邪なるモノ、襲来
別段、運動が苦手というわけではない。
だが普段、特に運動をしているわけでない少年にとって地道に走り込み、腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット、そういった単調作業をひたすらに続けるということはそれだけで大きな負担ではあった。
だが、問題はその後。
午後の時間から始まる【霊式術】の訓練は、その比ではない負担を優斗に与えた。
未だ【龍脈】なるものも【霊核】なるものも認識出来ないが……使い方だけは、実地で覚えさせられた。
理屈など、不要なのだと優斗は思う。
普段の生活だってそうだ。理屈なんて知らなくても、複雑な機械が絡み合った携帯電話などの機器類を使用するのに不便はないし、37兆の細胞によって構成される肉体を使うことに困りはしないのだから。
だけど、これは。
この【霊式術】と呼ばれる魔法、超能力、仙術……これは……。
単なる体力の消耗だけでなく、精神が摩耗していく。
【霊式術】によって強化された肉体は、確かに常人をはるかに超える力を優斗に与えてくれている。
だが【霊式術】を使っている間、優斗は己の体を動かすことに異常なまでの神経を使う必要があった。手を動く作業一つでさえ、手首、肘、肩……その連結を意識せねばならず。さらに早く動かすためには、その内側……筋肉、神経、骨を意識し……。
一つ一つの動作に、神経を払わねばならず、もし何か一つかみ合わせがずれれば途端に真っ当な動きが出来なくなる。
肉体の疲労以上に精神が摩耗していき、その疲労が臨界点に達すると、その度に優斗は吐いた。最初の訓練以降には皐月が監視するようになって、優斗が苦しそうな姿を見せると止めに入ってくる。
だから優斗は皐月に見られないように、隠れて吐いた。
慶太は一度だって優斗に「やめろ」とは言わない。続けることを強要もしなかったが、多分、自分が止めるといえば「そうか」と一言だけ口にして終わりだろう。
才能が無い、と慶太は言った。
そうなんだろう、と優斗自身も思う。
そもそも喧嘩だってまともにしたことがない自分に、戦うための術である【霊式術】なんて不相応なものだ。
だったら何故続けるのか?
楽しくなんて無い、やりがいもない、終わりもない。不毛とさえ思える。だが、少なくともそうしている間は、自分の中の、見たくもないモノの存在を思い出さずに済むから。
それだけだった。
五時きっかりに「鬼ごっこ」は終わる。結果如何に関係なく「もう休め」と慶太が告げて、糸の切れた人形のように優斗は崩れ落ちる。マンションの屋上から部屋まで100mもないが、その距離が、この時の優斗にとっては地球と月ほどの距離に感じられる。
響也か皐月に背負われるか、肩を借りて戻るのが常だった。
お礼を言う気力さえなく、そのままベッドに寝かされて朝まで目覚めることはない。
深い深い眠りで、夢を見ることはほとんどない。
ほとんど、ない。
たまに、見る。
夢を。
夢の舞台は暗闇の中だ。ここがどこか分からない。自分が歩いているのかも、立ち止っているのかも。
分かるのはただ一つ。
自分が泣いていること。
そして呼んでいる。
「お父さん」
「お母さん」
二人を呼び続ける。
夢の中の自分は、両親が既にいないことを知らない、覚えていない。
否、違う。
夢の中の優斗は、今の自分でなく、過去の自分だ。
あの時の、決して忘れえぬ光景。
明かりが見える。
スポットライトに照らされたかのように、暗闇の中で唯一の光である光景。
見たくなくても、目に入る。
目を閉じることさえ、出来ない光景。
血にまみれた、学生服の少年。
その姿を見て、優斗は悲鳴を上げる。
両親が死んで一カ月が過ぎていた。
額に充てられる冷たい感触は水で濡らされたタオルで、優斗が寝るベッドの脇にいるのは皐月だった。
「あ、起きた、優斗君?」
眩しい笑顔。自分よりも九つも年上の大人とは思えないくらい無垢な笑顔。最初に皐月の年齢を聞いて「高校生くらいかと思ってました」と言ったら、泣きそうな顔になっていたが。
「どう、具合は?」
「……いつも通りです」
答える。この一カ月、寝起きの会話は大体この流れだ。初日に「認識」させられた時と同じ気だるさ。だが続くのは起きてから一時間ほどで、それが過ぎれば体調は元通りになる。だがこの気だるさはなれることはない。
「もう少しだけ、ね」
ポツリと皐月が呟く。
「最初のころと同じ。慶太も言っていたでしょ?成長痛、というか、君の体が変化を認められてないだけだから」
「はい。大丈夫です」
