穿つ者
嵐に巻き込まれたんだ、と優斗は思った。紙くず同然に体を振り回され、視界が定まらず、上下の区別さえもつかない。ようやくそれが終わった時、優斗は何となく「あ、僕は死んだんだ」と思った。
だが、そうではなかった。
定まってきた視界は埃一つない床を映し、戻ってきた感覚は自分の胴に回る力強い感触を感じていた。
「よう、ガキ共」
その強い声が渚慶太のもので、自分が彼に抱えられていることを意識するのに少しだけ時間を要する。
「渚……さん」
そこで反対側。自分と同じようにサレナも慶太に抱えられていることに気づく。彼女もまた茫然とした視線を慶太に向けていた。
「下ろすぞ」
一言言って慶太は手を離す。ともかく慶太によって助けられたのだと思考が追い付き、お礼を言わねばと思う間もなく、慶太の手が迫ってきた。
殴られる、と根拠無く確信し、反射的に目を閉じた優斗だが、そんなことはなかった。慶太の手が優斗の頭に触れる。思い切り、グリグリと擦りつけられる、痛いわけでは無いが、ただヘアスタイルを崩すことを目的にしているのではないか、と思える強さでグリグリ、グリグリと。
サレナも同じ風にされていて、彼女も慶太の行動の意味を測りかねていたが、傍で見て、ようやく気付いた。
頭を、撫でられているんだ。
力いっぱい、まるで、何かを褒めるように
とても不器用な動作で。
「よく無事だったな、お前ら」
そう言った。慣れぬ言葉を口にしているせいか、慶太の口調はどこか拗ねて様に聞こえた。
「ここは俺が引き受ける。お前らはさっさとここから離れろ。すぐに皐月と門崎が来る。そうしたら」
そこまで言って言葉を切る。
慶太はしゃがんで、優斗に視線を合わせた。
「優斗、悪かったな」
言ってもう一度頭を撫でてきた。心なしか今度は、優しい撫で方だった。
「俺は、師匠に恩があった。返そうとしても返しきれない借りが山ほどあったんだ。それを返すことも出来ないで、師匠は死んじまった」
優斗は茫然と聞いていた。
「だからせめて、師匠の息子のお前に何かをしてやりたかった。だけど俺に出来る事は戦うことだけだ。お前が親父やお袋さんがいなくても生きていけるように、強くいられるように、俺が知っていることで、お前に教えてやれることはこれの使い方だけだった」
そう言うと慶太は自分の拳を優斗の胸にあてた。
「だけどそれは間違いだったな。知っていたはずなんだけどな、世の中にはお前みたいな奴がいること。戦う人間じゃない、戦っちゃいけない人間がいる事は。戦うこと無く、幸せになんなきゃいけない人間がいるんだって」
言ってもう一度、頭を撫でてきた。
笑顔を見せた。やはり笑顔というには、無理やりその形を造ったような笑い方だったが、何とか人を安心させようとしている笑い方だった。
「師匠の敵は討った。その元凶も今から俺が消す。だからその後は、お前は全部忘れて元の生活に戻れ、きっと師匠達もそれを望んでいる」
そこまで言って慶太は立ちあがった。
災厄の根源、【魔王】を向き、優斗にはその背中を見せた。
大きな背中だった、まるで世界の全てを背負えるのではと思わせる、大きな背中。
その背中が振り替える事は無い。きっと自分みたいな、どこまでいっても凡人でしかない人間とは違う場所に立つ背中。だがその背中に伝えたいことがあった。それで何かが変わることは無いけど伝えたい言葉。
「僕、嬉しかったです!」
叫んだ。慶太はやはり振り向かなかったが、聞いてくれていることは確信できた。
「僕が知らなかった父さんのこと、話してくれて嬉しかった!逃げようとした僕に戦えって言ってくれて嬉しかった!戦えるって信じてくれて嬉しかった!本当に、本当に嬉しかったんです!」
なんて少ない語彙。だけどこれが伝えたいことだった。
「まだ、僕は貴方から教えてほしいことが沢山あるんだ!父さんのこと、母さんのこと、戦い方を!生き方を!僕がここにいる意味を、価値があることを!だから、だから」
次の言葉を告げる事に勇気が必要だった。
「死なないでください、師匠!」
やはり慶太は振り向かなかった。
だがゆっくりと、親指だけを立てて右手を上げた。
優斗の言葉への返答だった。
「サレナ、優斗を死なすな。優斗、サレナを死なすな。行け」
それ以上、優斗も留まる事無く、サレナと肩を貸しあいながら、まもなく死地となる部屋を駈け出して行った。
「貴方、その顔は何なの?」
幼き少女の姿をした【魔王】が尋ねてくる。
「怒っているの?笑っているの?泣いているの?変な顔をしているわ、貴方」
「……この顔は喜んでいるのさ、多分な」
普段、鏡を持ち歩く習慣を慶太は持ち得ていないが、その習慣を見直すべきだろうかと真剣に悩んだ。
「ふうん、まあ、いいんだけど」
そう言って【魔王】は己の手へ視線をやる。優斗を拘束から引き剥がす際に、その余波で小さな手の五指は捻じれ、千切れ、折れていた。だが一振りするだけで手品か何かの様に元通りの綺麗な手へと戻る。
「それにしても意外だったわね、渚慶太。もう少し冷徹な男を予想していたんだけども、今の貴方まるで襲われていた子猫を必死になって護ろうとする親猫みたいね。いいえ、猫というよりは虎か獅子の類でしょうけど、とても可愛らしいわ」
「俺も意外だったぜ、【魔王】。さっきからずっと背中を見せていたのに襲ってこないなんてよ。まさか騎士道精神を持ち合わせている個体がいるとは思わなかった」
「背中を見せている、ってだけで前を向いているのと変わらなかったし、だったら知っておきたかったのよ。あの子たちが貴方にどれほどの信頼を持ち得ているのか。すぐに分かったわ、貴方に絶対的な信頼を置いていることが。楽しみだわ、そんな貴方を殺して、その事実を伝えた時、あの子たちがどんな顔をするのか」
「まあ、【魔王】だろうと何だろうと夢を見るのも口にするのも自由だけどよ……」
そこで言葉を切る。
「おい、一つ提案だけどよ、聞くだけ聞いてもらえるか?」
「あら、何かしら?」
「今の俺は気分がいい。普段はこんな意味の無いことはしないんだがな。力を抜け、抵抗をするな。そうしたら一切の痛みなく排除してやる」
「それを断ったらどうなるのかしら?」
「別に結果は変わらねえ、過程が変わるだけだ。俺の提案を受け入れなかった事を後悔して死ぬことになる」
「またまた意外だったわ『人類の守護者』なんて大層な字だけど、女の口説き方は並以下ね。それじゃあ、女は靡かないわよ?」
「生憎、口説きたい女はもうこの世にはいないんでね」
「それは残念ね。まだ生きていたら、私が消してあげたのに」
言って【清姫】は笑った。陰惨な笑みだった。
対して慶太も笑った。やはり陰惨な笑みだった。
そうして、両者が、常人ではとらえられない速度で互いへ向かっていき。
激突。
ビルが大きく揺れた。
その振動に、傷ついた体が耐えきれず優斗とサレナは立っていられずに倒れてしまった。
「ご、ごめん!」
サレナに覆いかぶさる姿勢で倒れてしまった優斗が慌てて謝罪の言葉を告げるが、サレナは首を横に振るだけだった。
「もう少しだから、頑張ろう」
サレナに、というよりは自分に向けた言葉だった。部屋を出て、最初に目に飛び込んできたのは大量の死体だった。形は千差万別だったが、どれも人からかけ離れた生物、【魔獣】の死体。そんなグロテスクな肉塊の山と、濃い鉄の匂い。そのどちらもが優斗の疲弊した心身にトドメをさそうとしてくる。何とか自分を鼓舞せねばならなかった。互いに寄り添いあいながら、死体を踏まぬように建物内を歩き、エレベーターを見つける。それに乗ろうとするとサレナが「非常階段を使う」と宣言した。「密室で襲われたら危ない」というサレナの言葉に逆らう気などは無かった。
自分たちがいるのが地上五十階の位置で、足を一歩前に出すだけでも苦労するほどに疲弊している事実が階段を一つ下りるたびに痛めつけてくる。
自分の肩に感じるサレナの重み、これが今の優斗を奮い立たせる。
あの人に託されたのだから。
「優斗」
サレナが名を呼ぶ
「?」
「動かないで」
サレナの言葉に「あ」と優斗が言葉を漏らす。
非常階段の上下から足音が聞こえてきたのだ。かなりの速度だ、一分もせずに追い付かれるだろう。
「こっち」
39と示された非常階段の出口。重い鉄扉を開く。
「急ごう」
そう呟く。歩みは遅いが、それでも止める事はしない。止まれば死ぬだけだ。
「こっちだ、いたぞ!」
野太い声。足音が迫ってくる。「殺すな!」「主に捧げろ!」狂信者の声が迫ってくる。
「あっ……」
自分の意思に体がついていかず、足がもつれサレナが転んだ。同じく優斗も。
「くっ……!」
「百合刀」の切っ先を、すでに人で無い姿に成り果てた【魔獣】へと向ける。【魔獣】が一瞬面食らい、だがすぐに下卑た顔へと変わっていく。弱者を嬲ることに喜びを感じる、下種な笑い方。
が、彼らの表情が一変する。
「お、お前ら」
優斗を通り過ぎる二陣の風。
一人は皐月だった。【魔獣】に対して一切の反撃も、その思考に至る事さえも許さない速度の動き。その手に持つ肉厚のナイフは【魔獣】の首を切り落とした。
皐月に対してもう一体の【魔獣】が怒りと恐怖の入り交った咆哮を上げる……がそれまでだった。「ガツン」と大きな音、同時に【魔獣】が仰け反る様な姿勢をとる。さらに二度、三度、四度。鉄同士がぶつかり合う音と同じ回数【魔獣】は仰け反り、後ずさっていく。
