序章 一 冷たい部屋
人によって個人差があると思いますが、一話目から残酷とも受け取れる描写があるので、そういうのが苦手な方は、戻ったほうが良いかもしれません。でも読んでいただけたら幸いです。
一
薄暗い部屋の中にいた。
今起きたような、今までずっと起きていたような、どちらともわからない感覚。
部屋の窓から外が見える。でも、暗くて良く見えない。
やわらかい感触を背中に感じる。
一人掛のソファーに座っていた。足の裏に何も感じず、つま先が宙に浮いていることに気付く。床に足が届いていない。
背が低いのかもしれない。そう思ったら、自分の姿がどんなものであったか、思い出せないことに気付く。
姿だけではない。何も思い出せない。
部屋の中に鏡はないかと見渡してみるが、見当たらなかった。探せば小さな鏡くらいあるかもしれないが、本棚と机とベッド、小さなサイドテーブルの上には、円筒形の小さな何かが置いてある。床にもよくわからないものがいろいろと転がっており、こんなに散らかった部屋でそれを探すのは大変そうだ。
ここは、どこなのだろう。
記憶にない。
コンクリート剥き出しの、装飾のない部屋は、冷たい。
膝まであるスカートを見て、不安を感じる。こういう服は着たことがある。それがいつだったのかはわからない。
机は何かを書いたり、事務作業をする場所。本は、色々な知識が書いてある。ベッドは眠る場所。一部わからないものもあるが、思い出せるものもある。
いてもたってもいられなくなり、立ち上がる。硬いコンクリートに、カツンと冷たい音が響いた。底の分厚いブーツが鳴った。
部屋を調べてみよう。何かがわかるかもしれない。おそらく外へと続いていると思われる扉とは真逆にある、本棚や机のほうへと向かう。
二、三歩歩いたところで、後ろで何かが落ちる音がした。振り返ると、何かのケーブルが床に落ちていた。電化製品らしきものは、照明以外に見当たらない。何かにぶつかって落としてしまったのか。もう少し明るければ良いのに、とそう思いながら本棚のあたりへと向かう。
本は、もうずっと長い間読まれていないようで埃を被っていた。適当に一冊を選んで引き抜く。文字を読もうとした途端、急に視界が明るくなり、文字がはっきりと見えるようになった。目が慣れたのだろうか。少し不思議な感覚だ。
本を開いて顔を俯けると、長い髪の毛があることに気付いた。黒くて、胸のあたりまで伸びている。とても邪魔に感じるが、こういう感じだったとも思う。
内容は機械工学に関するものだった。と言っても、知識がないので、どういう内容なのかはわからない。他の本の背表紙を眺めると、電子機器やコンピューター、医学、言語や文化など、多種多様な分野の本が、無造作に並べられている。とても息抜きで読もうなどとは思わない本ばかりだ。
自分のものではない気がした。
元あった場所に戻して、もう一度室内を見渡す。空気が冷たく、身体が硬くなるような感覚。手がかりになりそうなものは見つからない。
錆びた鉄の鳴る音が聞こえ、咄嗟に部屋の扉に顔を向ける。
「ああ、起きたのか」
扉の向こうから現れた男は、そう言って、私の方を見ながら、後ろ手に扉を閉める。
「俺はラッカク。ここに住んでる」
三十歳前後に見える、無精髭を生やした男は、そう言ってベッドの近くまで移動すると、そこに腰を降ろした。よれよれの白いシャツと、埃で白くすすけた、おそらく元は黒いズボンが気になる。
「私は……記憶がない。なぜここに?」
「とりあえず、座れ」
ソファーのほうに促され、再度座り直す。肘掛けの部分の感触が気になって視線を落とすと、ところどころ表面の布が破けていて、中身が飛び出している。
「お前の名前はアサ。別に家族や親戚でも何でもないが、訳あって記憶喪失のお前を預かっている。この部屋は俺の部屋だけど、空き部屋があるからそこを自由に使ってもらって構わない。あとはまぁ、適当に人生をエンジョイしてくれ」
