渚慶太という男
最初、自らの異変に気が付いたのは息を切らしながらビルの合間に滑り込むように入り込んでからだ。
自分の何かが、狂っている。
それが何かは分からない。
だが間違いなく何かが。
彼はほんの一時間前の出来事を思い出す。
紅く染まった自分の手、自分の体、視界、必死に命乞いをする同僚、その姿を見て自分は……。
笑っていた。
そうだ、思い出した。
悪いのは向こうではないか。
同期として共に入社して七年。だが同僚は徐々に頭角を現し、来月には課長へと昇任する。上司にも部下にも信頼される同僚に対し、自分は未だに役職を得ることもなくその日のノルマをこなすのに苦心する日々。
そうして今日、その同僚と飲みに行ったのだ。
取引先の社長に教えてもらったというその店は個室の煌びやかな部屋で、政治家や芸能人も利用すると自慢げに話す同僚の態度が癇に触った。その後、酒と料理が運ばれてきても味など感じなかったし、ただただ目の前にいる男に対する不満が募り……。
そこで声を聞いたんだ。
甘美で魅力的な声。
そして提示された内容は、抗いがたく。
思い出す、同僚の顔を。
恐怖に引きつった顔を。
「クッ……クフフ、ハッハハハ」
笑った。
笑えた。
あの野郎、偉そうに講釈を垂れて。それがあのザマだ。そうだ悪いのは奴だ、自分は悪くない。
不意に頭痛が襲う。
まだだ。
まだスッキリしない。他にもいるはずだ。あいつと同じように俺を馬鹿にするクズ共。そいつらも一人残らず同じ目に合わせてやる。今の自分にはそれが出来る。
今し方、自分が来た道へ回れ右をする。そこは繁華街。どいつもこいつも間抜けな面をしている。思い知らせてやる、俺の怒りを。こいつら全員に……。
そうして男が――自ら気付かぬうちに思考だけでなく、その外観さえも人から逸脱した怪物が――一歩を進めた瞬間、まるで手品か何かのように突如現れた人物が立ち塞がった。
中肉中背。その全身を軍服とコートをごちゃ混ぜにしたような黒色の奇妙な服、冬の冷たい風に煽られて、雑に切り揃えられた黒髪が僅かに靡く。大体の人間がすれ違えば男の顔よりもその服装の方を印象に残すだろう。
だがすれ違うわけでなく、正面から男の顔を見据えれば分かる。
この男は獣だと。
口元に僅かな微笑、いたずらっ子がそのまま成長したような、人によっては不愉快な印象を与える笑いを浮かべているが、問題は目だった。
限界まで、まるで弓そのものが壊れるまで引き絞られた弦のように。
極限まで、刃そのものが折れてしまうほどに研ぎ澄まされた刀のように。
それに見据えられれば誰もが竦んでしまうだろう力を含んだ、圧倒的なまでの暴力を放つ眼光だった。
「よう」
気さくに、まるで旧知の仲であるかのように男が声をかけてきた。
どう対応すべきか彼が逡巡していると、男が一方的に続けてくる。
「俺の名は渚慶太だ。年は二十五、あんたは?」
問われて。
考える。
考える必要があることの不自然さに気付く。
自分の名前、年齢、それを何故思い出せないのか。
「両親はいねえ。別に木の股から生まれた訳じゃねえから、俺を生んだ女とその相手になった男はいるだろうが、まだ目も開いていない頃に孤児院の前に置き去りにされた。おかげで、それなりの苦労はしたんだが……あんたは?」
男、渚慶太が尋ねてくる。
両親。父。母。どんな人だった?兄弟姉妹はいたか?いなかったか?両親はいたはずだ。いや、間違いなくいるのに。
思い出せない。
最後に両親とどんな会話をした?俺の生まれた場所は?育った場所は何処だ?通っていた小学校は?最初に付き合った恋人の名前は?
