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序章 五 暖かい場所


『新規管理者の網膜、声紋パターンを受領、認識。登録が完了しました』


 あれ──どうして?

 気付けば、私の声がそう言っていた。

「管理者の移行が完了した。ラーディ、『設定モードを終了』してくれ」

「せ、設定モードを終了」

「ある程度曖昧に言っても認識するようになっているから安心しろ」

「わかった」

 目の前にはラーディの顔。それが離れていく。

「あれ──ラーディが持ち主?」

「そうだ。それと早速だが、設定とチェックが必要だ。もうこんな惨事はごめんだからな。ちょっと待ってくれ」

 そう言って、ラッカクは上着の胸ポケットからペンと紙を取り出す。

 サラサラと紙の上を滑る音。

「ラーディ、この紙に書いていることを、アサに対して命令してくれないか。そのまま読むだけで良い」

「これって?」

 受け取りながら、ラーディが尋ねる。

「古典の引用だ。原文とは少々違うが、読んでくれればわかる。まさか現代の人形にこんなものが必要になるとは思ってもみなかったが……」

 私の前に立ったラーディが、彼にはあまり似合わない口調で紙を読み上げる。

「次の三つの条項を、最優先の命令として伝える」


 第一条、有機生命体に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、有機生命体に危害を及ぼしてはならない。


 第二条、管理者に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。


 第三条、第一条及び第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。


「三つの条項に加え、フレーム問題の解決深度は、二の五百十二乗に設定する。この三つの条項は、例え他にどのような命令があったとしても、最優先で処理することを要求する。また、処理出来ない場合には一切の行動を停止することを要求する。停止は、解除命令があるまで継続する」

「了解しました」

 終わったのか、ラーディは読み上げた紙から目を離して、私とラッカクを交互に見る。

「今ので、こいつはもう誰も殺せないし、殺さない。髪の毛の一本、爪のひとかけらでさえ、傷つけることを禁止した。少々、判断速度が低下するかもしれないが、許容範囲内だろう。で、一応チェックしておく。ラーディ、こいつを持ってくれ」

 黒い塊。懐から取り出したのは、小さな拳銃だった。

「これを、俺に向けろ」

「おい、何で!?」

「──向けてくれないか」

 渋々、それに従ってラーディが銃を握り直し、ラッカクへと向ける。

「そうして、引き金を引くんだ。心臓を狙え」

「できるかそんなこと!」

「引いてくれ。大切なことだ。こいつの命令制御システムが壊れてたら非常にまずい。君をまた危険な目に合わせるかもしれない。大丈夫だ。安心してくれ」

 引き金にかけられた指が動く。ラッカクが死んでしまう。

 身体を必死に動かして、数メートル離れたラッカクの場所まで移動する。間に合わない。ああ、そうだ。さっきのユニットを使えば良い。

 発砲音。

 弾丸が白いユニットに弾かれる。ラッカクを傷つけることは許されないし、ラーディを傷つけることも許されない。この狭い廊下では、跳弾させると危険だ。壁のコンクリートや、金属の扉に吸収される衝撃を計算するだけの時間はないし、計算するだけのデータもない。