早口でそうまくし立てるようにそう言って、ラッカクという男は、少しだけ窓の外を見つめた。
「……そんなとこだ。以上」
ラッカクは、そのまま、ベッドに仰向けに転がって、私のことなど気にもせずにぼんやりと天井を見つめ始めた。疲れているように見える。
アサという名前に、まったく聞き覚えがない。
なぜ私はここにいるのだろう。
どうして他人の私と、この人は今一緒にいるのだろう。
どうして記憶喪失なのだろう。
新しい疑問が次々と浮かぶが、質問しても答えが返ってくるような気がしないので、やめておく。居心地が悪い。
もう一度立ち上がろうと、足を地につけたところで、突然甲高い音が鳴った。体中の力が抜けて、倒れるのを必死で堪えるが、崩れるように床に落ちた。
足が震える、わけではないのだが、まったく力が入らない。立ち上がるという当たり前のことができず戸惑いながらも、床に膝と手をついて、なんとか上体を起こす。
「あれ……なに? 目覚まし時計の音?」
ベッドの上からラッカクの顔が見え、こちらを見下ろす。
「どうした?」
「この音なんですか? 目覚まし時計の音かなって……思ったんだけど」
「俺には聞こえんが……ああ、そうか」
ラッカクは立ち上がって、私のほうへと向かってくる。会話が出来ているのだから、ラッカクの耳が悪いというわけではないと思う。おかしいのは私の耳なのだろうか。五月蝿い。
「とにかくまず立て」
「身体に力が入らず……」
全部を言い切る前に、その腕がこちらへ伸びてきて、脇の下に腕を通される。そのまま持ち上げられると、ソファーにどさりと落とされた。
「痛い……くはないですが、乱暴……」
そんな私の抗議を気にする様子もなく、
「お前、ケーブルはどうした」
と、私の顔を左右から覗き込むように眺めながら言ってきた。
「ケーブル?」
首を左右に軽く振ってから、ラッカクは床を見渡して、腰をかがめて再び立ち上がった。その手には、先ほど床に落ちているのを確認した、灰色のケーブルが握られていた。
目覚まし時計に関係するものではないと思うのだが、その先端には金属の端子が付いている。ラッカクの手に収まったケーブルの先が、私のほうへ近づいてくる。
「え、何?」
良くみれば、なんとなくそれは、電力供給用のコンセントのような感じもする。無言で近づく手が、少し怖い。
「ちょっと待ってください。それって……感電死とかさせるつもりですか……?」
咄嗟に放った言葉に、ラッカクの手の動きがピタリと止まった。そのことに安堵するも、彼の表情を見直すと、またもや心配事が増えた。
怒っているのか、困惑しているのか、どちらともわからない表情で、こちらを見つめる。
「いや、感電死……はしたくないと思ったり……どうしました?」
どうにか、その静寂を破りたくて言葉を発する。出来るだけ、刺激しないように。
初対面なのだ。私はもしかしたら習慣や文化を理解していないことで、彼を怒らせてしまったのではないだろうか。ケーブルを相手に向けることが、親愛なる友人や歓迎する客人への挨拶という意味を持っていたら──ああ、私はなんてことを。
「大変失礼を。さぁ、遠慮なくどうぞ」
私はできる限りの笑顔を作って、そう言った。上手く、笑えているかはわからない。
笑顔はきっと大切だ。嫌われるよりは好かれるほうが良いと思うので、出来るだけ良い印象を与えておくべきだろう。
「おい、そのころころ変わる表情を止めろ。とにかく挿すぞ」
「刺す!?」
ソファーの横に回ったラッカクが、ぐいと、首根っこを後ろから掴む。
「──待ってください。話せばきっとわかります。私はほら、強盗でもなんでもありませんよ。気付いたらこの部屋に」
「そんなことは話さなくてもわかってる」
「いいえ、あなたは何か大きな勘違いをされてるに違いありません!」
必死の抗議もむなしく、そのまますごい力で頭を抑えつけられ、逃げようにも逃げられない。
身体の中で何かが、ガチャリと振動するような感覚が伝わってきた。
刺された──何に?
