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少年の闘い

 誘われている、と分かっていても追うことを止めることはできない。

 護ると決めたのだ。

 私がそう決めたし、慶太が決めたのだから。

 優斗だけではない、サレナもいる。

 あの子のことを放ってもおけない。

 蝙蝠型の【魔獣】が向かったのは市街の森だった。緑との調和、とやらを推進しているこの街はあちこちに緑の跡がある。そこを利用する一般人もいる。皐月はすぐに通信機を使って連絡を入れる。森林公園を利用している人間がいれば避難誘導、立ち入りを禁止させて……。

 だが、すぐにそれが無駄であることに気づく。【魔獣】が降りた森は私有地だったのだ。自然に生やした儘にある鬱蒼と生い茂った木々。都内にあるとは思えない、異界と言える木々の空気が皐月の鼻孔を刺激する。

 森の奥、進めば進むほどに木々の密度が増え、早朝にも関わらず日が沈んだように暗くなっていく。

「……!」

 数分、走りきって突然空間が広がった。木々が光を遮るのは変わらないが、動き回るのに十分な空間。

 そこにあの黒ずくめの男は立っていた。

「鳳戦士団の橘皐月だな」

 男が自分の名前を知っていることに眉をひそめてしまう。だが動揺はおくびも出さずに

「ええ、そうよ」

 と答えた。

「通告よ。その二人を解放して、投降しなさい。そうすれば、痛みなく、眠ることが出来るわ」

「それは出来ん。私には果たすべき使命がある。それを果たすことが我が命題。その中に、狩人に屈することも、自身の所有物でもないこの命を投げ出すことは含まれていない」

 そう告げて、男は指を鳴らす。それを合図に蝙蝠が地上から離れる。優斗とサレナを乗せたまま。

「ちょ……!」

「あの二人は、我が主への供物だ」

「…………貴方の主って、【魔王】よね。それが何で優斗君とサレナを?」

「あの少年は、元より主にとっての興味の対象だった。それとは別に、我が主は贄を欲している。なるべく、若い贄を」

 男の言葉が言いきるか否か、皐月は仕込んでいたナイフを投擲していた。人間を超える反射神経を持つ男はそれを避けるが、頬に横一文字の赤い線が生まれた。

「通告は終わり、貴方を排除する」

 静かな言葉は、宣戦布告の合図だった。

 

 鳳戦士団の所有するオフィスビル。

 表向きはだれもが知っている大手料理チェーン店ではあるが、このビルを出入りする「普通の社員」は誰一人知らない、フロアがある。

 鳳明日那の私室である。

 ビルのワンフロアの敷地ほぼ全てを利用したその部屋で座禅を組む明日那は、僅かに頬を笑みの形に象る。

「なるほどね、『ここに』いるのか」

 確信を持つと、手元に置いていた携帯電話に手を伸ばす。


 皐月が初めて戦場に立ったのは、まだ彼女が十三の時だった。

 当時「学院」の中でもトップの成績を誇り、元々の正義感から卒業後は何処かしらの組織に所属し、この力を生かそうと思っていた。

「学院」では狩人を目指す子供に対して、卒業までに多くの訓練を課す。その中には徹底的に狩人の過酷さ、報われなさ、恐ろしさを突き付ける「逆尋問」と言われるモノもある。それでも尚、戦いを決意する精神的な強さを持つ者こそが、狩人にふさわしいというのが組織の考えだった。

 その日のそれも、「逆尋問」の一環だった。

 初めて、皐月は【魔獣】と成り果てた人間の実物を見た。

 この世のあらゆる生物とは違う、歪な要因で変わり果てた生物。その時見たのは、下半身のみが四足獣に変貌したキメラ型であった。その姿を見て、恐怖を与えるのがその訓練の趣旨だったのだが、管理の甘さから、そのキメラ型が逃走した。

 幼き戦士は……幼さ特有の万能感を有していた少女は、彼我の力の差を大きく見誤った。

 初手で全力の体当たりを食らい、皐月は身動きの取れない状態になった。

 迫りくる怪物、自らの血肉を食らおうと迫るキメラ型への恐怖に、皐月は涙を流した。自分が何もなせずに死ぬことへの恐怖があった、これから訪れる痛みへの恐ろしさがあった。