「これが最後だ。俺は人間だが……あんたは」
渚慶太が言い終わるか否か。瞬間、彼は弾けるように動いていた。僅かばかりの躊躇もなく渚慶太に突進していく。コンクリートを砕くほどの勢いで放たれた彼の肉体は、大型のトラックに匹敵する勢いを瞬時に引き出し、渚慶太を巻き込んだまま壁に激突する。
古ぼけたビルが大きく揺れる。人はいるのか、そんな事を彼は一切構わなかったが、仮にいたとしたら地震かと思う衝撃だっただろう。
ともかく。
彼は判断していた。本能が告げる。
この男は危険だ。
間違いなく「我々」に厄災をもたらす。
だからいいのだ。
こうして、原型を留めないほどの挽き肉にしてしまっても。
「今の不意打ちのつもりか、もしかして?」
声がした。
真後ろから。
終わりを告げる声が。
「ギッ……!」
自分の口から出たのが、金属をすり合わせたような異音であることに最早彼は疑問を持たない。ただ怒りがあった。何で死んでいないのか、いつのまに後ろに回ったのか。
勢いに任せて拳を思い切り振るう。風を切る感触だけがあった。何度拳を振り回しても同じだった。渚慶太は一切の畏れなく、苦労もなく、最小限の足の動きだけで避けていた。
「もう一度聞くぞ、あんたの名前は?自分が何でここにいるか説明できるか?出身地は?血液型は?惚れた女はいるか?兄弟は?何でも良いから、何か言ってみろ」
渚慶太の言葉の意味は分からない。ただそうして話す余裕があることが彼を更に苛立たせる。
何でだ?俺が殺そうとしているんだから、大人しく死ねよ!
そんな彼の思いは、しかし口を通すと鉄同士を擦らせたような音しかしない。それが余計に腹立たしく、その理由が目の前の男にある気がして更に怒りが上乗せされる。
彼が拳を振り回し、渚慶太が避けながら質問をぶつけてくる。
それは一分にも満たない時間で、だがその僅かな時間が彼にとって最後のチャンスであることに気付くことは結局無かった。
「分かった、もういい」
底冷えする冷たい声。まるで周囲の気温が一気に氷点下まで下がったような感覚。
だがそんなものは次の瞬間に放たれた渚慶太の拳に比べれば些細なことだった。
人でなくなっていた彼の姿は口が耳の辺りまで裂け、黒目が眼球の九割を占めるほどに肥大化している。さらに肌全体が赤銅色へと変化し、質感も鉄のそれとなっていた。体格は渚慶太の頭が腹の辺りに来るほど巨大化しており、体重は五倍に増加されていた。
そんな彼の体を渚慶太の拳が、一撃で吹き飛ばした。
鉄の皮膚を破り、腹部の骨を十本以上砕かれ、臓器に甚大なダメージを被りながら彼はビルの壁に叩きつけられる。
怒りなど霧散し、次に彼の思考を支配したのは一撃を受けた腹部を中心にし、そこから全身に奔る熱と痛みだった。
熱い、痛い、熱い、痛い。
何で?
何をされた?