「……もう死ぬ」
「突っ込むのに疲れるんだが、その刺すじゃない」
目覚ましの音が止み、掴んでいた手が離れていく。ラッカクの顔を見て、そして何か背中のほうに違和感を感じた。
「あんまり動くとまた外れるから、しばらくの間おとなしくしてろ」
恐る恐る、首の後ろから、手のひらを下へと滑らせていく。襟があって、服の感触が伝わり、そして冷たい金属に行き当たった。
「穴が空いてる」
「ケーブル用に服に穴を開けた。小さい穴だから気にすんな」
「いや、あの、何これ?」
「電源ケーブル」
「何の?」
「お前の」
「人はパンのみで生きるものにあらず……電源など必要ないと。ああ、でも確か、脳は電気信号? で、なんで電源……?」
ベッドに座り直したラッカクを見ると、今にも死にそうな顔をしながら、額に手を当てて、そうして大きなため息を付いた。
「どうしました?」
「そういうところの記憶までなくなったのか……。脳の知識などまったくいらないというのに、なんで重要な部分が抜け落ちるんだ」
私に答えるというよりも、独り言をつぶやくようにして、私の方を睨んでくる。まじまじと見返す勇気もないので、彼の目線から逃げるために頭や身体を眺める。
短い髪はボサボサで、良く見れば服も埃と何かのシミとかですごく汚い。どんな生活をしているんだろう。
「お前が何を思ってるかは大体わかるが、元はと言えばお前のせいだからな。で、ひとつ大事なことを教えておく」
記憶にないけど、何か悪いことでもしたのだろうか。私、実はものすごい悪人なのかもしれない。
「おい、話聞いてるか? 今日の晩ご飯が何かより大切な話だ」
それはとても大切です──かな、たぶん。
「お前はな、人間じゃないんだよ。人の形をした機械だ。おそらく、目覚まし時計の音と勘違いしたのは、バッテリー切れを知らせる警告音だろう、お前以外には聞こえないが。そうそう、バッテリーはかなりヘタってるからこまめに充電しとけ」
この人、サイエンス・フィクションの読みすぎとかではないのだろうか。もしくはものすごく妄想癖があるとか。
「……ラッカクさん、お言葉ですが、私、別に未来から来た、あんなことやこんなことしてくれるロボットとかではないですよ? 」
「お前なぁ……素直に理解して受け止めろよ。あんなことって何だよ。なんでそんな知識あるんだよ。疲れるな」
こっちも同じ台詞を言いたい衝動にかられる。
良い歳して人型ロボットとか、一体何を言い出すんだろう。こっちこそ疲れる。
もしやこれって何かの遊び? 私、勝手にこの人に連れてこられて、なんか背中にテープでぺりっとケーブル付けられて──これって、ロボットごっこをさせられようとしている?