 それを吹き飛ばしたのは、一人の男だ。

 皐月がこれまで見た誰よりも強かった。

 自身の数倍の重量を持つキメラ型を一蹴した男の姿を見た時の、あの時の想いを皐月はいまだに忘れない。

 その鮮烈な出会いが、その瞬間の高揚が、橘皐月を真の意味での戦士へと変える。

 戦いへの恐怖と戦士の回廊の到達点を、同時に見知った。

 その半年後に橘皐月は「学院」を次席で卒業する。

 本来であれば首席で卒業できた彼女がワンランク落としたのは、何のことは無い。

「憧れ」と出会うため、その姿に近づけようとした結果に過ぎないのだ。


 鉄球の重みを持った拳が皐月の脇腹へとめり込む。

「がっ…………!」

 橘皐月と十条秀一の戦いは、一分に満たない時間で終結した。

 その間に行われた攻防。

 常人をはるかに超えた身体能力を有し、尚且つ高度な技術を要した両者の戦い。

 技量自体が同等であれば、その結果を導く要因は場の状況だったり、単なる運の時もある。

 この場合は、皐月の、心の問題だった。

 無論、皐月の心が本来のものであれば結果が変わっていた、というわけではない。

 それほどに目の前の男は強かった。

 だから悔いはない、と言えるわけではないが。

「……死ね」

 男が見下ろす。己の拳を刀に見立て、そのまま振りおろそうとする。

 が、皐月への斬首は行われなかった。

 いつだって、いつだって、その背中は手の届く位置にあっても、皐月にとっては遠い。

「…………慶太」

 その背中の名を、皐月は小さく呟いた。


 優斗が攫われたことを聞いた慶太は、即座に行動に出ていた。

 死屍累々となった廃ビルを飛び出し、その足でマンションへと向かう。

 その途中で明日那からの連絡を受け取った。

 優斗とサレナが蝙蝠型の【魔獣】に連れ去られ、皐月が敵の幹部と戦闘に入ったこと。

 本来であれば追うべきは蝙蝠型の【魔獣】であったが、慶太は自分の直感に従い、皐月の方に向かうことを優先した。

 慶太の勘は、正しかった。

 ほんの数秒遅れていれば、皐月の首は胴と分断されていたのだから。

「…………慶太」

 皐月が呟く。優斗とサレナでなく、自分を優先させてしまったことを恥じる声だった。何処までも真面目な皐月らしい、と慶太は思う。

「手を抜いてんじゃねえよ、皐月」

 慶太の口から出た言葉は厳しい。

 その手に握られている赤黒い塊……十条秀一の手首の肉を、まさしくゴミの様に放り捨てて、慶太は叱責した。

 飛び込むと同時に、慶太は敵を仕留めるつもりでいた。

 だがギリギリの処で、その襲撃を避け、あまつさえ慶太に反撃の一撃を放ってきた。その結果、慶太の力任せの動きで体の一部を削ぎ落とされることになるのだが。

 しかし慶太が二度の攻撃のチャンスを持ちながら、命を落とさずに、体の一部を欠損する程度で済ませているのは、驚くべきことだった。

 【魔獣】に……人から堕ちた獣の中では、今まで戦ってきた相手の中でも十指に入る力量の個体だ、と慶太は判断した。

 それだけの技術……獣では持てない、長い長い反復と鍛錬の結果、敵でなければ賞賛したくなる技術を持ちえた男だからこそ、皐月は勝てなかったのだと分かってもいた。

 【魔獣】とは「声」を聞いてしまい、獣へと成り果てた存在の総称。

 だがその全てが、決して怪物じみた姿になるわけではない。

 目の前の男の様に、人のままの姿を有しているものもいる。

 それでも【魔獣】の呼称は変わらない。「魔人」ではない。

 かつて慶太が師から教わったことだ。


「本来、人は人を殺せるような精神構造をしていないんだ。人間の歴史の中では、それこそ数百単位の人間を殺したシリアルキラーもいるが、それはもはや人ではない、人の似姿をした別の生物だ」

「へえ」

「だから、俺達はあいつらを【魔獣】と呼称する。奴らは人ではない。獣だと。たとえ人の似姿をしていても、それは似ているだけで、人ではないと自己暗示をかけるために」

「それって、ただの言い訳じゃねえかよ」

「そうだ。ただ罪悪感から逃れるための口上だ。だけど、そうでもしなければ戦えないんだ、人っていうのは」


 だから、皐月は負けたのだろう。

 古臭い言い方をすれば「拳で語った」というやつだ。

 目の前の男の人となり、性格や思想などは分からない。それでも、男が持った技量……多大な時間を費やし、苦痛を耐え抜き、その果てに得た力。

 人同士であれば、尊敬の念すら持つであろう努力の結晶。

 それが分かったから、皐月は躊躇ってしまった。

 人の残滓を、目の前の男から察してしまったから。

 自分の行いを、疑ってしまったから。

 皐月らしいと思う。

 人間らしいとも思う。

 自分とは大違いだ、とも思う。


 渚慶太の正面に立ち、その瞬間に十条秀一はここが自らの死地であることを確信した。

 いや、死地と言うのはあまりにも豪壮な言い方だ。

 自分はこれから狩られる。

 一方的に。

「おい、あんた」

 渚慶太が言葉を放ってくる。その一言一言、呼吸の一つでさえが十条の心臓を握る圧迫感がある。

「優斗とサレナを何処にやった……とは聞かねえぞ。もう分かっている。中心街のシティホテル、そこに連れて行かれたことは分かっている」

 その内容で十条は悟る。なるほど、と。これでいよいよ、自分にできることはほんの僅かな時間稼ぎで、そのためには己の命を駆使する他ない。せめて会話の一つでも繋げる事を出来れば数分の時間でも稼げただろうが……数十秒稼げれば御の字、恐らくは数秒だろう。