「門崎さん!」
銃を構え、何とも楽しそうな笑みをこちらに向けてくる響也。
「よう、優斗!何とも良い面構えになっているじゃねえか!」
声をかけながら、響也は発砲を続ける。元来、【魔獣】に対して拳銃の銃弾程度では足止めでしかなく、致命傷を与えるほどの威力は期待できない。
だが響也はただただ発砲をしているのではない。寸分違わず、ミリ単位の誤差さえ無く、一発目の銃弾が撃ち込まれた位置……頭蓋の部分に狙い定め銃弾を叩き込んでいるのだ。三発目、四発目も同じだ。少しずつ銃弾が脳に向かって食い込んでいく。
「これでラストだ」
冷酷な声、放たれる最後の銃弾は吸い込まれるようにして【魔獣】の頭に出来上がった穴に入っていく。絶命の言葉すらあげる事を許さなかった。
「優斗君、サレナ!」
皐月は叫び、二人を抱きしめた。柔らかい抱擁は母親を思い出させて、優斗は泣きそうになった。
「無事で何よりだ、全く」
響也も同じだった、心底嬉しそうな顔を浮かべている。
その再会を断ち切るかのように、再度ビルが振動した。
「……それで、慶太は今、戦っているのか?」
響也が天井を見上げる。その向こうにある慶太を見据えるかのように。
「敵は【魔王】。あの人が私達を逃がしてくれた」
「そっか」
そう答えたのは皐月だった。泣きそうな顔をしていた。まるで置いてきぼりにされた子供の様に。
「とにかく逃げるぜ」
響也が優斗を背負い、皐月がサレナを背負う。
「あの、僕は……僕たちは自分たちで出ていきますから、なぎ……師匠を助けに行ってください!」
優斗の懇願に響也は顔だけ振り向いた。「師匠?」と不思議そうな顔をしたが、今はどうでもいいと判断したのか「生憎だけどそいつは無駄だ」と返してきた。
「八年前、慶太が初めて【魔王】と戦った時だけどね」
「え?」
「その時は島が一つ消滅したわ。その次は地図を書き換えるくらいに地形が変わった。あいつと【魔王】が戦った結果はいつだって同じなの、戦場はまともな形で残らない、そして慶太が絶対に勝つ。あいつは負けない、これは揺るぎなき事実よ」
確信めいた口調で言われて、もう優斗に返すことはでいなかった。
もう一度ビルが振動する。戦いが続いている。
「痛い、痛ぁい、痛いよぉぉぉぉ!」
少女の悲鳴が轟く。痛みを訴え、叫び、助けを請う声だった。
その声を聞きながら、渚慶太はただただひたすらに呆れた様な、興醒めした視線を送る。
「おい、それを止めろ」
叫び、手に握っていたモノを放る。肩の先から千切り取られた【清姫】の腕だった。だが慶太の手から離れ、床に触れた瞬間に腕は灰となって消えた。
「あら、駄目なの?こういうの?」
それまで、悲痛な顔をしていた【清姫】が相応の少女の顔へと戻る。右肩の先からが無くなっていたのだが、全く意に介していないようだった。
「人間の男って、『こういう姿』をした女を虐めると興奮するんでしょ?だから私なりにサービスしてあげているんだけど?」
「知るか。てめえがどれだけレベルの低い奴らを相手にしているかよく分かるだけだ」
「あら、そう」
と【清姫】はつまらなそうな顔をしながら、千切れた腕の断面に触れる。次の瞬間には、腕は元通りとなっていた。
「でも本当に惜しいわね、貴方。これなら確かに、私の同胞を倒してきたっていう話も信じられるわ」
その言葉は【清姫】が口にした最大級の賛辞だった。それで慶太の心が何一つ動くことが無かろうと。
「ねえ、貴方。私からも提案があるのだけれど、聞きなさい」
子供の声では違和感しかないはずの毅然とした口調、だが聞く者を圧迫する力があった。
「貴方を殺すのは惜しいわ。私のモノになりなさい。そうすれば人間が欲しがる全てをあげるわ。あらゆる権力を、力を、金を。私には価値を見出せないものばかりだけど、それが人間の望むものなのでしょう?だからその全部を上げるわ」
「生憎だが、俺にも興味がないものだ」
「あら、そう。じゃあこういうのはどう?貴方が私に降るのなら、私を好きにしていいわよ?破格の条件だと思うけども。ああ、この外見が好みじゃないなら、これならどうかしら?」
そう言うと【清姫】の姿が変わった。少女の姿から見る見るうちにグラマラスな美女へ。男の欲望を全て受け止めるようなその姿は、そこにあるだけで男の理性を破壊するに違いない。
だが慶太の顔に現れたのは僅かな失笑だった。
それを見て【清姫】の顔が不愉快そうな顔に代わる。
「ちょっと、貴方まさか『そっち』じゃないわよね?」
「いいや。そういうわけじゃ、無いと思うんだが……な」
色あせる事無く脳裏に残る少女の姿。もし自分が、自分の中にある少女への気持ちを裏切ることがあったら、彼女はどんな顔をするのだろう?
多分、怒ったりはしないだろう。
きっと、泣きそうになりながら、それでも笑顔を浮かべようとするのだろう。
その瞬間、二度とこの脳に彼女の姿を思い描くことは出来ないのだろう。
それこそが渚慶太にとっての死であり、地獄だった。
「残念だわ、本当に。シュウイチが死んだから、その代わりが欲しかったのよね」
シュウイチという名に聞き覚えは無かったのだが、つい数十分前に仕留めた、あの男だと察した。
「【魔王】から見れば、【魔獣】なんざ家畜同然の扱いと思っていたが、個人の区別なんてつくのか?」
「そりゃあそうよ。人間だってお気に入りのペットとそうでない動物の区別はつけられるでしょう?」
「あいつは手前のお気に入りだったわけ、か」
「そりゃあ、だって……」
そこまで言って【清姫】は笑った。妖艶な美女が無邪気に笑う様は、ある種芸術的な美しささえあったが。その姿を怪訝そうに見る慶太に【清姫】は話の続きを促されていると思ったのか、「だってね」と呟いた。
「シュウイチが人間だった頃ね、彼は警察官だったわ。子供を相手にする部署で、出世するタイプじゃなかったけど真面目で、同僚からの信頼も厚い。子供の頃からの幼馴染が奥さんで、可愛い子供がいて、とても幸せな人間だったわ」
「……」
「だから私、見てみたかったの。あんな人間が、堕ちた時、どんな顔になるのか。その心はどんな黒い色に染まるのか、見てみたくなっちゃうの」
慶太の脳裏に過る、あの男の今際の言葉。
そして目の前にある悪意の存在の笑顔。
「そうか。あいつの女房と子供が死んだのは、お前の差し金か」
「ええ、そうよ。シュウイチがある事件で知り合って更生させた子たちに『声』を聞かせてあげたの。それでシュウイチの奥さんと子供を襲わせたわ。結果は私の願い通り。シュウイチは心を壊して、私に屈したわ。多分、そのことが無ければ絶対に屈したりしなかったでしょうけど、ね。ずっとずっと楽しみにしていたのよ。真実を伝えた時、シュウイチがどんな顔をするのか。だけど、貴方のせいでそれも見られなくなっちゃった」
慶太の心は決して揺れない。十条秀一という男は元々敵同士で出会い、殺しあった間柄だ。同情も無い。ただ一つ、確認すべきことがあった。
「師匠達を殺したのは……師匠達を目的にしたんじゃない、目的は優斗か」
「当たり。ああいう子、好みなの。ついでに言うと、別に優斗君だけが特別じゃないわ。他にも何百人かいるの。幸せで、無垢で、可愛い男の子を狙っているんだけど。でもあの子は特別ね。まさか私に正面から向かってくるようになるなんて」
「そうか……そうかい」
ただの、暇つぶしなのだ。
優斗の絶望も。
朱鷺也と美弥子の死に至っては、その絶望を生み出すための餌でしかない。
「なあ、さっきの誘いだけどよ」
「え?」
「俺が手前のモノになれば、手前のことを好き放題できる、だっけ?」
「ああ、その話ね」
【清姫】の顔が喜色に歪む。嗜虐的な笑み。今まで堕してきた者たちと、渚慶太が同種だと嘲る笑み。
「やっぱり断らせてもらうわ。俺、面食いなんだよ。お前みたいなブスは好みじゃねえんだ」
その言葉が。
渚慶太が心底から吐き捨てた言葉が。
今まで、多少の起伏はあれど笑みの形を崩さなかった【清姫】の顔を豹変させる。
全ての感情が消えうせた顔。
ただただ不快な存在を見る顔。
「………………そう、残念だわ」
「感謝しろ、その気持ちが続くのはあと少しだ。その感情ごと、消し去ってやるよ」
姿勢を低くする。再度の戦いを始めるための構え。
「奇遇ね。私も同じ気持ちよ。その答えを後悔しなさい。喰ってやるわ。肉ごと、骨ごと、その魂ごと。地獄の業火にすら憧れを抱ける苦痛の中で、自らの失言を後悔しなさい」
瞬間。
世界が闇に染まる。
壁が天井が床が漆黒へ。
そして一切の光を封じる。
ビルを飛び出すと、その勢いのまま車へと放り込まれた。
続いてサレナと並んで座らされて、山ほどの毛布を被せられる。
暑苦しい、そう思ったのもつかの間で車が前に進みだして数秒もせずに優斗の全身を悪寒が襲う。
あの場。
【魔王】と相対し、生き残れたという現実にようやく脳が追い付いたのだ、自分がどれだけの幸運を持っていたのか、その喜びもあった。まだ体に残る恐怖の残滓は体を震わせる。不意に自分が泣いていることに気がついた。安心しているのだ。
生きていることが、嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかった。
「何で」
肩を寄せ合う形で座っていたサレナが、こちらを見ずに尋ねてきた。
「何が」
