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2.

「……………ふぁ?」


 目を開く。

 開くとそこには夜空が広がっていた。一面に飾り砂糖を振りまいたような満天の星空。星空の中央で月が煌々と青白い光を放ち、夜だというのに空は酷く明るい。視界の端々見える木の枝が、逆光で黒い染みのように見える。


 三咲(みさき)は、なぜか自分が地面に仰向けに寝ていることに気が付いた。



 がさり、と音をたてて上半身を起こす。地面に突いた手に落ち葉の感触を感じた。状況を把握しきれないままに辺りを見回すと、どうやら木のたくさん生い茂る森のようなところの、木の根本に自分がひっくり返っていることに気が付く。そして、三咲は呟いた。



「ここ、どこ…?」


 まるで寝起きのように上手く働かない頭を軽く振って、三咲は自分の記憶をたどる。


 ――――確か、さっきまで、千本鳥居を、歩いていて………



「……? わたし、なんで寝てるの?」


 記憶を反芻する。

 間違いなく、私はさっきまで千本鳥居を歩いていた。なかなか奥院に辿り着けなくて、暗くなってきたから引き返そうって事になって、それで……。



「それで、どうなったん、……だっけ?」


 状況に困惑し疑問符ばかりが乱舞する三咲の頭に、今度は得体の知れない不安がわじわと染みのように広がっていく。

 三咲は伏見稲荷の中を歩いていた。

 三咲は森の中のようなところで目を覚まし、今は森の中にいる。



 ――――じゃあ、その間には一体なにがあったの?


 三咲は落ち葉を手で掴んだ。かしゃ、と乾いた音をたてて落ち葉が手の中で崩れる。千本鳥居の下は綺麗に敷き詰められた石畳だったはずだ。三咲は改めて周囲を見渡す。

 月のおかげか森の中はまるで街灯の下のように明るく、彼女が目を凝らすとかなりの範囲まで見通すことができた。しかし、あの特徴的な朱色の人工物は、ひとつとして見つけることができなかった。



「……伏見稲荷の森の中、なのかな?」 


 少し掠れた声で、三咲が呟く。ぶるり、と体が震えた。後ろでひとつにまとめられた髪の束が揺れて木の葉の欠片が落ちる。ニットキャップを被った頭から制服のプリーツスカートまで、ゆっくりと自分を落ち着かせるようにして丁寧に落ち葉を払った。そして、頭に手を当てる。


 三咲は考える。

 もしかして、何らかの理由で千本鳥居からはずれて、外の森で倒れたのだろうか。しかし目に見える範囲には、あの特徴的な鳥居の連なりはおろか建物の類も認められない。周囲は鬱蒼と茂る深い森だ。伏見稲荷の森の中だとすれば、千本鳥居からかなり離れたところにいることになる。自分で歩いてきた記憶は当然のようにない。記憶の断絶。では、誰かに連れてこられたのか。私以外の誰かに、誰か、……誰か?



「――って! そう言えば、玉置(たまき)君たちは!?」


 三咲はそれで、一緒にいたはずのクラスメートのことを思い出す。自分が訳もわからず森の中に倒れているなら、一緒にいたはずの彼らはいったいどうしたのか?


 彼らも近くにいるかも知れない。

 自分と同じように倒れているかも知れないし、またはそうでもないかも知れないが。三咲は慌てて立ち上がり、もう一度周囲を窺う。立ち上がると、その動きにあわせて地面に積もった枯れ葉ががさがさ(・・・・)と音をたてた。 



「――――――うう」


 すると、三咲の耳に微かなうめき声が聞こえてくるではないか。



「――っ!? 玉置君!? 新見(にいみ)君!?」 


 三咲は声のする方、自分の後方へと身体ごと振り向く。そこには一抱えほどの太さの木が立っていた。そしてがさり、と木の根本で何かが動く。三咲は飛びかかるような勢いで木の後ろ側に回り込んだ。



「新見君!?」


「……あ、……あれ? 黒田さん……?」



 果たして、そこには(はじめ)が木の幹に背中を預けるように座り込んでいた。たった今目を覚ましたのだろう、虚ろな目で三咲の姿を認めると、喉が張り付いたような乾いた掠れ声を出す。