 あの方の前に、この男を立たせたくない。

 それだけが今の十条の願いだった。

 渚慶太にまつわる全ての噂、それが真実以上の事実であった。

 暴力を凝縮し、人の形をしたのが目の前の男なのだ。敵味方問わず、その全てに暴力を撒き散らす嵐。

 主が負けるとは思わない。

 だが傷を負わされる可能性がある。

 それだけで充分だった、彼がほんの数秒の時間を稼ぐため、命を捨てるのには。

「かつて人であった頃」に得、「人で無くなった後」も研ぎ澄ましてきた技術。

 全ての命を凝縮した一撃を、人でありながら怪物の力と精神性を持ちえた敵へと放つ。


 少年にとって、学校とは決して心地よい場所ではなかった。

 この中にある気持ちが他のクラスメイトにも共通する気持ちなのか、あるいは持っていても自分の様に大した悩みと思わないのか、それは分からない。

 多分、他のクラスメイトは上手なんだろう、と思った。

 昨日のドラマとか、何とかという芸能人が何をしたとか、何組の何某君と何組の何某ちゃんが付き合っているとか、そんな自分にとっては一ミリも関心も湧かない会話を我がことのように語る事が。そんな彼らと足並みを合わせる事が……少年には出来なかった。

 クラスメイトと自然に垣根が生まれる。

 別に、それでも良かった。

 ある日、クラスメイトが……恐らく気まぐれだろう、少年に声をかけてきた。クラスの委員長で、バスケ部で一年生ながら唯一のレギュラーを勝ち得て、友人も多い。背も高くて、顔立ちも整っている、勉強もできる。自分とは何もかもが違うが、それでも妙にウマが合った。

 向こうには大勢の友人がいたが、こちらを気にかけて声をかけた。机を並べて昼食を食べたり、帰宅を共にした。

 あの日の出来事は、忘れない。忘れられない。忘れてはいけない。

 その日はたまたま他の友人がいなかった。

 二人で、他の中学生がするようなたわいもない会話をして歩いていた。

 すさまじい衝撃音。

 たまたま、そこを通った大型トラック……居眠り運転をして、蛇行運転をしていた……が二人に向けて突っ込んできた。事故の瞬間を優斗は覚えていない。眼を醒ましたのは病院だった。自分はかすり傷程度で済んだことを聞いて、その後、友人が死んだことを聞いた。

 何かが悪かったわけではない。

 だけれど。

 退院し、学校に行った。

 女子生徒のすすり泣く声。クラスメイトの問い詰めるような視線。視界に入る、友人の机に供えられた華。

 自分の見慣れた机、その引き出しにある一枚の紙を、見た。

 書かれてある言葉を、見た。

 多分、クラスメイト全員の総意だろう内容。


「お前が死ねばよかった」


 胃から込み上げてくるものを優斗は止められなかった。

 衝動的に教室を飛び出した。

 走った。

途中で教師にぶつかった。何かを叫んでいるのが分かったが、内容までは聞き取れなかった。

 靴も履かずに外に飛び出す。

 何処に逃げればいい。

 何処にも逃げられない。

 何処にも、何処にも。

 多分、そこに立ったのは偶然ではない。

 望む場に立ったのだ。

 買い物途中の主婦や、仕事中の営業マンの驚愕の顔が目に入るのに、何故か声は聞こえなかった。

 車の行き交いの激しい交差点のど真ん中、そこにいた。

 そして迫ってくる車、重い衝撃、優斗の体は紙の様に宙を舞った。

 

 それから二週間の間の記憶は殆どない。

 ただボンヤリとした意識の中で、いつも笑顔を浮かべている母親と、滅多に家に帰ってこない父が、口論をしているのを耳にした。いや、口論ではない。母が父を責め立てているのだ。「どうして」とか「この子のことを」とか、そんな風に。中学に上がってからほとんど話をしていない父に同情はしなかったが、優しい母にそんな言葉を吐かせてしまったのは恐らく自分が原因だろうと思うと、それが悲しかった。

「事故」から三週間した頃、父親が一人で見舞いに来た。母はいなかった。その時間を狙ってきたのか、あるいは口裏を合わせたのかは分からない。

 父は一つ一つ言葉を選ぶように、自分の仕事が一区切りついたことを話し出した。その結果、まとまった休みを取ることが出来たことを告げ、今度遠出をしようと言った。

 父の話を聞きながら、自分の心が黒いものに埋められていくことが分かる。

いつも家にいなかったくせに。

こうなってから慌てて帰ってきて、いきなり父親のそぶりをして。

「優斗」

 父が名を呼んでくる。

「お前が無事で良かった」

 その一言が全てを破裂させた。

 子供の癇癪だと分かる。傷を負った息子にかけられる、最大限の言葉だと分かる。

 それでも、その言葉は今の優斗が欲するものではなかった。

「今更」とか「何で」とか言葉をぶつけた。父は一つも動じず、こちらを見つめてくる。慌てて看護士が飛び込んでこなければ、近くにあるモノを投げつけていた。それで怒りが収まるわけでもないのに。

 それが、両親が死ぬ二日前に交わした会話だった。

 

