『ダークライト』:3
歓声が波のように這っている。
さっきまでのダラダラしていた客が嘘のよう。
人が動くと、一人一人の面積に変化が出て、百人が千人に見える。ていうか、元々そんぐらい居たのかもしれない、って錯覚。
その女の子は右目に眼帯を付けていた。
よくある脱脂綿みたいなのじゃなくて、ちょっとパンク系のファッション的要素がある布で作られたもの。柄は遠いので分からないが、“柄が付いている”ってことは分かる。
でも服はTシャツにパンツというカジュアルな格好で、V系とは違うみたい。だから、あの眼帯が何を意味するのかは分からない。
彼女はつまらなそうな顔をしていた。
盛り上がるライブハウスに相反して無表情。欠伸でもしそうな程に怠惰。早く終わらせて帰りたい、って雰囲気。
その女の子は慶一の予想に反して、ドラムセットの椅子に座った。
この女の子がドラムスらしい。
再び歓声。
今度は二人出てきた。
両方、女の子。
一人はハーフみたいな端正な顔立ちで、背が高くスタイルも良い。なんかニコニコと笑っていて、微妙に顔の左端が引き攣っている。
もう一人は、緩そうな目元と、耳が尖んがってそうなエルフ顔。歩いている姿がどこかぎこちない。緊張しているのだろうか。
ハーフはギター。
エルフはベース。
それぞれが定位置に付いて、ピックをポケットから出す。
ってか、さっき『銀河』が使ってたやつと同じやつを使ってる。
「おい、慎吾」
「ん?」
「あのさ、ギターが前のバンドと同じやつなんだけど、どういうこと?」
「あぁ……多分、借りてるんじゃないか?あいつらは楽器とかに執着しないから」
慶一は、そういうもんなのか?と疑問に思ったが、そこら辺はあんまり詳しくないので、何も言わないことにした。
三度目の歓声。会場が一番大きく振動した気がする。
今度は男だ。
彼がボーカルなんだろう、ステージのセンターのマイク前によそよそしく立っている。心なしか、緊張しているようにも見えた。
顔立ちは結構良い。
少し幼いがマイナスではない。ミュージシャンで“居そう”な感じ。ただ、かなり不健康っぽい。
何故か、右手に包帯が巻いてある。
趣味か、ファッションか。少し血が滲んでいるから、怪我かなんかしたんだろう。
ようやく全員が揃った所で、メンバーが楽器と向き合う時間。ジャ、ジャ……と不規則だが、心地いいギターの音が流れる。チューニングってやつだろう、慶一もそれぐらいは知っている。
その時間帯に流れる会場の空気は異様だった。
期待感が目で見えそうなほど、濃密に『ホタル』の腹の中で入り混じっている。
まだ一曲も、ていうかステージに出てきて、lazy antのメンバーは誰一人として喋っていない。観客なんて最初っから眼中にないのか、挨拶も、トークも、全くする気がない。
それなのに、興奮と緊迫は原子レベルを越えた素粒子にまで伝わっているようだ。慶一の胸もそれに合わせて高鳴っている。
チューニングが終わる。
ボーカルはマイクをトントンと叩いて、軽く空間を振動させる。
「あ、あー、あー」
ボーカルの声が断続的に響く。
その瞬間、耳が痛くなるほど、会場が静かになる。
唸りも、咳も、溜息も。
その小さな針で割れてしまいそうなほど、静寂はパンク寸前まで膨らんでいく。
ボーカルは溜息をつき、ドラムスがスティックをカッカッ、と鳴らし、メンバーに合図を送る。
歌が始まった。
『ダークライト』
秋月が陰るような
覆うのは雲じゃなくて
地球、そう自分自身
太陽から隠している
黒炭で塗り重ねた
左胸のその中心
そこに何があるか
もう分かってるんだ
何がダメで何が良い?