優斗もサレナの顔を見ずに返す。
「何で、あんなことをしたの」
「あんなこと?」
「【魔王】に挑んだ。渚慶太が来てくれたから助かっただけ。あの人が来なければ、貴方は死んでいた。ううん、きっと、死ぬよりも酷い目に合わされていた」
「……分からない」
「自分の命がかかっていたのに、そんなわけない」
「でも、そうなんだ……ただ、あの時は、本当に何も考えていなかったんだ」
「?」
「ただ、何かをしたかったんだ。あの時君を助けようとしなかったら、僕は本当に何のために生きているのか分からなくなっちゃうと思った。それが怖かった。それだけだよ。君を助けたかったんじゃないんだ、僕は。ただ意味が欲しかった。どうせ死ぬなら、少しでも意味が欲しかった。この命が、ここにあってもいいんだって思いたかったんだ」
「それで、死んでも?」
「…………僕は一度、死のうとしたんだ」
「え?」
「最初に【魔獣】に襲われた時のことじゃない、その前」
何故、今、この話をサレナにするのか。それも説明は出来ない。理屈ではなく、感情が優斗に言葉を紡がせていた。
「別に死にたかったわけじゃない。だけど逃げたかった。嫌なことから逃げたかったんだ。それだけのために、僕は母さんを泣かせて、父さんに酷い言葉をぶつけてしまった」
父の心情。戦士として戦ってきた父。そんな父にとって息子の行為はどれ程苦しませる出来事だっただろう。その後の病室での言葉はなんて残酷なものだったのだろう。多分、父は親としてはまだまだ未熟だったのだ。戦士として一筋に生きてきた父にとって、親であるということはそれこそ手探りで行うしか無くて。
だけど決して逃げはしなかった。
心を閉ざした息子に、必死に正面から向き合おうとした、してくれた。
戦士として多くの人の命を救う立場にいて、だがそれを放棄してでも、息子を救おうとしてくれた。「お前が無事でよかった」と言ってくれた。
見知らぬ人々、護るべき他人、それを邪なるモノの脅威から守る使命を帯び、誇りを持ちながら、己の身内を優先させた言葉を発した時の父の心情は如何なるものか。それが自分のこれまでの生き方を全て否定することであっても。
「そんな僕でも、生きていいって思いたいのは……おかしいのかな」
例えば慶太だったら「そんなこと手前で考えろ」と言ってくるだろうけど、そう言えるのは本当に一人でも生きていける、悲しいくらいに強い人間だけだ。そして優斗はそれほど強くない。他者に、肯定されたいと思ってしまう。
「分かる」
サレナの口から出たのは肯定でも否定でも無かった。
理解できるという一言
「分かる気がする。少しだけだけど、分かる気がする」
それだけ言ってサレナは優斗から顔をそむけた。
「そうか。分かるんだね」
似た者同士なんだ。
不意に優斗は思いつく。自分とサレナは似ている。育ちとか、性格とか、そういうのではない。言うなれば「在り方」。自分の証、アイデンティティーの求め方、そういったものが。魂の形が似ているんだ。
ガクン!!!
いきなり車が揺れる。急ブレーキしたのだ。とっさにサレナを庇う。「また……!」とサレナが呟いたが優斗の耳には入ってこなかった。
「ど、どうしたんですか!?」
運転席にいる皐月へ声をかけるが、返答の前に後部の扉が開く。
飛び込んでくるように顔を出したのは雅人だった。焦燥激しい顔が、少年少女の顔を確認するとあっという間に鉄面皮へと戻る。
「無事か、お前達」
「あ、はい」
その変化があっという間だったので、最初に見た焦りの顔は幻覚か何かだったのだと思うようにする。
「まあ、無事で何よりだ、君達」
そう言って雅人の後ろからひょっこりと顔を見せてくるのは明日那だ。誰もが見入ってしまう純銀の髪。だが今はそれよりも彼女が身にまとう服装のほうに優斗の意識は向けられた。これから瀧にでも打たれに行くのかと思わせる白装束姿。その視線に気づいたのか、明日那は僅かに顔を緩ませて「女の服装をそうマジマジと見るのはマナーに外れるよ?」と言われて顔を赤くして、慌てて視線をそらす。
そんな優斗の動作にサレナが僅かに不快そうな顔をしたのだが、幸か不幸か、これも優斗が気づくことは無かった。
「明日那さん、それに神宮寺先生!どうして二人が!?」
運転席から降りた皐月と響也もやってくる。
「【魔王】が出たのなら、私達が来ないわけにはいかないだろ。何せ相手は『島喰い』だからな」
その言葉を意味するところ、それを聞こうとして気づく。否、今まで気づかないほうがおかしいのだ。
それまで密閉されたトレーラーの中にいたから、という言い訳が通らない、ハッキリと感じるこの不愉快な空気。世界自体が書き換えられたような悪寒。その中心、優斗の視線の向こう。
「な……何ですか、あれは」
同じものを見たサレナの顔も青ざめていた。彼女もまた、優斗と同じもの、この世に具現化した悪夢を見ていた。
最初、見間違いと思ったのは「それ」を認識したくなかったからに他ならない。
こんなものが「ある」事を認めたくなかったし、それが自分達に明らかな敵意を持っていることがそれに拍車をかけた。
それは巨大な人の姿をしていた。
100m近い高層ビルを土台にし、巨大な漆黒の翼を広げた女の姿。
その姿を悪魔と呼ぶ人間もいれば、神と呼ぶ人間もいるかもしれない。だが結局は、同じこと。人をはるかに上回る存在。人の命など塵以下の存在、認識すらしない。
『オ、オ、オ、オォォォォォォォォォオ!』
男とも女ともつかない声、赤子の産声に似た音が響き渡る。
「あれは……何なんですか!?」
「【魔王】【清姫】だ。前にその位置を把握できたのは三十年前。ある離島を支配していた奴を三百人の戦士を導入して殲滅を図ったが、返り討ちにあって終わった。その時も奴はあの姿へと変貌した」
ポツポツと雅人が語る。
「その時は島ごと戦士を喰らい尽くした。喰うのをやめたのは、喰うものが無くなったからだけであって、喰うものがある限り奴は止まらん。それは今も変わっていないだろう。」
「く『喰う』って……」
「文字どおりの意味だ。生物も無機物も関係ない。無差別に周囲にあるものを取り込み、己の糧とし、肥大化していく」
「じゃ、じゃあ……」
「この周囲十キロには避難勧告を出したが、その包囲網を破られるのも時間の問題だ。奴の喰う速度は肥大化とともに加速度的に上がっていく」
その話を聞いて、優斗は周囲に自分たち以外の人間がいないことに気づいた。
「そしてこのまま『奴ら』の存在が公になれば、それも私達の敗北に他ならない。」
「どうして、ですか?」
「だってそうだろ?人を喰らう、人を怪物に変貌させる、そんな存在が認知されることは現代の人類社会の基盤を崩壊させることと同義だ。奴によってこの国の大地が喰い尽くされた時、世界が奴らの存在を認識する。その場合は排除のためにあらゆる手が尽くされるだろう。軍隊の導入、ならまだマシだ。核兵器を含めた戦略兵器を使われでもしたら人類は終わるよ」
「か、核兵器って……」
優斗の顔が青ざめる。
「まあそういうものが実際に通じるかどうかは別にしても、問題はね『怪物を滅ぼすために戦略兵器が使用された』という事実だ。一度それが手段として認識されれば人は躊躇わない。最後はきっと疑わしき相手……怪物かもしれない、という理由だけであらゆる手段が用いられて、そこに個人の、組織の、国の利己が混じるだろう。魔女狩りが世界単位で行われていく。最後は破滅さ」
言って明日那は肩をすくめる。
「で、あの馬鹿は今どこにいる?ホテルに突入する前に私を振り切っていったからな」
「慶太は……」
皐月が言葉を濁す。その視線……巨大な黒き怪物に変貌した高層ホテルへと視線を送る。
「なるほど、とすると……」
明日那が何を続けようとしたのか。その言葉は響也の「おい、あれ……」という声に遮られる。全員が響也の視線の先、【魔王】へと向ける。優斗も目を凝らしてみる、見えない、何も……いや、見える。小さな小さな点。それが少しずつ大きく……つまりこっちに向かってきている。
すさまじい速度で。
「避けろ!」
叫んだのは響也だった。
ドゴォォォォォォン!!
飛んできた「何か」が車へと激突する。車体が半分に一度折れ、同時に爆音とともに爆発する。
「……無事か、朱鷺也の息子」
ハッとする。あの一瞬逃げ遅れた優斗を引っ張ってくれたらしい雅人は、やはり仏頂面で言った。その視線は、今しがた「何か」が飛んできた方向へ向けられている。恐らく二撃目、三撃目を警戒しているだろうが。
ギギギ、と金属同士がこすれあう不快な音がした。振り返る。炎上している車の残骸、その奥に見える動く影。
敵か、と皆が警戒する。
が、それよりも予想外の正体だった。
「し……師匠!?」
血塗れで、全身が傷だらけ。右の肩から先が、あり得ない方向に向いている。それでも爛々と光る暴力的な眼力が「渚慶太」であることを隠しきれない。
「よう」
それだけだった。
「だ、大丈夫なんですか?」
目算でも数kmの距離を飛んできて、それで動けるというのは異常という他ない。
「おい、皐月」
「え……何よ?」
無事な左手で、クイクイ、と呼び寄せる。
「ちょっと右手、掴め」
怪訝そうな顔はするが、皐月は従った。常の形を逆の方を向いている右手を掴む。僅かにその頬が赤く染まっていた。
「いいか、そのまま動かすなよ」
「え……何を」
グギュン!!