 渚慶太の拳を受け、十条秀一の体は砕かれ、その勢いのまま大木へと叩きつけられた。

 生命を存続させるに重要な臓器の大半を腹部からはみ出させ、それでも尚【魔獣】としての生命力は十条から命を奪うには至らなかった。

「が…………は、が、ぐ、が」

 痛みに耐えきれず、その口から空気の漏れた様な音とうめき声が漏れる。

 その様を、渚慶太は見下ろしていた。

 憐れみも、蔑みも、優越感も何もない。

 ただ見下ろしていた。

 それでいい、と十条は思う。

 どのような治療をされようと、自分は死ぬ。恐らく三分と持つまい。だからその三分、時間稼ぎに全てを使うつもりだった。

「皆川朱鷺也と皆川美弥子を殺したのは、お前か?」

「……そうだ」

 皆川朱鷺也。『我々』の同胞を多く狩りつくした優秀な戦士。

 そして一人の……父親。

「よく師匠を殺せたな。手前は強いが……師匠には及ばねえ」

 その通りだ。皆川朱鷺也は才覚の面では非凡であったが、恐ろしく粘り強く、多くの経験を積んだ男だった。あるいは戦士としての皆川朱鷺也が相手では……自分は勝てなかっただろう。

「……戦士たる皆川朱鷺也には……勝て、なかっただろう……だが、普通の、ただの、父親であれば……はるかに容易い」

 父親と言う生き物の強さと弱さを自分は知っている。

 ほんの僅かでよかったのだ。自分の狙いが父ではなく息子であること……と示す所作をするだけで、一瞬の、致命的な隙を生み出せた。そこを突いただけにすぎないのだ。

「そうか」

 渚慶太が怒ると思ったが、そうはならなかった。

 …………あと二分。

「あんた何者だ?師匠にしろ皐月にしろ、隙を突こうが何をしようが、人間の時から、ある程度の訓練を積んでいなきゃ勝つのは無理だ。そんな強い奴が、人間をやめる理由っていうのは何なんだ?」

 渚慶太の疑問を十条は笑い飛ばしたくなる。

「馬鹿馬鹿しい、さすが『人類の守護者』が言いそうな言葉だ。人間をやめる理由、だと?そんなもの星の数ほど存在する。くだらない。むしろ人でなければならない理由のほうが、僅少ではないか」

 渚慶太の顔は変わらない。まるで自分が何かの観察対象になった気分だ。

 同時に、自分のいかなる言葉であっても、この男の心は揺さぶることがないと思った。

 だから、か。

 本音が絞り出た。

「俺の妻と娘は……人間に殺されたんだ!」

 叫ぶと同時に、口から血が吐かれた。今更だ。痛みなどどうでもいい。ただ世界の理不尽を、渚慶太にぶつけたかった。自分の命を奪ったからではない、全てを失った自分に救いを与えてくれた主に害成す男だからこそ。

「ごく普通の善良な女だった……無垢な子供だった……それが、恐怖と、痛みを、与えられながら……殺されたんだ!だがな、奴らに裁きは与えられなかった。人が人を守るために築いた法が、奴らの様な畜生にも劣る下種を守ったんだ。本来守るべきである者たちを守ることもせずに!」

 もう三十年も前になる。だが怒りは風化することなく、なお彼の中に燃え盛る炎となって燻り続ける。

「……あの方は……私に救いを与えてくれたのだ」

 

 酒に溺れ、生きているのか死んでいるのかも曖昧な日々。

 その時、あの女神は自分の前に現れた。

 千度殺しても飽き足らない三匹の屑を連れて。

「ねえ、この子たちを、どうしたい?」

 甘い声に、心臓を鷲掴みにされた。

「いいのよ、貴方の思い通りにして。私のお願いを聞いてくれたら」

 その願いが何かと聞く必要はなかった。その代価が己の肉体だろうと魂だろうと尊厳だろうと差しだすつもりだった。

「私に全てを捧げて、尽くしなさい」


「だから、人をやめたのか。復讐のために」

「そうだ!罪に対して、当然の裁きを下す機会を与えてくれたのが我が主だ!それが人でなかったから何だというのだ!」

「いや、そうだな、あんたの言うことは正しいよ」

 あっさりと、渚慶太が肯定してきた。

「自分の女房と娘が殺されたんだろう?そんな奴ら、殺したいと思って当然だろうが。俺だって同じことをするぜ。何をしてでも、その屑どもの居所を突き止めて、原型が残らなくなるまで痛めつけて、小便かけて豚の餌にしてやるさ」

 渚慶太の言葉には一つの嘘もなかった。本音だった。

 ……あと一分。

「だけどよ、あんたの復讐は、何も怪物にならなくてもできたはずじゃないか。なのにあんたは、あんたの中にあった弱い心を奴らに付け込ませた。結果としてあんたは」

 そこで初めて、渚慶太の目の中に感情が点った。

 まぎれもない憐れみの色だった。

「復讐のために怪物になって、悪魔の手助けをして、二度と家族に会えなくなっちまった。これからの長い眠りの中で、あんたはどれだけ願っても家族には会えないんだ」

 その眼に。

 十条は全てを納得する。

 渚慶太という男は、恐らく孤高なのだろう。

 人の喜怒哀楽、その全てを理解しながら、全ての敵を打ち倒す。

 もし仮に、【魔王】の全てを倒す結果を迎えたとしても、誰一人この男を賞賛することは無いのではないか。もしかしたら、渚慶太自身が新たなる脅威として認識され……その末路は。

