プロローグⅤ
あてなどない。
大義もない。
彼女のためには……決してならない。
だから、自分のため。
自分のためだけに、彼はその問いかけを彼女に投げる。
「ここから出たくないか。もしそうだったら、俺が連れていく」
生まれてからずっと苦しんできた。
その病と、力と、血筋が連なった呪いは、彼女を外界から遮断していた。
姉を含んだほんの僅かな知り合い達、そこから聞き知る話だけを胸に刻み、その命の灯は消える運命となっていた。
自分だって彼女が知らぬままで、姉やわずかな知り合いである大人たちが話す「外の世界」に、どれだけ美しいものがあるかなんて分からない。
それでも彼女は、見知らぬ外界を愛していた。
その愛を言葉にしたのが、あの歌だった。
それはもしかしたら知らないままでいたほうが良いのかもしれなかったけど。
奇跡が起きてほしいと、彼は願った。
「外の世界」に触れることで、何かが彼女の体に起きることを。
運命を変える奇跡が舞い降りることを。
彼女は彼の言葉を、目を丸くして聞いていた。
昨日、涙を晴らした瞳に真っ直ぐに見据えられ、気恥ずかしくなる。
自身の傲慢さに呆れる、情けなくなる。
どんな言葉を取り繕おうと、今から行うことは自分のためだということに気づく。
「彼女が世界を知りたがっているから」という理由ではなく
「彼女が世界を知りたがっていて、それを知らぬままでいることに自分が我慢できない」という理由で、自分は彼女を連れだそうとしている。
美しかろうと何だろうと、外界には彼女にとって毒になりうる要素しかないのに。
否、自分がまさしく彼女にとっての毒になろうとしているのに。
それでも。
彼女は顔を下に向けて、その手で慶太の手を握る。握る、というにはあまりにか弱く、精々が「摘まむ」といった力しか加えられておらず、さらに言えば、それが今の彼女の本当に限界の力だった。
走るなんてもってのほかで、歩くことだって困難で、立ち続けることでさえ多大な体力を消耗する少女の精一杯の力。
「…………うん」
小さい声。
彼に届けられた、彼女の生涯の願い。
「分かった」
そこに住まう人間がすごしやすいように徹底して管理された部屋と違い、外は寒い。予め持ち込んだ彼の私物、大量の衣類を彼女に着せて……それさえも彼が手伝わねばならなかった……背負う。
軽い。
服の重みしか感じないくらいに、軽い。
「じゃあ、行くぜ」
扉を開く。その部屋の護衛、あるいは彼女の監視の担当者はすでに叩きのめしている。
「どこへ行くつもりだ」
と声を掛けられて、彼は僅かに体を震わせる。
「あんた……」
その男。昨日、自分たちを引き合わせた男は、出会った時と同じ、鋭い瞳でこちらを向けていた。責めるわけでもなく、ただまっすぐに。
「自分の行動が、正しいと思うのか?」
彼の迷いを察したかのような一言。
それまでの彼であれば、「敵」を前にした時に出る言葉は一つしかない。
自分の我を肯定する……あるいは相手の我を否定する。
だがどちらの言葉も口にできなかった。
本当に。
本当に分からなかったから。
分かるのは、背中にある愛おしき存在が、きっと願っている言葉を口にするだけ。
「分からないけど、こうしたいんだ」
拝むように。
そう口にした。
「そうか」
男の返答は短い。そして彼に向けて何かを差し出してきた。封筒。中身は何か、かなり分厚い。
「当面の金だ。お前は寝床なんて選ばないだろうが、彼女は違うんだ」
目を丸くした。正直、金なんてどうとでもなると思っていた。いざとなったら、適当な奴を……金を持っていて、気に入らない目をしている相手を……ボコボコにすればいいと考えていたから、彼が驚いたのは、男が自分の行うことの援助をしようとしていることだ。
「どうしてだよ」
男は答えない。ただ背負われる少女に、そっと、言った。
「姉君からの伝言です。良い旅を、と。俺達も同じ気持ちです」
俺『達』の中に、誰よりも規律を重んじる男も含まれていたのだが、それを知るのは後のことだった。
「あと少ししたら通報が入る。『姫』が誘拐されたとな。俺達にも追撃命令が下るだろう。さっさと行け。お前が思っているよりも、俺たちは優秀だぞ」
言いながら男は、警備の男達を横にさせる。
「ほら、行けよ」
それ以上の言葉は無かった。彼はもう背を見ずに歩
きだす。その背中で、少女が涙交じりの声で「ありがとう、お姉ちゃん。ありがとう、先生」と呟いていた。