「…ふえ? ……なんで、僕、寝てる……、の?」

「いや、私も分からないんだけど……」

「? 黒田さん……、も?」

「私も、そこの地面で寝てて、今さっき起きたところなの」

「……ええ?」


 朔の表情が、起き抜けの茫洋としたそれからはっきりとしたものになっていく。三咲がしたように左右を見回してから「どこ、ここ……」と途方に暮れたように呟いた。



「私にもよく分からないの。伏見稲荷の森の中、……だと思うんだけど、鳥居も神社も建物も見える範囲にはひとつもないし」

 そもそも、なんでこんなところでも寝てたのかも覚えてないんだよ。と三咲。


 本当に、何があったというのだろうか。

 三咲は考えながら朔の様子をしばらく無言で観察する。きょろきょろと辺りを窺う朔の瞳は、はじめ困惑があり、そして不安の色が刻々と増していくのがよく分かった。それを確認すると、彼も自分と同じような目にあったのだろうと、三咲はそう結論付ける。なぜならそれは、ついさっきまでの自分の心の働きをリピートで見せられているようだったからだ。



「新見君も、気が付いたらここで、寝てたんだよね?」

「……引き返そうとしたところまでは覚えてる。でも、その後は……」

「やっぱり、新見君もそうなんだ」

「やっぱりって、黒田さんも、何があったのか覚えてないの?」

「……スライドショーを見てるような気分。千本鳥居の風景から、いきなり夜の森の中、って言う感じ、かな」

「ほんとうに、どうなってる、……の?」


 すると、頭痛を堪えるように俯いていた朔が、すごい勢いで顔を上げた。



「そういえば、タマちゃんは!?」


 怒鳴るように投げかけられたその問いに、三咲は慌てるように首を左右に振って答える。


「わ、分からないよ。私も今起きたばっかだし、新見君見つけたのも今さっきだもの。でも、私たち二人がここに倒れていたんだから、玉置君も同じように――――」


 近くに倒れているかも知れない。と、言いきる間を与えず、朔は弾けるように立ち上がった。やけに明るい月の光に照らされた朔の顔はきつく引き締まっている。なぜだか分からないのだが、三咲は朔の顔を見ながら何か奇妙な違和感を覚えた。覚えたが次の瞬間、そんな事を考える暇もなくなるようなことが起こった。



「――――探さなきゃ!!」


 言うやいなや、朔は落ち葉を蹴立てて駆けだしたのだ。


 さっきまで不安げにきょろきょろと辺りを見渡していた男の子とは一線を画す、小学校の通信簿に「もっと落ち着きを持ちましょう」と書かれるレベルの豹変ぶり。温厚で大人しい、朔の学校での様子を知る三咲にしてみればいっそう信じられない取り乱しようである。

 異常事態とは言え、悟の不在にここまで正体を失うかと。一部女子の乗算的な妄想は嘘からでた真実(まこと)のたぐいなんじゃないかと、そんな場合ではないのだが、三咲は本気で疑いたくなった。



「―――っ!? ちょ、新見君!?」


 飛び出した朔は、三咲の制止をまるっきり無視してそのまま鉄砲玉のようにまっすぐに夜の茂みの中に飛び込もうとする。

 ええー!? と素っ頓狂な叫びをあげて慌てて後を追う三咲。この状況で、朔と速攻はぐれてひとりぼっちとか冗談ではない。



「ちょっと!! 新見君、ちょっとストップ!!」


 全速力で朔を追いかける三咲。茂みを掻き分け地面を調べている分スピードの落ちた朔にようやく三咲が追いつく。しかし、あともう少しで手が届くと言うところで朔は突然急ブレーキ。全力疾走の女子は急には止まれない。「のわあっ!?」と激突寸前で身を捻って朔を回避した三咲は、思いっきりつんのめって無様なたたらを踏んだ。そしてひとりでじたばたと忙しい三咲に目もくれず、朔は夜の森に殷々と響く大声を張り上げる。


「タマちゃん!? タマちゃーん!!」


 字面だけ見れば迷い猫でも探してるような気の抜けた呼びかけなのだが、朔の鬼気迫る雰囲気は冗談どころの騒ぎではなかった。名前を叫ぶように呼んでから、アクティブソナーの反応でも見ているように声の吸い込まれた森の向こうをしばらくの間睨み付けている。その真剣な表情は、本当にそういった機能が備わっているかのようである。