 だが、それでも渚慶太は己の歩みを止めないのだろう。

 その強靭すぎる強さゆえに、止められるものはいない。

 その屈強な精神力ゆえに、自ら止めることもできない。

 何とも哀れで、救いがない。

 だが、それは。

 自分の様な、弱者が憧れる生き方であるかもしれない。

「だが、渚慶太」

自然と、言葉が漏れた

 笑いさえ浮かべていたかもしれない。

「俺は、後悔をしていないぞ。何一つだ」

 たとえ天国への切符を捨てていたのだとしても。

 あの時、あの瞬間、自分を確かに救っていたのはあの方で。

 その方へ尽くすことに喜びを持ちえていたのは否定させない。

 たった一つの悔いさえ残さず、十条秀一はその生命活動を停止した。


『ようようお疲れ様、お疲れ様。さっすが渚慶太!』

 バスケットボールサイズの出来そこないの粘土細工のヒヨコに賞賛の言葉をかけられ、慶太は眉を顰める。

「……具合はどうだ、皐月」

 ヒヨコの言葉には答えず、屈んで皐月に声をかける。

「あ、うん、明日那さんのおかげで……」

 言いながら皐月は隣で短い羽根をパタパタ震わせるヒヨコを見る。

『安心しろ、貴様ならガムテープと接着剤で修理してやるところだが、可愛らしい皐月は私が全身全霊を持って治療する。この綺麗な体に傷一つ残すものか!』

 そう言いながらヒヨコはグイグイと皐月に顔を押し付けてくる。どう対応したら良いのか、皐月は苦笑いを浮かべる。

 その腹の傷は既に治されていた。

「……時間がない、俺は先に行くぞ。さっき言っていたホテルまでの道を教えろ」

『応とも。その子を連れて行け』

 言うと、慶太の方に同じ姿形のヒヨコが……サイズは野球ボール程度に縮小されていたが……肩に乗っていた。

「場所だけ教えろ」

 嫌悪感を隠そうともせずに慶太がヒヨコを鷲掴みにする。

『お断りだね!ミトコンドリア以下の知能しか持たないお前に道を教えるのは、いかに私でも難儀だ。時間がないだろう、さっさと行くぞ。そうしないとお前の可愛い子供たちが』

 間をおいた。その後にそれまでののんきな口調が一切消え、彼女本来の言葉に代わる。

『死ぬぞ』

 ハッキリと聞こえる舌打ちをして、慶太が走りだす。獲物を狙う肉食獣のように、ではなくそれを超える速度で、あっという間にその姿は見えなくなった。


『どうしたんだい、皐月。まだ傷が痛むかい?』

 ヒヨコがほぼ零距離で訪ねてくるので、皐月はやはり苦笑を浮かべたまま「いいえ、もう大丈夫です。ちょっと疲れただけですけど……あと一分で動けます」と答えた。

 今皐月の目の前にいるヒヨコの様な生物、そして今慶太の肩に乗るヒヨコ。

 これらは全て鳳明日那が『生製』した疑似生命体である。

その全ては明日那と視覚や聴覚と言った五感を共有している分身ともいえる存在だ。

 十の命を生み出せば、十の五感を共有し

 百の命を生み出せば、百の五感を共有する。

 それがどのような感覚なのか、皐月には想像もできないが、明日那曰く「常人なら狂うよ」と笑いながら言い、「だから私には使える」とも言っていた。

 まあ、それよりも。

 相も変わらず遠い慶太の背中、もう見えなくなった背中を想い、皐月は短く息を吐く。

『何だ、やっぱり痛いんじゃないか』

 とヒヨコが言った。

「いえ、別に傷は……」

 肉体の強化を応用した、新陳代謝の異常促進。傷は既に癒えている。もっとも体力の回復には多少の時間がかかるが。

『傷は治っている、だけど痛いんだろう?悔しいんだろう?あの馬鹿と肩を並べられないことが。隣にいられないことが』

「……」

 マンガのマスコットみたいな顔が、至極真面目な声色で話しかけてくるのは何ともシュールだった。内容自体は、笑い飛ばせないが。

「別に、私は」

『全く、あの狂犬の何がいいんだか。この何年もの間、それを考えない日は無いが、答えが見つからない。あの子といい、君といい、随分とあいつにご執心だ。妬けてしまうね』

 ヒヨコの向こう側。そこにいる明日那は今どんな顔をしているのだろう。

『いけないいけない、今はそれどころじゃあないね。皐月、疲れているところ悪いが、動けるようになったら、すぐに慶太を追ってくれ。響也も行かせるし、私と雅人さんも行くことになるだろう。総力戦だ』

「え……?」

『あのホテルにいる【魔王】が、以前に私達が接触したことがある個体と同一のものだとすると、少々厄介だ。あの馬鹿が負けないにしても……あの馬鹿以外の人類が滅ぼされる危険がある』


 意識を取り戻した優斗が最初にしたことは、短くうめき声を上げることだった。

 腹部に残る鈍痛、体の芯が痛い。

 痛みは消えず、だが慣れた頃になってようやく自分の現状を把握するように努める。

(何だ……ここ?)

