第一章 六 二人暮らしのはじまり
六
ラーディは留守にしていた。時間は夜の九時。もう学校は終わっているはずなのに。
「仕方ない。寮の管理者から鍵を借りてくる」
「職権乱用よ。外で待ちましょう?」
「この服を着た人間が外に三人もいたら、ご近所の噂になってラーディが困るかもしれないだろう」
困るのだろうか。ルイドに待機を命じられた二人とラーディの部屋の前で待つ。
「ルイド、真面目なんだがなぁ……時々おかしいよな」
「そうね……」
真面目そうだとは私も思う。今日も、きっときちんとしなければと思った結果があれなのだろう。買ってもらった服を見る。とても高かった。本当によかったのだろうか。
鍵を開けて中に入る。真っ暗。電気をつけてぞろぞろと中に入る。机の上に懐かしいものを見つけた。そういえば、ブラッジはきっとまだ見てない。
「ブラッジ、こっち」
手を引いて、机の前に移動。
「覗いててね。私が回すから」
何をするのかわかったらしく、小さな筒を覗くブラッジ。
「おお、何だこれ!」
「ねぇ、すごいでしょう!」
「いや、意味わかんねー。なにこれ美味いの?」
「え!?」
期待外れだったのか何なのか、よくわからないコメントを残される。がっくりと肩を落とすと、ブラッジが、
「元気出せよ。人生そんなもんだ」
と言ってきた。よくわからないけど頷いておく。
「なんか、この二人仲良い?」
メリッタが、ルイドにそんなことを言った。どの二人?
「わからんが、最初会ったときに、アサがべったりブラッジにくっついてたのは印象的だったな」
「あれは……」
「俺の背後を取って悪だくみしてんのかと思ってたんだが、何してたんだ?」
「何でも、ないです」
ルイドが辺りを見渡して、つぶやく。
「こうしてみると、懐かしいな」
「あれ、ルイドもここの寮を使ってたの?」
「そうだ、まぁ、三年間だけだったが」
「でもここ、一人用よね、アサはどうするの?」
メリッタがそう聞いてくる。そういえばどうしよう。
「ええと、ここにいるともしかしてラーディの迷惑になります……?」
「え!? いや、そんな泣きそうな顔しないで! 迷惑になるかどうかはとりあえず置いておいて──あ、ほら、メイド服着て、お帰りなさいませって言えば全部おっけーな感じになりそうだなーなんて思ったりするんだけど、どう思う?」
「それくらいにしておけ」
「……ごめんなさい」
ルイドのきつい言葉に、メリッタが口を閉ざした。ルイドはやっぱりちょっと怖い。私は泣かないし、泣けない。メリッタは変なことを言う。
足音。扉の開く音。ラーディの姿。
「これは──何?」
「寮の管理人の許可を取ってお邪魔させてもらっている。予定より仕事が早く済んだおかげで、今日アサを返しに来たんだ。この書類にサインをもらえないだろうか?」
スラスラと流れるように説明したルイドは、胸ポケットから一枚の小さな封筒を取り出して、その中に入った紙を広げる。
「そうですか。わかりました」
紙をペン先が走る音。
「おし、じゃあ仕事は終了だな! ルイド、飲みに行こうぜ!」
「いや、俺はまだ残務処理が残っているんでな。途中で降ろすから勝手にどこかで飲んでろ──では、何かあったら本部まで連絡を。我々はこれで失礼する」
「まったねー」
ひらひらと手を振るメリッタ。また会うこともあるかな……。騒々しく帰っていく三人を見送って、ラーディが部屋の中に入ってくる。
何と話しかけたら良いだろう。
「えと──ただいま」
「おかえり」
どこか元気がない。
「お久しぶりです」
「だね。久しぶり」
鞄を机の脇に置いて、上着を脱いでハンガーにかける姿を目で追う。
「……元気です?」
「元気だよ」
どこか、淡々とした口調。元気がなさそうに見える。椅子に座って、本──教科書を開くラーディ。勉強かな。
「どんな勉強してるんですか?」
「いろいろ」
「その本は?」
「生物」
「どんなことが書いてあります?」
しばらくの沈黙。
「ちょっと静かにしてて」
「ごめんなさい」
失敗。勉強は大切で大変。邪魔をしてはいけなかった。シーズは元気かな。今は何をしているかな。今度、遊びにいこうかな。行っても平気かな。
一年前、ここに持ってきたまま置いていた鞄を開く。服──ガレットの血のついた服が最初に目に入った。あのときの匂い。
リシアからもらった時計。布に包まれたお金──これは、ラーディに渡さないといけない。すっかり忘れていた。ラーディからもらった手紙。リズリと私の写真。あ、ピノッキオの本も、持ってくれば良かった。でも今更仕方がない。
あまり邪魔にならないようにと、部屋の隅っこで服を取り出す。血のついた服は、ラーディが見たら、悲しんでしまうかもしれないから、鞄の一番奥に入れておく。綺麗に折り畳んで、全ての服を仕舞ってから、鞄を閉じる。帽子を脱ぐ。時計を鞄の上に乗せた。もう、時間はすぐにわかるから必要ないかもしれない。けど、クローバーを模ったものだから、もしかしたらラーディをちょっとは幸せにして──元気にしてくれるかもしれない。
話したいことはいっぱいある。大切な話かと問われれば、あまり大切なことでもないかもしれないけど。ラーディの姿を見る。勉強している。もうしばらく、話しかけるのはやめておいたほうが良さそうだ。