雨で壁が剥がれている
諦めたくないのに
諦めなきゃいけないのかな
僕は最低です、と
言えば楽になる
そう思ってるつもりでいたけど
後味は鮮明に残ってしまう
あなたでも、誰でも
クリスマスの聖鐘でも
苦虫の銃痕でも
昨日のテレビでも
僕は繋いでいたいんだ
コーヒーの白さは
異次元の明るみは
手を伸ばしながらも
木を植えながらも
どうにかして、残して
淋しくはないけど
一人でも生きていけるけど
僕の、僕の為に
少しは無理してほしいと
醜くても、崩れ落ちても
どこかでそう思ってるんだ
たまに後ろから
おどけた風に抱きしめて
僕の、僕の事は
忘れないままでいてよ
すぐに失いそうな
また消えてしまいそうな
そんなものが僕の
『唯一』になったとしても
いつも持っていたい
いつも持っていよう
心に刻んで
.
●
――ライブ終わり一時間後。
時計は夜の九時辺りを指している。
lazy antのライブはたった三十分だけの短いものだった。十曲もやっていない。
新人だから仕方ねぇよ、と慎吾は言っていた。だからそういうものなんだろう。慶一も何となく納得してしまった。
でも、まだあの時の衝撃が心の中に残っている。
身体中がちぎれるかと思った。
観客の頭が波打って、光の加減で海の断片にも見えた。
窮屈さを感じた。
観客が元々少ないので、人と人の間に余分なスペースが出来ているはずだったが、lazy antの音楽がその隙間に滑りこんでいる。
顔の筋肉や、身体の一部が活動を止め、ただ見て、聴くことだけに集中させられる。脳が、余計なことを考えさせなくなっていたみたいに、時間がピタッと止まってしまった感覚が慶一にあった。
ギターってあんな音が出るんだ、と思うぐらいの乱暴な掻き鳴らし。最上級の悪党を見た時のような、心地いい不愉快さ。
ドラムはおおざっぱで適当。眼帯で隠れていない左目も使ってないような気がするほど、無心で乱打、乱打、乱打。
ベースはそんなドラムに合わせるよう、リズムを丁寧に刻んでいた。一音、一音を拾い集めて、乱雑になったメロディを導いているようにも見えた。
残酷なギター。
怠惰なドラム。
堅実なベース。
それに呼応するかのように、ボーカルの掠れた小さな声が、弱々しく響いてくる。
吐き気すら催す。
醜く腐った果物と対面した感じにも似ている。
決して、安心や共感を得るようなものでは無く、ただ“感情の嫌らしさ”だけが伝わってきた。
これは感動と呼んでも良いのかは、正直分からない所だが、少なくとも心を奪われたのは確か。とにかく生涯忘れることが出来ない音楽。
慶一は人生の三十分をlazy antに奪われてしまった。
小さくて丸い、磨りガラスの窓に、慎吾は頭を預けている。ワックスが塗られた床が綺麗で、黒のギターケースが上手に映っているほどだ。
『ホタル』からそんなに離れていないのに、穏やかな雰囲気がするのは、やはりあの空間が異質だったからだろうか。
現在、慶一と慎吾は『nana studio』というスタジオに来ていた。
「すまんな。ここまで付き合わせて」
慎吾はさっき自販機で買った、ブラックコーヒーを飲んでいる。
好きなんだろうな。昨日も食堂で飲んでいたし。
「気にしなくていいよ。lazy antの人達にも会いたかったし」
慶一もペットボトルのお茶を買って飲んでいる。珍しく、慎吾の奢りだった。
壁には穴が空いている。多分、防音の役割を果たしているんだろう。スタジオっていうのはそういうもの。
これから、lazy antに会えるらしい。慎吾も入れて、ここで練習するらしいのだ。
慶一のお茶が空になる。ここに来て、もう二十分。時計は九時半辺りを指している。
「遅ぇな」
慎吾はボソッと呟いたので、慶一は慎吾に目を向ける。
「何時に来る予定だったんだ?」
「九時半。でも、あいつらは……ていうかニヒラは三十分前にいつも連絡してくるんだけどな」
「ニヒラ?」
「仁平。仁平灯子。ベースの奴。あいつは真面目だから時間に遅れることは無いんだけどな」
慎吾はトントンとリズムをとるように、爪先で床を叩いてる。慎吾がヒマな時にする癖だ。
「まぁ……真面目過ぎるってのもあるんだろうけど」
少し苦々しい表情を浮かべている。なんか、嫌なことを思い出したようだ。いつも馬鹿みたいに笑顔なのに似合わない顔をしている。
慶一が不思議に思っていると、後ろから、ギィィと錆び付いたドアの開く音がした。