 建物の中だということは分かる。その周囲にあるのはアンティークな椅子や机、絵画、石像。価値があるのか無いのかは分からないが、両の指で数えきれない芸術品が乱雑に散らかされていた。

 椅子に座らされてはいるが、拘束されているわけではない。

 それでも「何かが起きる」事が怖くて、その椅子から動かず視線だけ動かして。

 気づく。

「サレナ、さん!」

 自分より一つ年上の少女。自分の中にある、暗く黒い部分を見透かした少女。

 横たわるサレナは死んでいるようにも思えた。

 過ったのは、かつていたクラスメイトの死に様。

 過ったのは、両親の亡骸。

「………………っ」

 椅子から弾かれるようにして、サレナへ駆け寄る。その体を揺さぶる。サレナが短く呻く。無事、とは言えないようだが生きてはいる。その事実に泣きたくなるほどほっとする自分がいる。

「ゆ……う、と?」

 定まらない視点。ふらふらと彷徨う瞳が、優斗を捕らえる。

「良かったわね、生きていて」

 声がした。自分のではない。サレナでもない。

 幼い、少女の声。

「!!」

 意識朦朧としていたのが嘘のように、サレナが動いた。優斗の胸倉をつかみ、引きずるようにして飛びずさる。優斗が何かの反論を言おうとして、顔に思い切り胸を押し付けられる。異様に早い、サレナの鼓動を感じた。

 一体何が……。

 

 そんな疑問が、一気に吹き飛ぶ。

 隙間から見えた「それ」が、全ての原因だった。

 純白のワンピースをまとった少女。

 一見して、自分よりも年下にも見える。

 だけど、これは。

 違う。

 優斗の本能が、一つの言葉を浮かべる。

 天敵。

 人という種族の前に立ちはだかる、悪意の塊。


「こんにちは、皆川優斗君」

 少女が自分の名を口にする。全身にはいずり回る悪寒。吐きたくなる。

 再度、サレナに引きずられる。「それ」との間合いを開くような動作だった。

「あら」

 と少女が一言。

「凄いわ、貴女。動物みたいに勘がいいのね。私がその子を食べちゃおうとしたの、気付いたのね?私の悪い癖だわ。美味しそうな子を見ると、つい……ね?でも大丈夫、私は楽しみをとっておくほうだから」 

 言葉に。サレナは答えない。

 だが少女の言葉。無邪気に吐きだす言葉が、それだけでサレナの心身を疲弊させている。服越しに伝わるサレナの鼓動。その速度が徐々に速まっていく。

「…………貴方は、【魔王】?」

「ええ、そうよ。貴方達が【魔王】と呼ぶ、貴方達の天敵。酷い話よね、他の【魔王】はともかく、私ほど貴方達を愛している存在はいないのに、天敵だなんて」

 少女が微笑んだ。常人であれば……特に男であれば、目を奪われ、同時に魂そのものを奪い取られそうな笑み。

 美しいモノが、善なるモノと決して同一になるわけではないことを、この時初めて優斗は知った。

「だからね【魔王】なんて呼び方で一括りにしないでほしいわ。【清姫】、これは貴方達が私につけた名称だけど、私も気に入っている。だから私のことはそう呼んでもらえるかしら」

 自己紹介をするように、【魔王】……【清姫】と自称する少女は言葉を継いだ。

「ねえ、優斗君?かくれんぼはそれ位にして、顔を見せてくれないかしら?私、貴方に会いたくて仕方がなかったの。だから、お願い、ね?」

 お願い、という言葉にこのような脅迫的な意味合いは含まれていないはずだ。

 自分を抱きしめるサレナの手に、さらに力が加わる。

「優斗」

 囁くように、サレナが耳打ちしてきた。

「十秒、私が時間を稼ぐ。その間にあなたは逃げて」

「え?」

 サレナの言葉の意味。それは理解できるが、その真意は読めない。

「あなたは逃げて、私は……」

 その続き。間違いなく続きがあったはずだ。なのに。

「お話は、それくらいにして、ね」

 悪魔が間近にいた。道の前にある小石をどかすような、感情が何一つない動作で、サレナを放り捨てる。幾つもの芸術品を巻き込んで壁に叩きつけられ、学校の体育館ほどもある部屋が一瞬揺れた。

「邪魔だって、言っているのよ」

 冷徹な口調。

「で、ね」

 途端にサレナに興味をなくしたように、【清姫】がこちらを見る。無垢な瞳は、まさしく幼子のそれだった。

 興味から、愉悦から、本能から。

 無邪気に、一切の悪意なく虫を解体出来る残虐さを持ちえている。

 

「私、あなたに会いたかったの。ああ、これはもう言ったわね。でも嬉しいわ。思っていたよりも可愛らしい子で。あなたみたいな子、とても好みなの」

「な……で、」

 何で。

 ただそれだけの疑問を口にすることさえ、優斗には出来なかった。

 自分が何かをすることが、たった一つの呼吸さえもが切っ掛けになりそうで恐ろしかった。死ぬことが怖い。だが目の前の存在が、死よりも恐ろしい、自分の想像をはるかに上回るおぞましい仕打ちを、笑顔で行うことが分かっているから。

「あら、怖がっちゃって、そんなところも可愛らしいけど、いいわよ、聞きたいことがあるのでしょう?口を開いていいわ、許してあげる」

 その問いかけに。優斗は答えられなかった。

 ガギン!!