言うほどではないが、皐月をこれ以上心配させたくないという気持ちが先立ち口にする。勿論、皐月はその言葉を露ほども信じていないだろうけど。
「いつまで、続けるの」
と不意に冷たい声が室内に響く。
皐月の声ではない。
サレナ、だった。
一つ年上の少女はドアの傍に立ち、だが優斗のことを決して見ずに。
「ちょっとサレナ。何を言い出すのよ」
皐月が諭すように言う。怒ってはいないが、戸惑いが確かにあった。
「ただ聞きたいだけ」
対してやはり皐月のほうを見ずにサレナが続ける。その言葉は冷淡でさえあった。
この一カ月、優斗とサレナはまともに口をきいていない。それも仕方のないことともいえる。訓練中は口を利く余裕はないし、訓練が終われば泥のように眠るのがこの一カ月の優斗の日常だった。勿論、休憩時間に話そうと思えば話せただろうが……そのつもりはなかった。
だだサレナが自分とはケタ外れの力量を持っていることを優斗は知った。
「学院」と呼ばれる、幼少時から【龍人】を育てるための機関。そこでトップの成績で卒業したサレナは、圧倒的な強さを持っていた。
「鬼ごっこ」で優斗は自分の飛躍した肉体を制御するので精一杯だった。オートマしか運転出来ないペーパードライバーがいきなりスポーツカーに乗れば、発進させることはおろか、車体に振り回されるのが関の山、を地で行っていた。
対してサレナは、慶太に対してかなりいいところまで追い付いている。「触れることが出来ればお前らの勝ち」というシンプルなルール。そこでサレナはかなりいいところまで攻めていた。しかも自分が泥のように眠っている間、サレナは慶太について「狩り」に出ているのだという。
多分、自分と比べるべくもない資質に満ちている。
そんな優等生が、新人……のレベルにさえ追い付いていない自分と同じように扱われているのが不快なのだろうし、それは当然だろうとも思う。
だけど。
それとは別の意味で、優斗はサレナに対して複雑な感情を有していた。
あの漆黒の瞳が、怖かった。
「優斗君?」
皐月が声をかけてくる。
その声に顔を見上げると、すでにサレナは部屋から出て行っていた。
「しっかしね……やっぱ味方で良かったよ、お前」
「何がだ……」
とある廃ビルで、感慨深げに呟く響也を気味悪げに見返す。
「そのままの意味だよ」
言って肩をすくめる。
時々だが、響也は慶太と話すのが恐ろしい時がある。
それは慶太のあまりにも突出した力ではない。その思考である。
とびぬけた自分の力に驕ることがない、あくまで「たまたま自分にできること」としか認識しておらず、いざという時にそれを行使することに躊躇いがない。
響也自身……幼い頃から、その力ゆえに孤立していたから『学院』で幼い頃から「同類」といた皐月が羨ましくさえ思えた。
だが、慶太を見ると……それが傲慢とさえ思えてしまう。
少なくとも響也は【戦士団】にスカウトされるまで負け知らずだった。肉体の強度こそ、「普通よりも少し上」程度だったが、響也の卓越した【龍人】の力はその眼に集約された。
単純に遠くのものが見える、というレベルではない。
全力で意識をすれば、その眼に映るのは常人のそれとはかけ離れたものが見えた。
空気の流れ、濃度、あるいは放つ銃弾の軌道さえもが「視え」るのだ。
それがどれほどの力になるか。
幼い頃から喧嘩で負けたことは一度だってない。
何せ相手の拳がどういう軌道でこちらに向かってくるのははっきりとわかるのだから、当然ともいえた。背後にいる人間の動きさえ「視え」るようになったのだから、敵無だった。
それが全て否定されたのは八年前。
【戦士団】のスカウトマンに出会った時だった。
間違った方向に霊核を歪められた元人間、実際に生きた【魔獣】を見せられてさえ、響也の心は動かなかった。確かに彼らの「光」は常人とははるかに強く、歪ではあったが、それだけだ。
下位レベルの【魔獣】なら素手でも縊り殺せると思ったし、銃器を持たせてくれればもっとスムーズに殺れる、とも思った。その程度の虫けらを始末して、多額の金をもらえるならば、むしろ天職とさえ思ったのだ。
そこで、知った。
恐らくは、人類史上に類を見ないであろう力を持った人間を。
最初に「視た」時、眼がつぶれるかと思った。圧倒的な光だった。うめき声をあげ、すぐに「視る」ことを断念した。
普通に見ると、その場に立っていたのは自分よりも一つ二つ下の青年。
触れれば殺される、だが触れえぬともその圧迫感に押し潰される、そんな威圧感を持っている男だった。
「何だよ」
と聞いてくる青年を見て、響也は笑ったのだ。
ある種の恐怖感からの諦観に近かった。
