↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エモーションイーター  作者: ナナメ横


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/5

笑えない者〈前編〉

 カツン。


 硬い音が、暗い売り場に響いた。


 マネキンが台座から降りていた。


 一体。


 また一体。


 白い足が床に着くたび、乾いた音が鳴る。


「……おい」


 レンは目の前の光景を見つめた。


「これ、全部動くのかよ」


 ソウマは答えなかった。


 視線を向けているのは、マネキンの列の向こう。


 衣服の隙間に、白い影が立っていた。


 異様に細い身体。


 膝の辺りまで垂れ下がった、長すぎる腕。


 白い指が自分の口元へ掛かる。


 その両端を、ゆっくりと持ち上げた。


『笑ってください』


 館内放送が流れる。


 同時に、マネキンが走った。


「伏せろ!」


「うおっ!」


 レンは反射的にしゃがみ込んだ。


 すぐ上を白い腕が通り過ぎる。


 背後の商品棚が砕け、畳まれていた服が宙へ舞った。


 ソウマが踏み込む。


 一閃。


 マネキンの首が飛んだ。


 白い頭部が床を跳ね、通路の奥へ転がっていく。


 だが、首のない身体は止まらなかった。


 両腕を振り上げ、そのままソウマへ襲いかかる。


 ソウマは半歩退いた。


 刃を返し、胸元を斜めに切り裂く。


 乾いた破砕音。


 割れた胴体の奥に、黒いものが見えた。


 糸だった。


 細い糸が何本も絡まり、手足の内側へ伸びている。


 その一本は背中の穴から外へ続き、床を伝って売り場の奥へ消えていた。


「……何だ、あれ」


 レンが呟く。


 ソウマの足元で影が揺れた。


 黒い犬が身を沈める。


 赤い眼が、床を這う糸を捉えた。


「ノクス」


 ソウマが低く呼ぶ。


 犬の輪郭が崩れた。


 四肢が長く伸び、背が盛り上がる。


 首元の古い金属の輪が軋んだ。


 黒い身体が膨らんでいく。


 毛が逆立つ。


 いや、毛ではなかった。


 一本一本が薄い煙のように揺らめき、その先端から黒い霞(かすみ)が流れ落ちている。


 影の中から現れたのは、黒豹を思わせる巨大な獣だった。


 肩は高く、四肢は長い。


 黒い毛並みの先端は絶えず揺れ、周囲の闇へ溶け込んでいる。


 顔の奥には、二つの赤い眼。


 背中から伸びた鎖は、今もソウマの影へ繋がっていた。


 レンは口を開けたまま、その姿を見上げた。


「……犬じゃねえじゃん」


「下がってろ」


 ソウマが言った。


 ノクスが駆ける。


 黒い霞が床を滑った。


 首のないマネキンへ飛びかかり、胸の裂け目に牙を突き立てる。


 中から黒い糸が引きずり出された。


 ノクスが頭を振る。


 糸が千切れる。


 マネキンが崩れ落ちた。


 次の一体が商品棚を蹴り、ソウマへ飛びかかった。


 刀が白い腕を断つ。


 床へ落ちた腕が、指だけで這い始めた。


「気持ち悪っ!」


 レンは慌てて足を引いた。


 その脇を、別のマネキンが通り抜ける。


 ノクスが追った。


 巨大な前脚が白い胴体を叩き割る。


 砕けた胸から黒い糸が飛び出した。


 ソウマがその糸を断ち、ノクスは次の一体へ飛びかかる。


 迷いがなかった。


 刀が動くたび、人形の身体が崩れていく。


 それを逃れて奥へ走るものは、ノクスが捕らえる。


 レンには、二人の動きを目で追うのが精一杯だった。


 ふと。


 足元で小さな影が動いた。


 子供用のマネキン。


 他のものより低い姿勢で、商品棚の下をくぐってくる。


 レンは気づいた。


 だが、身体が動くより早かった。


 硬い拳が右脇腹へめり込む。


「――っ!」