それは外れた肩を無理やり「捩子入れた」音だ。その意味を理解できなくても優斗が思わず耳をふさぎたくなるし、その意味を理解した皐月は数瞬して「きゃあっ!」と悲鳴を上げた。
「あ、あ、あんた!こんなことするならするって言いなさいよね!!」
「ああ。次からな」
「嘘よ!そう言って、こっちのこと考えないでいつも勝手ばっかり……」
なおも食い下がろうとする皐月の口を「治療」した手で慶太が塞ぐ。
「で、状況は?」
「それを聞くべきはこっちなんだが。アレ、お前のせいか?お前ならこの状況の前に始末できると踏んでいたんだがな」
「逆ナンされてな。断ったらアレだ、俺を喰おうとしやがった。腹の中で暴れてやったらコレだ。女の扱いは難しいな」
「お前の場合、女だけじゃなく人間同士の付き合い方を覚えろ。そうすれば、ここまでの事態にはならなかっただろうに」
「周辺の避難を行っていてよく言うぜ」
「【魔王】に対して念を入れすぎるということは無い」
言葉を継いだのは雅人だ。相変わらず敵に対してのものと同じ視線を慶太へ向けている。
「時間が無い、だから単刀直入に聞くがな、慶太」
明日那が続ける。
「お前、アレに勝てるか?」
対する慶太は答える。
「負けはしねえが、さすがにでかすぎる。時間をよこせ」
「だろうな。とすると、仕方が無いか」
ため息を一つ吐いて、明日那はその場にいる全員に静かに「作戦」を告げる。
その内容は、優斗でさえ顔をひきつらせる雑な内容だった。そもそも作戦と定義づける事さえ恥ずかしい代物。
「そんな……巧くいくんですか」
「その目はやめてほしいな。私だってこんな戯言に自分や他人の命を賭けたくないんだ。ましてや、全人類の未来をこの阿呆に託すなんて、私のプライドに泥を塗るに等しいんだが、今は時間も無ければ人材も足りない。だとしたら手段は選んでいられない」
そう言われては返す言葉も無い、が。優斗は気づいたのは雅人のこちらを睨むような視線だった。上司に文句をつけられたことが気に入らない……というには、その視線には怒りと別の感情が含まれている気が……。
「優斗、お前はすぐに退避しろ」
そう言ったのは雅人だった。
「え?」
「お前は民間人だ。ここに残る義務は無い」
「だ、だけど」
「いいや、残ってもらう」
優斗の代わりに慶太が応える。血に濡れた顔を袖で拭いながら。
「どうせなら撒き餌は多い方がいい。優斗、やるんだろう?」
試すわけではない、ただ確認という意味合いしかない言葉を、慶太はかけてきた。
出来るか、出来ないか、であれば多分、出来ないのだろう。
必要か不要かで問われれば、自分は今必要無いのだろう。
だが。
すべきか、そうでないかと問われれば。
自分の想いに従うのであれば。
「やります、やらせてください、師匠」
「じゃあ決まりだな」
言って、ポンと優斗の肩に手を置く。
それだけでやる気が出てきて、不意に思い出す。
ああ、そうか。
随分と昔の、色あせた記憶。
今よりも幼い頃の自分。
まだ幼稚園の頃だった。その時の運動会で、優斗はかけっこ大会に参加した。優斗の覚えている限り、そういった行事に父が見学に来たのはその時が最初で最後だった。
だから気張って、必死に駆けて、でも気負いすぎて盛大にすっ転んで、泣きながらビリっけつでゴールして。
母は笑いながら泥と涙に塗れた顔をタオルで拭いてくれた。
父は……相変わらずの仏頂面だった。
だったけど。
ただ、不器用に、頭を撫でてくれた。
「無理をしなくていい」
とだけ言った。
息子に対する言葉には、奇妙な一言だと思う。
普通は「頑張ったな」とか「泣くな」とかそういう言葉をかけるものではないだろうか。
だけど、その手から感じる暖かさは、紛れもない父親のもので。
ああ、本当に。
あれで充分じゃないか。
父親の温もりを感じるには。
無理しなくていい、お前のままでいい、そのままで充分に愛せるのだと。
「おい……渚!」
優斗が過去に浸っていると、雅人が声をかけてきた。
紛れもない怒りと言うか、嫉妬というか、そういう負の感情を交えて・
「何だよ」
慶太も似たような敵意を交えた感情だったが、
「どうして優斗がお前を師匠と呼ぶ?」
その言葉に、明日那が、皐月が、響也が、慶太でさえも。
唖然とする。
「え、それ?」という顔で、呆れるように。
それに気づかず、雅人は続ける。
「俺は認めんぞ!お前の様な輩に任せては朱鷺也と美弥子に顔向けが出来ん!この一件が終われば、優斗は俺が責任を持って日常に戻す!そもそもだ、優斗にとってそれが一番の幸せであって……明日那さん、何を……待ってください、まだ言うことが……!」
見ていられない、そんな顔をして明日那が雅人を引きずっていく。
「……何だったんでしょうか」
優斗が、雅人の言葉の意味を理解出来ずに、思ったままの言葉を口にする。
対して慶太と皐月は無言で応える。
ただサレナが「バカな人……」と呟いた。
「ああ…………お腹が空いたわね」
本来の姿に戻ると、途端に思考が鈍る。
その意識は全て「喰う」事へと向かっていく。
何でもいいからとにかく腹に含みたくなる。
でも、出来れば美味しいモノがいい。
綺麗で、可愛くて、美しいモノなら、尚良い。
周辺の……既に土壌とした高層ホテルは喰いつくしていた……建築物を「喰らい」ながら、自身の肉体が更に肥大化していくのを感じる。この「膨れていく」感覚は、奇妙な陶酔を感じさせる。善人を罪に堕とした時、無垢な男の子を喰らう時、それらとは別種の感覚。
言ってみれば、これは自分の中にある本能なのだと【清姫】は結論付けている。
人間が食事をすること、眠ること、性の快楽を求める事を我慢できないように。
私はこうして「自分」を大きくすることを止められない。
止める気も、ないのだが。
巨人の頭頂部に位置する場所。
そこで「人型」を形成した【清姫】は地上を俯瞰する。
喰えども喰えども満たされない飢餓感、その理由は自分が喰らった中に人間がいないことだからと気付く。同時に、自分に迫ってくる気配。
とても空腹感を刺激する匂い。
「あら、綺麗な鳥さん」
影が【清姫】を覆う。
赤い炎に包まれたそれは、【清姫】の美意識に適う姿形だった。数mの翼を広げるその姿は、暗雲に覆われた中で一層映える。
鳳凰。
その背に乗る女、鳳明日那の姿もまた、【清姫】の「好み」だった。
「初めまして、偉大なる【魔王・清姫】」
凛とした声が、響いた。
「そして、さようなら」
鳳凰が火を噴いた。一筋の火線が【清姫】の胴を貫き、同時にその全身と、周辺一帯を焼き尽くした。
「やった……わけないよな」
轟々と燃え盛る様を見下ろしながら、明日那は冷静に判断を下した。
遥か昔、名も知らぬ明日那の先祖を含めた数名の有志によって「魔なるモノ」と戦う組織は結成された。その中で、明日那の先祖たちが中心になれたのは【龍人】の中でもさらに特化した力を持っているためだった。
明日那に……明日那達に受け継がれた力は「創造」。
山をも超える巨人を精製したという逸話もあれば、数千体もの獣を精製したという伝説もある。
明日那が創造するのは「鳥」だった。
始祖たちはとにかく圧倒的な力を求める節があったが、最早それだけでは【魔王】を駆逐できないことを明日那は察していた。何せ、神話に近い巨大な力を持って尚、彼らの時代に倒すことが出来た【魔王】は二体しかいないのだから。
癒しの力。
索敵の力。
破壊の力。
明日那は貪欲に己の力を研鑽し、分岐させ、過去の偉人達にも負けず劣らずの力を持つように研磨した。
自分の命は自分一人の価値を持つだけでは許されない。
「二人分」の価値を見出さなければいけないのだから。
「!」
音速を超える速度。炎原と成り果てた頭頂部から、数十匹の黒蛇が襲いかかってくる。鳳凰を突き破り、千切り、喰らっていく。
「ちっ……!」
その牙が己に触れる寸前に鳳凰から飛び降りる。そこが死地と分かっていても、選択の余地が無い。巨人の頭に降りた瞬間、不快な感触が全身に奔る。単なる黒色の皮膚と思っていたが、大きな間違いだった。その一帯が「黒い蛇」に覆われていた。その蛇が一瞬にして明日那の体に巻きつく。
「とても温かくて、気持ちが良かったわ。でも、私は少し涼しいくらいが好きなの」
「蛇」が集まり【清姫】の形を構成する。構成が終わると表面の色が変わる。数秒もかからず、目も眩むほどの美女が姿を見せた。
「なるほど、噂に違わない美しさだ」
「あら、そう?貴女も中々に綺麗よ、人間にしてはだけど」
「そいつは光栄だね……」
話す間にも一匹、二匹と明日那の体に黒蛇が巻き付いてくる。その量が増えるごとに、締め付けの力が増していくが、全身に感じるのは痛みよりも、不快感だった。
「その綺麗な髪の色、見たことあるわ。どこかで会ったことあるかしら?」
「恐らく三十年前じゃないかな。私の曽祖父が貴方に挑み、殺されたと聞いている」
「ああ、彼ね。覚えているわ。他の人間より幾分か手応えがあったわ。そう、貴方は彼の血縁なのね」
先祖より受け継がれし銀の髪。だが明日那にとっては一族であることを示す誇りではなく、あの子との共通点である、繋がり。