「ね、ねえ、新見君? ちょっと、落ち着――――うべっ!?」


 いい加減にしろと朔の肩を掴もうとした三咲の手が見事に空振った。朔は唐突に再起動し、今度は来た方に向かって駆けだしたのだ。

 空振った手に引きずられるように三咲の身体は宙を泳ぎ、彼女は頭から地面にべしゃんとダイブした。タマちゃーん、タマちゃーんと下生えの茂みを凄まじい勢いで掻き分け掻き分けしてる朔の姿を、三咲は斜めに傾いだ視界の端っこに捉える。



 あの二人確実にデキてるって、今度クラスの女子に絶対チクってやる――――


 口に入った枯れ葉の苦みを噛み締めると、ちょっぴり涙が出た。

 そしてタマちゃーん、という叫びをたなびかせて、朔の姿は木々の間に消えていった。



 ※  ※  ※



「ねえ、タマちゃん!? どこにいるの!?」


 声の限りを尽くして、朔は自分の親友の名前を呼ぶ。茂みを素手で掻き分けたため、朔の手にはいくつもの裂傷が走り血も滲んでいたが、朔は手を止めることなく真剣な表情で月のおかげかやけに明るい森の中に目を凝らしていた。


 朔にしてみれば、訳もわからず意識不明になったことも、何故だか森の中に倒れていたこともさほどの問題ではなかった。悟の不在に較べれば、そんなものは大した問題ではない。何故なら、悟がいればきっと全部解決してくれるから。朔は、そう信じて疑っていないのだった。


 三咲が聞けばますます男二人の関係に疑念が渦巻くことを考えつつ、朔は一心不乱に悟の姿を追い求める。


 そして。

 求めるものには与えられるのだろうか。そう言ったのは海の向こうの偉い人だが、隣人愛を発露して朔の願いを聞き届けてくれたのか。あるいは千本鳥居をくぐる前にお参りした伏見稲荷の神様の御利益なのかもしれない。

 がさがさと茂みを探る朔の眼前で、やや離れたところにある茂みが大きく揺れた。そして



「…………みー君?」


 と、茂みの中から、朔が一番聞きたい人の声がしたのである。




「――――っ!! タマちゃん!!」


 言って、その茂みに駆け寄る朔。聞き間違いようのない幼馴染みの声に、その表情は溢れんばかりの歓喜に輝いている。

 茂みがいっそう大きく揺れて、その中からぬっ、と大きな影が立ち上がった。ばさばさと藪を漕いで茂みから出てくる。木の枝の間から零れる月光の下までやって来て、その姿が明らかになった。


「いっつつつ、一体、さっきのはなんだったんだ……?」


 頭の上に乗っかった枝を手で払いながら、人影が言った。


「――――」


 言葉無く、その人影を見つめる朔。人影は、朔の姿を認めると口の端を上げて笑い含みに言葉を続ける。


「でも、取りあえずみー君が無事でよかったよ……って、黙り込んで固まっちゃって、どうかした? どっか具合悪い……?」


 朔にはやはり言葉がない。見ていると、朔はしぱしぱと瞬きを繰り返し、惚けたように開いた口がぴくんぴくんと痙攣し始める。その様子に、人影は頭に疑問符を飛ばしながら小首を傾げた。


「ねえ? いったいどうしたの? なんか様子がおかしいよ?」


「………………お」


「お?」


「おばけ――――――っ!!」



 朔は、現れた人影に背を向けて、脱兎のごとく駆けだした。



 ※  ※  ※



「――くそ。なんで私がこんな目に……」



 ようやく起きあがった三咲は、ぺっぺっと、口の中に入った落ち葉の欠片を吐き出しながら、同時にやさぐれた空気も吐き出していた。


 いずれにしても、悟はもとより暴走していなくなった朔も探さなくてはならない。こう言うのが二重遭難というのだろうかと、三咲は疲れた頭でそんなことを考える。

 取りあえず、朔を見つけたら首根っこをひっ掴んで物理的に拘束しよう。もし抵抗するようだったらどうしてくれようか。やや黒い思念を振りまきながら、朔がすっ飛んでいった方に向かって歩こうとした矢先。