 声が出ない。


 古い傷に衝撃が走り、身体が浮いた。


 床へ背中から叩きつけられる。


 肺の空気が一気に抜けた。


「……っ、げほ……!」


 息を吸おうとしても、うまく入らない。


 喉だけがひゅっと鳴った。


 マネキンが胸の上へ乗ってくる。


 小さな白い手。


 その指が、レンの口元へ伸びた。


 左右の口角を掴まれる。


『笑ってください』


 館内放送が流れた。


 頬が無理やり持ち上げられる。


 皮膚が引きつった。


「……や、め……」


 レンは右手でマネキンの手首を掴んだ。


 どくん。


 腕の奥が脈打った。


 指先が熱い。


 皮膚の下に、黒い筋が浮かんだ。


 爪が伸びる。


 細く、鋭く。


 白い手首へ食い込んだ。


 樹脂が割れ、中から黒い糸が覗く。


 その瞬間。


 胸を強く掴まれたような感覚がした。


 悲しい。


 苦しい。


 怖い。


 知らない誰かの感情が、一度に流れ込んでくる。


 レンのものではない。


 それなのに、息が詰まるほど胸が苦しかった。


 泣きたい。


 怒りたい。


 もう嫌だ。


 そんな思いが次々に押し寄せる。


 だが、そのどれもが途中で押し潰されていった。


 悲しみの上に蓋がされる。


 怒りが喉の奥へ押し込められる。


 代わりに浮かび上がるのは、笑顔だった。


 声が震えても、口角だけは上がっている。


 涙が出ても、笑い続ける。


 その苦しさが、レンの胸へ入り込んできた。


 そして。


 もっと触れたかった。


 この奥にある感情を、すべて引きずり出したい。


 自分の中へ取り込んでしまいたい。


 どくん。


 腹の底が大きく脈打つ。


 黒い糸へ指が伸びた。


 あと少し。


 触れれば――。


「灰崎!」


 刃が視界を横切った。


 マネキンの頭部が落ちる。


 白い身体から力が抜け、そのままレンの上へ倒れ込んだ。


「ぐっ……!」


 胸が圧迫される。


 次の瞬間、肩口を強く引かれた。


 ノクスだった。


 黒い牙でジャケットを咥(くわ)え、レンごと後ろへ引きずる。


 床を擦り、脇腹へ痛みが走った。


「……っ、痛ぇ……!」


 数歩離れたところで、ノクスがレンを放す。


 すぐに身を翻(ひるがえ)し、倒れたマネキンへ飛びかかった。


 牙が白い胸を砕く。


 中から黒い糸が引きずり出された。


 ソウマの刀が落ちる。


 糸が断たれた。


 マネキンは、ようやく動かなくなった。


 残った人形も、ソウマとノクスが次々に倒していく。


 最後の一体が崩れ落ちると、売り場には静けさだけが残った。


 レンは床へ手をつき、荒い息を繰り返した。


 右手を見る。


 普通の指だった。


 爪の隙間には、白い樹脂の破片が挟まっている。


「……何だよ」


 自分でも、何に向けた言葉なのか分からなかった。


 マネキンの手首を掴んだ。


 そこまでは覚えている。


 その後は。


 知らない感情が流れ込んできた。


 胸が苦しくなって。


 何かが、欲しくなった。


 レンは指を開いた。


 その時。


 頬に、冷たいものが触れた。


 刀だった。


 切っ先が喉元へ向けられている。


「……は?」


 顔を上げる。


 ソウマが立っていた。


 視線はレンの右手へ向けられている。


 いつもの無愛想な表情。


 だが、その目は先ほどとは違っていた。


 レンの背中を、冷たいものが走る。


 この男は、今すぐにでも自分を斬れる。


 そう思わせるほどの殺気だった。


 横から低い唸り声が響く。


「グルル……」


 ノクスが牙を剥いていた。


 赤い眼がレンを捉えている。


 その四肢は、いつでも飛びかかれるように深く沈んでいた。


 レンは唾を飲み込んだ。


