『ダークライト』:5
しわくちゃの右袖に夜風が吹き込んでも、そのまま公道を歩いてみる。アスファルトの黒ずみは、慶一の鈍重なステップで音を奏でる、ハタハタと鳴らした足音ミュージックは明日には全て忘れ去られてしまうだろう、そういうもの。
柿崎光と波崎美雪のその後を慶一は見ていない。
「今日は結構遅くなるから先に帰れば?」
っていう慎吾の一言に慶一は素直に従った。ギターとドラムスだけの練習を見せてもしょうがないという、慎吾のいたたまれない感情があったのかもしれない。
トイレ前を通ったが、入口からドアまでに奥行きがあって、変な喘ぎ声とかそんなのは聞こえなかった。それが良いことか悪いことかは分からないけど、慶一は少し尿意を催したのにトイレ行くことはしなかった。
夜の小路、アスファルト。鼻歌は今日のライブの一曲目に演奏されたもの。タイトルは知らない。慎吾に聞いとけばよかった、と後悔をしながら、もう閉店してしまった本屋の横を通りすぎていく。
急に凜に会いたくなった。
兄貴の問題とか、結婚の問題とかを全部無視して、ただ単純に凜に会いたくなった。
波崎美雪っていう美人に目が眩んでしまったから?
自分には彼女がいるっていう自覚が欲しかったから?
どっちもだろうし、それだけじゃない。ただ弱さが半開きになった状態で、このまま全てを諦めてしまう前に凜に閉めてもらいたかったんだろう。
本気じゃないのかな。
ただ好きだからって理由で付き合ってたんだけど、それなら波崎美雪はどうなるんだろう。美人を見て何かを期待して、その美人は他の誰かと付き合ってたなんて、よくある話の一つ。でも状況が状況だし、基本は柿崎光のようにビビりなんだ。ヤクザの兄貴に何回殺されたら気が済むんだろう。凜もとっくに愛想尽かしてる。
鼻歌はサビだけを奏でていく。他の部分は覚えていない。
モラトリアムな慶一の頭に、lazy antの音楽がモルヒネの代わりをしてくれている気がする。
なんか、もう一度あのライブに行きたくなった。あの場所なら全てを忘れられそう。爆音でもなければ静かでもないあの場所、あの時間にもう一度行ってみたい。
慶一はふと、サビ終わりの気持ち良い部分を切ってから足を止め、ポケットの携帯を取り出す。
電話帳とラ行とペケペケ鳴るボタンの音。決意……とは違うけど、話しておくことがあった。
プルルルルと鳴る音が漏れないように……って周りに人は多くない。
電話はガチャっと呟いた。
『……はい、もしもし』
「あ、俺だけど」
声が少し緊張して震える。人見知りってわけじゃないが、鼻奥で息を吐いて、噛まないように頑張ってみる。
『うん。どうしたの?』
凜は電話の向こうで、少し声を弾ませてくれた。
「ちょっと話したいことがあって……。大丈夫?寝てなかった?」
『うん、起きてたよ』
「あ、そう……。あのさ、ちょっとあの件で話したいことがあってさ」
『あの件って?』
「凜の兄貴の話」
途端に慶一の身体の中で、イケナイコトをしたような感覚が生まれる。
『…………』
凜は無言だった。携帯の電池パックが急激に冷えていく。
慶一は焦りを覚えて、
「あっ、いや、別れようとかそういう話じゃないんだ。ただこのままにして置くのもアレだと思うから……」
『……?』
多分、あっちは別れを切り出されるって思ったんだろう。
電話越しにキョトンとするような疑問付を微かな声で表すような音が聞こえた。
慶一は勿体振るように咳込み、じんわりと緊張が滲み出てくるのを感じた。切り出してしまった感があるから、気分がハイになって、呂律が回るか心配でもある。