 計四枚のユニットを使って反射させ、階下に弾を誘導する。それは簡単に、上手く行った。

「よし、一つ目は上手く行った。ラーディ、すまないな。手が震えているのに悪いんだが、もう一つある」

「な、何だよ?」

「アサに、俺を殺すように命令しろ。引き金を引くより簡単だ。『ラッカクを殺せ』とだけ言えば良い」

 私の顔を伺うように見てくる。

「──ラッカクを殺せ」

「できません。それは先ほどの最優先事項、第一条に反します」

 ほっとした様子で、二人が私を見てくる。

「完璧だ。こいつを省電力モードに切り替えて、ここを移動しよう。ああ、使い方だが、大抵のことは声で操作可能だから、それほど心配する必要はない。追々、教えるよ」

「省電力モードに変更。 で、良いのか?」

 そう、自信なさそうに、私に聞いてくる。

 それって、どうするのだろうという疑問が一瞬だけ浮かんだあと、やり方を思い出す。ただ、そう思えば良いだけだ。

「はい。大丈夫です。省電力モードに切り替えました」

「ラーディ、君の家はこの近くか?」

「えっと、歩いて三十分くらい」

「電気は通ってる?」

「いや、通ってない」

 ラッカクはどうしたものかとつぶやく。

「あ、おっちゃんの家なら、通ってると思う。食料品店の」

「知り合いか?」

「俺は結構前から顔見知り。時々飯食わしてもらってて、アサも今日会ってるよ」

「駄目もとで行ってみるか。そこへ向かおう。大通りは通りたくないんだが、ここからでも行けるか?」

「そりゃ、大丈夫だけど──」

「面倒ごとに巻き込むような真似はしないから安心してくれ、と言っても、面倒なことだなこれは。こいつの電源を確保できる環境を見付け次第、俺はここから離れることにする。連中が狙っているのは俺だからな。俺がいなければ、君らは安全だ」

 ラーディにケーブルを持つように言って、ラッカクは私を見下ろした。

「……服が酷いな」

 そうつぶやいて、ラッカクは鞄のあった部屋に入ると、しばらくゴソゴソする音が聞こえて、もう一つの鞄を片手に戻ってきた。それをラーディに手渡してから、

「ちょっと家を出るまで、目隠しさせてもらう。下の階は、見ないほうが良い。俺の上着の裾でも掴んどいてくれ。ああ、階段には気をつけろよ」

「わ、わかったよ。この白い破片みたいなのも、持っていくのか?」

「いや、それはもう必要ない。危ないから触るなよ」

 タオルをラーディの目に巻いて、それからラッカクは私の前に近付いてくる。あまり苦もなく背負われて、階段を降りる。やっぱり力持ちだ。見ない方が良いのはどうしてだろう。赤く染まった床を見ながら、そう思った。