こんな痛み、有り得ない。
痛みに喘ぎ、それでも口からは怪音を発して彼が悶え苦しんでいると。
そのすぐ側に渚慶太が立っていた。
その瞳は相変わらず鋭かったが、見る人間が見ればその中に僅かばかりの憐れみが籠もっていたことに気付くだろう。
「なあ、あんた」
一頻り悶えて、やがて動きを止めた彼に、渚慶太は尋ねてきた。
答えなど返ってこないことを分かっていながら、それでも聞かずにいられない、そんな口調だった。
「そんなになっちまうくらい、嫌なことがあったのか?本当に、そうなっても構わないくらい、世界に嫌気がさしちまったのか?」
渚慶太の問いに答えることは出来なかった。
直後、振り下ろされた手刀が彼の首と胴を分断する。
だが首と胴体が離れても、ほんの数秒ではあったが生命活動を維持し、思考を継続させていた。
その数秒の内、彼が思い出したのは、何度も挫けそうになった自分を励ましてくれたのは自らが手にかけた同僚で、その同僚が仲間内で最初に出世した時に自分が心根から祝福していたこと。
何でこんな事になってしまったのだろう。
後悔ではなく疑問で思考を埋め尽くして、その生涯に幕を閉じた。
慶太が目を覚ますと目に入ってきたのは自室の天井だった。
慶太の眠りは常に浅い。だからと言うわけではないが決して寝起きに思考が不明瞭になると言うことは無く、それが彼の持つ幾つかの長所とも言えた。
その慶太の脳裏に真っ先に浮かんだのは、論理的とは程遠い直感。
警鐘。
不吉な予感。
枕元に置いてあるデジタル時計はAM04:29を表示している。つまりここに戻ってから二時間程が過ぎていることになる。
寝直しても構わないのだろうが、胸の内にある不安は次第に大きくなる。
思い出すのは八年前。
彼の生涯で最大の絶望を与えられたあの瞬間。
それに匹敵する何かが起きようとしている。
寝室を出て室内を歩き回る。家族四人がそれぞれの個室を持てる高層マンション。一人で住むにはあまりにも広すぎるのだが、彼がここを住まいにしているのはあくまで成り行きからだった。三年前にそれまで住んでいた場所を去る必要があり、次の寝床を探そうとしていた時にこのマンションのオーナーと出会った。正確には再会した、になるのだがそれまで慶太自身はそのオーナーのことも、出会った時の経緯もすっかり忘れており、その事でオーナーが慶太に恩を感じていることなど想像していなかった。
茶飲み話で事情を話すと、それならばとオーナーは二つ返事でこの部屋を勧めた。都心部まで電車で十分、新築のマンションでかなりの値が張るはずだが、オーナーが提示した家賃は市場のそれを遙かに下回っていた。おまけに月一で人を雇い掃除もしてくれるというのは有り難いという他はなく、慶太はその申し出をありがたく受け入れたのだ。
ともかく。
ウロウロと寝室からリビング、物置になっている部屋、そして完全な空き室となっている部屋の行き来を続ける。
と。
リビングの置き時計が五時を示す。
そのタイミングを見計らったかのように。
携帯電話の振動音が、沈黙を破る。
電話の相手も確認せずに出る。
聞こえるのは息を切らし、上擦った女の声。
「皐月か、どうした」
電話の相手が橘皐月――いつも明るく、誰に対しても開けっ広げな彼女が常でない声であることが自らの直感を確信に変えていく。
「何があった」
冷静であろうと努めた。だが途切れ途切れでも理解出来るほど、皐月からの報告はシンプルで、その報告は慶太の感情を瞬時に激昂へと塗り替え――まだ朝日も昇らぬ夜の街に奔らせた。
神宮司雅人を例えるならば鋼の一言が相応しい。
それは幼い頃から組織の法に則った生き方を、自らに課した彼の人生――清濁併せ呑み、時に冷酷と言える判断を下してきた彼に相応しい字であった。
だが、彼に近しい人ほど、雅人が鋼などとは程遠い人物であることを知っている。
誰よりも情に厚い。
だから鋼の称号は彼自身ではなく、そんな彼の情を覆い隠す仮面の事だ。
