3.
「何なの何なの!? いきなりお化けとか豚野郎とか!!」
何故に自分に対するネガティブキャンペーンが絶賛実施中なのか。
悟は自分を指さして相当に失礼なことを言ってくる幼馴染みと仲良くなったばかりの同好の士に、怒りの感情を覚えるよりもまず困惑してしまう。
そもそも、困惑と言えば自分の置かれた現状そのものが悟にとっては理解不能だった。意識の喪失、そして目が覚めるとそこは見知らぬ天井ならぬ夜の森である。目が覚めてすぐ朔に合流できたのはよかったが、その彼は自分を見るだに何故か回れ右をして走り去ってしまうし、助けを呼ぶ声を聞いて駆けつけてみればいつの間にか合流していた三咲と、今度はふたり一緒になって自分を豚呼ばわりしてくるのだ。
悟は今年の身体測定では身長184㎝体重98㎏を計測し、お世辞にもスマートとは言い難い体格の持ち主ではあったが、何もこんな訳の分からない状況で自分のメタボ具合を馬鹿にしなくてもいいじゃないかと思う。
……? というか、こんな状況だから二人は混乱してるのかな?
悟はふと、訳が分からない状況だからこそ、二人も訳の分からない事を言ってるのかな、と思い付く。例えば、暗闇で自分のことがよく見えず、謎の大男が追いかけてきたと勘違いしたのでは、とか。
なら、自分が玉置 悟であることを二人に分からせてあげればいいのかも知れない。
悟はダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ。すると二人がそんな些細な動作に反応してびくっ、と身体を揺らす。悟はそれにちょっと傷つきながら、ポケットから携帯電話を取り出した。このところずいぶんお世話になっているLEDライトを点灯し
「落ち着いて? ほら、僕だよ僕! 僕だって!」
と、下からの角度で自分の顔を照らして見せた。
まず目に付くのは大きな鼻。普通の豚と違い前向きに付いた目はまぶたのまわりに厚ぼったく付いた肉のおかげで針のように細い。
肌の色は普通にブタを想像すると頭に浮かぶ血色の良いピンク色で、白い毛が顔中を覆っていた。その色合いはいわゆる「ヨークシャー種」と呼ばれるブタのそれだったが、その種のブタが羽を広げたような形の大きな耳をしているのに対し、彼の耳はぺたん、と顔の両脇に垂れ下がっていた。
光を受けたその顔は、特徴的な豚鼻が陰になり、柔毛に覆われた異相に奇妙な光の陰影が刻み込まれている。そしてしっとりと濡れた鼻先がてらてらと光を受けて蠢く。映し出されたその異形はまるで、夜の闇に首だけが浮かんでいるかのように見えた。
「「うぎゃあああああああああ!!?」」
――――驚愕のホラーである。
悟の目論見は、ものの見事に失敗に終わった。
※ ※ ※
「うぎゃあああああああああ!!?」
朔と三咲の目の前で、謎の化け物はその姿にそぐわないダウンジャケットから、同じくまったく似つかわしくない携帯電話を取り出してみせた。普通、この手の化け物だったら真っ裸に腰蓑が標準装備だろとか、取り出したのが携帯電話ってファンタジーちゃんと仕事しろとか云々と、突っ込みに忙しい三咲。脳内突っ込みはもはや体質か、あるいは現実逃避の一環か。きっと両方だろう。
そして突然顔を照らして、自分の豚面を強力にプッシュしてくる怪人物に、三咲と朔はお互いの肩を抱き合って恐怖の叫び声をあげる。何故に!?と悟は愕然として泣きたくなったが、豚顔の感情表現は二人には読み取り難く、悟の心の叫びは見事にスルーされた。
「はわ、はわわわわわわ…………っ!?」
朔は小刻みに震えている。少しでも遠ざかろうと、藪で傷だらけになった手を必死に前に突き出す。悟とはぐれ、おかしな化け物に追いかけられて追いつめられた。それなのにここには悟がいないのだ。誰よりも信じられる、誰よりも頼りになるあの幼馴染みが。
心細さを振り払うように、朔は必死に腕を振り回した。傷に滲んだ血が飛び散って、月の光に蒼然と浮かび上がり地面に落ちる。傷口が開いたのかも知れなかったが、朔にはそれに気付く心の余裕は全くなかった。
そして、三咲は自然に目蓋の下が震えるのを意識しながら固唾を飲んで目の前の豚男を見つめている。
一体目の前にいる化け物は何なのか。ダウンジャケットに細かいチェックの入ったスラックス。首から下の格好はまともというか、どう言う訳か見覚えのある格好なのに、首から上には豚の頭が乗っかっているのだ。口や鼻は言葉を話すたびに動き、それはとても着ぐるみやVFXの類とも思えない質感を持っていた。
豚男はどうだ、とばかりに顔を照らしたあと、二人が叫び声をあげるのを見て、何故かがっくりと肩を落としたように三咲には見えた。「何なんだよもう……」と涙声で呟いているのだが恐怖でいっぱいいっぱいな三咲の耳には届かない。
疑えば暗がりから鬼は這い出てくるもので、三咲にしてみれば何から何までも怪しい動作に思えてならなかった。肩を落としたのだって、襲いかかるための予備動作のように三咲の目には見えるのだ。
いっそこっちから襲いかかってみてはどうだろうと、そう考えてしまうのは塹壕を飛び出して自分から機銃掃射に身を晒す新兵の心理と同じだろうか。さっきのフェイスクラッシャーと言い、妙に攻撃志向が過多な三咲だった。
三咲がざりっと地面に突いた手に力を入れ、朔は相変わらず手を前に出して震える。豚面はしばし無言で佇んでいた。月の光に、朔の手から飛び散った血の滴が浮かび上がって見えるまでは。