「彼は、手足をもぎ取られても毅然としていたわ。貴方はどうかしら?試してみてもいい?」
「まるで私に選択肢がある様な言い方をする。どちらにしろそうするつもりなんだろう?」
「分かっちゃう?」
そう言って【清姫】が笑う。心底うれしそうに。曽祖父が三十年前にどのような死に方をしたかは知らない。だが自分の貧困な想像力では浮かばないような、悲惨な末路であったことだけは分かる。
「驚いたわ、恐怖を感じているでしょうに一切それを感じさせない。優斗君の様に虚勢を張るわけでも、渚慶太の様に無いわけでもない。確かにあるのにそれを隠しきっている。大したものだわ。人間のくせに、どんな精神構造をしているのかしら?」
「恐怖の権化にそんな称賛を受けるのは嬉しいね。だけど私なんてまだまだだ。感情を隠す術の上級者はまだいる」
「貴女以上に?それってもしかして」
【清姫】が動いた。
「彼のことかしら?」
音もない気配もない。
サレナの剣を「剛」の剣とするならば、「柔」の剣。
音さえも置き去りにする、幾千の魔なるものを切り裂いた雅人の剣。
が、その切っ先がまさに【清姫】の首筋に触れる寸前。
常人を超えた雅人にとってすら、その動きは理解の範囲外だった。首筋に刀が触れるか、触れないか、そのコンマ一秒にも満たない瞬間、自身に背を向けていた【清姫】が消えた。瞬時に自身の刀よりも更に近い間合いに飛び込まれ、雅人が認識した瞬間には小さな手が雅人の腕を掴。その気になれば握りつぶすことなど容易いだろうに、まるで蟻を生かしたまま摘まむような、気遣いとさえいえる力の加え方で。
「どういう動き方なの?足音だけじゃない、気配も虚ろだわ。並みの人間だったら正面から迫られたって気付かないうちに首を刎ねられているわね。渚慶太は別格にしても、それでもシュウイチと同等以上の人間に会えるなんて、驚きだわ」
感嘆の台詞を。【清姫】は謡うように綴る。
半分は既に顔以外の全身を黒蛇に覆われた明日那へ。
もう半分は、今しがた自らの首筋へと刃を突き立てかけた雅人へ。
既に雅人の全身には、明日那と同じように黒蛇の群れが纏わりついていた。
「この剣、知っているわ。私の同胞の骨を砕いて、組み込んだモノよね?人間って自分が生き残るための欲求には貪欲ね。脆弱な体の割に、ううん、脆弱だからかしら?大変だったそうじゃない?何世紀か前に、数えきれないくらいに犠牲と引き換えに生け捕りにして、解体して、調べたんでしょ?その実験の間にだって、生け捕る時以上の犠牲が出るのも構わずに。フフ、虫と一緒ね。種族全体を生かすために、一部を犠牲にすることを厭わないところとか」
雅人の刀、峰も薄らと白い光を宿した白刀。それに【清姫】の指先が触れると、僅かに焦げ臭い匂いを発する。
気付かれなければ首を刎ねることが出来た……。
などと明日那も、そして雅人も思わない。
確かに【清姫】の言うとおり、雅人の技……音すら殺す忍び足の技法は、正面に相対してさえ、その存在を捕らえる事を困難とさせる。この技術で、雅人は多くの【魔獣】を己の死さえ意識させる前に滅してきた。その人を超えた技術でさえ、【魔王】からすればほんの僅か、意識すれば十分に気付く程度の「お遊戯」であることを弁えていた。
「せめてこの刀を、渚慶太に渡せばまだ良い結果を出せたんじゃないかしら?」
ミチリ、と雅人の腕に巻き付いていた黒蛇の力が増す。常人であれば骨が折れる力は、強化された雅人の肉体でさえ骨を軋ませる。ほぼ反射と言える動作で、剣を取りこぼした。その剣の柄……同胞の骨が組み込まれていない個所に……を摘む【清姫】は、やはり笑みを浮かべたままだ。
「本当に人間って愚かね。渚慶太に期待しているんでしょうけど無駄よ。彼はまだ私まで辿り着けていない」
そういう【清姫】の視界に何が映っているか、明日那には想像するしかない。
だが、皐月達と必死にこちらに向かってきながら、【清姫】の造り上げた人形、あるいは【清姫】の一部とも言える黒蛇に阻まれている慶太が映っているはずだ。
「一斉に攻撃されるのを避けるためでしょうけど無駄だったわね。せめて三人同時にかかってくればまだ活路は開けたんじゃないかしら?」
「今、私の目の前にいる貴方を倒せば事態が収束に向かう。その確信があればそうしたんだがね」
明日那は一枚のカードを切ることにした。
勝利ではなく、ただただ時間を稼ぐために手札の一枚を。
「あら、気付いていたのね?ここにいる私が本体ではないこと」
「そりゃあね。貴方達が自分の心臓を、外にむき出しにするなんて『みっともない真似』はしないだろうしね」
「ええ、そうね。その通りだわ」
明日那が笑い、【清姫】も笑う。
「私達はこの五百年、敵である貴方達を知ろうと必死だったんだ。【魔王】に関しては最初に捕えた個体の情報だけで、後は倒すだけでも精一杯。あの馬鹿もさすがに個人の力だけで生け捕りは困難だったみたいだしな。だから私達は、貴方達の眷属、【魔獣】を底的に解体することで、その先にいる貴方達を知ろうとしたんだよ」
「全く参考にならなかったでしょう?私達、貴方達でいう【魔王】は個体が違えば種族そのものが違うと言ってもいいわ。その嗜好もね。それに合わせて【魔獣】は、元々の人間としての個性も重なって、その形態を変えていく。無駄な五百年だったわね?」
「そうでもない。少なくとも、あの馬鹿のおかげで【魔王】は倒せる存在と言うことは分かっている。これは大いなる希望だ。人類種が存続するまでの期間が、貴方達の寿命を上回る保証は無かったからね」
「そう、それで?」
興味があるのか無いのか。
いや、間違いなくある。
だから自分は生きているのだと明日那は判断した。
「【龍人】も、【魔獣】も、強さの中心は同じ、『霊核』だ。ただ私たちは霊核を【龍脈】の接続点、通り道にして霊核の形を変える。正確に言えば、霊核を【龍脈】で覆うことで、擬似的に形を変えて、人を超えた力を得た【龍人】となる。対して【魔獣】は、あなた達によって人が人であるための形状を霊核に失わせる。霊核を……形そのものを変貌した霊核は元には戻らない。【魔獣】から人へは戻れない」
「ええ、そうね。それで?」
「私達【龍人】が己の強さを鍛える術は限られている。何せ強さの中心となる霊核の器は、先天的な資質に依るものが大きい。後天的に鍛えることも不可能ではないが、あまりにも効率が悪い。だったら自分の【龍人】の力、器をどう利用して戦うか、だ」
【龍人】として目覚めるだけで、常人をはるかに超えた身体能力を得るが、それだけで【魔獣】と戦うには及ばず訓練が必要となる……無論、慶太や響也のような例外もいるが……。
だから【龍人】はみな、己の力を研磨する。【龍脈】からの力の流れを速やかにするためのイメージ訓練……瞑想、自身が使う武器の鍛錬、結局は、普通の人間と同じく地味な訓練の反復を繰り返し、繰り返し、いかに実戦で澱みなく、実行に移すか。
「私、そんな話には興味な」
「さて問題、あいつはじゃあ、日々どんな訓練をしていると思う?」
会話を遮られる事など【魔王】にとって……特にこの少女の姿をした悪意にとっては……我慢がならないだろう。本来であれば、一気に締め上げて明日那を肉塊へと変えただろうが……そうはならなかった。
圧倒的なネームバリュー、興味の対象。
あいつめ。
「あいつもな、瞑想をしている。師から教わった武術の鍛錬を行っている。あいつにとって、そんなこと殆ど意味が無いのに、な」
「意味が、ない?」
「そうさ。意味はない。精々、ほんの僅か……誤差程度の意味しかないさ。何せあいつにとっての訓練、本当の意味で求めている強さは、常にこの世界から、あいつに与えられているんだから」
それが望む望まないにかかわらず。
「この、世界?」
「あいつは【龍脈】の子。人間が、貴方達に蹂躙され、滅ぼされることを止めるために、この星が私たちに与えた、切り札だよ」
「随分と壮大な表現をしたものね」
失望の意味合いがこもった溜息。
「じゃあ、どうするつもりかしら?貴方の言うとおり、今ここにいる私は本体ではないわ。そして私の霊核は、私の奥深く。貴方や後ろの坊やでは潜り込むことなんて出来ないだろうし、渚慶太はいまだ地上を走り回っているわよ?」
「そうか、あいつはまだ辿り着いていないのか」
「ええ」
言って、【清姫】の手が明日那の頬へ触れる。
「綺麗な肌ね、舐めたくなっちゃう、傷付けたくなっちゃうわ」
プツリ、と小さな音。【清姫】の爪が、明日那の頬の薄皮を破る。赤い血が頬を流れ、その後、【清姫】の細い舌がその血を舐める。
「甘いわ。とても甘い。ねえ貴女、他人の血を舐めたことある?」
「生憎だが、そんな猟奇的な趣味は持ち合わせていないね」
「それは少ない人生を損しているわね。教えてあげましょうか?血はね、人によって、場所によって全部味が違うのよ?でも、どこから流れる血も、どんな甘露も敵わないくらい、甘くて甘くて、オカシクなっちゃうくらい甘いのよ。その中でも一番甘いのは、私が大好きなのはここから出てくる血」
その手が明日那の胸へ触れる。力が込められる。痛みが、明日那を襲う。