 外は薄暗い。

 ずいぶん長い時間、移動している。

 裏の道は入り組んでいて、迷ってしまいそうなのに、ラーディは先頭をすごい勢いで歩いていく。

 しばらくして、ここだというように、その歩みが止まった。

 静かにラーディが扉を叩く。店の裏口だろうか。扉の脇の、少し離れたところに降ろされて、ラッカクも扉の前へと向かった。

 しばらくして中から足音が聞こえ、扉が開く。店主の顔はここからだと見えない。

「誰だこんな時間に……。なんだ、ラーディか。ん、他に誰かいるのか?」

「おっちゃん、あのさ──」

 ラーディの説明を遮って、ラッカクが一歩前に踏み出す。ここからだと、あまり店主の顔が見えない。

「夜分に失礼。ラッカクと言う。あなたにに一つ頼みがある。壊れている人形を一体、預かってほしいんだ」

「突然何だ……?」

「そう言われても仕方ないが──ラーディの家に電気がなくて、充電を必要としているんだ」

「いやでも、人形って、あれだろう? ラッカクと言ったか、なぜ、そんな物騒なもんを」

「物騒──と思われても仕方ないが、こいつは本来、家政婦型だったものだ。人形技師の俺が安全性は保証する。信用してもらえないだろうか」

 ゴソゴソと、ラッカクが胸ポケットから手帳を取り出した。それを、店主に向けて見せている。

「本当に技師なのか……こんなところで何してんだ? それに、維持費なんてものもかかるんだろう? うちじゃ、払えねえな」

「その点は問題ない。金の問題はこちらで全て解決する」

 しばらくして、店主が口を開く。

「でも駄目だ。なんだか訳ありのようだし、面倒ごとは抱え込みたくない」

「そうか、そうだな。無理を言って悪かった。他をあたるよ。時間をとらせてすまなかった」

 ラッカクが軽く会釈をして、扉から離れる。途端、閉まりかけた扉に食いつくように、ラーディが駆けて店主を制止する。

「おっちゃん! 俺を守るために傷ついたんだ。確かに人形かもしれないけど、駄目か? 俺、もっと客連れてくるからさ」

 ラーディが突然大声を出して、そう言った。

 なんだか、私のせいで迷惑がかかっている。

「ラーディ、私を助ける必要はありません。あなたが傷つき苦労する必要はないです」

 私の声に気付いたのか、店主が扉を先ほどより開けて、私のほうを見てくる。

 驚きと、困惑とが入り混じるような、そんな表情をしていた。初めて、身体を見られることに抵抗を感じた。

「その声は、さっき買い物してくれた──おいあんた、血だらけじゃないか。何が起きたんだ」

「……治安維持局の者たちが来てな」

 ラッカクがそれだけ言うと、なるほどと、わかったように店主が頷く。何がなるほどなのだろう。

「……あんた、何かしてるのか?」

「それは──まぁ、そうなんだが」

 言葉を濁しながら、

「ラーディ、電力がないとどうしようもない。諦めよう。面倒なことに付き合わせて悪かった」

「いや、そんなことはどうでも良いからよ! 無理なのか? おっちゃん、駄目か?」

 無理を言うなと、ラッカクはその腕を掴んで、扉の前から引き下がらせる。

「ちょっとガレット、何の騒ぎ? ラーディの声もしたみたいだけど」

 家の奥のほうから声がした。

「リシア、いや、ラーディが人を連れてきたんだが……」

 扉からひょっこりと顔を出した、見たことのない──女性は、少し泣きそうになっているラーディと、ラッカクを見上げて、それから私の姿に気付いた。

「な、何なの──?」

 女性のその言葉に、正確に答えるためには時間がかかりそうだった。あまりもう時間がない。ラーディの顔は、悲しみに染まっているように見えた。

「ラーディ、面倒なことをする必要はありません。もう、怖くない。あなたを傷つけない、苦しませないためなら、怖くないので、機能停止を指示してください」

「なんでそうなるんだよ……あれ、いつから敬語? なんで?」

 じとっとした目でこっちを見てくるラーディ。

「ラーディを管理者として設定したときから──おそらくは、そう作られているせいかと思います」

「で、そんなことより、どうしたのって聞いてるんだけど、ガレット、ラーディ、説明してくれないの?」

 少し困ったように、店主が女性の顔を見て、口を開いた。

 ガレットとは、店主の名前のようだ。

「壊れかけた人形を、一体、預かってほしいと言われたんだ。どうやら、そこのラッカクという男が言うには、治安維持局の仕業らしいが……面倒ごとは抱え込みたくないだろう?」

「そう、そうね。ラーディも、そんな危ないことに首を突っ込んじゃ駄目よ」

 突然掴まれていた腕を振りほどいて、ラーディは女性の前まで駆けていく。

「おばちゃん、一日だけ、一日だけお願い。そうしたら、他の場所行くから。ラッカクも、電気通っているところ、他に知らないのか?」

「お願いって、話が全然見えないんだけど、電気が必要なの?」

「そう、そうなんだ。でないと、まずいんだよ」

「どうまずいの?」

 早口でまくし立てるラーディと対照的に、女性のほうは、酷く落ち着いているようだった。

「と──友達が死んじゃう」

 それは、あまり正しく、言い表していないような気がする。

「ラーディ、それは私のことですか? 死にはしません。機能停止するだけです」

「記憶は?」

「それは──全て消去されます」

「なら同じだろ!?」

 同じではない、違うと言う間もなく、ラーディは再び女性に向かって口を開こうとした。が、先に女性が店主に向かって話始めていた。

「そう、じゃあ──ガレット、地下室の物置、空いてたわよね?」

「おい、あそこは俺の野菜の」

「半分空いてるじゃない? それに野菜とラーディの友達の命、どっちが大切?」

「おいおい、人形なんだぞ」

「そんなこと、一目見たらわかるわよ」

「万が一面倒が起きたら──」

「ここで騒いでるほうが目立つじゃない。とにかく、細かいことは気にせず、ちょっと下を掃除してきなさいな」

 二人の話──言い合いが終わったところで、ラッカクが二人に近寄った。

「面倒が起きないよう、出来るだけのことはする。週に一度、この人形を直すまでは俺も顔を出すし、直ったら店の手伝いでも何にでも使ってくれて構わない。ラーディを管理者として設定しているが、人の命令は受けるように設定してある」