そういえば──ロボットって何だっけ……機械、機械だったかな。
「あの……大変言いにくいのですが、病院行った方が良いですよ?」
その言葉に、目の前の変態男はピタリと固まった。言い過ぎただろうか。というか、刺激してはいけなかったかもしれない。ここは、できるだけ相手の話にノってあげて、隙を見て逃げたほうが良かったのかもしれない。
なんだかプルプルしてる。切れる寸前かもしれない。どうしよう。
「失言でした。すっかり忘れていました。私は未来からやってきた猫型ロボットです」
目をまん丸くして、私のほうを見る変態男。プルプルしてたのは止まったが、早くここから逃げたい。
「語尾に『にゃ』がついてない」
「え?」
「語尾に『にゃ』がついてないぞ」
病院じゃなくて警察を呼んだほうが良いかもしれない。けども、今は致し方ない。というか、何その設定。
「わ、忘れてたにゃ。ごめんにゃ」
言った途端に、変態男が吹き出した。約十秒間程笑いつづけるのを、私はただ呆然と見つめる。
「ど、どうしましたにゃ? ご主人様……にゃ」
何が楽しいのだ。もしやこの変態男、薬でもしているのだろうか。おかしいと思ったのだ。何でこんな危険な変態男と一緒にいることになってしまったのだろう。
もう一度変態男を見ると、さっきまでの笑いが嘘のように、真剣な目つきでこちらを見ていた。
「──お前、可哀想なくらい馬鹿だな」
「に、にゃ?」
「ああもう、こいつ馬鹿なのかもしれない。馬鹿なんだ。どうしよう……やっぱりざっくりと九割の知識を削除したのが問題だったのか」
すごく失礼なことを言われている気がする──ざっくりって何? そこすごく気になるんですが。というか、そっちが語尾に『にゃ』って付けろって言ったのに。
「……ごめんな。まさか本当に「にゃ」とか言うとは思わなくてな。こんなに可哀想な子だったとは。未来から来たとか、サイエンスフィクションの見過ぎだろ」
この心の奥底から湧き上がる熱い想いを目の前の変態男にぶつけて、今すぐにでもその存在を消してやりたい。
「そっちこそ、ただの変態男じゃないですか」
「……なんで変態なんだ。というか証拠だろ? 証拠があれば良いんだよな?」
「ええ、証拠があれば納得します」
変態男が立ち上がって、ズボンの後ろポケットをモゾモゾし始める。金属製の細長いものをカチャリと操作すると、刃渡り四センチ程の刃物が飛び出した。
「な、にするの?」
「腕出せ」
「無理」
「だよな」
あっさりと同意してくれて安堵する。と、次の瞬間すごい勢いで腕を捕まれる。長袖の先を止めていたボタンがブチブチと外れ、左腕が露になる。
この人なんでこんないちいち乱暴なんですか。逃げようと思うのに、力がまったく入らずに、ただそれを見ていることしかできない。
「良く見ておけ」
「ちょっと、無理って言いましたよね? 無理です!」
「映画の中じゃ、こうやって証明してたから無理じゃない」
「なんですかそれ!」
手の平の付け根にナイフの刃が当てられ、それは一瞬で十センチ程下まで移動した。ナイフが離される。
「痛っ。あれ、痛くない……あれ、切れてない? 切ってない?」
「切ったぞ」
良く見れば、切られた箇所は、縦に細い線が入っている。けれども、血が出てこない。
「痛くない」
「そりゃ、そういうもんだからな」
変態男が、腕の切れ込みを左右に開く。思わず目を背ける。が、見ろと催促されて仕方なく、ちら見する。白い何かが見えるが、血は一滴も出ていなかった。痛くもない。
「なんですかこれ」
変態男の顔を見る。すごくむすっとしてる。ご機嫌斜めのようだ。
「……私、人間じゃない?」
「だから、そう言ってるだろう。お前は繊維強化セラミックスの外骨格を伸縮性の高い人工皮膚で覆った、機械人形だ。構造的には人間よりも、甲殻類に近い。だから、血など出ない。良く覚えておけ」
「なっ! 納得できません」
「証拠を見たんだから納得しろ」
この変態男が言ってることは本当なのだろうか。私って本当に猫型ロボットなのだろうか。もしや耳が……。
咄嗟に頭の上を触る。
「耳ないですよ? かじられた?」