「……何で、俺に」


 ソウマは答えなかった。


「灰崎」


 低い声。


「何をしようとした」


「……何って」


 レンは言葉を詰まらせた。


 右手へ視線を落とす。


 普通の指。


 普通の爪。


「俺、何か……」


 そこまで言って、止まった。


 黒い糸。


 押し寄せてきた感情。


 それを、自分の中へ取り込みたかった。


 その感覚が、まだ残っている。


「……分かんねえ」


 ソウマの目が細くなる。


「覚えていないのか」


「……全部じゃねえよ」


 レンは喉元の刃を見る。


「でも、俺……何か喰ったのか?」


 ソウマは答えなかった。


 その沈黙が怖かった。


「おい……」


「次は斬る」


 静かな声だった。


 レンの喉が詰まった。


「……俺をかよ」


 返事はない。


 刀の切っ先も動かない。


 レンはソウマの目を見た。


 その奥にあるものが、ただの警戒ではない気がした。


 もっと深い。


 何かを憎んでいるような。


 けれど、レンには分からない。


 分かったのは、この男が本気だということだけだった。


 手のひらに汗が滲む。


 怖い。


 正直、逃げたい。


 それでも。


 レンは奥歯を噛み締めた。


「……まだ俺は人間だろ」


 ソウマの眉が僅かに動く。


「何が起きたか分かんねえけど、今は普通だろ」


 レンは喉元の刃を睨んだ。


「だったら、そんなもん向けんなよ」


 ソウマは何も言わなかった。


 数秒。


 刀を握る指に力が入る。


 レンの呼吸が止まった。


 やがて。


 刃が下がる。


 鞘へ収まった。


 カチン。


 レンは詰めていた息を吐いた。


 ノクスはまだ唸っていたが、ソウマが一度視線を向けると、ゆっくり牙を収めた。


 レンは床へ片膝をついたまま、ソウマを見上げる。


「……お前さ」


 声が少し掠れた。


「そんなに俺が嫌いかよ」


 ソウマは答えなかった。


 その視線が、売り場の奥へ向く。


 レンもそちらを見た。


 床に散らばったマネキンの残骸。


 砕けた胸の奥で、黒い糸が一本動いた。


 ゆっくりと引かれ、割れた胴体から抜け出す。


 床を這い、倒れた棚の下を通っていく。


 その先。


 停止したエスカレーターの手すりへ絡みつき、上階へ引き込まれていた。


 ノクスが顔を上げる。


 赤い眼が、糸の消えた先を捉えた。


「追うぞ」


 ソウマが歩き出す。


「……おい、ちょっと待てって」


 レンは脇腹を押さえながら立ち上がった。


 ソウマはエスカレーターの前で足を止めている。


「動けるか」


「……動けるよ」


 レンは数歩進んだ。


 脇腹が痛む。


 思わず顔が歪んだ。


 ソウマはその様子を見ていた。


「無理ならここで待て」


「は?」


「上はもっと危険だ」


 レンは口を開いた。


 反論しようとして、止まる。


 さっきまで刀を向けられていた。


 今度は置いていこうとしている。


 何を考えているのか、まるで分からない。


「……行く」


 短く答えた。


 ソウマはそれ以上何も言わず、エスカレーターへ足を掛けた。


 レンも後へ続く。


     ◇


 エスカレーターは停止していた。


 足を踏み出すたび、金属製の段が小さく鳴る。


 ノクスが先頭を進み、ソウマがその後に続く。


 レンは最後尾だった。


 上階へ向かうほど、館内の空気が冷たくなっていく。


 二階。


 三階。


 どの売り場にも、人の姿はなかった。


 時折、どこからともなく笑い声が聞こえた。


 女の声。


 男の声。


 子供の声。


 レンは足を止めた。


 ソウマが振り返る。


 レンの視線は、暗い上階へ向けられていた。


「……あれも、元は人間なんだよな」