「私は、ここが大好き。常に、絶えず、途切れず、一つの命を継続させるために、血を循環させる臓器、命の塊。とても、とても大好きなの」
心の臓。
絶えず、生物の全身に血を行き渡らせる最重要臓器に。
明日那の胸板を隔てて触れながら、【清姫】の頬は紅潮していた。
自制心が崩れ去ろうとしているな、と明日那は判断した。
ほんの少し、理性から本能に傾いた瞬間、【清姫】は明日那の肉体へ喰らいつき、その血の一滴まで飲み干すのだろう。その惨状が始まるまで数秒も無い。
だから、明日那は切り札を見せる事にした。
「何で、渚慶太は【魔王】を倒せたと思う?」
これくらいしかない。
人を家畜か虫けら、良くて玩具程度の価値しか見いだせない【魔王】が、自分の欲望を超えて興味を見出せる対象は。
そして明日那は胎の中で舌打ちする。
あの子も、皐月も、目の前の【魔王】でさえも。
自分や雅人がどんな感情を抱いていようと、やはり奴こそが中心なのだ。
この世界の、人類の存亡を巡る戦いにおいての。
「そりゃあ、彼が貴方達の中でも特化した力を持っているからでしょう?」
分かり切っていることを口にする……フリをして、【清姫】が言葉にした。
本当にそう思っているのならば、自分の言葉など無視するはずだ、気にも留めないはずだ。
「私達【龍人】を貴方達はどこまで理解している?」
「そうね。人間っていう、脆弱で浅ましくて、哀れで愛しい子たち。その中で少しばかり、私達に対抗できる……と勘違い出来る程度の力をもった子ってところかしら」
間違いない、間違いないが、認識が間違えている。
貴女が思うより人間という生き物は、もう少し慎ましい自己認識を持っているんだよ。
「私達の『力』はあくまで先取りに過ぎないよ。肉体や感覚の強化、周囲の空間の流れを読む目、己の意思を持つ疑似生命体の創造、百年か千年先かは分からない。だが紛れもなく、いつか人が、己の霊核を認識し、大地の【龍脈】を感じ、得るであろう力、進化の果てに、いつか得る力に過ぎない」
鳥が羽を得たように。
肉食獣が俊敏な脚を手にしたように。
人が火を制したように。
明日那は決して見る事がないであろう遠い未来に、人が得る力。
「つまり渚慶太は、貴方達よりも遥かに先の未来に得る力を使っている、と?」
「いいや、違うよ」
あっさりと、否定した。
「これは一つの結論で真理だ。たとえ千年、万年、億年、悠久の時を費やして、人類が如何なる進化を遂げ、進歩を重ねようとも、私は、私達は、人間は、お前達には至らない」
「……話が繋がらないわ。渚慶太は私達に勝てる、でも人間は私達に勝てない。矛盾しているわ、貴女の言っていること」
「矛盾は何一つしていない。人間は勝てないが、渚慶太は勝てる。それだけだ」
「……まるで『渚慶太が人間ではない』って言っているように聞こえるわ」
その【清姫】の言葉に。
明日那は笑みを浮かべる。
彼女の双子の妹、愛すべき半身と同じ顔でありながら似ても似つかない笑み。
渚慶太が唾棄する笑み。
向かい合った相手を蔑み嘲笑する笑み。
「何だ分かっているじゃないか、そう言っているんだよ」
ミチリ、と「蛇」の締め付ける力が一層増す。肺が圧迫され呼吸さえ困難になる。それでも明日那は続けた。嘲笑を浮かべながら。
「話しなさい、どういう意味かしら?」
「ぐっ……わ、私達が、資質のある子供を、あつめて……っ、戦士として教育を施しているのは知っている……だろう?」
話す間も、締め付けの力は増していく。【清姫】の背後で雅人が必死に拘束を振りほどこうとしているのが見えた。
「ええ、知っているわ。それがどうかしたの?」
「私達の組織にもそれなりに暗い時代があった。『人類のため』なんてお題目のために、資質ある子供を誘拐同然に攫い、洗脳して、戦士と言う名の消耗品に『造った』時代。私の曾爺さんがね、それで勝つことが出来ても失うものが多い、という方針から、今はそのような行為は行っていないが……だが、そんな負の時代から存続している遺産がある」
「だから、それが、どうかしたの?」
【清姫】の苛立ちが増すのを、その声色や視線の鋭さから察する。だが明日那はじらすような、回りくどい話し方を辞めない。
「『梟』と呼ばれるその機関は、その昔から素養のある子供の選別を生業としていた。それは今の時代にも継続して行っている。仮にだ、渚慶太が突出した力を得る【龍人】であったとして、その素養を『梟』が見逃すはずが無いんだ」
例えば門崎響也のように、この国で生まれてすぐ海外に越したりとかしない限り。
『梟』は見つけだすはずだ。
だが結局、渚慶太と言う存在が発見されたのは、幾つかの偶然、そして彼が周囲の者全てを傷つけ、暴力の嵐を撒き散らしていた結果だ。
「私はね、初めてあいつに会った時、すぐに分かったよ。こいつは違う、と。人でも無い、【龍人】とも違う、勿論、魔に犯されてもいない。何者にも変える事の出来ない強靭な強さを持った異端者、突然変異だとね」
奴は単なる肉体の強化に一点特化した能力者……ではなかった。
まともに訓練を積んでいないにも関わらず、渚慶太は出会い頭、皆川朱鷺也と神宮寺雅人を相手取り、戦っている。無論、結果は惨敗ではあったが……本来であれば圧倒的な力の差があるにも拘わらず、熟練された戦士である皆川朱鷺也と神宮司雅人が慶太を完膚なきまでに叩き伏せて、重傷を負わせる形でしか勝負をつける事が出来なかった事実は明らかなレギュラーであった。。素質があった、では済まされない「何か」があった。
その後、徹底的に調査をして判明したこと。
それは渚慶太が「霊核」を有していないという事実。
否、正確にいえば彼の場合はその全ての細胞が、髪の毛一本、足の爪先一つに至るまでが「霊核」と同質の、常に【龍脈】と接続し、維持し続ける永久機関という事実だった。普通の能力者の様に【龍脈】と霊核を繋ぎ、力を全身に気を行き渡らせる必要などない。【龍脈】が渚慶太と言う人の形をなしている、といったほうが正しい。
まるで、大いなる意思とも呼べるものが、人に与えた救いの手。
それが渚慶太と言う存在だった。
そして、その「力」に行き先を与えたのが。
彼女の愛する妹だった。
この醜くて、悪意が氾濫する中でも。
世界が、人が、救うに足るものと伝えた。
「随分と長い語りだったけど」
【清姫】が笑う。目は笑っていなかった。ただただ飽きたような視線を向けてきた。
「結局、そんな大層な存在でも私は倒せなかった、ということでいいのかしら?彼は、貴女の言う、【龍脈】の子は、地面を這いずり回っているわ。私の人形に随分手古摺っている。さすがに怪我が酷かったみたいね」
直接、【清姫】の手が明日那の首に触れた。
「貴女、とても私の好みよ。でも喋らないほうがもっと素敵ね。ねえ、私が愛せる笑顔を浮かべてくれないかしら?その笑顔のまま縊り殺して、千年かけて愛でてあげるわ」
「……そのリクエストに応える前に、最後のお喋りをさせてくれないか?大したことじゃない、私『達』の特技についてだ」
「?」
「私達『鳳』の一族の使う【霊式術】は生命の創造だ。小さい頃、私は双子の妹とよくこの力で遊んでいた。私は……空想好きでね。絵本に出てきた動物を創造して、妹に見せてやった。妹は羨ましがっていたよ。あの子も同じ能力を持っていたが、方向性が異なっていたからね」
そこまでの会話で。
【清姫】の眉が僅かに顰められる。
「あの子が空想するのは『ありもしないモノ』という点では同じだったが、私みたいな絵本のキャラクターじゃなかった。あの子が創造するのはいつだって『元気な自分』だったよ。能力者としての資質は私以上だったけど、肉体の強さは常人以下だった。だからいつもあの子は、『元気な自分』を創造して、それに自分の五感を同調させて、遊んで、そして自分の本当の体に意識が戻ると、いつも泣いていた」
今だって、思いだせる。
いかに外見を精巧に似せて、五感を同調させようとも。
それが精密であればある程に「本当の自分」との乖離が鮮明になる。
それがあの子の心をどれだけ苦しめたか。
二人で同じベッドに入り、泣きながら抱きついてきた妹。
あの子を抱きしめて、頭を撫でてやることしか出来なかった自分。
自分と入れ替えて、あげたいと思った回数は数知れない。
いつだって泣いてばかりで。
だけど、あの時だけ。
あの阿呆と出会ったあの時だけ。
あの子は本当に、心の底から、全ての苦しみから解放されて笑っていた。
『お姉ちゃん、私ね、好きな人、出来たよ』
まるで世界中の全ての人々の幸せを独り占めしてしまったような笑顔。
妹がこんな風に笑えることを、明日那は知らなかった。
「だから一体何の……」
「言っただろう、私の特技の話だ。私は貴女達の人形と同じ疑似生命体を造れるということだよ。まあ人間の場合は、精巧さはあの子と比べると大分格落ちだが」
「人間の、疑似生命体……」
ハッとする。それは変化と言うには余りにも微細な表情の変わり方だったが……確かに【魔王】が動揺していた。それだけで十分、明日那にとっては勝利ともいえた。
【清姫】が、もう一度眼下に広がる地上を見下ろす。
今度は確かに口元が震えて、頬が引き攣っていた。