「いや、何にかじられたんだ……。というか猫とか言い出したのはお前だからな」
「そうでした……」
この変態男が正しいなんて、神様は非情だ。あれ、ロボットにも神様はいるのだろうか。というか私って人間じゃないのか……。取り乱しそうなほど心が不安定になるが、また可哀想な子だと思われるのは癪なので、なんとか取り繕う。
私が一体何をしたというのだろう。あんまりです。なんで自分のことを人間だと思っていたのだろう。
「……朝起きたら人間になったりとか?」
「おとぎ話に影響されすぎだ。というか、そういう情報どこから得たんだ。ピノッキオにでもなるつもりか?」
すっかりベッドでくつろいでいる変態男は、私のほうを見ることなく、本当に面倒くさそうに答えた。
「ピノッキオ、って何?」
「お前、もう、うざいから黙ってろ」
くっ……変態男のくせに……。
背中から伸びるケーブルを、触って確認する。これって、電化製品と同じ原理なのだろうか。電化製品の私が喋るのは確かに人間にとってうるさいのかもしれない。いや、納得してはいけない気がする。
これ、夢とかじゃないよねと思って、頬をつねってみるけど、状況は何も変わらない。ナイフで切られた箇所を見つめる。痛くもないし、血も出なくて、自分の身体ではないような気もする。
それ以前に、このナイフで切られた腕って治るのかな……すごく心配になってきた……。
「あの、この腕どうしよう……」
ギロリと睨まれる。
「──何か巻いとけば?」
なんて適当。すごく適当。数秒前の自分を盛大に叱ってやりたい。なぜ、変態男なんかに聞いたのかと。
部屋に何かあるだろうかと見渡す。歩こうかとも思ったが、動くとケーブルが外れて、またさっきみたいなことになるかもしれない。
この変態男にまた抱き抱えられるのは嫌だ。
しばらくどうしようかと悩んでいると、低くうねる音が聞こえてきた。変態男がベッドで仰向けになって寝ている。寝るの早い。
バッテリー……充電って、時間かかるのかなと考えたところで、視界の右上に文字と数字が浮かんだ。さっきまで何もなかったはずなのに。念のため、空間に浮かんでいる文字を確かめるために触ろうと手を伸ばしたが、触れることはできなかった。
目がおかしくなった、というわけではなく、私だけに見える文字なのだろう。
「バッテ、リーのざんりょう。よ……、四パーセント」
すかさず横から、半分眠りながらうるさいとのたまう変態男の声が聞こえてきた。もう少し物音には鈍感になってくださいお願いします。
四パーセント。百パーセントまで残り九十六。
空間の中に文字が浮かんでいるという感覚がとても不思議に思えた。
しばらくその文字をじっと眺めていたけれど、全然増える気配がないので、気にしないことにする。きっと、時計を見てると時間の進みが遅くなるのと同じ原理だ。
Intermedio
まだぼやける視界。三十五にもなって四十八時間以上連続で何かをやるもんじゃない。
ここ最近、普段の仕事に加えて目の前の機械人形を直すために寝る時間を削っていた。だからか、しっかりと寝たのに、まだ身体が重い。
あいつは何をしているだろうと、ソファーのほうに目をやる。
薄く目を開いて、一点を見つめているが、何も見えてはいない。
停止モードに自分から入ったらしい。強制的に復帰させることも出来るが、起きたばかりのときにまた横でうるさくなられるのは嫌なのでそっとしておくことにした。
バッテリーの劣化が激しかったから、今度どこかで代わりのものを入手してくる必要があるが、とりあえず今日はゆっくりしていたい。
別に直さなくても俺は困らないのだから。
目の前の人形は、ずいぶん古い型だからどんなものかと思っていたが、以外と人間らしい振る舞いをする。溜め息を吐くし、表情をころころと変える様は、この個体の特徴なのか、シリーズの特徴なのか。
自分を人間だと思い込むように記憶をいじったつもりはないし、重要度の低い知識と、経験、記憶に関連する情報を全て綺麗に削除したつもりだったが、変な知識が残ってしまった。常識的な知識も一部抜け落ちているように見えた。腕がなまったのだろうか。