そうした仮面をかぶり続けることが彼の護りたいモノを護ることに繋がるのだと信じるが故の生き方だった。
しかし今日、彼は失った。
否、今までだって失ってばかりの人生だったし、これからも自らの命を失うまで、それ以外の何かを失い続けていく、それが彼の選んだ道であり、それを後悔することはない。
ないのだが。
命に価値の差を付けることは彼の立場では許されない、それでも今日の喪失はあまりにも大きく、底の見えない深い穴を、心に空けた。
だから彼は今、一人でこの安置室にいる。
前にあるのは男と女、二人の亡骸。
一人は彼の生涯の友である男。
共に育ち、競い、錬磨し、最後まで共に戦い抜くことを誓い合った親友、莫逆の友。
もう一人はその親友の妻である女。
実際、雅人の心に、より深い傷を与えているのはこちらの方だった。
まさかまた、見ることになろうとは。
二人の顔は寝ているようにも見える。今にも起きそうなのに、その眼が開かれることは二度とない。あの時と同じだ。
彼の上司から与えられた時間は十五分。それは雅人に悲しむ時間を与えようという上司の配慮であったし、雅人はその心遣いに感謝をしていた。
その間に、雅人は心を切り替える。
悲しみに満たされた心を仮面で覆う。
「敵は討つ」
この部屋に入って初めて、雅人は言葉を口にする。
鋼の如き固い意志が込められた一言を残して安置室を出ると、
「ちょ、待ってください渚君!」
「慶太、今は立入禁止だって……!」
必死に壁になる男達を突き飛ばし、引きずり、現れたのは渚慶太だった。
こうして直接顔を合わせるのは三年ぶりになるが、相変わらず抜き身の刀のような威圧感を周囲に撒き散らしている。
「構わん、行かせろ」
雅人が指示に男達は一瞬戸惑ったが素直に従う。慶太はと言うとそれを当然というような顔をし、こちらには目もくれず安置室へと入っていく。
「もうしばらく、立入禁止だ」
それだけ残して雅人も再度、安置室へと入っていく。部屋の戸を閉める。薄暗い部屋の中、慶太は二人の亡骸を前に拳を強く、強く、握りしめていた。鉄をも容易に変形させる力は己の拳そのものを破壊し、血を流させる。
「どいつだ……」
静かに、冷たく、慶太が言葉を放つ。
肩越しに雅人を向いた彼の目には怒りの一色に支配されていた。
「どこのどいつだ……今すぐぶち殺しに行ってやる……!」
「目下捜査中だ。場合によっては貴様の手を借りることになるだろうな」
「随分と冷静だな、あんた」
慶太の言葉に雅人は思わず殴りかかりたくなる衝動を抑え込む。
己の感情に任せた報復行動に出たいのは雅人も同様だったから、その言葉は慶太が思っている以上に雅人の神経を苛立たせる。
「師匠が死んだ時の状況、教えろ」
雅人の心情など気にもせず慶太が要求する。
「朱鷺也の死はしばらく内密にする。お前にこの事を教えたのは皐月だろうが、本来であれば懲罰モノだ。お前に対しても記憶封印を施したい所だが、こちらも部外者を相手にしているほど暇じゃない。さっさとここから出て行け」
「…………力ずくで聞き出してやろうか?」
肉食獣が獲物を狩る時にそうするように、慶太がわずかに姿勢を低くする。
対して雅人は右手と右足を前に出し、迎え撃つ体勢をとる。
「貴様のそう言った所、朱鷺也が多少は矯正したと思ったが……野に放たれて逆戻りか?貴様はやはり危険極まりない」
心根からの侮蔑の言葉に今度は慶太の眉が屈辱に歪む。
それでも構えを解かない。
互いが互いに、怒りの捌け口を求めていた。
「ハイハイ、そこまで、馬鹿二人!」
一触即発の状況を、呆れた声が阻む。
鳳明日那が安置室に向かったのは約束の時間から十五分が過ぎても雅人から連絡が無かった事、同時に慶太が施設に無断で入ってきたと報告を受けた事が理由である。
その時、諸々の懸案事項を片づけていたが、前者については心情を察してそのままにしていても、後者についてはそうもいかなかった。
案の定、明日那が部屋に入り込むと水と油とも言える関係の二人は互いに睨み合い、僅かなキッカケで戦いを始めかねない気配だった。