人間は何かしらの感情が振り切れると、笑ってしまうことを初めて知った。
その青年が、自分と同じくほんの二か月前にスカウトされたこと。
組織の歴史上で最強の力を持ち、その上最悪の問題児であること。
そして、二百年ぶりに一体の【魔王】を葬ったことを後で知り、同時に思う。これだけの力を有する人間は、恐らく孤独に……孤高に生きるであろうことを。そうするしかないことを。
狼は羊の群れでは生きられない。
「それで、どう思う」
慶太の言葉が響也の思考を中断させる。
「何がだ」
「これだよ」
二人の前にあるのは、五十を超える【魔獣】の死骸だった。もっともこの階だけでこの数。おそらくこの廃ビルに突入して、倒した数はこの倍を優に超えるだろう。
明日那から渡された資料。【魔獣】が隠れ住んでいるとされる廃ビルの資料を渡された慶太の行動はあまりにも速かった。正面から飛び込み、逃げだす【魔獣】を響也の狙撃で撃ち尽くす。単純だが、獣となり果てた敵には効果的な作戦だった。三十分もたたずに、廃ビル内で生き残っているのは二人だけになっていた。
「……幾らなんでも、多すぎだよな」
響也の感想はそれだった。
【魔獣】になった人間がどれくらい存在するのか、どれほどのペースで増え続けているのか正確な数は分からない。だが今回のように、百を超える【魔獣】が同じ場所で、身じろぎもせずに留まっているのは聞いたことがない。
大抵の【魔獣】の行動は二通りだ。
獣のように人を食らい、襲うか。
人のように狡猾に獲物を見定め、怪物のような行動をとるか。
今回のように、まるで忠犬のように「待て」を維持するのは……。
「何か、大がかりな作戦の前準備か?」
そのための兵隊を用意していたのなら辻褄が合う気がする。好き勝手に行動させて、こちらに「狩られる」ことのないようにしたのでは?
「奴らは……【魔王】は、この程度の雑兵を頼らねえさ」
吐き捨てるような一言。
「こいつは遊びだ」
「……遊び?」
「そうだ。まるでガキが玩具をコレクションするように、な」
「集めることが目的……ってことか?何の理由もなしに、か?」
そのために三ケタを超す数の人間を……人外に貶めた。
その行為に怒りを覚えるほどの若さを響也は持たないが、理解不能な思考が……分からないことが、怖い。
「ガキのやることに理由なんてあるかよ」
慶太がそう言うのと、部屋の中に分厚い防護服に着込んだ男たちが入ってくるのは同時だった。組織の諸々の後処理を済ます人間達。そのほとんどが「普通の人間」だが、行う作業は前線で戦う人間たちにも勝るとも劣らない労力だろう。
その中で一人、防護服を着ずにいる男がいた。
神宮寺雅人だった。
「…………よう」
慶太が眉をひそめる。
「相変わらず、雑な戦い方だな」
「同じだろうが。雑だろうが、綺麗だろうが、やられたほうからすれば」
出会った途端に、これだ。
この二人の喧嘩は見ていて心臓に悪い。そそくさと退散しようとすると「門崎」と呼びとめられた。
「な、何すか」
「ゆ……朱鷺也の息子は、どうだ」
「え、ああ、優斗ですか。まあ、頑張ってはいるみたいですけど」
「そうか」
それだけだ。神宮寺雅人と皆川朱鷺也は幼い頃からの盟友と言うから、気になるのは当然だ。だけど優斗に関しての責任者は慶太である。慶太に聞いてくれよ……と思っても口にはしない。
そう思っていたら。
「それで、いつまで続けるつもりだ、渚」
「あん?」
「朱鷺也の息子への訓練をいつまで続けるつもりか、と聞いている」
「知るかよ。少なくとも今回の一件が済むまでは、だ」
「無駄な事をする、本当に」
「まだ結果も出てないのに、何で無駄だって分かるんだよ」
「……貴様が何を望んでいるかはこの際は聞かん。だがな、仮に、だ。仮に力を持つことになったとしても、それはあの子にとって不要な力だ。だから、無駄だと言っている」
「……そうは思わねえ」
「それは貴様だけだ。貴様だけが、見て見ぬふりをしている。あの子の本当の幸せを認めずに、我を通そうとしている」
「だけど、あいつが決めたことだ……それは、本当だ」
「本人が望むことが本人の幸せとは限らない。ましてや優斗はまだ子供だ。子供だからと言って自由意思を奪うことはしないが、それでも指し示すべき道はあるはずだ。お前はそれを、意図して自分が望む道に誘導した。だから許せんのだ」
えぐい言い方をするよな……と響也は思う。
もっとも雅人の言い分はもっともだし、興味があるのは慶太の答えだった。
なぜ、そうまでして皆川優斗に拘るのか。
師の息子だから、それもあるだろう。
だが、それだけか?