「――――っ!!」
唐突に豚男が動く。背中に背負った、登山にでも持っていくような大きいバックパックを地面に降ろし、ごそごそとバックパックのポケットを漁り始めた。その動きに二人がまた大きく震えるのを意に介さず、彼はバックパックから一本のペットボトルを取り出してみせる。ペットボトルには杖を持った猫っぽい何かのイラストと『京都タワーのすごい水・京神水』と言う文字が書かれてあった。
「……へっ?」
豚男と手に持ったもののアンバランスさに二人の思考が止まる。別のポケットから今度はデフォルメされたカエルのイラスト入りの小さなポーチと、おなじカエルのロゴが入ったハンドタオルを取り出す豚男を呆然として見つめる。見掛けによらずカワイイ物好きか。
そして、二人が思考停止しているうちに、豚男は一気に二人との距離を詰めてきた。恐ろしく大柄な身体は一息で二人との距離をゼロにする。朔の隣りに跪き、無言でそのグローブのように大きな手で朔の腕を掴んだ。
「――――ひやぁっ!!? は、放して――――っ!!?」
悲鳴を上げる朔。捕まれた手を振り解こうと腕を振るが、すごい力で拘束されているらしく空間ごとそこに固定されたように彼の手は動かない。直接触れられれば暴力への予感が否応なしに湧き起こる。朔の顔が恐怖に歪み、いやいやするように首を左右に振った。その隣では三咲が「やられる前にやってやる」と物騒な覚悟をとうとう固め、目潰し代わりの土塊をそっと握り込んだ。そして豚男は、朔の様子に深いため息を吐いて、口を開いた。
「……暴れないでよ。傷の手当てが出来ないでしょ?」
「………………え?」
その怪異な容貌とは酷くかけ離れた穏やかな言葉と声に、不意を付かれたように朔の抵抗が瞬間止まった。振り上げられた三咲の手も止まり、顔面にシュートしようとした土が指の間からボロボロと落ちる。
人の指ほども太さのある歯が並ぶ口で器用にペットボトルの蓋をくわえて回す。蓋を開けると今度はその中身を傷だらけの朔の手にぱしゃぱしゃと掛ける。朔が手に感じるのは冷たい、紛れもない水の感触。手に付着した血や、枯れ葉の屑や土が水に流されていく。
ペットボトル1本分の水を使って朔の手に付いた汚れを流すと、今度はハンドタオルで濡れた朔の手を拭う。傷に触れて朔の手に痛みが走るが、手を拭く手つきそのものは丁寧で、その動きには傷をいたわる意思が感じられた。
拭き終わると血の滲んだハンドタオルをポケットに突っ込み、次はカエルのポーチの中から小さな筒と絆創膏の箱を取り出した。「染みるよ?」と一声掛けて消毒液を拭きかけ、ぺたぺたと絆創膏を傷口に貼っていく。呆けたように口を開けながら、朔が無言でそれを見つめているうちに、てきぱきとした手早さで両手の治療が終わっていた。
「……いつも言ってるよね? みー君は僕と違って小さくて身体も頑丈じゃないんだから、怪我とかには気を付けな、って」
ハイできた。と朔の手が解放される。手には、デフォルメされた魚のプリントの入った絆創膏がいくつも貼ってあった。呆然として自分の手を見つめる朔。かたかたと体が震えていたが、それはついさっきまでのそれとは、異なる感情の働きによるものだった。
「…………タマちゃん?」
子どもの頃、同じことを言われながら絆創膏を貼って貰ったことがある。それは朔にとって、彼ともう一人以外に知り得ないはずの記憶だった。豚面の、脂肪に囲まれ閉じたように見える細い目が安堵したように下がった。その表情が、朔のよく知るそれと重なって見えた。
「……本当に、タマちゃん……なの?」
「だからー、ずーっと、僕だって言ってたじゃないか」
それを聞いて豚男、――悟はようやく誤解が解けたのか、と身体の力を抜いた。昔クラスのいざこざに巻き込まれて女子にハブられた時のイヤな思い出が頭に浮かんだが、これは言うことではないなと胸にしまう。ぷひ、と気が抜けたように鼻が鳴った。
「はぁ? ちょ、ちょっと新見君? なに言ってるの?」
朔たちから少し身を引いて三咲。目の前で傷の手当てをする姿を見せられ、今までとはまた違う意味で混乱していたのだ。それに朔がこぼした言葉。目の前の豚男を、朔が普段からベッタリの幼馴染みの名前で呼んだのだ。
「…………玉置君? まさか、コレが?」
「こらこら、人を指さしてコレとかヒドくない? さっきから一体何なのさ? 人のことお化けだとか、豚野郎だとか言って」
さすがにちょっと怒るよ?悟。三咲は目を見開いてその言葉を聞いた。その声は厳つい姿と似つかない温和な音調を含んでいる。疑心暗鬼に塗れていたさっきまでは気付きようもなかった。三咲はそんな声の持ち主に、一人心当たりがあったではないか。
「…………」
三咲は差した指を震わせると、顔に向けてスライドする。
「顔?」と悟は自分の顔に手を当て、手を当て、手を当て……
「――――なんじゃあこりゃあ!!」
悟は、自分に降りかかった厄災を自覚した。
※ ※ ※
「なに? なになになになに? 何なの? どういうことなの?」
悟は自分の顔を手でなで回した。大きな手が鼻に触れると、熱いものにでも触ったように手が離れた。そして、しばらくするとまた手が怖々と近づき、恐る恐る頬を這う。手のひらには密集した毛の感触。ぶわっ、と背中に汗の玉が浮かぶのを感じる。自分の手が感じているものが信じられない。そしてその手が触れているのが、自分の顔であると言うことこそ、何より悟には信じられなかった。