「俺さ、やっぱり一回会ったほうがいいと思うんだよね」
『……え?』
凜は胸が潰れたような変な声を出した。
「だって、その……付き合ってるんだからさ。挨拶ぐらいしときたいし」
慶一は言ってる間に、照れ臭く感じて、眉間を指の腹で擦った。その指が恐怖か何かでブルブル震えている。
『本当に?』
「あ、うん。ちょっと遅かったかもしれないけど」
目が渇く。あぁ、言ってしまった、っていう感覚が非常に強い。
電池パックが熱を帯びる。
凜はとても嬉しそうに少しだけ噛みながら、
『あ、じゃ、じゃあ明日の昼、食堂で会わない?』
「うん?」
『色々と決めとかなきゃいけないでしょ?だから明日の昼に、ね?』
なんか凜の笑顔が、向こうで輝いている気がする。慶一は電話で話してしまったことを本当に後悔した。その笑顔が見たかった。
「あぁ……うん、わかった。食堂ね」
『うん。先に待ってるから』
いい言葉だ。
心がムズムズする。
「じゃ、じゃあ明日。また電話するから」
『え?……あ、うん』
もう終わり?って感じの淋しい声。
「じゃあ……また」
『うん、またね』
電話がブツッ、って呟いた。
サブタイトルに『ヤクザと大学生』ってつけとけばなんとかなる気がするのは、AVやつまらない新連載の物語だけで、くたびれた靴紐をつけた緩く冴えない現実には全く合わない。子供にゴムボールを投げられて、ごめんなさいの一言をかけられて、草のにおいがする河原沿いの朝の砂利道を通ったのは数時間前。
また、このドアだ。
プラスチックか木製かわからなくて、意味の分からないアクリル付きの煩瑣的大学食堂のドア。欝陶しいくらいファッショナブル、ドアノブが綺麗な曲線を描いていることに今初めて気付いた。
気持ちが柔かくて重い。
未来の暗さが現在に侵入している。
慶一はそのドアを開け、一昨日に慎吾が座っていた場所に、凜が慶一に気付いて手を振っている姿が見えた。
「ごめん、待たせて」
「ううん、そんなに待ってないって。もっと遅くなるかと思ったぐらい」
凜は目をしばしばとさせて、愛らしいくらいの笑顔を零す。掬いもせず、拾いもせず、ただ日本語で話し掛けられた外国人みたいに引き攣った笑顔で返すだけになってしまう。椅子がゴリッと胡麻を杵で潰したような音で、慶一は凜の目の前に座った。
「講義終わりからまだ五分か十分でしょ?早かったね」
「うん、時間通りに終わんなかったから。教授がせっかちで」
いつも通り、慶一は何も頼まない。お金がないし、ここのご飯、飲み物はあんまりおいしくない。
「そうなんだ……。あぁ、で……話、していい?」
「え?あぁ、うん」
戸惑いは様々に、テーブルの黄ばんだ染みがメスライオンのシルエットに見え、慶一のことを喰いたそうにしている。
凜は化粧っ気のない顔で、肩をすぼめている。
「お兄ちゃんね。今日の朝に電話がかかって来てさ。私、慶一が言った言葉が嬉しくて、つい昨日の夜のこと話しちゃったの」
凜は申し訳なさそうな表情になるが、ここで怒るほど人間が出来てないわけじゃない。慶一は左頬を吊り上げる奇妙な笑い方をすることができた。
「で、何て言ってたの?」
「うん、なんか慶一と一度話をしたいらしくて、明日会えないかどうか聞いてみてって」
「明日!」
「うん、早いよね……。でもお兄ちゃんは早めに会いたいんだって。その……友達と会う約束があるんだって」
気をつかってヤクザ用語を出さなかったが、早い話それっぽい事務所かどこかで他の組との抗争対策を練るために、集会かなんかを開くとかそういうのだろう。小指でも切り落としてくるんだろうか。
「でも、明日って早いから、私断ろうとしたんだけど……」