「貴女……やってくれたわね……」
「……最高の褒め言葉だよ」
倒せど倒せども湧いてくる「人形」に響也が深く息を吐く。
「終わりの合図」はまだ来ない。まだまだ必死に暴れる必要がある。響也としては、さっさと逃げ出してしまいたいのだが、ほんの数m先で、自分より一回り年下の少年少女が、痛みと恐怖に耐えて戦っている様を見ると、そう思考することさえ大罪に思えて、響也は再度深いため息をつく。
既に手持ちの銃は予備を含めて弾丸が底を尽きているので、徒手空拳……渚慶太と言う存在を認識した瞬間に極めることを放棄した……で戦い続けている。皐月は愛用の小太刀を使い、サレナは大刀を振り回し、優斗は鉄棒を。
そしてもう一人。
『渚慶太』が『必死』にそこにいた。
無論、そこにいる『渚慶太』は本物ではない。
当たり前だ、あの『渚慶太』が雑兵を相手にして手古摺るなんて、世界がひっくり返ってもあるものか。響也にしても皐月にしても、どれだけ精巧に模倣しても、姿形だけ同一の『渚慶太の人形』が本物の代理になるわけがないと思っている。
明日那の提案した作戦はこうだ、
極々シンプルな作戦……優斗に言わせれば、作戦とさえ言えないモノ。
ただ一つ、渚慶太を、敵の心臓部に到達させるために、他全てを囮とすること。
そのために周辺で戦士団の全兵力が人形との戦闘を繰り広げているし、明日那と雅人は今まさに敵の本陣で、悪意の象徴と向かい合っている。
不意に。
何の前触れもなく、『渚慶太』が消えた。
それは文字通りの意味であり、音も無く、その肉体を霧散させる。
「師匠!」
優斗が叫ぶ。勿論、彼とてそこにいたのが精巧に模造された『渚慶太』の写し身であり、本物ではないことを知ってはいるのだが、そこは理屈ではないのだろう。
「優斗君!敵から目を逸らさない!」
皐月が叫ぶ。その通りだ。
問題は【霊式術】を覚えて間もなく、更に戦士として致命的に戦いに向いていない優斗の存在だったが。
動き自体は素人同然で、直線的で。本来であれば実戦に参加するにはあまりにも拙い。何より、動き端々に躊躇が見え隠れする。
それでも何とか戦えている。
敵が無機物に近い人形だからだろうか。
いや、違うな。
必死に耐えながら戦っているのだ。
恐怖と闘いながら。
逃げ出したいという気持ちと闘いながら。
自分のために他者を傷つけられるという己の本質を見つめながら。
必死に、あらゆるものと闘いながら、戦場に立っている。
響也は知っている、戦場において、そういう人間としての当たり前の感情は不純物でしかなりえず、それを排除できない人間から死んでいくことを、嫌というほどに。
長生きしたければ捨てるべき理性。
死にたくなければ不要な思考。
だけれど、人が人として生きるのであれば不可欠な思考。
自分や慶太が捨ててしまった、あるいは普段は見ないようにしている、高潔な魂。
そして何より……。
優斗の背後、その隙を狙った「人形」をサレナが切り捨てる。「あ、ありがとう……」と戸惑いがちに応える優斗と目を合わせることはせず、しかしサレナはハッキリと「……護れって言われたから」と呟く。
「ったくよ……!」
自分の頬が緩んでいるのが分かる。自分より一回りの下の少年少女、彼らの一挙一足から目が離せず、尚且
つその行い一つ一つが尊いと思えてしまうのは、自分が年をとった証拠か。
否、年のせいだけではないだろう。
あいつが、あいつらが特別なのだ。
俺と違ってバカみたいに真面目で。
必死に生きようとしていて。
誰かのために、何かをしたくて。
「おい、優斗!」
叫ぶ。「何ですか!?」必死に、応える優斗。
「この戦いが終わったら、俺の行きつけの店に連れていってやる!お前もはまり込んじまうこと間違いなしだ!」
響也が今の優斗よりも少し年を重ねた頃に世話になった人間が経営している店。表面上は変哲のないバーだが、その地下では実弾を撃たせてくれる特典がある。
「だ、駄目ですよ!響也さん!?ゆ、優斗君をそんなふ、フシダラなお店に……!」
案の定――響也もその誤解が発することを承知の言い回しをしたのだが――皐月が喰ってかかる。ここまでは響也の予想通りだったのだが、その後サレナが「……駄目」と小さくつぶやいたのには、目を丸くした。皐月も同じく。反応できなかったのは、敵への対応に必死な優斗だけだ。
「おいおい、小さい穣ちゃん、何で駄目なんだよ!?」
笑う。笑ってしまう。死ぬかどうかの瀬戸際で。この人形など物の数ではないが、自分達の頭上には悪意を撒き散らす破壊の女神がいる。ほんの、虫を払う程度の動作を見せるだけで、俺達はバラバラになるのに、笑ってしまったじゃないか。
「……分からないけど、駄目」
もう一度、少女は言った。可憐な乙女だ、全く。
笑いは場を和ませる、緊張を強いられる場だからこそ、笑顔が必要な時がある。
それで、長生きできることもある。
だが、しかし。
「っ……!」
見てはならない、分かってはいるのに見てしまうこの行為は何だろう?
そんな響也の思考を遮るように、激痛が走る。
眼に。
「響也さん!?」
皐月が駆け寄る。自分がどうなっているか、分かる。眼をやられた。見ちまった、あの悪魔。初めて肉眼で見た【魔王】は、太陽を直視した如く、響也の「良すぎる眼」に損傷を与えた。あとコンマ一秒、「視続けて」いれば再起不能なまでに焼き尽くされていただろう。
「撤退だ!!バレたぞ!!」
今この場にいるはずの渚慶太が、死体も無く消えたことで本物でないことは、【魔王】に気付かれた。あの一瞬、閉る寸前の瞼の裏に残る【魔王】の顔には確かな怒りがあった。謀られたことへの、狂いそうなまでの憎しみが。
『オ、ォオォオ、オオオォ、オオォ!』
巨人が吠える。その巨躯故に、緩慢にさえ見る速度に見えるが――恐ろしいまでの速度で、明確な殺意を持って、その巨大な手がふるわれる。
「慶太……!」
皐月が呟くのが聞こえた。愛する男の名を。
最悪の暴力を駆逐するための、さらなる暴力を有する存在の名を。
目前にいた鳳明日那を無視して、【清姫】の意識は「移動」を開始する。
それまで一点に集中していたが故に散漫になっていたあらゆる感覚の整備を行う。
人間でいれば、髪の毛ほどの太さも無い針に刺された感触と跡が、そこにはあった。
さらには微生物にも満たないサイズの「動物」が動く感触。
その到達点は……。
「なんだ、気付かれたのか」
渚慶太が、いた。
【清姫】の本来の姿、この巨躯に力と意思、悪意をみなぎらせる中心、心臓とも脳とも言える重要器官の目の前に。
危なかったことを、【清姫】も認めざるを得ない。
ほんの数秒遅れていれば、渚慶太はこの核を破壊していただろう。
通常兵器……拳銃だろうがミサイルだろうが傷つかないし、戦士による攻撃でも生半可な攻撃では同じ結果だが。
この男の、人類の守護者たる男の拳は違う。
「【龍脈】の子」と鳳明日那が告げたように、まさしく目の前の男は、この世界が人類種を存続させるためだけに産み落とした存在は、人の常識は勿論、【魔王】と称される自分達の常識さえも通用しない。
「外にいる子たちも、ここまで辿り着いてきた子たちも、全部囮だったのね?貴方をここにたどり着かせるための」
「まあそういうこった。少しばかりだが、楽に辿りつけたぜ」
「暗闇の中、良く来られたわね?」
生き物の体内、そこは光など一切立ち入れない暗闇だ。その血管の如く入り組んだ道を、しかし慶太が最短の道で辿り着いたことは、跡を辿れば【清姫】にもすぐに理解出来た。
「暗闇か、まあ、そうだな。だけど眼を凝らせば十分だ。知り合いに随分、眼のいいやつがいて、ちょいと『コツ』を教わったんだ。少しばかり見え方が異なるが、まあ、すぐ慣れる」
今、慶太が見ているのは光の世界だった。全ての命……それを光としてとらえる世界。目の前にいる【魔王】の核は「光」というには余りにも強烈すぎる。響也であれば、間違いなく両目の視力を失うだろうが、慶太は平然としていた。
己もまた、同質同量の力を有しているが故の結果だった。
「でも、随分と大変だったでしょう?見て分かるわ、傷だらけじゃない」
「まあ、おかげでデートには間に合ったみたいだし、この程度は何のハンデにもなりゃしない」
最初、慶太が乗り込んだ時に真っ先に【清姫】が……己の意思とは無関係に起動させる……自動防衛システムが起動した。全身にいきわたる蛇の群れ。それが慶太に百単位で一斉に襲いかかり…。
その全てを、慶太はねじ伏せた。
進むごとに蛇の数、強度、速度が、増していった。
だが、慶太は。
だからこそ、慶太は。
道の分岐があった際に常に、光が濃くなる方向、蛇が強靭化していく方向に歩を進めた。
ここに辿り着く手前、そこにいる蛇は一匹が並の【魔獣】よりも余程厄介な強さになっていたが、それさえも、叩き伏せて。
「だとしても……」
「なあ、おい」
続く【清姫】の問いかけを、慶太は断ち切る。
飽きたように。
【清姫】が明日那にそうしたように。
「話はそれくらいでいいか?生憎と、俺はお前ほど優しくねえから、時間稼ぎには付き合ってやらねえぞ?」
相手を遥か格下に見た、態度。