うあ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ー、と。
悟はがっくりと膝を突き、その姿も相まってさながら辺土の亡者のような呻き声を上げた。その様子を見守る朔と三咲には、すでに恐怖の色が薄い。
だからと言って状況に対する困惑は消えた訳でもないし、むしろいや増しに混迷は深まったとも言える。とは言え悟はとてもこちらと話が出来るような様子ではなく、三咲は隣の朔に横目で問いかけた。
「ねえ、本当に、玉置君なの……?」
朔はゆっくりと頷いて答えた。
「うん。間違いないよ。着てるジャケットは今日タマちゃんが着てたので間違いない。ホラ、あの背中のところ、天ぷら油が跳ねて小さな穴が開いてるんだ。
あとあのバックパック、去年タマちゃんが誕生日プレゼントに強請ったオス○レーの中型だし、あのカエルのアップリケの付いたポーチもタマちゃんがいつも持ってる救急セットだし…、あ、あとあの腕時計、去年の夏休みにバイトして買ったハミル○ンのパイロットクロノでしょ――――」
次から次へと目の前の人物が玉置悟である証拠を積み上げてみせる朔。彼の言が正しいのなら、目の前の人物の持ち物は全て伏見稲荷を歩いていた時点で悟が所持していたものと同じであることに間違いはないようだ。そして「あのズボンうちの学校の制服じゃないの」と三咲も今更ながらに気が付いて、どうりで見覚えがあったはずだと納得する。
悟と同じ格好で、しかも悟と朔しか知らないことを悟と同じ声で喋るとなれば、信じたくなくても考えざるを得なくなる。人の身体に豚の顔。トー○キン先生以降の和洋のファンタジーに多少の造形がある三咲の脳裏にオーク、と言う固有名詞が浮かんだ。玉置君がオークになってしまった、とでも言うつもりか。
「いったい、どうなってるのよ……」
誰に答えて貰おうというでもない三咲のつぶやきが夜の闇にむなしく拡散する。朔もただ沈黙した。見れば見るほど、目の前の異貌の人物の持つ空気、感情の表し方や表情の変化の細かな機微が、朔のよく知るそれと一致することに気が付く。本当にこのオークが悟なのか。悟との相似にいちいち気が付いてしまう朔の方が、どうしてこうなったと言う思いは強いかも知れない。
「ぷぎぃ――――っ!!?」
「――――っ!? ど、どうしたの……!?」
突然、悟が悲鳴、と言うか鼻を鳴らした。三咲と朔が話しているうちに、携帯で自分の顔を撮って見たらしい。携帯を持つ手が可哀想になるくらいぶるぶると震えている。その携帯も確かに見覚えがあり、三咲は外堀をガシガシ埋められていくように感じた。
「豚だよ!? 僕、豚になってる!!」
「あー、うん。だから、私、言ったじゃん……?」
何を今更感が果てしない悟の言葉に、答える三咲の歯切れが悪い。と言うか何を言えばいい。豚じゃないとはとても言えない。豚以外の何者でもない。
「豚、ブタ、ぶた、BUTA?」
うわごとのように、悟はブタブタ連呼した。携帯の画面の上を、悟の視線が不安定に揺れる。そこには悟の顔が映っていた。ジャケットの上に乗っているのは、フラッシュに照らし出された豚の顔だ。光量不足の上にざらついた画像のそれはさながらUMAのスクープ写真のように胡散臭い。10人中9人はよくできたかぶり物だと言うだろう。悟を除く全員が。なあ、信じられるか?これ、自分の顔なんだぜ……。
何故、朔や三咲が指差し確認して化け物呼ばわりしたかよく分かった。悟だって訳も分からずに目覚めた森でいきなりこんな豚の化け物に出くわしたら逃げる。もちろん逃げる。しかも速攻でだ。でもどうすれば自分から逃げることが出来るのか?
夢でも見ているのだろうか。母親から少しはダイエットしろと言われたのを無視してラーメンの背脂を増し増しにした罰が当たったのか。神様はそんなに暇なのか。それともこってりバリカタはそれほど涜神的だったのか。
悟は意識を失う前に見た、あの奇妙な渦の事を思い出した。アレが、自分の身に起こった異常事態の銃爪だったのか、と。
意識を失い見ず知らずの土地で目が覚めた。それだって十分異常事態だったはずなのに。ファンタジーじゃあるまいし、身体が変化するとか冗談じゃなかった。これから一体どうなってしまうのか。
胃にセメントを流し込まれたように、重く冷たい固まりが身体の奥に蟠る。粘りつくような汗が吹き出し、悟の身体はひとりでに震えた。
悟の細い目があたりを不安げに窺った。三咲の引きつった顔と朔の眦を落とした顔が、二人同じように痛々しいものを見るような目をしていて、悟の気持ちをいっそう暗くさせた。
悟は二人から目を反らすように視線を彷徨わせる。そこは相変わらず真っ暗な森だった。僅かな月の光に濃紺に染まる夜空、切り絵のように黒くそれを切り取る木の枝々。下生えの茂みががさがさと揺れている。悟は頬に夜のさめざめとした寒さを感じた。しかしそこには風の気配はない。夜の底に、澱のように空気が停滞していた。
「ぷきっ……?」
木の枝が、風に揺れていなかった。悟のフラフラとしていた視線が一点に定まる。風もなく、何故か茂みが揺れていた。その隙間に、微かな光の気配が揺らいで見え隠れしている。その数は、ひとつ、ふたつ、みっつ……もっと?