その続きを気にして、だが聞くことは無かった。
血相を変えて飛び込んできた隊員の一人。その言葉に全員が表情を硬くする。
「皆川優斗が……攫われました!」
優斗のタオルを交換し終えると皐月はリビングにサレナを呼び出した。
サレナは無言で従う。
「ねえ、サレナ。どうして優斗君に突っかかるの?」
問いかけるのは、本当に分からないからだった。
ただ、自身の意思と関係なく目の前で仲間を失い、その咎を負わされ、感情を失ったように見える少女……そのサレナが優斗に対しては妙なこだわりを見せる。優斗を排斥しようとする意思を見せる。
「お願い、何か思うことがあるなら言って。私で出来ることがあるなら力になるから」
本心からの言葉だった。
同じ学院出身という親近感はあるし、任務の上でも今のままはよくない。護衛任務においても、護るものと守られるものの信頼感が無いのは良くない。
何より。
先日、響也から聞いた優斗の話。
その話を聞いて、皐月は察したのだ。
優斗とサレナの共通点。
一種の病的ともいえる、自責の念。
そこから導き出される答えは……。
「あの子は……嫌い」
はっきりとサレナが言った。その言葉に皐月はさらに驚く。皐月からみて、優斗は普通の男の子と言った印象だった。何を考えているか分からない時もあるが、それは人間であれば当たり前だった。少なくとも、何処か人に気を遣いすぎる性格には好感さえ持っている、もっと子供らしくすればいいのにとも思う。戦いの世界に片足を突っ込んでいる点は感心しないが、真面目に訓練に取り組むのは偉いと思う。もっともこの一件が終われば、手を引かせるつもりではあった。慶太の意図はどうあれ、あの子に荒事の世界は似合わないのだから。
つまり皐月には優斗を嫌う理由は無い。
だけどサレナは……はっきりと言った。
果たして「優斗君の何が嫌いなの?」と言ってよいものか悩んで、そこで皐月もサレナも僅かに目を細める。
それまでの会話など即座に思考の隅に追いやる。視線のみで皐月は指示を出す。サレナが従い、足音を消して優斗の部屋を開ける。優斗の声が聞こえたが、すぐに止んだ。その間、皐月は玄関へ向かう。ドアにある覗き窓を使う必要もない。
臭うのだ。
吐きそうになる汚物の臭い。
聞こえるのだ。
人とは違う足取り、それが恐らく十……いや、十二体分、か。
それも恐らく増え続けている。
肩越しに振り替える。不安げな優斗、その隣に立つサレナ。
『大丈夫だから』と意図を込めて、優斗に笑顔を向ける。
慶太も響也もいない。まさかこのタイミングを狙ってきたのか。
出し抜けにチャイムが鳴る。一回、二回、三回、四回。
五回鳴らされて、しばしの静寂。
聞こえる。
自分の心臓の音さえ。
時間の流れが妙に長く感じる。
そうして、不意に。
ドアが、飛んできた。爆発物でも使ったかのような破裂音、鉄の板が外からの過度の衝撃で蝶番を外され、飛んでくる。
「どりゃあああああああああ!」
それを、殴り返す。
向かってきた時以上の速度で跳ね返された鉄の板は、外にいた「それ」を巻き込んで、反対側の壁に叩きつけられる。
腰に巻いていたベルト、そこに収めた肉厚のナイフを引き抜く。
外から「それ」が入り込んでくる。
黒色のぼろ布、それで頭から足の先まで覆い隠した「それ」を一つの躊躇いなく切り刻む。刃が「それ」に触れた瞬間に気づく。この虚ろな黒い雑兵は【魔獣】ではない。恐らくは【魔王】が作り上げた人形だろう。【魔獣】を切った瞬間の、命を絶ったあの不快な感触を皐月は感じなかった。
それならば気も楽になる。
部屋に入り込んでくる人形を一方的に蹂躙していく。
個体によって姿形や能力、知性が異なる【魔獣】と違い人形にはそういった個性の類は一切ない。思考能力がないから動きは単調で、読みやすい。
その代わり主の命令に愚直なまでに従うという点においては類を見ない。
そんな人形の使い道と言えば、足止めや囮などの捨て役……。
「サレナ、一旦外に行くわ!優斗君をお願い!」
十四体目の人形を斬り倒して皐月が叫ぶ。