「わあああああああ!!!」


 絶叫を上げて、茂みから朔が突然飛び出してきた。


「ええええええええ!!?」


 とっさに後ろの飛び退って朔をかわす。結構見事な反射神経で、もし三咲以外だったら正面衝突してもおかしくないぐらいの際どいタイミングだった。彼女は自分の身体能力を自画自賛してもよかった。まあ、そんな暇はなかったのだけれど。


 朔は、自分を避けた三咲にまったく気付いていない様子でそのまま走り抜けていった。



 そして三咲は、華麗にバックジャンプを決めて着地した足下の、地面に張った木の根っこに足を取られ、「犬○家の一族」ばりに両足を天に突き上げて後ろ向きにひっくり返った。 



 ※  ※  ※



「待って、待ってよお――――っ!!?」 


 ばっさばっさと藪を蹴散らして、悟は森の中を走る。



 訳が分からないことだらけだった。

 千本鳥居を歩いていたら世界が渦巻きのエフェクトをかけたように歪んで、それに吸い込まれるようにして意識を失った。誰かが呼ぶ声に目が覚めると真っ暗な藪の中にひっくり返っていて、起きあがったらそこにいた幼馴染みが回れ右して逃げ出した。振り返ってもそこにあるのは鬱蒼とした夜の森で、どうして逃げるの? と首を元に戻すと闇に沈む木々の向こうに朔の背中が消えていくところだった。


 朔がいなくなると、悟の周囲には不気味な静寂が漂い彼を不安にさせた。木々の向こうに見える夜空は星がまばらで月の光も弱々しく、森の至る所に闇がわだかまっている。

 こんなところに取り残されるのはまっぴらごめんだと、悟は携帯を取り出してLEDライトを付け、そのか細い(・・・)光を頼りに走り出す。



「ねえ! なんで逃げるの――――っ!?」



 深く暗い森の中(・・・・・・・)

 悟はまるで化け物でも見たかのように逃げ出した、幼馴染みを追いかけることにしたのだった。



 ※  ※  ※



 ――――そうか。アンタは私に喧嘩を売っていたのか。


 三咲は森の中を駆け抜けていた。ふつふつと湧き起こる衝動に身を任せると、彼女の身体はおよそ今まで覚えがないほどの軽やかさと力強さをもって、木々をすり抜け藪を飛び越え地を蹴った。目に映る夜の森は、今では彼女の目には昼間かと見まがうようで葉の一枚一枚まではっきり分かる。そしてどれほど走っただろうか。木々のわずかな隙間から、バーバーリーチェックの何かが揺れるのを認めた。



「みぃーつぅーけぇーたぁああぁあ!!!」


 三咲は駅馬車に突撃をかけるアパッチ族のように雄叫びをあげながら突っ込んでいく。


 あっちこっちフラフラ動き回るあのあんちくしょうの首根っこを押さえ付け、悲鳴と共に地面に引きずり倒してやるのだ。復讐するは我にあり、御旗楯無ご照覧あれ、だ。



「ジェロニモ――――――――ッ!!!」


 もはや何のために朔を捜そうとしていたのか。当初の理由を彼女は覚えていない。



 ※  ※  ※



「――――なに!? なになに、なになに何なの!?」


 朔は自分が見たものを思い出し、慌てて後ろを振り向いた。そこに何もいないことを確認し、(まろ)ぶようにまた駆け出す。


 確かにあの茂みからは悟の声がしたのだ、と朔は思い返していた。しかし、現れたのはあの化け物(・・・)だった。あれは一体何なのか。朔はとにかく怖かった。化け物も怖かった。しかし何より、こんな時に悟がそばにいないことが一番怖かった。


 息が上がる。足場の悪い森の中を全力で走れば体力の消耗は激しい。鉛のように重い足は今にももつれそうだ。しかし足を止めることは出来なかった。足を止めれば追いつかれると言う恐怖が身体を急き立てている。後ろから、濃密な気配が自分を追いかけているように感じる。それは目に見えている訳ではないのだが、朔の意識に、それは確かに後ろにいるのだと、何か(・・・)がそれの存在を囁くのだ。朔は恐怖に駆られ、乱れる息のまにまにたまらず声を張り上げた。