 思い切りのよい、鉄同士がぶつかる音がした。

「本当に、分からないわ、人間って」

【清姫】が小さく呟く。

 そこには、感情があった。

 怒り……というほど高質のものではない。

 癇癪を起す寸前のこどもの目、それが己の首筋に刃を突きたてた少女……サレナへと向けられる。背後からの一刀、不意打ち、だが【魔王】に傷一つつける事が出来ない。

「聞いているわ、貴女、とても優秀な戦士なんですってね?さっきので骨が何本か折れているはずなのに、痛みを我慢して戦える。正直に言うとね、欲しいわ。貴方が戦士でなければ、無理矢理にでも服従させているところだけど……別の経路で目覚めている貴方達には出来ないしね」

【清姫】が動いた。

 サレナは反応すら出来ない。掴んでいた『百合刀』を落とし、そのまま覆いかぶさられる。必死に抵抗をしているが、微動だにできない。背丈でいえばサレナのほうが少女の姿をした【魔王】よりも上回っているのに。

「だとしても、貴女は駄目ね。御馳走を食べるのを邪魔されるなんて屈辱を許せるわけがないし……貴女みたいに可愛い女の子は、大嫌いなの」

 言いながら舌なめずりする。

「そう言えば……ご飯が、まだだったわね」

 言って、【清姫】がゆっくりと小さな口をサレナの首筋へ触れさせる。サレナの無表情が……恐怖へ彩られる寸前だった。

 優斗は、自分でも思いがけない行動に出ていた。

 何でだろう、と自問しても答えられない。

 無駄だと分かっていても。

 それでも、そうしなければならないと思ったから。

 機械的な動作だったかもしれない。

 それでも、優斗は『百合刀』を拾い上げた。

 悪意そのものへ切っ先を向けていた。

 叫んだ。

「止めろっ!!」

 声が裏返っていたし、足が震えていた。これから自分に降りかかる災厄を想像すると、恐怖で涙が流れた。股間の辺りが暖かくなっているのも分かった。今すぐ逃げ出せと全細胞が訴えていた。本能を意思の力で抑え込んで優斗は叫んだ。

「僕が相手だ……僕と、僕と戦え!」

 その姿を。

 滑稽な道化師を見るかのような目で、ある種の慈しみさえ含んだ瞳で【魔王】が見てくる。

 

 岩の様に、鉄の様に、山の様に。

 そんな表現しか思いつかない重量が、不意に消えた。同時に重さで忘れていた痛みが思い出したようにサレナに降り注ぎ、体を苛んだ。

 ぼんやりとする視界の中、【清姫】が優斗を押し倒すのが見えた。

 体、動いて…………!

 必死に願うのに、指一本動かせない。それは痛みによるだけのものではなく、その殆どを恐怖が構成する金縛りであると分かってもいた。

 だけど。

 あの子を、死なせたくない。

 それだけだった、今のサレナにとっての戦う理由は。

「学院」と呼ばれる特殊な環境で育った子供たちの中にあっても、サレナは特異な存在ではあった。

 希薄な印象で、自分の意思を示さず、それでも人に言われたことに唯々諾々と従う少女を「学院」の大人たちは扱いやすい、優秀な生徒と認識していたが、大間違いだった。ただ表に出すのが苦手なだけで、その内には他の子供たちと同様の感情があった。

「優秀」といわれることが嫌ではなかったし、「人を襲う怪物」と戦うことへの自分たちにしか出来ないことへの義務感や、誇りだって持ち得ていた。

 

 巡り合わせの悪さから、仲間を失った時は喪失感を味わったし、「死神」と揶揄されたことは泣きたいほど悲しかった。


 渚慶太と行動を共にして、とても安心した。

 一人の人間として、あるいは一個体の生命として、突出した強固な力を持つ彼は、自分の背後にある「死神」になんて、決して殺されることが無いことを確信できたから。


 橘皐月と門崎響也の二人に声をかけられると嬉しかった。

 自分を子供とも死神とも思わずに、ただの仲間として扱ってくれたことに。


 初めて皆川優斗と顔を合わせた時、驚いた。

 自分とまったく同じ目をしていることに、驚いた。

 罰を降されることを望んでいる目。

 彼の目と、彼の瞳に映る自分の目は、全く同じだった。

 

 だから彼の記憶を消そうとした。命令に背いて行動を起こそうとするなんて、これまでの自分では考えられなかったことだったけど、止められなかった。

 でも今なら分かる。

 あの時、自分は、間違いなく彼を救いたかったのだ。

 罪の意識から、彼の心を救いたかった。

 自分が、そうしてほしかったから。

 それなのに。

 ああ、それなのに。

何で、貴方は戦おうとしているの?