とにかく、いくつかの何かが、微かな月明かりを受けて光って見えていた。
「……? タマちゃん?」
その様子に朔が悟に問いかける。身動ぎもせず目を森の奥へひたと向ける幼馴染みの様子に、さすがに大丈夫なのかと心配になったのだ。恐る恐ると悟の横顔を見、彼の視線を追い、茂みに目をやって、朔はかちん、と固まった。
くるるるるる、と。
茂みの中から何かが喉を鳴らしていた。そして朔の耳には、それはステレオのように重なって聞こえる。がさり、と大きく茂みが揺れた。針のように細い悟の目が精一杯に広がった。
「ぷぎゃあぁああぁあ――――っ!!?」
「うわあっ!? 今度はなんなの!?」
「いっ、いいい、いぬ、イヌ――――っ!!」
「いやいや!! だから豚でしょ!?」
結構容赦のない三咲の突っ込みが悟にぶつけられる。イヌ? 犬ってなんなのと言う三咲の疑問はしかし悟からは返ってこない。けれども三咲は、その答えを聞くことが出来た。
「「――――ぐぅるあっ」」
「…………え゛?」
4つの瞳が、こちらを捉えていた。毛足の長い体毛が月に梳かされ青白く光る。口はぎざぎざの牙がずらりと並び、その隙間から長い舌が垂れ下がっている。
それは確かに犬だった。茂みから姿を現したのは、頭の位置が大人の腰ほどの高さにある、長い鼻を持った大型犬だ。しかし、それはただの犬と言えるのだろうか。ここにいる3人はさほど犬の種類に詳しくはなかったが、その犬が普通ではないことはすぐに分かった。
こちらを見つめる二つの頭は、一匹の身体に枝分かれでもしたように付いていた。つまりその犬は、双頭だったのだ。双頭が、異なった意志を持ってそれぞれ3人を睨め付ける。空気を寒天で固めたような重苦しい沈黙が降りた。そして
「「ばわうっっ!!」」
「「「お化け――――――――っ!!?」」」
その沈黙が破れると、この夜初めて3人の心が一つになった。
膝を突いていた悟が電極を差し込まれたカエルのように立ち上がった。立ち上がる動作と直結し、流れるように地面に置いていたバックパックを右手でかっ攫い、隣で固まっている朔の腕を左手で掴む。その巨体は似つかわしくない機敏さで振り向き駆け出すまでに3秒掛けなかった。ちなみに三咲はすでに悟たちの前をグ○コのおっさんのようなポーズで走っている。人間離れした逃げ足もとい反射神経である。
「なにアレ!! あのお化けなんなのさ!?」
「そんなの僕に聞かないでよぅ!!」
「落ち着いて落ち込む暇もないの!!?」
「いいから! タマちゃん前向いて!?」
「さっきからこんなんばっかかコレ――――っ!!」
落ち着いて、どうしてこうなったと困惑したり茫然自失する暇もないのか。今度は全員で一緒になって、凄まじい勢いで森を駆け抜ける3人に、余計なことを考える余裕はなかった――――
※ ※ ※
「も、もうこれ以上走りたくない……」
「ふが……。後ろの方からは、犬っぽい匂いはしてこないけど……」
「……その鼻、飾り物じゃないんだ」
「多分。さっきもシャンプーの匂いでみー君の居場所が分かったし」
「へ、へえ……。便利、だね……?」
「あはは。土の中のトリュフ採るのに豚に探させるって言うくらいだから、豚だって鼻はいいん、だ…………」
「……タマちゃん、どうしたの?」
「……自分で言ってて、すごい鬱が入った……」
「…………ああー」
目の前に現れた謎の双頭犬から3人は、藪を払い谷を昇り沢を越え、ただひたすら逃げに逃げた。夜目の利かない悟を三咲が手を引き先導し、悟は疲れに足をもつれさせる朔を半ば抱きかかえて先を急いだ。
後ろを見ても悟が匂いを辿ってもあの異様な生き物の姿は見えなかったが、3人は足を止めることが出来なかった。悟が豚面になり頭が二つある犬が居るのなら、木の陰からもっと凄まじい何かが顔を出しても不思議はないのだ。何かを考える余裕はなくても、恐怖に怯えることは出来る。夜の闇に怯えることは子どもにだって出来るのだ。
どこに逃げればいいのか分からないままとにかく3人は逃げた。訳も分からぬままに見ず知らずの土地に放り出されるという恐怖を、彼らは初めて、それも痛烈に思い知っていた。
そうやって、どれほどの時間森を彷徨っていたのだろう。
木々の間から見える空が徐々に異なる色調を帯び始めた。青紫色に染まる薄明かりが辺りを包む。悟の目にも周囲の様子が分かるようになった。人の手の入った様子のない、濃密な緑に満ちた森だった。遙か向こうから「ボエ~、ボエ~」と、名状しがたく調子の外れた奇妙な鳴き声が響いている。夜の終わりは近かった。
「とにかく、後ろからあのイヌもどきは追っかけて来てない、って事だよね……?」
「だね。……ちょっと、ここで休もうか」
「……賛成」
3人は足を止めた。闇が払われるとそれに比例して追い立てられるような恐怖感も薄らいでいた。森の中を彷徨っている状況自体に何の変わりもないのだが、現在目に見える危険はなく、そうなれば危機感を維持し続けるのは難しい。疲労も限界に近かった。悟の提案に、三咲も朔も即座に頷いた。