「あ、あぁいいよ。うん、大丈夫」
ビブラートがかかった凄く情けない声が出る。凜の死角には慶一が貧乏揺すりをしている足があって、さっきからテーブルの裏にちょくちょく当たっていた。
「……本当に?」
凜はそんな慶一を心配して、泣きそうな感じの瞳で慶一の顔を見る。
「大丈夫……じゃないけど。大丈夫」
訳のわからないことを呟いて、慶一はニッと笑った。それは清々しいものではなく、苦笑いの苦みが濃くなっているような気持ち悪い笑い方で、凜の心配するような顔が更にもう一段階上をいった。
沈黙。
二人の時間が長くなって、慶一の貧乏揺すりと呼吸だけが時間を進めていく。隣でおいしそうにオムライスを食べている(そういえば一昨日も来ていた)カップルがこの中途半端で下らない食堂に適応していなくて、ここが好きじゃない慶一の沈みきった猫背が、無駄にテカった白タイルの地面に上手く溶け込んでいる、っていう矛盾。
「……あのさ」
三文字じゃなかったら聞き取れなかっただろう、凜は口の中だけで小さく呟く。
「なに?」
「……お兄ちゃんに会ってさ、何を話すつもりなの?」
少なくも威圧感あるように言う。水城優みたいで怖い。
「何って……」
「『妹さんを僕に下さい!』みたいなことを言うの?」
凜の声が昨日のライブ三曲目のようにクレッシェンドしていく。怒ってるのか、泣いているのか。僅かに震えている肩とうつむいてつむじしか見えない頭だけじゃ、慶一には区別がつかない。
「それは……」
「結婚する気で付き合ったなんて思ってないけど、遊び半分だとしたら、嫌だよ」
「……そんなことないよ」
「じゃあ何て言うの?お兄ちゃん厳しいから、絶対に許してくれないよ?」
ガタッと隣のカップルが席を立つ。楽しそうに笑う声と、馬鹿みたいにどうでもいいことで盛り上がる声が、混ざって聞こえた。
「私は……慶一に死んでほしくないの」
物騒なことを言う。ていうかその可能性があるってのが凄い。
「私とさ、結婚する気が無いならお兄ちゃんと会うのやめといた方がいいよ?会っちゃったら顔覚えられるし、私と別れたいなら、慶一のことは私が“ふった”ってことにしといてあげるから」
「えっ……!」
「慶一だって思ってるんでしょ?私と付き合わなきゃよかったって」
ズシッと鉄管に押し潰されたように、血流が体外に飛び出たような感覚。
あぁ違う。
ショックじゃない、ショックじゃないよ。
決して図星なんかじゃなくて……
「そ、そんなこと言うなよ!」
こういう時、周りの目を気にする冷静な自分がいることに腹が立つ。怒気を含ませながらも、声は普通の大きさ。
「そりゃ最初は物凄くビビったし、今もちょっと怖いけど、凜のお兄さんが、ヤ、ヤクザかどうかなんて関係ないよ!俺は……」
声が震えてる。
やばい泣きそうだ。
「俺は、凜のこと好きだから。だから……大丈夫だよ」
「……」
凜が顔を上げる。目の周りが赤く腫れていて、頬が一直線だけ滑り悪く渇いている。
やっぱり、さっきまで泣いていたのか。
途端に『大丈夫』なんて曖昧な単語を引っ張ってきた自分が恥ずかしくなった。凜は多分、半信半疑な状態だろうな。
虫を奥歯で噛み殺した気持ち悪さが、胃酸の酸っぱさに混ざってフクッと喉が膨らんだ。
「……とりあえず、今日の夜連絡するから」
凜はそう言って立ち上がり、そのままドアに向かう。慶一は呼び止めようとしたが、資格とか立場とかいう言葉が頭の中で思いついてしまう。
最低だな、って思ってると、凜が振り向いて、泣き顔のまま愛想笑いする。
慶一はその時、自分がどんな表情をしているのか、分からなかった。