 ソウマは何も言わなかった。


 ただ、腰の刀へ一度目を落とした。


 レンはその横顔を見る。


 さっきの戦闘を思い出す。


 迷いなく振るわれた刀。


 次々に崩れていくマネキン。


 そして、自分の喉へ向けられた切っ先。


「……お前」


 ソウマが視線を向ける。


「何人くらい斬ってきたんだよ」


 足音が止まった。


 ソウマはしばらくレンを見ていた。


 その目には、いつもの冷たさがあった。


 だが、何かを言いかけたようにも見えた。


 結局、口は開かなかった。


 先へ進む。


 レンはそれ以上、聞けなかった。


 四階。


 子供服売り場の前を通りかかった時だった。


 ノクスが足を止めた。


 床に、小さな靴が落ちていた。


 赤いスニーカー。


 片方だけ。


 踵の布が少し破れている。


 レンはそれを見下ろした。


 しばらく動かなかった。


 ソウマが足を止める。


 レンは屈み、靴を拾い上げた。


 掌に収まるほど小さかった。


 その時。


『笑ってください』


 館内放送が流れた。


 明るい女性の声。


『笑ってください』


 ノイズが混ざる。


 その奥から、別の声が聞こえた。


『……たすけて』


 レンの指が止まった。


 小さな声。


『おかあさん……』


 拾った靴を握る指に、力が入る。


 レンは五階へ続く階段を見上げた。


 唇が僅かに開く。


 だが、何も言わなかった。


 ソウマはその横顔を見た。


 それからノクスへ視線を向ける。


 黒い獣が、低く身を沈めた。


「行くぞ」


 ソウマが先に階段を上った。


 レンは赤い靴を持ったまま、その後に続いた。


     ◇


 五階の防火扉の前で、ノクスが止まった。


 扉の向こうから、何人もの笑い声が聞こえる。


 大人。


 子供。


 まるで、楽しそうな食事会が開かれているようだった。


 レンは右手首を見た。


 マネキンを掴んだ時の感覚が、まだ残っている。


 自分の意思とは関係なく伸びた爪。


 胸へ流れ込んできた、知らない誰かの感情。


 ソウマの刀。


 レンは胸ポケットからネクタイを取り出した。


 右手首へ巻く。


 一周。


 二周。


 結ぼうとして、指が止まった。


 うまくいかない。


 ソウマが横目で見る。


「何をしている」


「……気休め」


 レンはネクタイを引っ張った。


 結び目が緩む。


「くそ……」


 ソウマが手を伸ばした。


 ネクタイの端を取り、手早く巻き直す。


 きつく結ぶ。


「……痛ぇよ」


「動くな」


 ソウマは結び目を確かめ、手を離した。


 レンは右手首を見る。


 きつく巻かれた黒い布。


 これで止まるとは思わない。


 それでも。


 何もしないよりはましだった。


 ソウマが防火扉へ手を掛ける。


「開けるぞ」


 レンは頷いた。


 二人で押す。


 扉が重々しく開いた。


 広い飲食フロア。


 非常灯に照らされたテーブル。


 倒れた椅子。


 割れた食器。


 その中央に、八人が座っていた。


 大人が六人。


 子供が二人。


 皿には何も載っていない。


 それでも全員がフォークを持ち、空の皿から何かを掬う動作を繰り返していた。


「おいしいね」


 女性が言った。


「おいしいね」


 隣の男が答える。


「たのしいね」


 子供が言う。


「たのしいね」


 もう一人の子供が返す。


 レンは立ち止まった。


 全員が笑っていた。


 頬には、涙の跡が残っている。


 レンの手の中で、赤いスニーカーが小さく軋んだ。


 その音に反応したように。


 八人が、同時に顔を上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。