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契約の後に

少女と悪魔と魔法の呪文

作者: 笛吹葉月

 青年が上着を押し付けてきたのは故郷を発ってすぐのことだ。襤褸をまとったようなタニアの格好を隠すためである。長身を包む軍服が顕となるが、戦の続く国内では兵士の姿は珍しいものでもない――それが素人目にも上等な布地で、常に不機嫌そうな顔が他者を魅了する美しい造形であることを除けば。

 身寄りのない少女が古の法で喚び出したのは、化物からはほど遠いひとりの青年だった。だが決してヒトではない。青鈍の髪は光の具合で様々に色を変え、金眼は爬虫類の獰猛さを示す。

 彼の名はアーレイン……と、呼べと言われている。タニアの願いを叶えてくれる本物の悪魔だ。

「そもそも貴様、遠出をしたことはあるのか」

 本来は縦長のはずの瞳孔は人間と似た形に変化させていた。魔法なのだそうだ。

「たぶんその、あんまり……」

 本を読んで……空想なら数え切れないほどしたものの。実際には故郷を出ること自体が初めてだ。回答に舌打ちが返り、ますますタニアは萎縮した。

「心得も何も? 面倒な……」

「ごっごめんなさい。……あの、今日はここに泊まるの?」

「『主人』を野垂れ死にさせる悪魔がいるか」

 大きな外套を引きずりながら、近場の町に着いたのは薄暮の頃合い。戦場から遠い田舎の空気はのんびりとしたものだ。大した見所もなさそうだが、国境に向かう道沿いならとりあえず宿場町としての機能はあるだろう。

「あれは何?」

 ちらほらと店の軒先に鳥を模した飾り看板が見える。指差し尋ねると、悪魔は嫌そうな顔をしながらも教えてくれる。

「旅人を歓迎する証だ。余所者を嫌う店も少なくない」

「どうして鳥なの?」

「渡り鳥を知らないのか」

 勝手に納得していると彼はさっさと今夜の宿を決めたらしい。他より立派な店構えに入ろうとするのを、慌てて服の裾をつかみ留める。

「や、安いところで大丈夫……!」

「妙なことを。……まあ、貴様が望むなら従うが」

 願いを聞いてくれるからといって贅沢を言うつもりはない。というより、ずっと故郷に閉じこもっていた身ではあれこれとすぐに思い付くことなどないのだが。目に耳に鼻に飛び込んでくる情報ですでに破裂してしまいそうだ。

 同じように鳥の看板を掲げている適当な宿屋を見繕って入ると、壮年の男性がにこやかな笑みを向けてくる。ここの主人だろう。

「長旅ご苦労さまです。何部屋ご利用でしょう?」

「一室でいい」

 ずかずかと近寄り迷いなく言い切る。そんな年若く身なりの綺麗な男に気を取られたのも束の間、主人はタニア達を胡乱な目付きで見比べた。不躾な視線に思わず俯く。夫婦にも親子にも、兄妹にさえ見えないのはわかっている。また舌打ちが響く。

「空きがあるのか無いのかどっちだ」

「し、失礼しました、二階へどうぞ!」

 何の役にも立たなさそうな非力な少女を伴えば、主人と奴隷にでも見られたに違いなかった。青年の傲岸な態度も相まって、本来の主従が逆だとは誰も思うまい。

 部屋に着くやアーレインは唯一の寝台を顎で示した。

「使え。俺は寝る必要がない」

 小屋のようだったタニアの粗末な家とは全然違う。狭くても調度品はどれも壊れていないし、毛布に繕いの跡もないことに戸惑う。

 ところで……今夜、もしかして、共に過ごすのだろうか? 少女は些か世間知らずだが恥じらいを知らないわけではない。どぎまぎしながら青年と寝台とを交互に見ていると……腹の虫が鳴いた。

「今度は飢えか……」

 大きなため息。青年は踵を返して部屋の入口へ。ぼんやりと突っ立っているタニアを振り返り。

「何してる。食事に行くぞ」

「は、はい!」

 頬の火照りを感じながら急いで背を追う。並び、見上げた片耳には銀色の羽根飾りが揺れている。

「店で食事したことは」

「ある、けど……とっても昔」

 返してから、悪魔に対して昔だなんて言葉を使ったことを少し後悔した。たかだか数年、彼にとっては瞬きの間にも満たないだろう。

 食事処や酒場が並ぶ一画は、暗い中にあって一層華やかだ。まぶしい灯りや張り切る客引き、外にまで響いてくる笑い声には時折わっと歓声が混じる。タニアが夢のような光景に立ち尽くす暇もなくアーレインは食堂に入っていく。

 店内には丸テーブルが幾つか。客はそれなりに入っているが、どの席にも団体は見えず静かなものだ。内装や客の雰囲気から、あまり敷居の高い店でないと判断し胸をなで下ろす。

「いらっしゃいませ」

 向かい合って腰かけたところで店員が水を運んでくる。探るような視線を向けられなかったことにほんのわずか緊張をゆるめた。アーレインは置かれた品書きをタニアの方へとぞんざいに差し出す。

 字は……読める。だが、どれもこれも聞いたことのない料理名ばかり。怖さはない、むしろ食べてみたいものが多すぎて。ここを逃してもまた出会う機会はあるだろうか?