一時。教科書を閉じたラーディに声をかける。
「ラーディ、このお金、リシアから」
「ああ、わかった。机の上に置いといて」
「はい」
机の上に言われたとおりに置く。生物というタイトルの教科書がある。どんなことが書いてあるんだろう。生物、生命──死。
突然部屋の灯りが消えた。ベッドに横になっている。
「ラーディ、もう寝る?」
「うん、寝る」
「おやすみなさい……」
「おやすみ」
足音を出来るだけ立てないようにして、鞄の側に座る。壁に背を預けて、向かいの窓の外を見た。真っ暗。ラーディの寝息が聞こえ始める。ちょっと懐かしい。
元気がなさそうで、それだけが気がかりだ。
荒い息遣い。
ラーディがベッドから起き上がっている──光の感度を調整。酷い発汗。それよりも気になるのは──涙が、流れている。
「ラーディ!?」
省電力モード解除。すぐにベッド脇へ。
「なんでもない……」
「嘘ですよね?」
なんでもないわけない。元気がないのは知ってた。病気だったらどうしよう。酷い汗だ。タオルがないかと、室内をかき回す。見つけた。
膝をベッドに乗せて、ラーディの横に座る。額に浮かんだ汗。張り付いた髪をよけて、タオルをあてる。少し伸びた茶色の髪が、呼吸の度に揺れる。
落ち着いてきたのか、荒かった呼吸が次第に静かになる。
ラーディが口を開いた。
「研究開発部は、警備隊は、ちゃんとこの街を守れるんだろうか……」
それはわからない。けれど、私が最後にテストした人形は、私より強かったと思う。あのとき、四十七地区の人々を殺した人形に対抗できるだけの、力があると思う。
「守れると思います。もう、あんなことは起きないと──」
そう答えようとして、遮られる。肩を掴まれて、目と目が合った。
「アサ……俺、酷いやつなんだ」
突然の告白。どういう思考の流れで、そういう言葉が出てきたのか考える……がよくわからない。
「俺、小さい頃、ガレットとリシアに会う前は、もっと遠くに住んでた。空は朝になると明るくて、昼になって、夜になって、ちゃんと親がいた。三人で暮らしてた」
宙を見つめるラーディの横顔。寝ているときに、何かを思い出したのだろうか。私が見ることのない『夢』でも見たのだろうか。脈絡のない会話に多少混乱しながらも、ラーディの言葉に耳を傾ける。
「ある日、夜中に起きた。親が、逃げないといけないと、叫ぶんだ。だから、三人で外に出た。でも、たくさんの人たちが道を駆けていて、繋いでいた手を離してしまった。俺は、両親を探して、誰もいなくなった通りを歩いた。通りには、動かなくなった人が、たくさん転がっていた」
枯れることのない涙。触れると壊れてしまいそうで、それを拭おうとした自分の腕が止まった。
「街は燃えていた。歩いていると母親を見つけた。俺と同じように、母親も俺のことを探していたんだ。駆け寄った。安心した顔をして、抱きしめてくれた。父親はどこにいるのかと聞こうとして、上を見た」
「ラーディ、ちょっと横になったほうが……」
話すことが辛そうで、それなのに、次々とラーディの口から言葉が紡がれる。どうしたら、その苦しさがなくなるのかを、誰か教えてほしい。
「上を見ると、何か暖かい液体がぼたぼたと、俺の顔に降ってきた。母親の口から、それは出てきていた。抱きしめられていた腕が、力を失って、その胸から白い、破片が突き出ていた。後ろから銃声がして、坊主、早くこっちに来いって言う声が聞こえた。死に物狂いで、走った。母親を残して、逃げた」
ラーディの目が私を見つめる。涙が止まっていた。
「俺、ガレットやリシアに、うちの子供にならないかって言われてた。でも最後まで、お父さん、お母さんって呼ばなかった。いつかまたあんなことが起こるかもしれない。親を失うのは一度で良いと、そう思ってた」
「うん……」
「でも、悲しさは変わらなかった。親じゃなくても、悲しさは変わらないんだな……それなら、一度でも良いから、そう呼べばよかった」
後悔。もう叶わないこと。叶わないことを願うことはきっと苦しい。今、目の前のラーディの苦しみを取り去りたいのに、それができない自分がいる。きっと、ガレットやリシアも、ラーディと一緒に叶えたい何かがあったはずだ。例えば、もう一度、一緒にご飯を食べるとか。
「……大丈夫、もう誰もいなくなりません」
安心させたくて、そう言った。でも、誰もいなくならないと言ってから、誰がいるのだろうかと思った。もう、誰もいないのでは。ラーディのことを考えてくれていた家族は、もういないのだ。
私は、キノッピオを羨ましいと思った。その人形は、人間になることができた。心があって、血の通う、人間になれた。どこまで行っても私は道具だ。人形だ。ラーディのことを、心から考えてくれる存在にはなれない。だって、この私の今の思考でさえ、ただの機械が、データを処理した結果出力したものなのだから。
それでも、これから先、楽しいことや幸せなことが彼に降り注ぐよう、そうなるよう──私に何かできるだろうか。カレイドスコープが綺麗な世界を見せてくれたように、私にも、何かできないだろうか。
「アサは、自分のことを道具だって言った。だから道具だと思うようにした。もう、必要なこと以外は話さないし、必要以上に、関わらないようにしようと」
「はい」