「それは許さん」
低い男の声。無論、サレナのものではない。
「その少年は我が主への貢物とする」
マンションの十三階、その窓を突き破り一人の男が飛び込んできた。上質の黒ずくめのスーツ。中肉中背。短く切りそろえた髪。だがただのサラリーマンと言うにはあまりにもその眼は淀んでいた。
それは死を撒き散らす、悪しき存在。
サレナがその男の姿を確認した瞬間。この男が敵とか危険とかを思考する前に体が動いた。
彼女の体格に不似合いな長刀。
生まれて間もない頃、サレナは籠に入れられて組織が運営する孤児院の前に捨てられていた。そこに一緒に添えられた百合の花から「サレナ」と名付けられる。幸か不幸か【霊式術】に突出した才覚を見出されたサレナは「学院」でも特別扱いをされた。
その一つが数少ない対【魔獣】用に精製された武具の所有であった。さらにサレナの才覚を認めた鍛冶師によって「百合刀」の銘まで刻まれた、彼女の半身でもあった。
この長刀を引き抜くにはコツがいる。単純な腕力、体のバネ、踏み込みのタイミング、腰の捻り、その全ての歯車が合致した時、鉄さえも容易に切り裂く一刀となる。
なる、はずだった。
拳で受け止められた、と思った。
無論、【魔獣】によっては鉄の肌を有する個体もいるが、鉄程度の強度で自分の刀を止められるはずがない。
「不愉快な剣だ」
男が呟く。気づく。男は拳で正面から受けたわけではない。「百合刀」は男の人差し指と中指、その間に挟まれ、固定されていた。真剣白刃取り、それを2本の指だけで行ったのだ。機械以上の精密さと力で。
「まるで死人だ。このような不快な剣を…………我が主に向ける気かぁぁぁぁ!!」
男が叫んだ。初見の沈んだ印象は無い。怒りに狂う、獣の声だった。距離を置かねば、というサレナの行動よりも男の拳が……ハンマーの一撃が腹に打ち込まれる。
吹き飛ぶ。空き缶が並んだテーブルを巻き込みながら、ただ壁に激突はしなかった。間に優斗が飛び込んできたのだ。その事実に気づいてサレナは不快になる。
この子は、本当に。
「どけ、死人よ」
影が差す。男が既に手を伸ばせば届く位置に接近していた。何かのアクションを起こす前に、首根っこをつかまれて放り投げられた。再度の衝撃に短いうめき声が漏れてしまう。だが痛みなどどうでもいい。どうでもいいのに。
男が気を失っている優斗を肩に背負う。
「待ちなさい!!サレナ!!」
人形を相手にしながら……時間さえあれば一掃するのは容易い、だが斬っても斬っても湧いて現れてくる……皐月が叫ぶ。しかしこちらの声を一切聞き入れずに、サレナは再度男に向かって斬りかかった。
(無理だ……!)
熱くなりすぎている。そんな攻撃を受けてくれるほどに、敵は甘くない。
ドズンと鈍い音が響く。男の掌底がサレナの鳩尾に打ち込まれた音だった。そのまま男は空いている手でサレナも脇に挟んでいた。
轟音。
次いで、衝撃。部屋全体が揺れて、皐月は僅かに姿勢を崩す。その隙を逃さず「人形」が一斉に皐月に圧し掛かってきた。
「こ…………の!」
男はこちらに眼もくれない。マンションに取り付いてきた巨大な蝙蝠を思わせる姿の【魔獣】、その背に乗り、去っていく男の姿を皐月は見た。
「邪魔するなああああああ!!」
叫ぶ。激しい感情の起伏が、【龍脈】との繋がりと常よりも強く、深く、濃くする。人形達を一気に吹き飛ばす。自由の身になった皐月は、その勢いのまま、早朝間もない街へと飛び出す。
「追ってくるか」
蝙蝠型の従者、その背に乗って十条秀一はポツリと呟く。
その視線に映るのは、市内のビルの屋上を飛び移りながら追ってくる狩人の姿だった。
橘皐月、七年前の「学院」の次席卒業者。だがその肩書よりも、卒業後の四年間、あの渚慶太のパートナーとして戦った事実のほうがインパクトとしては強い。
このままの逃走で、追い付かれることは無いだろうが、彼にとっての全ての最優先事項である主の城まで付いてこられるのは都合が悪い。
主の周囲を雑音で騒がせることを十条は好まない。
「市街の森へ向かえ」