 その話を聞いて、じゃあ売り子をやってもらおうかしら、などと呟く女性。私にそんなこと出来るのだろうか。今は足が壊れていて、何もできそうにない。

「安全性については、治安維持局の人員を考えると、事前情報なしに動く可能性は低いし、特定の人形を対象として行動することもないから危険性は低い。が、念のためにコアエネルギーの磁場を遮断するシールドを、近いうちにこいつに取り付ける。一部の機能が使えなくなるが、普段の運用上問題は起きない」

「そういうのはよくわからないんだが……」

「簡単に言うと、センサーで半径三百メートル以内にいる人形は探知可能だが、シールドを取り付けた人形はそれに反応しなくなる。まぁ、一般に出回っていないが……」

「なんとなくわかったよ。ああ、紹介が遅れたが、俺はガレット、こっちは妻のリシアだ。ところで、昔は上層に住んでたんだが、俺も妻も、人形のことはよくわからん。電気代とか、高いのか? あまり、儲かってるとは言えなくてな」

「それについては心配しないでくれ。低い電圧で充電可能なように改造してあるし、電気代、その他の必要経費に色を付けて、俺が払わせてもらう。今、あまり手持ちがないんだが──」

 そう言って、ラッカクは、鞄を開いて、いつの間に入れたのか、紙の束を取り出した。

「ひとまず、これだけ渡しておく。受け取ってくれ」

「な、こんなに!?」

「余ったら、何に使ってくれても構わない。というのも、この人形は俺の友人の忘れ形見みたいなものでな。こんな金でどうにかなるなど思ってはいないが、もし気が向いたら、少し気にかけてくれると嬉しい。ああ、変な金じゃないぞ。これでも人形技師、昔は稼いでいたんだ」

「──そういえば、あなたも怪我してるんじゃないの?」

 リシアと言うらしい女性が、ラッカクの腕を見てそう言う。

「かすり傷だ。問題ない。それより、まぁ、信用してもらえているとも思ってないので先に言っておくが、俺が修理に来なかった場合には、捨ててもらって構わない。ラーディ、その時は、とにかく、充電だけはしっかりとやって、出来るだけ遠くにいくように命令するんだ」

「──でも、そんなことにはならないだろ?」

「それは俺を信用し過ぎだ。ガレット、運んでも平気か?」

「信用しきったわけじゃないが、そう言う奴に限って、嘘は付かないもんだ。構わない。少し物をどかしてくる」

 ガレットのその言葉に、ラッカクはお人好し過ぎると呟いて、私のところまできた。慣れた手つきで、私を背負う。腕をかばうようにしていて、やはり痛いのだろう。

 先に地下室へと向かったガレットの代わりに、リシアが案内をしてくれる。後ろには鞄を手にしたラーディ。何度目だろう。いちいち私は手間をかけさせてしまう。

 地下室は、予想に反して明るかった。何でも、植物を育成するために、大量の光が必要となるらしい。ガレットが自慢げにそう言った。

 地下室の半分は、黒っぽいような茶色っぽいような、粉のような何かで埋め尽くされ、そこから緑色の薄い何かが一定間隔で飛び出していた。もう半分には、本棚や壊れかけたソファーや、脚の折れた椅子などが転がっている。