「一年間、研究開発部に預けて、それで良いと思ってた。でもある日、どうなっているのか心配になった。道具だから、壊れたら壊れたで済むことだと思っていた。道具だって思うようにした。ただの動いて喋る、家電製品だと思えば良いじゃないかと思っていた。なのに──」
タオルを握ったままの私の手の上に、ラーディの手が重なる。その手を握り返す。
「気が楽になって、ラーディが元気になるのなら、どう思ってもらっても大丈夫です。どうしてもらっても大丈夫です。うるさかったら、喋らないようにするし、邪魔だったら、じっとしてますし──」
「俺は、警備隊の人と話したとき、アサがどうなっても良いと思ってた。それでこの街がより安全になって、他の地区の人も救える可能性があるなら、解析でも実験でもやってくれと思った。アサは道具だって、道具だって──」
「その通りです、道具です。役に立てるのなら、きっとそれ以上、嬉しいことはありません」
「二年経ったら学校を卒業するから、アサを使って、ガレットとリシアを殺したやつらに復讐したいと思っていた」
それは──危ないかもしれないので、私だけに任せてほしい。もし、ラーディが望んでいるのなら、何でも……。
「でも、俺は、アサに本を読んでもらったし、字を教えてもらったし、手紙もたくさんもらった。命も……助けてもらった──ごめん、何を言いたいのか自分でもわからない」
ラーディはガレットとリシアが亡くなって悲しんでいる。もう誰にも死んでほしくないと思っている。親しい人がいなくなるのは悲しいからだ。研究開発部で、新しい技術を導入した兵器がもうすぐ量産される。もうああいうことは起きない可能性が高い。だから、これからはきっと毎日平穏に、誰も死ぬことなく、生活していける。
ラーディは私を道具として扱う。ラーディは私の持ち主。出来るだけ邪魔をしないし、迷惑にならないようにする。役に立てるときがあれば頑張る。
問題は──。
「私がここにいること自体が迷惑ですか?」
「……違う」
違う。否定。迷惑ではない。
「いたほうが良いですか?」
こくりと頷かれる。そういえば、ラーディは私のことをどう思っているのだろう。聞かれたから答えた。私は人形で、道具だと。でも、ラーディは『道具だと思うようにした』と言っていた。それは、それまで、そう思っていなかったということだろうか。
「私はラーディにとって、何ですか?」
沈黙。
「──前だったら、普通に、言えたのかもしれない。でも、俺は酷いことをしたから、酷いことを考えていたから、言えない」
「酷いことって何ですか?」
「守れなかったのかと責めて、実験に貸し出して、道具として扱おうとして……」
「どうしてそれが酷いこと?」
「酷いことだ」
再び、ボロボロと涙が溢れる。人の価値観、ラーディの価値観を理解しているつもりなどないから、どうしてそれが流れるのかを、考える。酷いことをしたという後悔と悩みと苦しみが目の前にあった。
でも、後悔して悩み、苦しんでいる人は、果たして酷いのだろうか。そもそも、道具として扱おうとしたことは当たり前のことだ。だって、私がそう言ったのだから。
「道具だと言ったのは私です。もし、道具として扱うのが苦しいのなら……ラーディにとって私が何であれば、苦しくなくなる……?」
再び沈黙。何が、苦しいのか。
「俺、別にコーヒーカップを親だと思ったことはないんだ」
唐突にラーディはそう言った。
「鞄を、兄だと思ったこともないし、教科書を妹だと思ったこともない」
ラーディの額に手をあてる。表面温度は……少し熱がある? 記憶、記録を検索。あれ……人間の通常時における体温の情報がない。警備隊本部の電子ライブラリで調べておけば良かった。
「でも、アサには、家族でいてほしい。道具だなんて、言ってほしくない。道具だなんて、もう思い込みたくない」
家族。ああ、ラーディは、大きな勘違いをしている。私が人の形をしているから、そう思い込んでしまったのかもしれない。
「ラーディ、私は、人形です。何か大きな勘違いを──」
「学校で、俺を抱き締めた日、なんで、あんなことしたんだ……?」
なんでだろう。
「会いたかったから……だと思います」
「それは、それも──道具だから、機械だから、人形だから、嘘なのか?」
嘘なのか。わからない。いや、わからないはずがない。自分の気持ちなのだから。こんなとき、人間はどう考えるのだろう。
「私は、きっと、喜んでと命令されれば喜びますし、悲しむようにと命令されれば悲しみます。ラーディを嫌いになれって言われたら、嫌いになると思います。でも、あの時抱き締めた私の気持ちは、誰にも命令されたものではないです」
「それは、本当の気持ちじゃないのか?」
「わかりません。本当の気持ち──本当の心を、見たことがないので」
「俺も、見たことがない。人間だって、心なんて見たことない……」
この私の、今の気持ちは、ただ、データを処理した結果に過ぎない。疑う。自分の気持ちを疑って疑って疑って、疑った先に残ったもの。
何を私は考えている?
お礼をしたいと思った。お店の場所を教えてもらって、お礼をしたいと考えた。喜んでもらえたことが嬉しかった。命を、助けたかった。平穏で幸せな毎日を過ごし、笑顔でいてほしい。
会いたかった。どうして?
