未だにわからない。
それは私がまだ二十代の頃だったから、もうずいぶんと昔のことになる。
私はその頃、食品関係の仕事に就いていたのもあり、髪をこまめにカットしていた。
長く伸ばしてきっちりまとめるか、あるいは思い切って短めにしてしまうか、二つに一つの選択しか事実上、ない仕事だった。
私は『思い切って短め』のヘアスタイルを選択していた。
『思い切って短め』にすれば、月一ペースできちんとカット、で、そうみっともないことにはならない。
洗うのも乾かすのも早い。
ズボラだとか女としてオワッテルとか思わなくもないが、毎日の髪の手入れに時間なんか取られたくなかった。
ハッキリ言う、面倒くさい。
はいスミマセン、そういうことです。
話を戻そう。
つまり、当時の私はサービス業従事者だったので、職業柄休みは不規則にしか取れない。
私が休めた日、たまたま行きつけの美容室も定休日で、けれどもう一週間以上待つには髪が伸びすぎていた。
すでにまとまりが悪くなってきている。
ズボラはズボラでも女の子(当時)、これ以上放っておくのはさすがにみっともないのでいやだった。
他の日に行こうにも、その週はそれなりに予定も詰まっていた。
私は仕方なく、行きつけではない、駅前に新しく出来たオシャレっぽい美容室へ行ってみることにした。
通りすがりにチラっと見る限り、洒落た雰囲気のお店だった。
少なくも、センスのないおばさん美容師にぱっつんと切られて涙目、になることもあるまいと思った。
その予想は概ね間違っていなかった。
少なくとも、カットに関しては絶句するほどひどい出来ではなかった。
ひどい出来ではなかった、が……。
その日。
私は店の扉をくぐった。分厚いガラスの押戸だ。
飛び込みだったから、駄目ならあきらめようとは思っていた。
覗き込む。
店のインテリアはヨーロピアンテイストのウッディ調。
ドライフラワーなんかを壁のところどころに飾っているし、ルームフレグランスなのだろうか、ほんのり何か薫っている。
外から見たのと同じテイストのオシャレな店内だ。
入り口は狭いが、それなりに奥行きがあった。
照明は暖色系の色合いで、店内は、薄暗くはないけれど隈なく明るい訳でもない。
しかしお客さんは誰もいないし、そもそも店の人もいない。
だけど営業はしているようで、低く音楽が流れている。
声をかけると返事があり、ややあって、奥から三十代くらいの細身の女性が出てきた。
金に近いような明るい茶に髪を染め、耳が出るくらい短くしている。
少しブラウンがかかったレンズの、シャープなデザインの眼鏡が印象的だ。この店の店長さんらしい。
「いらっしゃいませ」
にこにこ、にこにこ。
鮮やかなルージュに彩られた唇が弧を描く。愛想は悪くなさそうだ。
今からカットをお願いできるかと訊いてみると、どうぞ、とのこと。私は安心して勧められた椅子に座った。
女性週刊誌やファッション雑誌、旅行雑誌などが傍らに置かれた。
今日はどうなさいますかと訊かれたので、全体に少し軽くしてくれと頼み、私は雑誌へ手を伸ばした。
私は基本、美容院で店員さんとおしゃべりをしない。
必要なことを言うと、あとは先方で出してくれる雑誌の類いを黙々と読む。
あるいは、読んでいるふりをする。
よほど長い付き合いの美容師さん相手でなければ、私は美容院でおしゃべりをすることはまずない。
もっとはっきり言うと、美容師さんはおしゃべりでのサービスより、技術面でのサービスを追求してくれと思っている。
客との楽しいおしゃべりを模索するより、キビキビさっさと手を動かしてくれと思っている。
美容師さんにとって私は、ある意味気楽だがある意味気難しい客、だろうなという自覚はある。
でもそこはプロだから、客、つまり私のニーズを読んで仕事をしてほしいと思っている。
ちょっとわがままな客かもしれない。
だからその時も私は、言うだけ言うと後は雑誌を読んでいた。
彼女はさっさと手を動かす。特に問題のない感じで髪に鋏が入る。
半分くらいカットが進んだ段階で、奥から電話の呼び出し音が響いてきた。彼女は手を止め、何も言わずにその場を離れた。
軽い違和感があったが(ちょっと失礼します、くらい言わないのか?とぼんやり思った)、うっかりすることもあるだろうと思い直し、雑誌に目を落としたまま待った。
……遅い。
電話の応対に手間取っているにしては、遅い。
時間にすれば10分もかかってなかったかもしれないが、ナイロン製のケープで全身を包まれた状態で椅子に座らされ、一部クリップで止めた状態の頭のまま放置されての10分は長い。
ようやく戻ってきたが、彼女は、お待たせしましたも言わずに仕事を再開した。
さすがに違和感がある。私は雑誌から目を上げ、正面の鏡を見た。
ケープをまとって頭をいじられている自分。鋏を動かす彼女。そこは普通だ。
だが軽やかに鋏を動かす彼女は、異常ににこやかだった。それも
『ほほ笑んでいる』『笑みを含んでいる』
というレベルではない。
見ようによれば、満面の笑みに近い。
それも楽しそうな……というより、必死で思い出し笑いをこらえているような、笑みというより歪み、が頬にある。
髪に鋏が入る。
確認するように彼女は鏡を見る。
鋏が入る。確認。
流れそのものは普通だが、彼女の表情は普通とは言い難かった。
にこやかとは表現しにくい、あざけり笑い一歩手前のような頬の歪み。
それも、瞬間的にそんな表情だったのではない。少なくとも私が鏡をきちんと見て以来、彼女はずっと笑っていた。
いや『嗤っていた』が正しいのかもしれない。
「あの」
私は思わず声を出した。
「……何が可笑しいんですか?」
ああいえ、などと彼女はもごもご言ったが、頬の歪みは変わらなかった。
失礼しました、の一言すらない。
カットそのものに強い不満はなかったが、行きつけの美容院の担当美容師氏の方が上手だな、と私は思った。
それに、彼は得体のしれない気持ちの悪い笑みを、ずっと浮かべてカットしたりはしない。
余計なことは言わないが、必要なことはちゃんと言う人でもある。
というか、彼は客商売のごく基本的なマナーをちゃんとわきまえている人なのだな、と、私は改めて思った。
おまけに、行きつけの美容院より千円ほど料金が高かった。
ちょっとむっとしたが、非常識に高いとまで言えないので、黙って支払った。
またお願いしますー、と彼女にお愛想を言われたが、心の中で
(二度と来るか、こんなあやしい店!)
と、私は叫んでいた。
もちろん、二度とその店へ行かなかった。
今まで何軒も、いろいろな美容院へ行った経験があるが、こんなヘンな雰囲気のあやしい店はここだけだ。
二度と行きたい店ではないが、こんな(変な感じに)印象深い店に今後、出会うこともないだろう。
当然かもしれないが、そのあやしい店はいつの間にかつぶれていたようだ。
違う店名・違うテイストの美容院に、気付くと変わっていた。
あの店の店長らしい彼女は、一体あの時、何がそんなに可笑しかったのだろう?
接客におけるイロハのイすら知らない雰囲気だったのは、何故だろう?
お金持ちの奥さんとかお嬢さんとかが、資格だけ取って道楽で店を開いたのだろうか?
それにしては、腕は意外とまともだったような……。
何年かに一度くらい、ふっと思い出す。
思い出し、考えても仕方がないが、理由をつい考えてしまう。
当然、未だにわからないし……永遠にわからないまま、だろう。