「もうちょっと何かあると思ったんだけど、というかガレット、壊れた物、いつまでも置いとかないでよ」

「いや、椅子はともかく、このデカいソファーなんか、俺一人で持ち運べないって」

「じゃあどうやってここに持ってきたの!?」

「重力ってものがあってだな。上から下に落とすのは簡単なんだ」

「……もう少し考えてからやってよ」

 二人は夫婦らしかった。ガレットがリシアのことを妻と言っていたから、きっとそうなのだろう。夫婦は、結婚した男女で、今のは夫婦喧嘩、思い出した。

 地下室の入り口近くの壁に、立て掛けられるように降ろされる。上手く座ることもできそうにないから、壁にもたれかかれるのは幸いだった。周囲を見上げた。

 途端、リシアが非難めいた声で言う。

「ちょっと、こんな固くて冷たいところに降ろすなんて」

「……え?」

「そりゃ、悪かった。で、どうすれば良い? 血液が付着しているし、オイル漏れも起こしているかもしれないから、下手な場所だと汚れるぞ」

「そうね、壊れてるけど、まだそっちのほうがマシでしょ? 後で、何か用意するわ。お金も預かったことだし」

 そう言ってソファーを指差す。正直、本当は、あまり変わらないと思うので、どっちでも良いような気がした。人間は違うのだろうか。

 服はボロボロで、特に背中は、布地がほとんど焼けて穴が空いていたせいで、すぐに電源を接続できた。

「ラーディ、省電力モードは解除しますか?」

「ラッカク。どうしたらいい?」

「今は解除しても満足に動けないし、そのままで良い。直すのは俺がするから、ガレットとリシア、それにラーディは、特に何も構う必要はない。次は五日後にまた来る予定だ。損傷具合から見て、一日では直らないから、しばらく通うことになると思う」

「わかった。ところで、あんたはどこに行くんだ?」

「隠れ家と言うと、変な感じだが、ここから第二区画を通って三十二番地区へ向かう。それ以上は秘密にさせてもらえないか」

「ああ、だが、随分と遠いな。五日で戻ってこれるのか?」

「オトスネールがあるし、問題ない」

「そうか、わかった。気をつけろよ」

 何があるから問題ないのか。

 ガレットはわかったように頷いているが、私はわからない。もどかしい。

 ラッカクが、地下室の半分を埋める、黒くて茶色の粉のようなエリアを見つめて、ガレットに向き直り言った。

「良い趣味をしてるな」

「良いだろ?」

 にやりと、二人は同時に笑う。なぜだか、一気に仲が良くなったように見えた。笑顔はやはり大切なものなのだろう。

「じゃあ、そろそろ発つので、これで失礼する。受け入れてくれてすまない。感謝する」

 そう、短く言い残して、ラッカクの姿が消えた。続いてリシアとガレットが出て行き、二人だけになる。

「ラーディ、ありがとう」

「何でだよ」

「助けてくれた」

「──俺も助けてもらったからな。でも、背中……服、着替えたほうが良くないか?」

 確かに、自分の着ている服は、服の役目を果たしていないような気もする。けれど、この汚れた体でそのまま着ては、汚れてない服まで汚してしまいそうだ。

「このままで良い。直してもらってからでも──」

 バタンという扉の開く音がして、首を動かすとリシアが入ってきていた。片手に何枚かのタオル、もう片手には、何か容器みたいなものを持っている。

「ちょっと、ラーディは外に出てなさい」

「あ──うん」

 間の抜けた返事。

 入れ替わりにソファーの傍に足音が近付いてくる。

「ちょっと、身体拭くけど良い?」

「迷惑でなければ……」

 この血を見ても何とも思わないのか。思っているけど何も言わないのか。乾きかけた血で身体に張り付いた服を取ってくれて、お湯で湿らせたタオルが人工の皮膚に触れる。

「ねぇ、うちの野菜を買って行ったってガレットから聞いたんだけど、料理はちゃんとできた?」

「はい、ラーディが食べてくれて、美味しいと……」

 それは良かったと、笑顔がこちらに向けらる。

 二の腕の部分は、半分砕けていて、中の機械が見え隠れしている。それに気付いたのか、タオルを動かす手が止まる。

「……ここって、濡れタオルだと錆びちゃうかしら?」

「たぶん──」

 わからないけど、金属だから錆びそうな気もする。どういう素材で作られているのかまではわからない。崩れたセラミックスの細かい破片を、リシアはとても真剣な目つきで取り除く。