無事な姿を確かめたかった。元気なのかを確かめたかった。手紙では駄目だった。手紙では──。
それが本当の気持ちなのかはわからない。それで良いのかもしれない。これ以上は、いくら考えても答えは出ないように思えた。
「私の今の気持ちは、本当と言っても良いのか……わかりません……。でも、道具より、家族のほうが嬉しいと思います。黙るよりは、お話出来たほうが嬉しいし、じっとしているよりは、色々な場所に一緒に行けたほうが嬉しい。でも、一番嬉しいのは、ラーディが笑顔になって、今の苦しみが消えること。私が最初に自分のことを道具だと言ったのです。ラーディは、私を道具として扱おうとして、苦しんでしまった。ごめんなさい。私は、ラーディと一緒にいたいと──そう思っている」
警備隊の人に連れられて、ラーディから離れた。あの時の気持ちも本当なのかはわからない。寂しかった。
「だから、ラーディは弟ですね」
驚いた表情。
「だから? ……俺のほうが背が高いのに?」
「字を教えて、本も読んであげたので、弟です」
「それは──頼んだから、仕方なくなのかな……」
「……そう思われるのなら、そうなのかもしれません。でも、そうは思ってほしくないです。私が一年前、ラーディを抱き締めたのは……ラーディが持ち主だからかもしれないけど、でも会って抱き締めたいと思っていた私の気持ちは……」
「手紙は、頼んでないのに書いてくれた」
「書きたかったので、書きました」
少しだけ、表情に元気が戻ってきたように感じる。きっと、ラーディが持ち主だからじゃない。だって、ブラッジが怒られている姿は悲しいし、シーズが泣いていたらと思うと辛い。私の気持ちは、私のもの。嘘じゃない。
「命令するつもりはないし、命令じゃないんだけど、敬語、やめない? 最初会ったときみたいに、話してくれるほうが話しやすい。って、命令になってしまうんだろうけど」
「やめろって言われたら、命令かもしれません。たぶん、そう言われたら、命令として処理してしまうけど……今のは大丈夫です。命令じゃない。提案? だから、私が選択して処理出来ます。敬語はやめる。そんなに、命令は嫌?」
「それは──家族じゃない気がするから」
私は家族を、知らない。
幼い頃に両親をなくしているラーディは、その小さな記憶の中に、家族がいるのだろう。家族になる。その言葉が重い。本当の家族にはなれないけど──いや、本当の家族とは何だろう? ごっこでも良い。ラーディがいてほしいと思ってくれていて、私が一緒にいたいと思っているのだから、それで良い。
「もう四時、ラーディ寝ないと、学校がある?」
「あ、うん──」
寝顔は、なんだかまだ幼い。背も高くて、大人っぽくなったけど、まだ十代半ばなのだ。ふと、私は大人なのかと気になる。知らないことも多いし、馬鹿だと良く言われるから……子供なのかもしれない。馬鹿な大人なのかもしれない。そこまで考えてから、成長しないのだから、大人でも子供でもないと結論付けた。
窓にかかるカーテンの隙間から、光が漏れてきた。
段々と明るくなる。朝だ。
タオルを探すために散らかしてしまった部屋の中を片付ける。ラーディを起こさないように出来るだけ静かに。
机の引き出しを閉めようとして、紙の束に気付いた。懐かしい模様。便箋の束。私が書いた文字。もう、何も起きない。もう、誰も死なない。
ラーディの言った復讐という言葉が頭の中に引っかかっている。命令されたら、私はそうしてしまうだろう。家族でいてほしいと言われた。だから、もう大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
ラーディは大人になって、そうしたら誰かと結婚するかもしれない。親になって、おじいさんになって──私はいつまで生きているのかわからないけど、最後まで一緒にいることができたら、それは嬉しいことだと思う。
八時。
ラーディが咳をしている。ぼーっとしてる。酷い汗を掻いている。
「ラーディ、人間の平熱って何度?」
「三十六度くらい」
勉強した成果かな。すごい。何か負けた気がする。
「計ります」
額に手をあてて、表面温度を計測。三十八度近い。これは熱がある。風邪かな。そういえば、夜にもすごい汗を掻いていた。あのまま寝たせいかもしれない……。
「三十八度近い。三十七度八分。熱があるから、とりあえず着替えて──学校は休むようにしないと」
「待って、学校に連絡……」
「しておくから、とりあえず着替えを。連絡はどうすれば?」
「電話あるからそれで」
電話……ってああ、あれだ。壁についた機械に手を伸ばす。使い方──は知っている。並ぶボタン。数字の羅列。
「番号は?」
「電話の上に乗ってる紙に──っていうか俺がかけるから良い」
「大丈夫だから早く着替えて」
薄い小さなノート。学校の番号を探す。相変わらずの独創的な文字。入力。中央学園ですと言う電話の向こうの人物。
「ラーディは風邪で休みます。以上です」
電話を切ろうとしたら、後ろから声をかけられる。
「ちょっと待って! 学籍番号、言わないと」
起き上がってきたラーディが、鞄の中からカードを取り出す。苦しそうで、顔が赤い。
「これ……」
手渡されたカードに記載されている学籍番号を確認。
「学籍番号は三二○一の五三○六二八二。ラーディは風邪で休みます」
「ちょっと確認するのでお待ちください……発信者番号と照会しました。けど──声が……本人ですか?」
「姉です。ラーディは寝てます」
「ああ、そうですか。わかりました。お大事に」
「はい。ありがとうございます。それでは」
電話を切る。
「ラーディ、汗を掻いていて身体が冷えると大変なので、着替えないと。薬はありますか?」