三咲は近くの木の幹に背中を預けて、ぜいぜいと荒い息を繰り返す。朔はきつく掴んでいた悟の袖口から手を放し、べたんと地面に尻餅をつくように座り込んだ。三咲と同じように息は荒く言葉もない。悟は比較的体力に余裕があるようで、言葉もなく空気を貪っている二人を後目に周囲に警戒の視線を投げ、目に見える危険がないことを確認してからバックパックを地面に降ろした。さっきと同じように、中身の入ったペットボトルを取り出して、ハイと三咲に手渡す。
ボトルにはどぎつい赤紫色の液体が入っていて『新名物! しば漬けサイダー』と書いてあった。三咲が何とも言えない表情をしたのを見て悟は「味見したから大丈夫。しそ風味のサイダーだよ」と味を請け負う。
「全部飲んでいいよ、って言いたいところだけど、飲み物はそんなにたくさん持ってないし何があるか分からないから3等分でおねがい」
悟の言葉に三咲が小さく頷いた。頷いて、ボトルをそっと口に含む。イカモノと言うか、普段なら自分から進んで飲んでみようとは思わない類の飲み物だったが、張り付くような喉の渇きには逆らえなかった。恐る恐る一口。そして、すぐにごくごくと喉を鳴らした。
悟の言う通り、しば漬けサイダーは名前ほどに珍奇な味ではなかった。それどころか、走り通しだった三咲にとってそれは甘露もかくやと言うほどに美味しく感じられる。ぬるくなっていることなど気にもならない。糖分が疲れた身体に染み渡る。爽やかなしその風味と酸味、そしてかすかな塩味が舌に心地よく、そのまま一息に飲み干しそうになるのを自制することが苦痛ですらあった。
三咲は名残惜しげにボトルから口を放す。渇きが癒えひと心地つくと何も言わずに口を付けたことを思い出し、三咲は慌てて「ありがとう」とお礼を言った。ボトルの中身は3分の2よりやや少ないか、と言う程度に減っていた。ごめん、と頭を下げながらペットボトルを返す三咲に、悟は「いいよいいよ」とことさら軽い口調で手を振って見せる。
「……それにしても、一体何だったんだろうね、アレ」
そう言って、悟も飲み口に口を付けないようにしてジュースを呷る。はあー、とようやく息を整えた三咲が悟の言葉に応えた。
「……突然変異とか、そういうの?」
「普通あんな強烈な突然変異をした生き物は、特に野生動物じゃ生存競争を生き残れないはずなんだけどね」
「でも、目の前にいたじゃない」
「そりゃあそうだけどさ」
悟はペットボトルを今度は朔に手渡した。ボトルの中には3分の1より少し多いぐらい、つまり三咲が飲んだのと同じぐらいの量が残っていた。朔はペットボトルと悟の顔を交互に見てから、何か言いたそうに表情を歪めたが結局何も言わずにそれを受け取って口に含んだ。
「あんなのが他にもいるのかな?」
「……常識で言えば、あんなのがそうそういてたまるかって話なんだけどね」
「常識、通じると思う?」
「ぷぎぃ……」
「一体ココはどこなのよ? テーブルマウンテンの頂上で、閉じた生態系が独自進化したとかじゃないでしょうね……?」
「それじゃ、恐竜の生き残りに追いかけられちゃうでしょうに」
二人は、世界で一番有名な推理小説家の書いた冒険ものをネタに軽口を言い合う。軽口を言いながらも、一晩近く森を彷徨った挙げ句、道はおろか人工物をなにひとつとして見つけられなかった事実を噛み締めている。
ここは一体どこなのか。
少なくとも伏見稲荷ではないだろう。いくら稲荷神社の総本山とは言え京都市街に一晩中うろつき回って人里に辿り着けない深山があるとか、そんな訳がないのだ。
常識なんて言い出したら今の状況は非常識以外の何で出来ているのか。半分とは言わないけどやさしさが欲しいというか説明はよ!!と三咲が毒づく。非常識の固まりである豚面は説明できずにぷぎゅー、と鳴いた。
「タマちゃん……ありがと、ね?」
朔がゆっくりと立ち上がった。呼吸は整ったらしく、もう一度お礼を言って一口ぐらい中身の残ったペットボトルを悟に返す。全部飲んでよかったのに、と悟が言うともう大丈夫、と淡く微笑む。
払暁の薄明かりに浮かぶ朔の肌はびっくりするほど白かった。もともと学校でも女子一般に高い人気を誇る整った容姿は小柄で柔和な雰囲気と相まって下手な女子より綺麗だと言われていたが、微笑む朔は中性的というか、そして以前よりいっそう綺麗に見える。
朝の光の加減か?と悟は朔をもう一度見た。肌理の細かな白い肌。黒絹のように艶やかな髪は形のよいおとがいの横までまっすぐと伸びている。すっと通った鼻梁、淡い桜色に色付く唇。涼しげな眉の下にはアーモンド形の大きな瞳が、新緑の青葉のような橄欖石の色の瞳がじっとこちらを見ていた。
そして、髪の間から、先端の尖った長い耳が、およそ5㎝ほどの長さで頭を覗かせて……
「…………んん?」
「? なに? タマちゃん、どうかした?」
「……なんかみー君、おかしくない?」
「おかしいって、何が?」
小首を傾げる朔。どしたどした、と三咲も見る。そして「あ」と第1母音を言ったきり黙ってしまった。
最初は夜で色合いの違いに気が付かなかったのと、知らない場所に放り出された困惑にそれどころではなかった。その後は豚面になった悟のインパクトと謎の双頭犬から逃げるのにやはりそれどころではなかった。普通なら、一目で分かったはずなのだ。