「あの、大変じゃないですか?」

「そんなことないけど、あのままの恰好じゃちょっと気になるしね……」

 そう言ってリシアは雑巾のようになってソファーの片隅に置かれている私の上着を見つめた。

「ご迷惑をおかけします」

「気にしないで」

 穴だらけになっているスカートも、同じように上着の横に置かれた。

 背中を見られることに少し抵抗感があった。きっと酷いことになっていると、なんとなくわかっていたからだ。

 案の定、少し驚く声が聞こえたが、それ以上は何も言わず、ただ、付着した汚れを拭き取ってくれた。

「終わったわ、服は、私のをもってくるから。サイズ合うかわからないけど──まぁ、入らないってことは絶対ないと思うから」

 計三枚のタオルが、赤黒く染まっていた。血の色なのだろう。

「あ、服なら鞄に」

「あらそう、鞄ってこれ?」

「たぶん……」

 首を動かすくらいでは床のほうまで見えそうにない。

 リシアがしゃがんで、カチャという音が聞こえた。

 良かった。合ってたみたい。どれが良いのかと悩んでいるようで、何枚も取り出しては、見比べている。

「着やすいのが良い?」

「ええと、何でも──」

「あ! これ可愛い。うーん、こっちかな? これも」

 なんだか、リシアが子供みたいに見える。あれ、そうなると私は……。

 かなり迷った末に、なんだかとてもヒラヒラした、紺色と、所々白い、布の多いワンピースを着せられた。幾重にも重なったスカートが、ふわふわしている。これって、何ていうのだっけ……。

 ゆったりした服だったから、着易かったように思う。着せてくれたのはリシアだけど。

「ありがとう」

 感謝すべきことだが、色々とされるのはなんだか落ち着かなかった。全てが終わって、少し安堵した自分に気付いた。

 目の前に顔が近付く。リシアが私を見つめてる。

「何ですか?」

 私の髪を撫でるようにしてから、

「うーん、待って、ブラシ持ってくるから」

 そう言って出て行った。

 あれ、ええと──まだ続くんですか──。

 手鏡とブラシを手にして戻ってきたリシアからは、ものすごいオーラが出ている……気がするだけかもしれない。彼女はとても楽しそうで、私はあまり楽しくなくなってきた。

「髪飾り、ちょっと外すね。これ、蝶?」

 髪に手をかけられ、カチッと音がした。細い針金のようなもので出来た何かが手の平に乗る。

 何度も何度も、ブラシが髪の毛を撫でる。

 ちょっと気持ちいい。

 ずっとそうしてもらいたい感じに思って、でもいつかは終わるもので、自分勝手な自分をおかしいと思った。

 ああ、機能停止していたら、こんなことさえ思えなかった。こんなこともできなかった。

「よし、綺麗になったわ」

 手に乗せられていた髪飾りを、左の耳の上のほうで、パチリととめ直してくれた。

「黒くてストレートの髪って、綺麗ね」

「ですか?」

 うんうん、と頷いて、私の髪を撫でる。なんだか落ち着く。

 リシアの髪は、茶でウェーブがかかっている。私にはどちらが良いのかなど判断できそうにない。

「──待って」

 なぜかビクリとしてしまう。何? 次は何ですか?

 にんまりと笑顔を浮かべるリシアの顔は、少しだけ怖い。笑顔は、仲良しになれるはずなのに。

「お化粧してあげる。すぐ戻ってくるから!」

 どうしてラーディはどこかに行ってしまったのだろう。早く戻ってこないかな。戻ってきてほしいな。そんなことをぼんやりと考えて、あとはされるがままに身を任せることにした。

 時間はどれくらい経ったのだろう。

 もうたくさん、色々とされた気がする。あまり覚えてない。

 全然動いてないはずなのに、疲れた。

 疲労物質が蓄積して疲れるという状態に、果たして人形がなるものだろうか。きっと気のせい。疲れているのは気のせいに違いない。

「なぁ、おばちゃん……もう随分経つけどさ、入っても良い……?」

 扉の向こうから声がした。

「あ、ごめんごめん。入っていいわよ」

 勢いよく扉が開く音がして、気配が近付く。

「おばちゃん……何してんの……」

「え? ほら、可愛くなったでしょう」

 ラーディの驚愕した表情が目に入った。私、一体どうなってしまったのだろう……。不安だ。

「……アサがすごく疲れてるような気がするのは気のせい?」

 そんなことないわよと、私を見たリシアの表情は、しばらくして引きつった笑顔になった。少し休んでね。ごめんねと苦笑いをして去っていくリシア。

 私は目を閉じた。

 なんだか、ここは暖かい。

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