「いや……ええと、ないけど」
「買ってくる。ご飯も?」
「ご飯は……」
「そういえば、学校の中にお店がいっぱいあったので、何か良いものがないか見てきます」
「それは──でもお金かかるし」
「問題ありません」
ブラッジが選んだハンドバッグに、お金を入れる。直接ラッカクから預かったものだが、まだいっぱいある……。でも、もしかしたらすぐになくなってしまうかもしれない……何かお仕事したほうが良いかも……。
タンスから服を取り出そうとしているラーディを残して、外に出る。階段を降りて学校の前に。学生が建物の中に入っていく姿が見えた。
お店があるのは、中庭を抜けて奥の校舎を通って、更に奥の建物。最短のルートを選択。カフェテリアには朝食を取っている人が散見される。
ご飯、お持ち帰りはできるかな。でもとりあえずは薬を探さないといけない。
本や文房具が売られているお店にはなさそうで……聞いてみたほうが早いかもしれないと思っていたら、発見。ドラッグストアと書いてある。
「風邪薬ありますか?」
「ここにあるのが風邪薬だけど」
小さな瓶に入った商品が何種類もある。お店の人は、グラみたいに白衣を着ているけど、髪の毛は白髪じゃない。
「どれが効きますか?」
「ええと──どれも効くと思うけど……」
「全部同じですか……?」
「いや、ええと、症状は?」
「咳と、熱があります。あと顔が赤いです」
「じゃあこれかな」
「それをお願いします……高いですか?」
「二千点だけど、まぁ、普通の値段かな」
レジルが四百個買える。
「ください」
ラッカク、お金をたくさんありがとう。助かります……。本当に使って良いのか未だに気になっていたけど……後で返せと言われたらどうしよう。食べるなよなんて言われたことを思い出す。
薬を袋に入れてもらって、カフェテリアへと戻る。何か、持ち帰りできそうな食べ物……。
「持ち帰りできそうな食べ物ありますか?」
「……ありますけど、メニューのこの部分のやつですね」
カウンターに印刷された、食べ物の写真が並んでいる。お店の人が指さしたエリアには、計八種類の食べ物があった。
どれが良いのかな……。
「栄養がありそうなものをお願いします」
とても困った顔をされる。何か変なことを言っただろうか。
「……おいしそうなのをお願いします」
「これが美味いよ」
突然右から声がした。ラーディとあまり変わらない歳に見える男の子。
「これですか?」
「うん、それ」
茶色くて丸い何かが箱に敷き詰められた食べ物。商品名はマルヤキ。丸く焼いてるから……?
「ありがとうございます。ではこれを一つお願いします」
「──はい、ええと、少々お待ちください」
四百点を支払って、袋に入った食べ物を受け取る。早く戻らなきゃ。
「教えてくれてありがとうございました」
美味しいよと教えてくれた人にお礼を言って、その場を離れて走る。寮までの到着時間、九分。
「ラーディ、大丈夫!?」
「だ、いじょうぶ」
喋った途端に咳き込む。苦しそうなラーディ。着替えてベッドに横になっているけど、大丈夫じゃない。コップに水を入れて、薬を飲ませる。ご飯はまだ食べたくないと言われて、とりあえずそのまま横になってもらう。
額に手を乗せて表面温度を計測。さっきとあまり変わらない。
「ラーディ……」
大丈夫だろうか。治るだろうか。
「あのさ、平気だから、アサは好きなことしてて良いよ?」
「好きなことしてるから大丈夫。ねぇ、気を確かに強くもって。きっと治るから」
「いや、うん──大丈夫……」
何か出来ることはないかと考える。こんなことなら、病気に対する知識を学んでおけば良かった。再び眠りはじめたラーディ。このまま起きなかったらどうしよう。でも、眠るのは、体力を回復させるはずだから、病気も治りやすくなるに違いない。
六時。薬を飲む時間に起こしたり、ちょっと話をしたり、学校のことを聞いたり、そして今はまた眠っている。
扉を叩く音。誰だろう。とりあえず、扉を開ける。女の子が一人と、男の子が一人。
「え、あれ、部屋間違えた? いや、間違ってないよね──誰!?」
どこかで見た気がする人。確か、ラーディの教室。あ、遅刻してた人。
「ミラ……?」
「……何で私の名前知ってるの?」
「前、忘れ物を届けたときに」
「忘れ物?」
後ろから足音。振り向くとラーディが起きていた。
「あ、ラーディ、先生が病欠ーって言ってたから遊びにきたー」
「なぁラーディ、もしかして一年前に噂になった彼女ってこの人?」
脇を通って、そう言いながら二人が入ってくる。とりあえず扉を閉めて、部屋の中へ戻る。何か言いたそうな、けどふらふらと立っているラーディをベッドに寝かせる。
「タオル濡らして頭冷やさないと!」
そう言われたので、タオルをミラに手渡すと、それを水に濡らして、ラーディの額に乗せてくれた。熱があるなら冷やせば良いとは……思いつかなかった。
「で、この人誰?」
「そう、誰なんだ?」
ラーディに向かって二人が問う。けど、ラーディは風邪ですよ。病気ですよ。大変なんですよ。
「あの、私はアサと言います。ラーディの姉です。いつも弟がお世話になっています」
こんな感じの台詞で大丈夫だろうか。
「え!? 一人っ子じゃなかったの? ええと、なぜか、名前知ってたけど……忘れ物忘れ物……何かあったっけ。とりあえず自己紹介。ミラです。ラーディとは同じクラスで、友達です」
と丁寧にお辞儀をされる。のでお辞儀を返す。もう一人の男の子が口を開く。
「僕は、グラシス。同じくラーディの友達です。ああ、そんなことより、可憐で美しい貴女のような女性にお会いできた今日という日に感謝を。もしよろしければ、今夜食事でも──」
