2. 彼が世界を救った日
窓外の異変に、最初に気づいたのは誰だったか。
「……ねえ、あれ見て!」
王都にある魔術学校の教室に、ざわめきが広がった。
私ことエルフィア・グレイスも、周囲に倣って視線を窓へ向ける。
そこにあるのは、数年前に魔王が大地に眷属を放った日から変わらない、紅い空と黒い月。
ようやく見慣れたその光景に、けれど今日はどこか違和感がある。
記憶と比較して原因を探っていると、隣席の女子生徒が不意に口を開いた。
「なんだか、月が大きくない?」
言われてみれば、確かに普段より大きい気がした。
数十秒目を凝らせば、その間にも輪郭が僅かに変化する。
つまりそれは急速に地上に近づいている、ということなのだけれど。
突然のことに現実味は全くなかった。
「うそ……」
「おい、逃げるぞ」
後方の席で椅子が蹴倒されて、一拍置いて足音と悲鳴が入り乱れる。
途中だった授業は当然のように打ち切られた。
意識の端で現状を認識しながら、私は思考を巡らせる。
魔王が作った偽物の月が本物と同じ大きさだとして、博識な幼馴染は確か直径三千キロ程度と言っていた。
脳内で、月を三十センチ程度の火球に置き換える。
一般的な火属性の初級攻撃魔術だ。実践では追尾能力を持たせることも多いが、それは一旦置いておく。
円の中心が振れないので、照準は確実に王都だ。
接近する火球の速度を視認状況から割り出す場合、計算式は……とそこまで考えて意味がないので止めた。
目測にして残り時間は数十分程度だろう。
私は窓の向こう側、校庭の人混みをぼんやり見下ろした。
この状況では、王都の門も似たような状態なのは想像に難くない。
というか、直撃すれば国の半分弱が吹き飛ぶのだから、今更逃げても仕方ないだろう。
旧時代の遺物のような転移装置もあるけれど、この状況で使えるのは王族や一部の貴族くらいだ。
私は椅子に座ったまま瞳を閉ざす。
瞼裏に浮かぶのは、半年程前にこの国の勇者と共に旅立った誰より大切な彼の姿。
夜空のような少し長めの黒髪に、穏やかな藍色の瞳。
物静かな雰囲気だけれど、実は意外と芯が強いことは、短くない付き合いで知っている。
『行ってくるね、エル。どうか、気を付けて』
『……それ、私の台詞なんだけどな』
別れ際、彼は昔のように私の頭を撫でた。
年の離れた幼馴染の私は、彼にとっては妹のような存在なのだろう。
最初に会った時から、どれだけ月日を経ても変わらない。
曖昧な想いに名前を付けないまま、ただ同じ日々を過ごせればそれで良かった。
だから、そのためにも。
『絶対、帰ってきて。ユーリ』
彼は不明瞭に微笑んで、小さく頷いた。
そこまで思い返して、私は目を開けて溜息を零す。
これが本当に最後ならば、全て伝えておけばよかった。
徐々に大きくなる月を視界の端に捉えながら、私は自分の鞄に手を伸ばす。
持ち手に結んでいた紐を外して、指に絡めた。
彼の瞳と同じ藍色のそれは、以前彼に渡したものとお揃いだ。
確か、買い物途中に寄った装飾具屋で、伸びてきた髪をそのままにしている彼の姿を思い出して。
つい手に取ってしまって、気付けば同じものを二本買っていた。
片方は理由を付けて彼に渡したけれど、もう一方は半年前まで引出しの奥に眠っていた。
この経緯と顛末は、多分私しか知らない。
そういえば、彼は今どこにいるのだろうか。
手紙のやり取りは細々と続いているけれど、彼の居場所は分からない。
きっと手紙を運ぶ白い小鳥は知っているのだろうけど、魔術で作り出したそれと意思疎通する手段はない。
ふと、先週届いた最後の手紙を思い出す。
実物は学生寮の机の引出しの中にあるけれど、一言一句覚えるまで読んでしまった。
彼はいつも、自分の近況は語らない。
私を心配する言葉が並ぶ中、最後にいつもと違うこと記されていた。
『もうすぐ世界は平和になるよ』
――じゃあ、あなたは?