明日那でなければ、彼女があえて間の抜けた声で静止せねば殴り合いを始めていただろう。
慶太と雅人、水と油の二人は明日那の姿を認識すると、途端に構えを解いた。それは決して明日那が、あらゆる芸術家が求める美を体現したような美しさを有しているからではない。それは単純に容姿のことであるが、その容姿を引き立てるが如くその立ち方、向かい合う男二人の間に滑り込むまでの歩き方、全てが人を魅せる動きだった。濃紺のスーツに身を包み、腰まで伸ばした髪は付け根から毛先まで雪を思わせる白に染まっていた。創られた様に均整の取れた体のラインは決して異性を虜にする類のものではないが、行動の一つ一つが人を魅せる、そんな振る舞いであった。
もっともこの場に、そんな明日那へ注目する人間はいなかった。二人の男の顔にあるのは、自身のみっともない所を見られたことへの気恥ずかしさとも言える、バツの悪そうな顔であった。
「雅人さん、貴方ともあろう人が冷静さを欠きすぎではありませんか?ここを何処だと思っているんです?」
夏の風鈴を思わせる涼やかな声に、雅人の顔が普段の鋼色を取り戻す。
「返す言葉もありません。申し訳ございませんでした」
「貴方は私のお目付役なんですから頼みますよ」
「はい」
「で、久しぶりだな、慶太」
「…………おう」
慶太も同じく臨戦態勢を解いていた。その苦虫を噛み潰したような表情に明日那は苦笑してしまう。本当に、こいつは私に対する感情がバレバレだ。
「まず私の部屋に移動しましょう。騒がしくしては朱鷺也さんたちに失礼だ。慶太、お前も来い」
男二人はそれに従う。移動中は互いに一切の口を聞かなかった。
部屋に着くと明日那は机の上に山積みになった書類から慶太の求めた書類を見つけ出し、放るように渡す。
「その情報、お前が必要とするものだ」
「明日那さん!」
雅人の咎める言葉を、手で制す。
「朱鷺也さんは一昨日、家族で日帰りのキャンプに行くところだった。車で移動中に襲撃を受け、崖から突き落とされている。その時の落下で朱鷺也さんは幾らか怪我を負った」
書類に目を通している慶太に概要だけ口頭で説明しようとして止める。
慶太が書類から目を離し、こちらに視線を送っていたからだ。
「家族って言ったか?」
「ああ、言った」
「師匠、子供がいたよな」
「男の子が一人、名前は優斗。皆川優斗。今年十三歳になる」
「そいつ、どうするんだ?」
「従来通りだよ。知らないで良いことを忘れてもらい、日常に戻す。朱鷺也さんは自分が何かあった時のための備えはしてある。何も問題はない……だが」
区切り、僅かに目を細める。
「なあ慶太、お前から見て、朱鷺也さんの襲撃からその結末までどう判断する?」
「解せねえ」
即答。何度も何度も、明日那から渡された資料を見ての結論。明日那と同じ結論というのが慶太としては気に入らないのだろうが。
「例え不意打ちで、傷を負わされようが、この程度の相手に師匠が後れを取るわけがねえ」
「そうだ。私も、そして雅人さんも同じ結論だ。だとしたら考えられる理由は一つ。朱鷺也さんを襲った相手が単なる野良ではなく何かしらの後ろ盾を持つということ、即ち」
「【魔王】か」
「そういうことになる。とすると、知るべきは奴らが朱鷺也さんを狙った理由。まあどのみち、奴らの思想など理解も納得も出来ないだろうが、それでも知らねばならない。奴らが何故、皆川朱鷺也を狙ったのかを」
「師匠だって散々奴らの家畜を殺し回っていたんだ。鬱陶しい位には思われていただろうよ」
「だろうな、それが一番動機としては分かりやすい、そうだとするならこれで終わりだと思うか?」
「【魔王】は時として意味のあるなしに関わらず、一切のリスクやコストを度外視して行動する。もし奴らが、奴らなりの理由を持って師匠を殺して、俺達に喧嘩を売ったんだとしたら、まだ終わらない、終わるわけがない」
「そうだ。そうすると、私は皆川優斗をこのまま解放するのは不味いと思う。奴らの標的になるとしたら、おそらくはあの子供だろう」