そう言いかけたグラシスの頭が、グーでミラから思いっきり殴られたように見えた。
「何をする!」
頭を抑えながら、グラシスがミラに非難の声をあげる。
「それを言いたいのはこっちよ! 何言ってるの!」
「まぁまぁ、最後まで聞けよ。じゃあ、お姉さん、僕の部屋に遊びに来ませんか?」
「今日でなければ──ラーディが風邪だから心配」
「……では明日は?」
「ラーディの風邪が治ったら……良いけど」
「では、明日の夜八時にお迎えを」
ミラがすごい目でグラシスを見てる。
「オチは?」
「は? オチ?」
「最後まで聞いてあげたのにオチないの!?」
再びミラがグーでグラシスの頭を殴る。大丈夫なのだろうか。彼の頭が心配だ。
「あなたもどうしてそんな普通に、『良いけど』とか言ってるんですか」
神妙な面持ちでミラが詰め寄る。顔が近い。自然と後ずさる。
「アサ、そ──いつの部屋は、絶対、いっちゃだめ」
苦しそうな声で、後ろからラーディの声。ああ、騒がしくしたせいで、大変なことに。命令はしないと言っていた。きっと命令ではないのだろう。でも、行かない方が良いなら──。
「ラーディ、何を言ってるんだ! 来てくれますよね!?」
「……行かないです。それよりグラシス、どうか静かにしてください」
グラシスの目を見てそう伝えると、
「すみません。いや、冗談ですよ、冗談なんで」
とても狼狽している彼。そんなグラシスの姿を見て、
「へぇ、遊び半分だったんだ。友達のおねーさんをもてあそぶなんて信じられない……」
ミラがそんなことを言った。冗談、遊び半分、ああ、遊びにきたと言っていた。でももてあそばれた覚えはない。
「でも全然聞いてなかった。お父さんやお母さんも来てるの? 実家、遠いところって聞いたけど」
ミラがそう聞いてくるということは、ラーディはこの人たちに何も言ってないのだろう。ラーディが口を開こうとする前に、私が答える。
「私だけ来ました」
「あ、もしかしてうちの学校に転入ですか?」
「違います。一緒に暮らすことにしたんです。昨夜到着して、昨日からここで暮らしています」
おそらく嘘は言ってない。変なところはないはず。
「おいラーディ。お前、このお姉さんのこんな姿やあんな姿を見たというのか!?」
がばっとベッドから上体を起こして、問われた本人──ラーディが半分だけ開いた目をグラシスに向けて、
「他に聞くことはないのか?」
ラーディの側へ駆け寄るグラシス。なにやら、小さな声で話している。けど、丸聞こえだった。
「ラーディ、君の姉上の誕生日と趣味と、胸のサイズを知りたい」
誕生日、あるのだろうか。私にはわからない。趣味、わからない。胸のサイズ、そういえば服を買ったときに測っていたような気がするけど、覚えてない。
私が知らないのだから、ラーディもたぶん知らない。
「あんたはねぇ! 何聞いてんの!」
立ち上がったミラの足がグラシスの脇腹を直撃。
「ぐっ……死ぬ前に一度だけ……揉みたかった……」
何を?
というか、死んでは駄目です。ラーディの友人がいなくなったら、ラーディはきっと悲しむ。
「大丈夫ですか!?」
その場に崩れ落ちるグラシスの身体を抱え起こす。脇腹のあたりを調べる。骨は折れていないようだし、大丈夫そう……なのだが医学的な知識を十分に持っていない私が判断するのは危険だ。
かと言ってどうしたら良いのかは、わからない。
「ラーディ、グラシスが大変! どうしたら……というか、ミラ、人を蹴ってはいけません」
「……ほっとけば良いよ」
「すみません、もう蹴りません……」
ラーディはあきれた表情。ミラはしょんぼりとしてしまった。強く言い過ぎたかもしれない。でもどうして蹴るのだろう。ふと、何かが身体に触れる感触。視線を下に降ろすと、抱きかかえたままだったグラシスの右腕が、私の胸を触っていた。
「すげぇやわらかい……」
と呟いたグラシスと目が合う。数秒経過。
「何してるんですか?」
とりあえず尋ねる。
「俺の右手が、綺麗で美しく可憐なあなたの胸を求めて──ああ、なんて罪深き右手なのだ」
色々と大変そうだ。言っていることがよくわからない。美しく可憐──は良いことかな……。花は綺麗。
「グラシス……」
首根っこをぐいっと掴まれたグラシスが窓際へ。掴んだのはラーディ。その足取りはふらふらしているものの、目が怖い。窓が開く。
「人って、飛べると思うんだが、今から実験しようと思う。とりあえずここから飛んでみようか」
「……ラーディ、君はちゃんと寝ていたほうが良いと思うよ。お姉さんのことは僕に任しておいて──」
「万が一落ちたとしても、下はコンクリートだから安心してくれ。まぁ、死んだとしても、もう悔いはないよな?」
コンクリートに三階の高さから人が飛び降りたら……無事ではないように思うのは私の計算違いでしょうか。自信を持った表情で『安心してくれ』と言ったラーディは、グラシスの顔を窓の外に……。
「うわっ。待て、わかった。すまなかった! もうしない!」
叫び声をあげるグラシス。これは──止めたほうが良いかも? と、そんなことを考えていたら、ふらふらしていたラーディが床にぱたりと倒れた。
「……ラーディ?」
近づいて、息をしていることを確認。でも、息が荒くて、熱が上がってる。急いで布団に寝かせて、でもそれ以上何もできることがない。どうしよう。このまま熱が下がらなかったら。目覚めなかったら──。
「えっと……、私たちがいるから騒がしくなって酷くなった……ような……。グラシス責任取ってよ。あんたの家金持ちでしょ?」
「な──僕の親が金を持ってるだけで、僕は持ってないんだが……。うーん。よし、愛する女性の弟さんを救うためだ。医者を呼ぼう」
医者……医学、人体に詳しい?