目の色が日本人離れした緑色をしていることに。そして、その耳の異様な長さに。
「…………みみ、ながいね?」
「これ、見てみ?(携帯で朔の顔を撮って見せた)」
「…………目、みどりだね」
「…………ぷきっ」
「…………どういうこと?」
新緑のような碧眼。透き通るほど白い肌。そして尖った長い耳。
相方がオークでこっちはエルフか。
自分の耳を抓みながら引きつった笑顔で硬直する朔と、大きな口を開けてやっぱり硬直する悟。沈黙の狭間を「ボエ~」と間の抜けた鳥(?)の鳴き声が通り過ぎていく。
この森で最初に朔を見つけたときに感じた違和感の正体に、三咲は気付いたのだった。
「……みー君? どっか身体におかしなところ無い? 痛いところとかは?」
「んー。大丈夫だと思うよ? ずっと自分では気が付かなかった訳だし」
耳の先端を指で弾きながら朔が言った。最初の驚きから脱出すると、朔は意外と簡単に平静を取り戻した。むしろ悟の方が慌てているように見える。朔としては目の前の幼馴染みの変化を思えばこんな程度で済んだのか、とさえ思えるのだ。いろいろあり過ぎて精神の弾性が弛緩してしまったのかも知れない。
「でも、タマちゃんだけじゃなくて僕も身体に変化があった、って事になるのかな」
「……そう言うことになる、よね」
そして、二人は同時に見た。視線の先、三咲がゆっくりと自分を指で差す。二人が同時に頷いた。
「僕もタマちゃんも何かしらの変化があった訳だから……」
「一応、可能性はあるよね」
「……マジですか」
二人の言う通り、自分だけが異常事態の影響から免れていると考えるのは楽観に過ぎるだろう。三咲は身体中を手でパタパタと叩いて自分の身体に異常がないかを確認していく。腕、足…ちゃんと二本。身体、伸びても縮んでもいない。顔、朔のように耳は伸びていない。ニットキャップ越しに手で叩いた。そこには朔のような、長い耳のあるような感触は……なかった。
「とりあえず、なにもない……ような?」
「あ、そうなんだ?」
自信なさげな三咲の言葉に、どこか拍子抜けしたように朔。
悟は顎を手で扱きながらうーん?と考えているようだった。自分や朔の変化に何かしらの意味があるのなら、三咲が変化していない理由もあるはずじゃないのか、と思ったのだ。とは言えまさか三咲に「なんで変身してないんだ」と聞く訳にも行かない。それじゃ彼女に「自分だけずるい」と言ってるように聞こえる。そんなことを考えていたからか、悟の次の言葉は少し歯切れが悪い物になる。
「まあ、僕らがそうだから黒田さんもそうじゃなきゃいけない、って事もないか……」
「……ホント、どう言うこと、なんだろうね?」
三咲の目線が斜めに向かって僅かに泳いだ。変化してしまった彼らには正直悪い気もするが、誰も好きこのんでファンタジーの住人になろうとは思わない。三咲は両手で耳のところをぱふぱふと叩く。手に耳の感触のないのを確かめながら、三咲は密かに安堵した。
そして、安堵していた三咲のその耳に、突然として爆音が飛び込んだ。
「ボエェエエエェ~~ッ」
「「「!!?」」」
何度か聞こえていた、気の抜けたようなあの鳴き声が凄まじい音量で森の静寂を引き裂いた。びりびりと地面を揺さぶる重低音が腹をなじる。悟の頭が弾かれたように上を向いた。すると森に夜が訪れ、一瞬で明けた。翼を広げた何かの形をした夜が、恐ろしい風斬り音を響かせて彼らの頭上を通り過ぎていった。通り過ぎると横殴りの風が彼らに叩き付けられる。梢が揺れ、盛大な葉擦れが起こる。つい数時間前、似たようなことがあったなと悟は目を瞑りながら思う。目を開けると、しかしそこは変わらず森の中だった。吹き飛ばされた落ち葉が周囲に舞い散らばっている。翼を撃つ音が遠ざかる。その音は、とても鳥とは思えないほど大きかった。
「今度はなによ!!?」
次から次へと、本当にゆっくり途方に暮れさせてもくれないのか。三咲は恨みの籠もった視線を空に向けた。まあ、八つ当たりだった。
「あっち! あっち行った!!」
「――――あっちだね!?」
「あっ、ちょ、待って!!」
朔が、緩やかな斜面を登る方を指さす。悟は斜面を登り始めた。すぐに朔が後ろに続き、その後を慌てて三咲が追う。立ち籠める朝霧が森の清澄な空気の中を漂っている。空は明るくなりつつあった。徐々に急になる斜面を駆け上がる。登るにつれ周囲はより明るくなった。立木が疎らになってきていた。四つんばいになるようにして最後の斜面を一息に登り切る。登り切ると視界をひときわ強烈な光の固まりが白く焼く。
日の光に眩んだ目が元に戻ると、そこには世界が広がっていた。
「――――――――」
3人が、声を失いそれを見た。
そこは小高い丘の上だった。3人が立っているところから、スプーンで山を掬って削ったような急斜面がずっと下まで続いている。目の前に遮るものはなく、そこからは周囲の風景を眼下に一望できる。
急斜面は下に降りるほど緩やかになり、その裾は深い森に繋がっていた。深緑の連なりは緩やかにうねり、小さな丘陵を形作りながら広がっていた。どこまでも。遙か彼方まで。