「まったく……寄越せ」

 一向に決めきれないタニアを見かね、青年はその手から品書きをするりと抜き取った。かと思うとすぐさま店員を呼びつける。

「貴様、酒は?」

 一瞬向いた視線にぶんぶんと首を振る。年齢的に無理だ。

 二言、三言。店員に何事か言いつけさっさと品書きも返してしまう。残念に思ったが、ここでわがままを言って彼の機嫌を損ねるわけにもいかない。

 程無くしてまず運ばれたのは一杯の葡萄酒。悪魔は自らの目の前にだけ置かれたそれを喉を鳴らして一口。その様を見つめているとずいとグラスを差し出された。

「でも……」

「規律を破る輩は嫌いだが。どうせ死ぬのに今さらヒトの法を気にして何になる」

 せせら笑う。彼の言う通りかもしれない。タニアは契約の『対価』に自分の命を約束しているから。

 人生で初めての酒だ。緊張しながら思いきって赤黒い液体を舐めてみる――渋い!

「ケホッ……こ、これが? おいしいの?」

「味などどうだっていい」

 堪らず咳きこむと悪魔はグラスを奪うように取り戻し、一気に煽って空にしてしまった。

 彼の表情は全く変わらないというのに、タニアの体の中では鼓動の音が大きくなって熱くなって、変な感覚だ。これが酔っ払うということなのだろうか? おもしろい体験ができたと何だか気分が高揚してくる。たとえ緊張を強いる怜悧を前にしていても。

 やがて店員が運んできたのは、大きな肉のソテーにバターで煮た野菜を添えた一皿。それから籠にのった色々なパン、小皿には豆やチーズ。決して豪華すぎる食事というわけではない。だがタニアは一度にこれだけの品数が並ぶのを見たことがなかった。

 湯気立ち上るテーブルを凝視し固まってしまう。ごくりと唾を呑みこみ、それから目の前の男を困惑しながら見る。彼は何の感慨もなさそうに自分の皿に手をつけようとしていたが、視線に気付いて動きを止めた。視線と……少女が動かない理由にも。

「……使えないのか」

「フォークは使ったことあるわ」

「当たり前だ、蛮族であるまいし」

 早口で誇れば嘆息。うんざりした様子を隠そうともせず、カトラリーを持つ両手をタニアに見えるように示す。

「ナイフを……違う、逆だ。指を……そう。で、フォークで押さえて切る……ソースを溢すな。きちんと刺せ」

「えっと、ごめんなさい、こんな」

「知らないなら仕方がないだろう」

 どうにか苦心して作り出した肉の切れ端。窺うように見せると興味もなさそうに。

「早く食べろ。冷めるぞ」

 素っ気ない返事に意を決して口へと運ぶ……

「……おいしい!」

 頬が落ちるという比喩は大袈裟だと思っていた。石のようにかたい小麦の塊や、薄い塩水のようなスープとは比べ物にならない。頬どころか全身が蕩けてしまったらどうしようか。世の中にはこんなにも複雑な味が存在することに驚く。

「泣くほどか?」

 感動に涙を滲ませていると彼はまた呆れたようだった。返事をするのももどかしく、次の一切れを作ろうと手を動かす。が、どうにもうまくいかない。苦戦していると長い腕が伸びてきた。

「……貸してみろ」

 殴られるかと身を固くしたが予想はまるきり外れたらしい。アーレインはタニアの皿を引き寄せ、あっという間に全てを食べやすい大きさに切り分けてくれる。

「すごく上手……」

「貴様が下手くそなだけだ」

 鼻を鳴らし突っ返してくるが。どさくさ紛れに葡萄酒の追加を頼んだ彼は、たぶん、思ったより怖い悪魔ではない。

「俺はヒトと長く過ごしたことなどない」

 無駄な音もたてず背筋をしゃんと伸ばしたまま食事を摂る。まるで無感情なところは料理人泣かせかもしれないが、粗暴な言葉と裏腹に所作は一級品だった。

「食事も睡眠も……性交も。悪魔は必要としない。腹が減った、調子がおかしい、暑い寒い休みたい……全て言え。馬鹿げた理由で死なせるわけにいかないからな」

 でなければ理解できないのだと。その割にやけに手慣れていると疑問に思えば、見透かしたように色のない瞳が再び少女を捉えた。

「欲がなくとも食うことはできる。望まれれば何だって為そう。眠ることも、褥を共にすることもな」

 つい最近に口付けられたことを思い出しタニアは赤面する。情愛も何もあったものではない、ただ彼が血を得るための行為だった。それはそうだろう、悪魔にとってはみすぼらしい少女など取るに足りない存在だ。

 だが……なかなかどうしてこの悪魔は誠実だった。『共に旅をしたい』などと、適当に誤魔化してすぐ命を奪ってしまえばいいような願いを、こうしてタニアの身を慮りながら果たそうとしているのだから。

「……あのね? その……ありがとう。わたしを連れ出してくれて」

「自分を殺す相手に礼を言うか」

「あのままひとりぼっちでも死ぬのは変わらなかったもの」

 だから少しの間だけでも誰かと体験を共有できることが嬉しかった。相手が悪魔だろうとも。

「余計な情など持つな。貴様は俺を道具と思えばいい」

 それは……きっと難しい。力の有無ではない。彼は常にさりげなく目を配り、たとえば足場が悪い場所では手を引いてくれた。いくら孤独といえど、優しさを無碍にできるほどタニアの心は死んではいない。

「……一つ教えておいてやる」

 首を振ると殊更に不機嫌そうに白皙が歪む。何を言われるかと体を強張らせていると。

「『この店の一番人気を』」

「え?」

「それらしく振る舞うための呪文だ。……これだけ覚えておけ」

 タニアは呆気に取られ……次の瞬間には小さく噴き出した。なるほど、躊躇いがなかったのはそのためか。

 そういえばずいぶんと久し振りに笑った気がする。あまりにしかめ面で言うから、つい。

「うん……次からは、上手にやるわ」

 先の一口よりも塩辛い肉を噛み締める。彼と過ごすことのできる日々は恐らく短い。それでも……ほんのりと胸の奥に灯ったあたたかさを、生きている間に知ることができて良かったとタニアは心から思うのだ。

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