「それは何ですか? 治りますか?」
「……? ええ、この僕に任せてください」
グラシスがとても頼もしく見える。良かった。何か方法があるようだ。
「ありがとうございます」
床に座ってお辞儀をする。
「さっきから思ってたんだが、ラーディの姉上は変わってるな」
「思ってても本人の前で言うな!」
顔をあげると、ミラが再びグラシスを蹴っていた。もう蹴らないって言ってたのに……。
──私、変ですか?
グラシスが、電話を使ってどこかに連絡してくれて、もう少ししたら来るからと、伝えてきた。どうか静かにお願いしますと言ったおかげで、二人ともさっきより静かにしてくれている……と思う。
元々ラーディの一人暮らしの部屋だから、みんなで座れるような椅子もなくて、床にそのまま座っている。
「でも、ここ一人部屋だよね。おねーさんはどこで寝るの?」
「あ、アサって呼んでください。ええと──」
寝る必要がないので、その質問の答えに何と言えば良いかを考える。うーん……。
「床?」
「なんで疑問形? というか、床で寝るなんて固いし、ラーディみたいに風邪引いちゃうよ……」
「うちなら空いている部屋がいっぱいあるんで、問題ありません」
ギロリとミラがグラシスを睨む。何か良い方法はないかと考える。
「引っ越したほうが良いかな……でもお金かかるかな……。あ、でも別に今でも問題ないので──あ、一緒に寝れば問題ない……?」
「それ、すっごく問題あるような気もするんですけど……」
ミラが怖い目をしながら私を睨む。
「うーん、あ、狭いですよね……」
「いや、そういう問題じゃ……」
扉を叩く音。開けると、顔に皺が目立つ男性。小柄な老人がいた。
「ええと、ラーディという人の家はここで合ってるかな?」
「お、先生。ここです。来てくれて助かります」
グラシスがそう言って、先生と呼ばれた老人が入ってくる。
「この人がうちのかかりつけのお医者さんでさー、リルビート先生だ」
と紹介してくれる。
「これは、わざわざ来ていただいてありがとうございます」
「いえいえ、で患者はこの子かな?」
にこやかにそう言って、ベッドの上に横になっているラーディの元へ。胸元に何か器具をあてたり、額に手をあてたり、体温を測ったり、その姿を見守る。大丈夫だろうか。
「あの、先生、大丈夫ですか……?」
「心配し過ぎですよ。ただの風邪なので。ああ、でも熱が少し高いから、注射を打っておきましょう」
鞄の中には色々なものが入っている。ゴムの手袋をした先生は、その中から細い何かを取り出して、キャップのようなものを外す。先端には細い針。それを、ラーディの腕に──。
「先生っ! それは、痛くないですか?」
とっさにその腕を掴んで止めていた。
「注射、見たことないかな? ちょっとチクリと痛むくらいで」
「……痛くない方法はないですか?」
「アサ」
ラーディの声。見ると、いつの間にか起きていた。
「あれ、医者? なんで?」
「グラシスが呼んでくれて──あ、でも注射は痛いみたい。痛いのは危険です。痛くないのはありませんか?」
「ええと、お嬢さん、痛くない注射は、あったら良いとは思うけどねぇ。残念ながら、そういうのはないよ」
ないのか……。でも針を刺すなんて……なんて恐ろしい……。本当に大丈夫なのだろうか。
「針を刺すことによる危険性はありませんか?」
「大丈夫だよ。医者にかかるのははじめてかな?」
「はじめて……です。たぶん。かな?」
ラーディの顔を見る。
「はじめてだけど。アサ、ちょっと、落ち着いてくれ。なんでそんなに騒いでるんだ」
「……落ち着いてるよ?」
お医者さんの顔を見る。怪訝な表情。ミラとグラシスに視線を移すと、
「アサ、手を……」
ミラにそう言われて、自分の手を見た。がっしりと、お医者さんの腕を掴んでた。
「これは──すみません。ラーディ、手を握ってるので、どうか安心して、気を確かに……」
「いや、握らなくて良い」
「そんなに強がらなくても」
「強がってない」
拒否されたので、仕方なく、その光景を見守る。針が──針が腕に──本当に大丈夫なのだろうか。ラッカクを守るために、多くの人間を切り刻んだことを思い出す。それに比べて、これはただ針を刺すだけなのだ。治療に必要なことで、チクリと痛むだけなのだ。
と言い聞かせるが、見てられない。俯いて顔を手で抑えていると、
「アサ、何してるの?」
ラーディの声。恐る恐る、顔を上げて指の隙間からラーディを確認。お医者さんは、細い針の付いた道具を袋に入れて、鞄の中へ仕舞っているところだった。
「終わった? もう大丈夫ですか?」