その態度に驚きこそすれ、不快さを【清姫】は感じない。
『焦燥』、それを一万年生きて初めて知る【魔王】は、己の中に生まれた感情を制御しきれない。
「終わりにしようぜ、さっさと戻って、弟子にいろいろ教えてやらなきゃならねえんだ」
そう言って慶太が「構える」。獣が獲物を襲う際の前傾姿勢ではない。武を学んだ人間が、敵対者を迎え撃つときのように。己の拳を腰に置く。
「貴方は、何者なのかしら?」
一言【清姫】が問いかける。最後の問いかけに、慶太もまた、ただ一言、決まった答えを返す。
「見てわかるだろ、俺は、人間さ」
その一言が終わるや否や。
動いたのは【清姫】だった。
敵に向けて一直線に、最短距離を。
かつて出したことなど一度もない、明日那が「神話の時代」と語る、今よりもはるかに強力な【龍人】がいた頃でさえ、出す必要のなかった「全力」を出し。
最速の速さで。
「くっそうー、今の何なんだよ!?」
「ただのカウンターだ」
「ただのぉ!?俺のほうが師匠より早いのに、何で俺の攻撃が当たらないで師匠の攻撃が当たるんだよ!?ぜってー何か、細工してんだろ!?」
「細工ではない。ただの技術だ」
「技術、だって?」
「お前には、今までのお前には不要だったものだ。そして、これからも決して必要不可欠な代物ではないだろう」
「……意味分からねえよ」
「俺がお前に教えることが出来るのは、技術と心構えだけだ。あと何カ月か【霊式術】の鍛錬を積めば、お前はその資質だけで俺も、雅人も、明日那さんさえも超えるだろう。それだけの資質がお前にはある。そしてその牙は、【魔王】にさえ届くだろう」
信頼と羨望、そして僅かな嫉妬が混じり合った男の眼。
「お前が至ろうとする領域は、俺たちでは立ち入れない世界だ。お前にしか立ち入ることのできない、そんな場所だろう」
自分しかいない、そんな世界。そういわれた気もした。望むところだ、と思った。
「そんな世界にお前が至った時、俺も、誰もお前の傍にはいられないだろう。だから俺がお前に出来ることは、技術をお前の傍に置く程度のことだ。それがもしかしたら、ほんの僅かな誤差程度だろうが、お前の勝率を上げるかもしれない、と期待してな」
「なあ、師匠」
「何だ?」
「何で師匠はそんなに俺に期待するんだ?あんたのダチは、俺が師匠からいろいろ学ぶこと、よく思っていないんだろう?」
「だたの確率の問題だ」
「確率?」
「お前が限界まで強さを極めた時と、お前がそこまで至らずに、悪意の権化である奴らが存続した時で、大きく変わる」
「何が変わるんだよ?」
「俺と、俺が愛した女の宝が、幸せに生きられるかどうかの、確率だ」
その時。師は、戦士でも男とでもなく、ただの父親の顔になっていた。
「本当ならば、俺が自分で果たしたい役割だけどな」
「……俺に任せてろよ」
「ああ。任せるぞ。その過程で、必要な時だけ、俺が教えたことがほんの僅かでも役立てば充分だ」
(ああ、役に立ったぜ、師匠!!)
音速を超えた速度で迫ってきた【清姫】に対しての慶太の反撃は、師より授かった人の技術。
後の先。
相手の速度を利用した、反撃・
カウンターによる一撃!!
(あんたの代わりに、あんた達の宝を、守ってやるよ!!)
並の人間であれば……。
否、いかに【霊式術】で肉体を強化した【龍人】、あるいは【魔獣】であろうと、受ければ肉片さえ残らずに四散するであろう一撃を、しかし【清姫】に対しては、同じ結果を出さなかった。
痛み……ダメージと呼べるものを、確かに与えている。
しかし致命には届かない。
「う…………ぁあああああ!」
「チッ……!」
初めて体感する、明確な痛みと呼べるものに対して、戸惑うように、悶えるように、呻き声が【清姫】の意思とは無関係に漏れていく。
対して慶太もまた、己の、全身全霊を込めた一撃が、届かなかったことに舌打ちする。
【魔王】ってやつは、毎度毎度、こうだ。
師匠め、何が俺にしか入れない領域だ。
こんな化物どもと俺を、一緒にすんじゃねえよ!
あと一撃。
「ぐうっっ!」
【清姫】が後退する……それを逃す気は慶太には毛頭ない。その腕を掴む。瞬間、【清姫】の顔が歪んだ。必死の形相から、獲物が思い通りに動いたことを歓喜する笑みに。笑みが語る。果たして捉えたのはどちらかしら?
瞬間、清姫が口を開く。
コアと呼ばれる部位、その胎内で精製し熟成し、育て上げた切り札。
「かぁぁぁぁっ!!!」
白金の蛇が、【清姫】の口内から射られる。
音速の数倍の速度で、生物の反応速度を超えて、慶太の頭蓋目がけて。
渚慶太の肉を貫く感触は、これまで【清姫】が喰らってきた、全ての血の味が無価値に感じられる陶酔を与えた。
渚慶太の骨を断ちきる感触は、無垢な人間の魂を汚す時の、あのオーガズムとも言える感覚を万倍に凝縮した恍惚を与えてくれた。
だが、しかし。
渚慶太は死んでいなかった。
「捉えたぜ……!」
【清姫】の「蛇の舌」は確かに渚慶太の肉を裂き、骨を砕いてはいた。
【清姫】と慶太の頭蓋の間に挟まれた、慶太の両腕の、肉と骨を。
そして、限界を超えて鍛えられた渚慶太の筋肉は、捉えた蛇を逃さない。
「お前は」
戦場において、命運を左右しかねない、希少な時間を。
渚慶太は言葉を発することに使用した。
「まるで」
渚慶太の、自分を見る目。
どこかで見たことがある。
その意味を知ってはならない、言葉の先を聞いてはならない、その理性を【清姫】の本能が突破する。人ならざる者の思考速度は、ほんの十数分前。初めて渚慶太と対峙し、突きつけられた言葉を思い出させる。
「おい、一つ提案だけどよ、聞くだけ聞いてもらえるか?」
「あら、何かしら?」
「今の俺は気分がいい。普段はこんな意味の無いことはしないんだがな。力を抜け、抵抗をするな。そうしたら一切の痛みなく排除してやる」
「それを断ったらどうなるのかしら?」
「別に結果は変わらねえ、過程が変わるだけだ。俺の提案を受け入れなかった事を後悔して死ぬことになる」
瞬間。
【清姫】は思い至る。
渚慶太の目、それは自分の目だった。
人の命を玩具にし、弄び、蹂躙し、そのうえで思う。
人の浅ましさに、脆弱さに、醜さに。
それをあざ笑う時の、自分の目と。渚慶太の目は同一のものだった。
耳を閉じたい、聴覚を封印したい。
だが、その願いよりも速く。
慶太の言葉が、聞こえた。
音としてではない、あるいは「思念」とも言える形なき姿で。
はっきりと。
「お前はまるで、人間みたいだな」
その言葉がたどり着くと同時に、渚慶太の拳が、【清姫】の核に直撃し、破壊という名の終焉を叩き付ける。
「あの馬鹿が……!!」
目の前で静止し続けていた【清姫】に「何か」が起きた。
それを察したのは自身の肉体に絡みつき、骨を軋ませていた【蛇】が糸が切れたように落ちていき、崩れたからではない。
目の前の、女神をそのまま具現化したような完成された美の象徴……そんな陳腐な表現しか出来ない【清姫】の写し身の形相が変貌したからだ。
(女として、こんな顔で事切れたくないな……)
そう明日那に思わせる、絶望の表情。地獄の底の、更に底。深淵に呑みこまれる瞬間に時間を静止させられた……。
そんな【清姫】の顔を見て、人類の天敵であり、己の血縁を残虐としか表現できない殺し方をした存在であると認識したうえでなお、哀れみさえ明日那は感じたのだが、それもほんの一瞬だ。
自分と同じく黒蛇からの拘束から逃れたものの、全身を明日那以上の力で締め付けられた雅人は身動きが取れない。
「雅人さん、少しばかり我慢してもらいますよ」
全身の骨に罅が入っている雅人を背負う。さすがの雅人も僅かに呻いたがそれだけだ。
同時に「鳳凰」を形成する。肉体の不調、【魔王】と相対したことによる精神的な疲労は、本来の「鳳凰」よりも僅かに小ぶりな姿となるが、人二人を脱出させるには充分だ。その背に乗り、振り返る。
「破壊の女神」である、漆黒の巨人は、ゆっくりと、だが確実にその巨躯を崩していった。
壊死していく。肉が溶け、骨が剥き出しとなり、その骨も灰となり、風に吹かれて跡形もなくなる。
そうして滅ぶ様は、まさしく一つの命が失われる姿そのままであり。
美しい、とさえ明日那は思った。
「ょう……師匠!!!」
【魔王】の遺骸が変貌した膨大な灰、それによる白煙に巻き込まれながら、優斗は叫ぶ。どちらに向かえばいいのか、どこにあの人はいるのか。
「……優斗!!」
傍に立つサレナに手を掴まれる。
「あの人は、大丈夫」
「え!?」
「あの人は、帰ってくるから」
この時、初めて優斗はサレナの気持ちを、一切の誤差なく受け入れることが出来た。
「ありがとう、心配してくれて」
その言葉が、サレナに届いたのかは分からない。この煙さえなければ、自分の意思とは無関係に頬が赤くなることに戸惑う少女の顔が見えたのだろうが。
「慶太……」
皐月もまた、慶太のことを想う。あいつはきっと生きているだろう。だけど、また傍にいられなかった。それだけが寂しい。それでも皐月は自分に出来ることを果たそうと誓う。
いつかきっと、彼と隣に立つことがあった時、己の弱さに後悔しないように。