「じゃあどうするんだ?」
「簡単だ。慶太、お前があの子を護衛しろ」
明日那の言葉は本当に簡単だった。
簡単故に理解出来ない慶太より早く、理解は出来ても納得の出来ない雅人が口を挟む。
「明日那さん、私は反対です」
「理由は何ですか、雅人さん?」
「この男には務まらない」
あまりのも直球の言い方に、慶太とて面白い気分ではないが……その通りだとも思う。
渚慶太は獣であり、その本業は標的を追い立て、獲物の喉元を食いちぎること。
か弱い庇護者を護る術など持ち合わせていない。
「だが最悪の事態を考えると、慶太にしか務まらない」
「【魔王】が、直接姿を見せる可能性があると?」
「まあ無くはない。そしてその瞬間は大きなチャンスとなります」
「チャンス?」
「王の数を減らすチャンスですよ」
薄紅色の唇が動き、煽るような色の視線が慶太を捕らえる。
「出来るだろ、お前なら?」
決してその明日那に拐かされることもなく、だが目を合わせることもせずに慶太は応える。
「ああ、やってやるよ」
橘皐月は数多くの不満を持っている。
例えば自分の外見。先月二十二歳の誕生日を迎えたが、見かけは実年齢よりも五つほど若く……幼く見られるのが常だった。童顔で、幼児体型とは言わないまでもそれに毛が生えた程度の体つきもその印象に拍車をかけている。
「それだって需要があるんだぜ」
と何の慰めにもならない、むしろ侮辱でしかない門崎響也の言葉に拳で返答をしたのは確か二十歳の誕生日の時だったか。
だがそれよりも皐月の感情を暗澹とさせ、曇らせるのは、彼女が住まい、生き抜くと誓った世界には多くの死がつきまとい、その中には彼女が心から尊敬する人の命が含まれていることだった。
皐月が皆川朱鷺也の訃報を聞いた時、彼女は夜食を食べ終えて自室に戻ろうとした時だった。医師であり年の離れた友人でもある上代比奈子からの電話を聞いた時、足下が突如失われた感触を味わい、気付いたら慶太に電話を入れていた。
慶太との電話を切った後、必死に心を落ち着けた。
もう手遅れかも知れないが、慶太の前でだけは泣きたくなかったのだ。
心を表面上だけでも落ち着かせ、自室を飛び出す。
と、外に待ち構えていたのは響也だった。
皐月よりも頭二つ分ほど高い長身、髪を腰の辺りまで伸ばし、目鼻立ちはそこらの俳優よりも整っている。要はハンサムと言うことなのだが、皐月自身の好みとする顔立ちではなかったし、その軟派な性格や、自分をよくからかってくる彼のことを友人としては信頼しても異性としては決してみることはない。
ともかく普段は軽薄な口調が多い響也は、やはりこの瞬間もどこか気の抜けた顔をしている。
「何です、門崎さん?」
「なあに、ちょいと伝達」
望まぬ使いを頼まれた子供のように響也の顔は浮かない。
「皆川先生の息子を俺と皐月嬢ちゃん、そんでもって慶太と一緒に護衛しろだとよ」
「……はあ!?」
もう一つ、皐月が自分の欠点として分かっているのに修正出来ないこと。
突発的な事態への即応力の弱さである。
父親ではなく母親に似たんだな。
それが初めて会う師の息子、皆川優斗への感想だった。
十三歳の少年と言うよりは、同い年の少女と言っても通じる顔立ちは、中性的と言うよりは幼さが目立つ。体つきも貧相とは言わないが、それでも少しばかり触れれば折れそうな、硝子の様な印象がある。身長も同年代の平均よりは下回るだろう。
だが外見の印象をより消え入りそうなモノに変えているのは、その瞳だった。
慶太も見たことがある、死者の目。
世界を拒絶する瞳。
(さて……どうしたものか)
この病室の主である上代女医は既に退出している。部屋の前まで付いてきた明日那は「状況説明もお前の仕事だ」と投げやり、雅人も不満そうではあったがそれに従う様子だ。
つまり今現在、この部屋にいるのは慶太と優斗だけになるのだが、すでに十分もの間、両者とも無言を貫き通していた。