目の前にあったのは、隔てる物のない森林によって作られた地平線だった。視界が続く限りいかなる人工物も無い、樹木に支配された大地と明けの天涯が果てしなく続く緑の世界だった。
そして、空と大地の境界からは今まさに光が零れようとしている。朝日に空は瑠璃色に輝き、地平線をきらきらと照らしている。夜は更け、そして今明けようとしていた。
悟たちは、緑の地平線に昇る朝日を呆然として眺めた。それは造形を誇るような景色でもなく、神様の巧緻を極めた色彩を愛でる物でもなかった。ただ、馬鹿馬鹿しい限りの果てのない広大さだけが、彼らの度肝を抜いたのである。
「――――うそ、だろぉ……?」
悟が、喘ぐようにそう言葉を発するためには数分の時間を要した。
悟たちは日本人だ。日本は島国で水平線には馴染みはあるが、世界が惑星だと言うことを意識させるほどの地平線など、これまで肉眼で見たことはなかった。
それはつまり、ここが京都である訳が無く、さらに言えば日本かどうかすら怪しいと言うことに他ならない。伏見稲荷ではないだろうと言うことは何となく察していた。どう言う訳だか知らないが、人の手によってであれ謎の怪現象であれ、伏見稲荷ではないどこかに飛ばされたという根拠のない確信はあった。しかしこれは悟にとって想像の埒外だ。見渡す限りの大森林など、シベリアのタイガとかアラスカの原生林とか、自分が今そこにいるなどととても信じたくない候補地しか浮かばないのだ。
「――――あれ、見てよ」
そして、朔が空を差す。
雲一つ無い澄んだ空だった。深紫から薄い青紫、そして青に変じようとしている空に、一つの影が浮かんでいるのが見えた。
悠然とそれは蒼穹に身を躍らせていた。生まれたばかりの日の光と戯れるようにして蒼穹に円弧を描く。蝙蝠のそれのような翼を撃ち鳴らし、鱗の光る長い首を反らし、「ボエ~」と大気を震わせる咆哮を響かせる。
遠目にもその大きさが分かった。それが気まぐれを起こして、遙か彼方の地面スレスレを滑空し、木を摘んで空から落としたからだ。凄まじい破砕音とともに鳥の群が飛び立ち、それのまわりを狂ったように逃げまどう。それと鳥の大きさは、まるで人とそれにまとわりつく羽虫ほどの差があった。大きさは、5mか、10mか。あるいはもっとそれ以上か。
それは3人の前でしばらく空を楽しむと、地平線の向こうに去っていった。替わって再び静寂が降りてくる。三咲は飛び去った方角を忘我の表情で見つめながら、自分の頭からニットキャップをむしり取った。栗色の髪が踊って日に梳かされる。ニットキャップを握りつぶすように胸に抱き、ぽつりと、それの名を呼んだ。
「…………ドラゴン」
蝙蝠のような皮膜を持つ巨大な翼。棘だらけの蜥蜴を思わせるその魁偉。その身体は身をうねらせると頭から長大な尻尾まで朝日を受けて虹色にうねり輝いていた。
それはおおよそ世界中の神話伝承に登場する空想上の動物。あるいは神の一柱。
近年ではファンタジーの大定番。某国民的RPGはその名の中にそれを戴くモンスターの中のモンスター。つまりはあの竜。ドラゴンである。
東洋的な竜ではなく、西洋のドラゴンに近い容貌をしていた。しかし太く描かれることの多い胴はどちらかというとシュッとしていて頭から尻尾までのフォルムはスマートだ。その全長と同程度かやや長い翼を広げ、空を駆ける竜のシルエットは鋭角的で美しく、ジェット戦闘機のように機能美に満ちていた。
ただ鳴き声だけは頂けなかったが。あれでは音痴を誹られても仕方ない。どこぞの乱暴な雑貨屋の息子と同レベルだった。
それはともかく。
空を我が物顔で駆けていたあの巨大生物は、ドラゴンとしか言えないような姿をしていたのだ。
「タマ、ちゃん……」
不安げに虚空を彷徨った手が帰る場所を見つけたように悟の手を握った。悟はその事に気が付かないかのように呆然と地平線に目を据えたままだった。
ここは京都ではない。おそらく日本でもない。双頭犬といいあのドラゴン(仮称)といい、あんな生き物が地球上にいるなんて聞いたことがない。悟が知る限り、空を飛ぶ生き物で最も大きいのはコンドルとかアホウドリといった大型の鳥類で確か大きさも羽を広げて1~2mとか、せいぜいそんな物だったはずだった。あれは絶滅した翼竜の類で、本当に『失われた世界』に迷い込んだとでも言うのか。
「冗談、でしょう……?」
伏見稲荷で言った冗談が本当になったとでも言うつもりか。悟は笑い飛ばそうとしたが出来なかった。目の前の大森林もあのドラゴンも。そして今の自分の姿も。全てが笑い飛ばすには重すぎる現実感を伴っていた。これは現実で、そして、ここは
「まさか、本当に鳥居をくぐって異世界に飛ばされた、…っての?」
「いやいや、そんな馬鹿な」
三咲が間髪入れずに突っ込んだ。
「ライトノベルじゃあるまいし、異世界にトリップとかそんなファンタジー」
ありえまへんがな、と笑ってぶった切る。
ないないと、顔の前で手を左右に振った。それと一緒に頭の上の耳も動いた。悟の目がゆっくりと見開かれた。悟の隣で、朔もかくんと顎が落ち、口をOの形にして固まった。「うん?どないしはったん?」と何故かインチキ臭い関西弁で二人を窺う三咲。小首を傾げる。一緒に耳も、コテンと下がった。
「…み、みみ、耳」
「みみ?」