彼は昔から、まるで未来を見通すような事を言う。
どこか他人事なその言葉が、どうしようもなく不安だった。
私を家族のように思っているのなら、帰りの約束をする言葉くらいあって良かった。
そうすれば、たとえ場限りの嘘でも信じていられたのに。
魔王の元へ勇者を送り出しているのは、この国だけではない。
数ヶ月に一度、勇者やその仲間の訃報を聞くたび、私は生きた心地がしない。
大半は質より数で攻めている隣国への報せで、薄情な私は安堵する。
人間が強大な力に勝利することなんて、普通に考えて不可能だ。
それに、もし万に一つの可能性が現実になったとして、英雄譚に犠牲はつきものだろう。
想像は嫌な方にばかり転がっていく。
“死”といって思い出すのは、幼い頃の記憶。
両親を亡くして遠縁の彼の家に引き取られた私は、最初全く状況を理解していなかった。
両親が遠くへ行ったと聞いて単純に仕事で別の街に行ったことだと思っていたし、悪いことをするとお母さんが困ってしまうよと言われていたのも理由の一つかもしれない。
ようやく理解したのは数年後で、私は王都に来て初めて泣いた。
悲しいのか悔しいのか辛いのか自分でも分からない中で、彼はずっと手を繋いでくれていた。
支離滅裂な私の言葉に相槌を打ちながら、困ったような笑顔を浮かべていた彼を未だに覚えている。
少し悩む素振りを見せて、彼は魔術で作った小さな青い花と小鳥を差し出した。
花は枯れてしまったし、小鳥も空に消えてしまったけれど。
全て思い出の中に大切に仕舞ってある。
窓の外、巨大な月を見ながら、私は祈るように手中の紐を握った。
両親も、友人も、私の居場所も――世界は大切なものばかり奪っていく。
けれど願うことだけは、私の自由だ。
せめて彼が居るのが、この国でなければいい。
「……大好き、ユーリ」
どうか、幸せに。
ずっと遠い未来に、もし再び出会えたら、素敵な思い出を語ってくれればいい。
ここから離れた遠い場所でも、私は先に居る両親と共に、変わらず彼を待ち続けるのだろう。
月が地上に落ちるまでの残り時間は、永遠よりも長く感じた。
「……あれ、見て」
聞こえた声に、私は目を開く。
周囲に倣って視線を窓へと向ければ、その言葉が示す事柄はすぐ分かった。
紅い空に光が差し込み、徐々に空が晴れていく。
地上から遥か遠くにある月は、徐々にその色を黒から白に変えた。
その様子を、私は呆然と見る。
平和の訪れを喜ぶべきなのに、どうしようもなく心が痛かった。
「なんで教室、こんなに人が少ないの? 授業中だよね」
室内の騒めきに紛れて私の前に来た、寮の同室者である友人が口を開いた。
勇者様が魔王討伐を成し遂げたのかな、どこの国の勇者様だろう。
聞こえてくる言葉を、脳内で上手く処理できない。
魔王が消えれば、その眷属の力も大きく削がれる。
この先にあるのは魔王の眷属――魔族や魔物に脅かされない、穏やかな世界だ。
「ちょ、エルフィア、あんたどうしたの!?」
「……分から、ない。なんだろ……」
ぎょっとしたような友人の声に、私は首を横に振った。
瞳から涙が零れ落ちる。瞬きを繰り返すが、自分の意志では止められそうもなかった。
胸一杯に広がる、どうしようもない喪失感。
まるで心の中に先程まで空に浮かんでいた、黒い月のような穴が開いている気分だ。
涙を拭こうと片手を持ち上げて、私は先程から握っていた紐に気づく。
数年前に偶然通りかかった装飾具屋で、なぜか気に入って買ったものだ。
彩やかだと思っていた藍色も、今は不思議と色褪せて見える。
違和感の理由を知る術は、もうどこにも残されていなかった。
その日、彼は世界を救った。
――記憶と想いを道連れにして。