慶太は何から話すべきかを悩み、優斗はそもそもこちらを見向きもしない。
だがそれもそろそろ終わりにせねば。
決断してからの慶太の行動は常に速い。
優斗が座るベッドの脇にあるパイプ椅子に腰掛けて「よう」と声をかけた。
そこでようやく少年は慶太に顔を向けてきた。
「……何ですか」
声変わり前の少年特有の、少し嗄れた感のある声。自分にもこんな時期があったのだろうか。
「何ですか」
自分をじろじろと見る大人への不信感が募った声で、もう一度優斗が言葉を口にする。
「用って程でもないけどな。初めまして、皆川優斗。俺は渚慶太、お前の親父さんの弟子だ」
「……弟子?」
無論、朱鷺也の弟子、というのは慶太が勝手に名乗っていることだ。一番正しいのは元部下だろう。だが慶太にとって朱鷺也というのは単なる教師、上司ではなかった。共に行動することが無くなっても、一貫して自分は朱鷺也の弟子と言い続けるのは拘りと言っても良い。
「ああ。師匠には色々教わったよ、感謝をしてもしきれないくらいに」
そう。獣同然であった自分に人の価値を教えてくれたのが「彼女」であるならば、人の道を示してくれたのが朱鷺也だった。今になって悔やまれる、どうして一度でも良いから面と向かって礼を言えなかったのか。
「そうですか」
だが思っているほどに優斗は関心を示してはくれなかった。自分から視線を逸らす、目を合わせようともしない、そんな仕草が慶太を苛立たせる。
「師匠の仕事が何か、聞いているか?」
慶太を知る人間であれば耳を疑うであろう忍耐力を持って、少年に問いかける。
「知りません」
「へえ」
「父さんのことを話したいんだったら、他の人と話してください、僕は父さんの仕事のことなんて知らないし、興味だってありません」
「そうかい」
そこで終わりだった。
慶太の我慢の限界は。
グイ、と無理矢理に顔をこちらに向かせる。驚きに、僅かばかりの恐怖が加えられた表情が慶太の視界に映るが構うわけがない。
「だったら教えて欲しいことがある、これはお前にしか分からないことだ」
慶太の視線から逃げるように、優斗は顔を横に向ける。完全な拒絶がそこにはあったが、今更だ。他人に嫌われることなど慣れきっている。
「師匠は、お前の親父はどうやって死んだんだ?お前のお袋はどうやって死んだんだ?それを俺に教えろ」
慶太が優斗の胸倉をつかんだ辺りで、部屋の外で待機をしていた雅人が飛び込もうとする。
が、隣に立つ明日那の瞳――身につけようとして身につけられるモノではない天性のカリスマ、それに射すくめられて動きを制される。
畏れたわけではない、だが彼女の瞳には善悪を飛び越えて相手を封じる力がある。
これを免れるのは人ならざるモノか、あるいは渚慶太くらいだろう。
「雅人さんの心配するのは分かりますよ、何せあの子は貴方の甥っ子なんですから」
「……甥と言っても、死んだ妻の妹の息子です。血の繋がりがあるわけではありません」
「だとしても心配ではあるんでしょう?」
「甥としては別にしても、親友の息子です」
そう言うと明日那がクスリと笑う。童女のようなあどけない笑み。
「とりあえずは、あの阿呆に任せましょう。あいつはどうしようもない阿呆ではあるが、その代わり、私達より出来る事が多くある」
明日那はどこか歯痒そうに口にする。
その真意を察したからこそ、雅人はそれ以上言葉を口にはしなかった。
「もう……話しましたよ……!」
「ああ、そうだろうな。俺も資料には目を通している。だけどお前の口から聞きたいんだよ、事の子細ってやつを」
「何で……あなたにそんな権利があるんですか……!」
「あるんだよ。何故なら皆川朱鷺也は俺の師匠で、俺が世界で一番尊敬する男だ。そしてお前はその師匠が自分の命と引き換えに護った男だからだ」
すでに二人は腰掛けてはいなかった。
慶太に胸ぐらを掴まれる形で優斗も立たされており、だが身長差のためつま先で体を支えている。
