ、それ。重いだろ。」
また当然のように手を差し伸べる。今まで縁談でヒサが会ってきたのは年上の男性ばかりだったので年が近いキヨシにそうされることは新鮮だった。確かヨシの話ではヒサより一つ年上だったはずだ。
「ありがとう。ヨシから聞いているって、どんな話を?」
琴の稽古ではへまばかりしている。どうせロクな話され方はしていないだろうなと思った。
「悪いヤツに絡まれてるところを歌舞伎役者みたいにかっこよく助けてくれたって言ってたよ。その後師匠の家の前で2人で赤ん坊みたいに大泣きしたってことも。俺、それ聞いてからどんな子なんだろうって思っててずっと会いたかったんだ。」
さっきの強気な態度から話に聞いていた人物だと特定されてしまったらしい。
「ああ、そんな前のこと…。」
それはヒサとヨシが仲良くなったきっかけの事件のことで、もうずっと前のことだった。ヒサが師匠の家から出ると通りの反対側でヨシが困り顔で制服を着た男子学生と話し込んでいるのが見えた。その時は特に親しい間柄ではなかったのでそのまま行ってしまおうとしたとき、ヨシに呼び止められた。
「あ、ヒサちゃん待って。」
振り向くと学生の向こう側からヨシがこちらへ来ようとしていた。その腕を学生が乱暴につかんだ。
「いやっ、離して。」
「やめなさいよ。」
すくんで動けないヨシの前にかばうように立った。よく見ると何度かこのあたりで見たことがある顔だった。そばに立つと背の高さが怖い。壁際に追い詰められてひるんだ気持ちを奮い立たせて学生をにらんだ。
「邪魔するな。まだ話の途中だ。」
「嫌がられてるのが見てわかるでしょう。しつこい男はモテないわよ。」
「生意気言うなっ。」
ヨシにしつこく付きまとうくせに明らかに女を見下した発言に腹が立った。負けじとあごをあげてこう言った。
「生意気でけっこう。でもここで私が騒いだら師匠が飛んでくるわよ。その手のことをなんて説明するのかしら。」
ぐっと言葉に詰まった学生は悔しそうに足音を荒くして二人の前から去っていった。
「あ、ありがとうヒサちゃん…。」
お互い名前こそ知っていたがまともな会話はこれが初めてだった。
「人気者も大変なんだね。」
明るく笑って終わらせようとしたが顔が引きつって思うように笑えなかった。自覚すると急に怖くなって足が震えた。
「こわかったよう…。」
目の前でヨシに泣かれて我慢が限界に達した。二人で抱き合って号泣していると師匠が出てきて家でお茶を飲ませてくれた。話を聞いた師匠が知り合いのツテで巡査にこのあたりの巡回を強化するように取り計らってくれ、おかげでヨシに変なムシが付くことはその後なくなったのである。次の稽古の日、お礼としてヨシがあんみつをおごってくれた。それからあんみつ屋『アプリコット』が意気投合した二人の憩いの場となったのである。
「ヨシは俺にとって小さいころからずっと面倒見てきた妹みたいな奴なんだ。だから俺からも礼を言う。ありがとな。」
「…どういたしまして。」
感謝の言葉はしっくりこない。ヒサは勢いに任せて行動しただけだった。
「ソース屋のキヨシね。それに弟のヒデオにヒデカズ、一番下がマスミちゃん…だったっけ。」
アプリコットで毎度のように話を聞かされていればさすがに覚えてしまう。しっかり者の長男キヨシ、容姿端麗でロマンチスト、ヨシの妹のミツと両想いの次男ヒデオ、やんちゃ坊主の三男ヒデカズが巻き起こす日々の出来事は聞いていて飽きないものだった。
「正解。さっきの映画館の裏に父さんと5人暮らし。よくあそこにいるからまた会うかもな。」
「面倒見いいのね。」
悪ガキたちもキヨシのそばではおとなしかった。
「みんな親が商売で忙しかったり病気で死んじゃったりなんだ。俺も小さいときに母さんがいなくて寂しいときもあったからできるだけ相手してやってるんだ。」
「えらいなあ。」
ヒサの父親も病気が原因で亡くなったと聞いている。この時代、まだ医療はそこまでは普及しておらず医者にかかれなかったり薬を買えなかったりして命を落とすものも多かった。暗くなった通りにはいつの間にか人がまばらになっていた。
「今日は母さんの命日なんだ。」
ぽつりとキヨシが言った。
「もう顔もよく覚えてないんだけどさ。うちは貧乏だけど今日だけは母さんの好物だったウナギをみんなで食べるんだ。」
「いい家族なんだね。」
「ああ。」
家族が笑顔で食卓を囲む姿が想像できた。最近は茶の間が居心地悪くて食事の時以外は部屋に引きこもっているヒサとは大違いだ。ヒサと違ってキヨシはきっとまだ幼いという妹の面倒もよく見ているのだろう。ヒサの弟の世話は母が全てしていた。
おーいと遠くから子供の呼ぶ声がしてキヨシが立ち止まった。小学生くらいの男の子が走ってくる。
「ヒデカズじゃないか、何してるんだ。」
「兄ちゃんこそ何してるんだよっ。もうみんな食べ始めちゃってるよ。」
小さいながらにいっちょ前に口をとがらせる姿がかわいらしかった。
「家はもうすぐそこだから大丈夫。ハンカチ、ありがとう。」
「え、でも…。」
心配そうなキヨシに家族を待たせちゃいけないと言ってから家の前につづく小道に入った。話をしながらなんとなくのんびりと歩いてしまった。彼が歩調を合わせてくれていたことに今更気が付いた。きっと台所で母が気をもみながら待っている。ヒサも急ぎ足で近くなった家に向かった。