「ええ、あとは、安静に。もし、二日経っても熱が下がらないようであれば、ここに連絡を」
そう言って、小さな紙のカードを受け取る。電話の番号が書いてある。
「ありがとうございます」
「いいえ。診察費と注射で、計八千二百点だけど……大丈夫かな?」
「あ、先生それは、うちに請求してくれれば──」
「大丈夫です払えます」
グラシスの言葉を遮って、ハンドバッグを手に取る。千点札九枚を取り出して渡す。お釣りをもらってバッグに入れる。
「じゃあ、お大事に」
「どうもありがとうございました」
扉が閉まる。
「グラシス、助かりました。ありがとう」
「いや──お金大丈夫? ラーディ、金ない金ないっていつも言ってたけど」
少し学校のお店を見ただけだけど、物の値段も高いし、お金もいろいろとかかるのだろう。ラーディはきっとものすごく苦労してきたに違いない。
「問題ありません。私が働くので」
「え!?」
後ろでラーディが驚いた声をあげる。
「ラーディは安静に!」
「……はい、すみません」
時間も遅くなり、二人が帰ってラーディと二人きりになる。タオルを濡らし直して額に乗せた。
「はぁ……金かかってごめん」
「どうして? 謝らないで、治ってくれたら嬉しい」
「治るから安心してくれ。あと、働くとか別に良いからな?」
「うーん……でも、ここに二人で住むのは狭い? 私、大きな家に住めるくらいお金稼ぎます!」
「そうしたいの?」
「うん、したい」
「じゃあ──何か探しにいこうか。仕事あるかなぁ……」
「あんまりないのかな……。でも、とりあえず、風邪を治しましょう」
「うん。ああ、あのさ、グラシスに今度変なことされたら……いや、されないようにもう近づかないほうが良い」
「変なこと……?」
「──ごめん、何でもない」
静かな寝息を立てるラーディの額を計測。ちょっと熱が下がってきてる。良かった。注射は……怖いけどすごいのかもしれない。仕事、あるかな。どんなのがあるだろう。ガレットとリシアは食料品店、シーズは雑貨屋さん、店員とかだったら、できるかもしれない。そういえば、シーズは今、何かお仕事をしたりしているのだろうか。元気かな。
窓の外、街の光が綺麗だ。
一章終了です。
ここまでお読みくださった方、たまたまこの回の後書きだけを読んでいる奇特な方、なんとなく目を瞑って適当にマウスをクリックしてネットを徘徊していたらたまたまここにたどり着いたという奇跡的な方、ありがとうございます。
感想を頂いたり、お気に入りに登録していただいたり、閲覧数が増えたりと、感謝とともに大変嬉しいです。本当にありがとうございます(でも、読まれてるのか……恥ずかしいどうしよう……という感じの気持ちも、たった三パーセント程あります)。
一章の最後「二人暮らしのはじまり」は、なんだか思ったことの半分も描けない酷い話になってしまったような気がするのですが、気のせいということにして次章へ物語は続きます(なんだか変な登場人物が増えすぎたような気もします。読んでいて気分が悪くなられた方がいたら申し訳ありません)。
どうして今自分はこれを書いているんだろうと考えていたら、小さい頃、使ったままのハサミを母親が指さして「ハサミが泣いてるよ。ちゃんと元あった場所に戻してって泣いてるよ」などと言われたことを思い出しました。ハサミが泣いたら怖いけど、ハサミが笑ったら美容室で活躍できそうな予感もします──意味不明なあとがきを書いてごめんなさい。
──次章予告──
決死の看護もむなしく病に倒れるラーディ。研究開発部のテクノロジーでサイボーグとして蘇った彼は、大好物のレジルを食べれないじゃないかと発狂する。
「なかま、ナカマ、とうとう仲間ですネ」
そう生ぬるい笑顔で語りかけてきたアサに恐怖を抱いた彼は、この世界が一つのパンケーキで成り立っているという真実にたどり着く。
「アサ、パンケーキを作るんだ。今の世界はもう限界なんだ。誰もが新しいパンケーキを必要としている」
「嫌です。私はパウンドケーキのほうが好きです」
ホットケーキミックスで作る似非パウンドケーキさえも許さないというアサの固い決意の裏にラーディは陰謀を垣間見る。
「そうか。アサ、お前が、世界をパウンドケーキに書き換えようとしている悪の親玉だったのか!?」
「今頃気付いたの? 本当はショートケーキが良かったけど、仕方がなかったのよ」
世界を二つに分ける争いが、今起きようとしていた。一方その頃、生クリーム地区の苺工場では、ショートケーキの構造欠陥が明らかになり、ラッカクは日夜その対応に追われていた──。
何かご意見ご感想雑談などありましたら、お気軽にどうぞ。