 勝ち目なんて無いのに。

 

 自分の肩ほどしかない少女の姿をした「それ」の力は絶大だった。反応する間もない。手にした「百合刀」を手放さなかったことは上出来だったが、それだけだった。

「本当に……人間って、不思議ね」

 少女の顔が、吐息が感じられる程の距離に迫っている。

「怖いでしょうに、逃げ出したいのに、何で私に挑もうとしているの?あの子は……あなたの番なのかしら?」

 一言一言が【清姫】の口から言葉が紡がれる度、強烈な匂いが優斗の嗅覚を刺激してくる。香水を何千倍にも凝縮したような刺激臭。脳を直接揺さぶられる感覚。だが不快でしかないはずの匂いが、優斗の意思とは無関係に彼の思考を緩やかに溶かしていく。いっそ、この感覚に流されてしまえば、良いのでは。もしかしたら、とても気持ちのいいことではないのだろうか。その事実が優斗をさらなる不幸へと突き落としていく。常人であれば一瞬で廃人になりかねない、麻薬の数千倍の依存性を持つ何か。自分がまだ意識を保っていられるのは【霊式術】を曲がりなりにも身につけているからだと直感した。

「ますます気に入ったわ、貴方のこと。こんなに震えているのに、怖くて怖くてしょうがないのに。義務感かしら?それとも勇気っていうのかしら?蛮勇……って性格でもなさそうだけれど。あるいは、罪滅ぼし、かしら?」

【魔王】の言葉から、優斗は察した。知っているのだ、自分のことを。ほんの半年前。自分の前で死んだクラスメイト。たまたま、偶然で、生き残った自分。その偶然を責められ、奈落に落ち、命を捨てようとした自分の事を。

 【魔王】の細い指がゆっくりと優斗の体を這う。まるで蛇にそうされている悪寒を味わう。

「これから、私の家に連れて行ってあげるわ。勿論、あの女の子も一緒にね。そこで貴方を、存分に愛してあげるわ。痛みと快楽の区別がつかなくなるくらい、普通に人間として生きていたら経験できないくらいの素晴らしいものよ。初めは貴方も拒むと思うけど大丈夫、三日もすれば、貴方は自分から私に乞うようになる。『愛してください』って」

 嬉々として【清姫】が語らう。耳元に唇を寄せてくる。

「でも、私は貴方の望みを叶えない。貴方が泣いて、喚いて、叫んで、それでも私は貴方の望むものを与えない。与えてあげないわ」

 その口調には愛おしさを含んだものがあった。

「だけど安心して。貴方が狂う前に、私は条件を出してあげる。今のあなたなら絶対に拒む条件。まずあの子を殺させるわ。その後に犯させるわ。最後に死肉を喰らわせるの。私はね、それを見たいの。貴方みたいな子が、罪を犯す姿を見てみたいの。ねえ、私のお願い聞いてくれる?」

 僅かに瞳を潤ませて懇願してくる姿は無垢な子供そのもので、向けられた相手は断る行為に罪悪感を覚えてしまうだろう。

 無論、優斗の場合は論外だったが。

「……どうして」

「え?」

「どうして、そんなことが……出来るんだ」

 知りたかった。探究心は人を殺す、それを優斗は理解した。それでも教えてほしかった。

 人の死とは、それだけで苦しみや喪失感を残った人間の一生に刻んでいく。

 それを笑いながら撒き散らすことが出来る。

 そんなの、おかしいじゃないか。

「貴方、面白いこと聞くのね。そんなこと、考えたこと無いわ」

 本当に理解が出来ていない声が返ってくる。喜怒哀楽、人間と同じ感情を持ちながら、ただ人の命というものに塵芥ほどの価値も見出せない。そもそも見出すつもりもないのだろう。思えば当然のことだ。「奴ら」にとって人なんて、下位の生物でしかないのだ。

 だから。

 優斗の返答は決まった。

 父と母が残してくれた命は。

 この「価値ある命」は。

 この悪魔のものにはけっしてならない。

 してはならない。

 不意に、慶太のことを思い出した。

 あの背中。

 直視出来ないくらいに強い命を持ち得た男の背中。

 あの人から教わったこと。

 戦うこと。

「……がう」

「?」

「僕の命は……僕のもの、だ。僕が、使いたいように、使う。お前になんか……やるものか!」

 一言一言を口にするのが、命を削る思いだった。

 瞬間。

 それまで「身動きが取れない」程度に体に与えられていた重みが一気に増す。呼吸さえ困難になる。過剰な負荷に体が悲鳴を上げる。ミシミシと骨が軋む音を聞こえる。

「ぐあ………が、あ……っ!」

「そんな苦しい顔をしているくらいが、私は好きよ?無理をしちゃって、そんな風に意地を張っても、私が楽しむ時間が増えるだけなのに」

 すっとその指が優斗の頬をなでる。

「一言言ってみて?ごめんなさい、って。私に許しを請うてみて?そうしたら、この痛みからすぐに解放されるわよ?」

【清姫】が話す間も重量は増していく。肉が、骨が、臓器が、砕かれる寸前だった。

 だけれど。

 優斗はそれ以上声を洩らさなかった。うめき声すらも、漏れないように耐えた。

 それが優斗にできるただ一つの抵抗。

 これがただ一つの戦いだった。

 せめて屈することなく。

 自分を愛してくれた両親の死が汚されないように、残り僅かな時間を生きる事。

 それが優斗にできる全てだった。

 これでいいと思った。


「よく戦った、優斗」


 その戦いを。

 知らぬ人間から見れば、戦いにすらならないただの意地、その全てを肯定する言葉が響いた。

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