「助けて、タマちゃん、助けてよぉ――――っ!!」 



「ジェロニモ――――――――ッ!!!」


「ふなぁっ!!?」



 そして、朔の首に強烈な衝撃が襲いかかる。


 前のめりに走っていた朔には到底堪えることが出来ない。ヘッドスライディングの要領で両手を前に出した朔の身体が宙に舞う。朔の時間が急にゆっくりとなる。間延びする時間の中でああ、これが交通事故で迫る車がゆっくり見えるというアレ(・・)か、と朔はのんびりと考えた。横を見ると、自分の首を掴みながら足を前に投げ出した体勢で宙を浮く三咲が、突き抜けたように嬉々とした表情を浮かべ、犬歯を剥き出しにして笑っていた。朔には、正直訳が分からなかった。



「――――ぎゃんっ!?」


 大助走からの飛びつきフェイスクラッシャーが、近代プロレス史に燦然と輝く見事な角度で、朔の顔面を地面に突き刺した。



 ※  ※  ※



「ヒヒ、フヒ、フヒヒ――――――――ッ!?」



 やってやった! やってやったった!! 


 地球破壊爆弾を持ち出した某猫型ロボットばりの壊れた笑顔を浮かべ、三咲は歓喜を爆発させる。

 朔の背中を追いかけているうちに、自分のテンションが自分でも制御できない階梯(ステージ)にまで高まって行ったのを三咲は感じている。荒い息を吐く口元は歯をむき出しにして笑みを作る。と言うか笑わなければ内側から破裂してしまいそうだった。これがランナーズハイというものなのか。


 顔面で地面にランディングした朔は大晦日の元横綱のようにうつぶせに倒れたまま身動き一つしない。地面に叩き付けたとき爆発するように落ち葉が飛び散ったし、手応えが軽かったからきっとその落ち葉がクッションになっていたはずなのだが。


 普通に考えれば、人を押し倒して顔面を地面に叩き付ければ大惨事のはずである。三咲は別段暴力的な性格ではなく、今までの人生でも、暴力を含む私闘の経験は皆無だった。

 それなのに、相手に気絶させるほどの大技を叩き込んだのに彼女には暴力の行使に対する恐怖や戸惑いなど欠片も見当たらず、獲物に食らいついた歓喜以上の感情が存在しなかったのだ。もしかしたら何か脳内麻薬のたぐいが分泌されているのかもしれない。その証拠に三咲の目は爛々と光り、どこか人間離れした光を放っていた。



「………う、うう」


 三咲に首根っこを捕まれたままの朔がうめき声を上げて身じろいだ。ゆっくりと顔を上げると、鼻の先がちょっと赤くなっている以外に怪我らしいものをしている様子はなかった。それで初めて、三咲は朔が怪我をしていないことに安堵した。



「新見君、大丈夫?」


 そして自分でやらかしておいてこのセリフである。

 あんまりハイになりすぎて、三咲は自分が何に怒っていたのかすっかり忘れてしまっている。



「……う、ぼ、僕…。いったいどうなったの……?」


 朔も、突然の衝撃に何が起こったのか、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。



 ※  ※  ※



 暗闇の中を、悟は必死に走っている。

 走ると言っても、夜の闇に行く手を阻まれ、LEDライトの僅かな光を頼りに手探りで進むのだからたいしたスピードが出ない。よくこんな真っ暗な森の中をあんなスピードで走れたものだ、と悟は逃げ出した朔のことを思い出した。


 あれだけスピード差があるのなら、朔との差は開くばかりだ。しかもどこを歩いているのか分からない森の中、自分が朔の方に近づいていると言う自信すらない。せめて正確な方角ぐらいは分からないだろうか、と悟は必死になって夜闇に向かって目を凝らす。せめて満月なら、もう少しまわりの様子が分かるだろうに。悟は空に浮かぶ、弱々しげな三日月(・・・・・・・・)を恨めしそうに睨んだ。