「お前の親父さんは戦士だったんだよ。誰よりも優秀で勇敢な戦士だ。だが死んだ。それはお前と、お前のお袋さんを護るためだ。多分、その時は戦士ではなく父親だったからだろうよ。お前にはその最期を、弟子である俺に語る義務がある」
優斗の目尻に雫が浮かぶ。
分かっている、この少年が何を見たのか、見てしまったのか。
だが慶太とて知りたいのだ。
師であり、兄でもあり、父とも言えた男の死に様を。
「……………ですよ」
どれくらいの沈黙だっただろう。
少年の口から出たのは怒りとも悲しみとも付かない呻き声。
「何だって?」
「迷惑……なんですよ」
気圧されたわけではない。だが自然と慶太は服を掴んでいたその手を放していた。
「いつだって家にいなかった、約束だけして、帰ってこなくて、いつもそうだった……授業参観だって、運動会だって、僕の誕生日だって……一番傍にいて欲しい時だって、いてくれなかったんだ!」
一番傍にいて欲しい時。
慶太に優斗の心情は分からないので、予想するしかない。
「なのに、突然……困るんですよ、だっていなかったのが当たり前なんですから!いきなり、父親みたいなこと、されても……!」
部屋の外。
明日那の静止さえ振り切り、戸を蹴破りかねない勢いであった雅人が、しかし部屋から聞こえる嗚咽に動きを止める。
「何を見た」
しばらく放っておいて、すすり泣く優斗に声をかける。
自分の声とは思えないほど優しい声が出た気がしたが、それは気のせいだろうと思う事にする。
「分かりません……すごく大きかった、車より大きくて、力があって……まるで」
「怪物だった、か?」
ハッと優斗が顔を上げる。目じりに涙をためた瞳と紅く染まった頬。その表情には驚きがある。
「続けろ」
「……父さんが、僕を背負って森の中に逃げた。母さんも一緒に……。そうしたら、父さんが立ち止まって、自分はここに残るから、二人で先に行け、って」
慶太の手元にあった資料。崖から車ごと突き落とされた時点で、朱鷺也は腹部に負傷を負っていたという。車の破片が幾つも突き刺さっていたという事も聞いていた。
「師匠は何かお前に言っていたか?」
「………………母さんを頼む、って言われた……だけど、母さん、怪我をしていて……母さんを一人にしたくなかった……一人になりたくなかった……だけど……」
「分かった、もういい」
朱鷺也の妻、皆川美弥子の遺体は川辺で発見され、優斗はその遥か下流で保護されている。確実ではない。だが美弥子は息子の命が助かる可能性が高い方に賭けるしかなかったのだろう。
「こんな事を言うのは不謹慎だろうけど、羨ましいぜ、お前が」
「……何がですか?」
「俺に親はいねえ。まだ目も開いてねえ頃に、孤児院に放り出されたんだ。訳知り顔の奴らが、親の愛は無償とかほざいているが、そうじゃねえって俺は思っていた。人間は子供を産んだからって親になるとは限らねんだよ。もしそれが本当だったらガキだって親になれる」
「……」
「多分、子供を産んで、育てていくうちに色々失敗したり、叱り付けたり、反省したり、そうやって色々を経験して親になっていくんだろうな。そう言う意味じゃ、お前の両親は紛れもない親だったんだよ」
頭によぎる師の顔、思えば初めて見た時から自分とは別種の強さを持っていた。恐らくはあれが、父親の顔というものなのだろう。
「今は泣け。親が、それがちゃんとした親だったなら、死んで悲しいのは当たり前だ。沢山泣け、泣いて、泣いて、泣き抜け。だけどな、泣き終わって、それから親の事を思い出したら、その時は泣くんじゃなくて、自慢に思うんだ。命を賭けて自分の子供を護れる人間が親だったってことを、お前は誇りに思え」
自分がこれほど他人に対して真摯に話せるとは思えなかった。師の息子だからか、あるいはベクトルこそ違えども、この少年の瞳が自分と同じ孤独に苛まれる色をしていたからだろうか。
そして続けて彼に悲報を告げねばならないことが気を重くさせる。
「お前には義務が出来たんだ。両親の分も生きるっていう義務だ。それを俺が手助けしてやる、これから少しの間だけどな」