デジタルデータとして存在するわけだから、削除するのは簡単だ。ゼロで埋めれば良い。だが、生活に必要な知識を残しておくなどの条件が入った途端、その難易度は高くなる。複雑に絡み合う記憶から、一部だけを消去するというのは、どうやっても完璧にはできない。
チェックして整合性を確認した限り、かなりエラーを抑えることが出来たと思っていたが、実際に動かしてみるとやはり不安定だ。
サイドテーブルに置いていた、いつ入れたか忘れたコーヒーカップを手にとって、喉に流し込む。
自分のことを人間だと思っている人形を実際に目にするのは初めてだ。
原因はわからない。ひとつの推測だが、自分を人形だと認識するだけの知識が欠けている可能性がある。
以前、自分をただの人間だと思った人形の、ある実験の話を聞いたことがある。
機械人形を、人にどれだけ似せられるかは、いつの時代にも目標としてあった。今でこそ笑い話だが、太古の時代には、二本の足で歩かせるというただそれだけのことでさえ、いくつもの技術的なハードルを越えなければならなかったらしい。
そんなに昔に遡るわけではないが、その実験は、人に似せるという目的のために、知識を奪い何も知らない赤ん坊のような人形を、人の子供と同じ環境で生活させた。
結果、その人形は自分のことを人形だと疑うこともせず、自分のことを人間だと思い込んだ。実験の結末は、機能停止。
真実を知り、絶望し、必死に殺してくれと頼んだ末の他殺。いや、命ではないから、解体と言うべきか。人形が自らの身体を故意に傷つけることはできない。だから、実験体に同情した研究者が破壊した。
自分が機械人形であるということを知らない人形が、自分を人間だと思い込む。目の前の機械人形は、今、一体どういう気持ちだろう。
そこまで考えてから、それはどうでも良いことに思えた。停止モードだから今は何も感じてはいないだろうし、起きて現実に悲観するのならばすれば良い。いくら悲観しても、そこに感情も心もないのだから。それに、今までの全ての記憶、蓄積された経験は削除した。積み上げたものがないということは、悲観するだけの人生がないのだ。あの実験の人形のようになることはないだろう。
ゼロからやり直せる。それは少し羨ましい。勝手に消されるのはごめんだが。
細い銀の針金で編まれた蝶が目に入る。髪留めの役割を担っているそれは髪の色と対照的で、良く目立つ。似合っているかなんて、俺にはわからない。
長い黒の髪が、まっすぐに降りては肩に落ち、そして胸元にまで流れ落ちている。顔、肌、髪、目、手や足、身体、それら全てが、ある程度の理想の形であるように表現されている。人に似ているという言葉は違和感があり、どこが人と違うのかを探すほうが難しい。
一つだけ簡単にわかるのは、暗い場所で目を見れば良い。
機械人形であれば、目が赤く光る。しかし今は停止中のため、それも確認できない。
綺麗な顔をしている。けれどもそれだけだった。まるで死んでいるかのような表情に、透き通るような瞳だけがなぜか似つかわしくなく、違和感を残している。仕事でいくつもの人形に関わってきたが、人形には慣れない。
いつ見ても不気味だ。
証拠を見せるために、腕を切ったことを思い出す。その誤解は早く解いておいたほうが良いと感じたのだが、強引だったかもしれない。
他に何か良い説明の仕方はあっただろうか。でも、説明するのも面倒だし、こいつはきっと理解できない。
人のように細胞が自然に傷口を塞ぐようなことはないし、細菌が繁殖して化膿するといったこともない。人に比べて致命的な問題はない。
しかし、考えてから、埃が入るのは少々良くないと感じた。何せ、メンテナンスをするのは俺なのだ。
まったく使っていない、ベッド脇の棚にある一番下の引き出しから、薬の入った箱を取り出す。絆創膏は小さいし、ああ、包帯で良いか。
包帯など使ったことがないので、上手くできたかどうかはわからない。白く細い腕に、少しきつめに巻く。これなら、外に出ても怪我をしてる程度にしか思われないだろう。
包帯の端を裂いて結ぶ。顔を見ると、瞳が短い感覚で点滅していた。復帰処理を開始した合図。
不気味だ。