「………? なんだ?」


 すん、と悟の鼻が鳴った。少し肌寒い風が彼の顔を嬲る。そしてその風に、自然と悟の鼻が反応した。今まで経験したことのない未知の感覚。ふご、とはしたなく鼻が鳴る。鼻腔に濃密な緑の匂いが広がった。そしてその中に、別の匂いが混じっている。それは馴染みのある、よく知っている、彼の、いつも使っているシャンプーの匂い……。 


「――――こっち、か?」

 犬じゃあるまいし、匂いなんか分かる訳がないだろう。と悟の理性は鼻で笑っている。しかし彼はこの感覚の先に幼馴染みがいることを確信した。彼の本能、いや、野生と言うべきものがこの感覚を信じるに足るのだと、声を大にして訴えるのだ。


 ふんが、ともう一度。

 悟は豚っ鼻を鳴らして本能の向かう先に歩き始める。



 こっち、こっちだ。だんだん近づいている。 

 本能に従い始めると彼の足は、いつの間にか普通に走るのと同じような速度で森の中を駆け抜けていた。藪を蹴破り、邪魔な枝は腕を払って叩き折る。悟の目が暗闇を見通せたなら、自分が10㎝ほどもある太い枝を無造作に引きちぎるのを見たことだろう。人間離れした凄まじい力感が悟の身体の中ではち切れんばかりに蠢いていた。しかし暗闇は悟が自分の身体の異変を知ることを妨げている。悟はただ、全速力で朔の元に辿り着くことだけを考えていた。



「助けて、タマちゃん、助けてよぉ――――っ!!」


 切り裂きような悲鳴が悟の耳朶をひっぱたく。



「!? この声、みー君!?」



 吼えるように、悟は彼らだけの間で使われるあだ名を呼んだ。声は近い。鼻を鳴らせば野生も彼がすぐ近くにいることを察知する。


 朔は助けを呼んでいた。しかも、自分の名を呼んで……!



「うおおおおおお!!」


 声と野生、両方の指し示す場所に向かって。悟の、大きな体が跳ねるように躍動した。



 ※  ※  ※



「あー。……新見君、身体の方は大丈夫、……かな?」

「うう。なんか鼻がヒリヒリするけど、他に痛いところはない…と思う」


 自分でも正体不明のテンションが過去のものになると、あれだけのことをやらかしておいて、三咲には今更のように「いくらなんでもやり過ぎた」という後悔の念が湧き起こっている。何であんなに暴力的な気分になっていたのか。


 やってやった、じゃないだろう。

 現代日本人としてそれはないだろうと突っ込まずにはいられない自分のキレッぷりを思い出すにつけ、三咲のテンションは泥の底にずぶずぶと沈み込んでいく。

 ハイアングルで炸裂したフェイスクラッシャーによって、朔はまた前後の記憶がクラッシュしたらしい。自分が何で第○代横綱状態(うつぶせ)で砂を噛んでいたのかよく覚えていないとのこと。

 こんな短い時間の間に2度も記憶を失うとかなにそれ怖い、とわりかし本気で怖がる朔を、三咲はそりゃあ一生懸命に慰め、身体中に引っ付いた枯れ葉を丁寧に払ってやったりしている。その瞳は「無かったことにしてしまいたい」と雄弁に語っていた。



「じゃあ、僕はまた、ここで倒れていたんだ……」


「そ、そうそう。新見君、玉置君を捜すんだー、って突然走り出して、それを私が追いかけてここまで来たら、……ね?」

 勢いあまって顔面砕きを敢行した、とは言えず、目を泳がせながら嘘ではないが真実でもないことを話す三咲。



「……タマちゃんを捜してたのは覚えてるけど、その後、僕どうしたんだっけ…。たしか、なにか、とんでもないことがあったような、そんな気がしたんだけど……」


「ああ!! 無理に思い出そうとしなくてもいいよ!! 今起きたばっかりなんだから無理しない方がいいって、ね!?」


「うん、でも……」

 少し赤くなった鼻をさすりながら記憶の糸を辿る朔。三咲はそれを判決を待つ被告の如き視線で窺う。自分は悟を捜していた。そして悟の声がして、そこで、そこで――――



「あああ――――っ!!」

「ひぃい――――っ!!」


 叫んで、朔が三咲の腕を掴んだ。叫んで、もうダメだ土下座しようと三咲は覚悟を決めた。あうあうと喘いで朔の次の言葉を待つ。しかし朔の口からは、三咲を責める言葉は出てこなかった。