三咲が朔の長い耳を指さした。いやいや、と二人同時に手を振った。わたし?と自分を指さした。こくこく、と二人は首を上下。
「みみ、ってさっき私ちゃんと、確認したよ……?」
触ってみたが、耳が長くなっているような感触はなかったのだ。三咲は耳のあたりの髪を掻き分けて指を突っ込んだ。皮膚の感触があった。起伏のない、つるんとした肌の感触だけがあった。つまり、耳が…………なかった。
「ない――――っ!!?」
三咲が叫び声を上げる。
「みみ、みみない!! 耳無いよ!?」
三咲は慌てて言い募った。彼女にも確かに変化は起きていた。彼女の耳が、あるべき場所から無くなっていたのだ。あった場所には痕跡すら残っていない。耳はおろか穴すら開いていない。じゃあ今はいったいどうやって音を聞いているのかと三咲は頭を捻る。これが自分の否定したファンタジー力なのか。
しかしオーク、エルフと来て最後に耳がないとかどう言うことなのだろう。そんな種族いただろうか。自分だけ亡霊相手に平家物語でも歌うのか。
みみみみみ、と耳のあった辺りを必死に探る三咲。そして、そんな三咲に悟と朔はしきりに指を指して見せる。自分達の、ちょうど頭の上あたり。
「頭じゃないよ!? 耳だよ、耳がないんだよ!?」
「耳! 耳!」
「だから!! 頭じゃなくて耳がないんだって!!」
相変わらず頭を指さす悟。朔は、手のひらを自分に向けるようにして両手を頭に着けてたてている。幼稚園の先生が連想ゲームでウサギをしようとしているようなポーズだ。なにやら、よってたかって酷く馬鹿にされているように見える。
「何なのよもう!!」
と三咲は苛つきを隠そうともせず、それでも彼らが指した頭の上あたりを手で探る。するとこくこく、と二人が頷いた。その様子に憮然としながら、おざなりな手つきで自分の頭を撫でる。そして、ぶつぶつと文句を言う彼女の指の先に柔らかな毛の感触。
「……うぇ?」
怖々と三咲の指がそれに触れ、なぞる。毛に覆われた、人肌ほどに暖かいくにゅくにゅとした固いような柔らかいような、ちょうど耳の軟骨のような感触のそれはまるで
「耳――――っっ!!?」
耳があった。頭の上に、毛に覆われ、前を向いてぴぃんと尖った
「うわあ……。獣耳だよ」
そうきたか…と悟が疲れたように呟いた。「やっぱり、僕とタマちゃんだけじゃなかったんだね……」と言う朔には、もう驚きは見られなかった。
三咲の頭の、うなじよりやや前あたりから生えているのは、彼女の髪の毛と同じ濃い栗色で、先端だけが白い毛で覆われた、ちょうど柴犬のような耳だったのだ。
「――――ファンタジーか!!」
と欧米っぽい様をなじるのに似た叫びを発する三咲。すると犬の耳が悲しげにぺたりと垂れた。オーク、エルフと続いた謎の変化は、三咲のケモ耳をもって、ついに無事完結したのだ。
「もう、異世界でいいんじゃないかな……?」
悟はぷひ、と鼻を鳴らして地平線に目をやった。太陽は昇り、果ての見えない樹海を朝の領域に染め上げようとしている。
千本鳥居で空間の渦に吸い込まれ、おかしな犬に追われ、ドラゴンが飛んできて、何故か自分達は全員姿が変わっていた。もうお腹いっぱいだった。自分達が想像するのも馬鹿馬鹿しい状況にいることだけは納得できる。そんな馬鹿なと否定する気力もあまり残っていない。いろいろなことがありすぎた。
「なんでこうなった!! 一体ここはどこなのよ――――っ!!?」
元気というよりは捨て鉢な勢いで森に響けと叫んだあと。
三咲は大の字で地面にひっくり返った。彼女の叫びが地平線の彼方に余韻を残しながら消えた。その問いに答えられるものは誰もいなかった。
地平線を見つめる悟。朔はその悟の横顔を眺める。悟が気が付くと朔は微苦笑を浮かべた。悟も肩を顰めてそれに答える。二人並んで、登りゆく太陽を言葉無く見つめた。いつの間にか、三咲も二人のとなりに胡座を掻いて、無言でそれに加わった。
光を浴びて、悟の柔毛がきらきらと輝いている。
ここがどこかは分からないが、3人はその日の出が美しいと思った。昨日からのことになにひとつ明確な答えなど見出せてはいないが、たった一つだけ間違いのないことがある。あの長かった夜は明けたのだ。
昨日、京都のホテルの前で三人並んで浴びたのと、もしかしたら違う太陽の光を頬に受けながら。
彼らはついさっきまで竜のいた空に昇る朝日を、身動きもせずに眺め続けていた――――
ようやく主人公たちが異世界に辿り着いたことを自覚しました。……長かった。
そして第3話にして早くも産みの苦しみを味わいまして、投稿間隔がもっさりと開きました。投稿したものの倍ほどの文字たちが世に出ることもなく骸をハードディスクに晒しています。その文字たちの声なき声が、作者を「早くしろ早くしろ」と急き立てます。でも、僕もう眠いんだ。このまま寝てもいいだろう?
ルーベンスの絵の前で横になる作者。その頭上から妙なる調べと光を伴い舞い降りる天使たち。作者は天使と共に天へと昇っていく。ランランラーンランランランーン。
翌日、冷たくなっている作者が見つかった。その顔はとても安らかな笑みを浮かべていたという。
いや、次回もちゃんと続きますけどね?