「大変だよ!! 逃げなきゃ、早くここから逃げないと!!」

「は? は…はあ!? 逃げる?」


 突然目の前で取り乱し始める朔に、きょとんとする三咲。朔は思い出したのだ。三咲の仕打ちではなく、自分の遭遇したあの恐怖と、それから逃げようとしていたことを。



「お化けがいたんだよ! タマちゃんを捜してたら、茂みからぬうって!! お化けが出たんだよ!!」


 訳の分からないことを言い出す朔に三咲は困惑する。お化け? コイツ一体なにを言ってるんだ? と自分でぶちかましたくせに、さっきの衝撃で頭がどうにかなっちゃったのかな、などと失礼な事を考えた。



「ちょっちょっちょ、ちょっと待って? なに言ってるの?」

「だから、お化けがいたんだって!! おっきくて、顔が、顔が、ぶ、ぶぶぶぶ……!!」

「……ぶ?」



「うおおおおおお――――っ!!」



「――――ぴぃっ!!」

「なあっ! ななな何、ナニ!?」


 森に、野太い叫声が木霊する。ばきぃ、ぐしゃあ、と何かを破壊するような音が連続して起こる。そして、それらはすごいスピードで2人の方に近づいてくるのだ。朔も三咲も地面に座り込んでいて、すぐには動けそうもない。特に朔は、さっきまで限界まで走った挙げ句三咲に技まで喰らった身体だ。逃げようと藻掻く足がむなしく地面をかき回す。絶望に瞳が揺らいだ。三咲も勝手に身体が硬直する。何かとんでもないものがこっちに近づいている。遅まきながらその事にようやく彼女も気がついたのだった。



「来た!! 来ちゃったよ!? お化け、お化け来ちゃったよ!?」

「来るって一体なに!? 何が来るの!?」

「だから! ぶ――――」



 ばさあーっ!!


 二人の目の前の藪が爆発したように吹き飛んだ。呆然とする二人に葉っぱや小枝が降りかかる。ふんが、と大きく鼻が鳴った。ダウンジャケットを着込んだ大柄な身体。その身体の上には、血色のいい桃色に上気した――――



「「豚――――――――っ!!?」」



 豚の顔が、ちょこん、と首の上に据わっていた。

 茂みの中から飛び出したのは、人の身体に豚の顔。ファンタジーではおなじみの悪役の定番。中級者向けのやられキャラ、つまりはあのオーク(・・・)なのだった。


 その豚顔が、二人を認めると歯を剥き出して、にやあ、と口の端を歪める。そして、言う。



「やっと、みつけたぁ……」



 その時の事を、あとになって二人はそれぞれこう語っている。

「歪められた口元は、舌なめずりをしているかのようだった」新見 朔

「これからお前らを丸かじり、と言われているとしか思えなかった」黒田 三咲



「ひううううう――――っ!! お化けお化けお化けお化け――――っ!!」

「ぎやああああ――――っ!! こっちくんなこの豚野郎ぉ――――っ!!」



 豚顔を指さして、朔と三咲は魂消る絶叫を上げ。



「なんでぇ――――っ!!?」



 豚顔、つまりは玉置 悟は、涙目になって二人の仕打ちに非難の声を上げた。



 三者の叫び声が木々の枝を揺らして響き渡り、月のしろしめす漆黒の虚空に消えていく。夜なお深い森に、未だ夜明けは遠かった――――





 異世界に飛ばされた主人公たちを合流させるのにどれだけの文字数を使うのかと、書き上げてみて自分の文章のくどさに身もだえる昼下がり。


 自分の趣味で書いているのだからやりたい放題やってこそだろうと言う自分と、人に見て貰う文章なのだから読者の方の目を気にしないでどうするという自分。


 二つの自分は絶えず争い、戦いが終わることはありません。その戦いはやがて天を二分しての最終戦争へと発展し、山は裂け地は割れ海は枯れ、そして誰もいなくなり、世界に平和が訪れた。

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