笑えない者〈前編〉
カツン。
硬い音が、暗い売り場に響いた。
マネキンが台座から降りていた。
一体。
また一体。
白い足が床に着くたび、乾いた音が鳴る。
「……おい」
レンは目の前の光景を見つめた。
「これ、全部動くのかよ」
ソウマは答えなかった。
視線を向けているのは、マネキンの列の向こう。
衣服の隙間に、白い影が立っていた。
異様に細い身体。
膝の辺りまで垂れ下がった、長すぎる腕。
白い指が自分の口元へ掛かる。
その両端を、ゆっくりと持ち上げた。
『笑ってください』
館内放送が流れる。
同時に、マネキンが走った。
「伏せろ!」
「うおっ!」
レンは反射的にしゃがみ込んだ。
すぐ上を白い腕が通り過ぎる。
背後の商品棚が砕け、畳まれていた服が宙へ舞った。
ソウマが踏み込む。
一閃。
マネキンの首が飛んだ。
白い頭部が床を跳ね、通路の奥へ転がっていく。
だが、首のない身体は止まらなかった。
両腕を振り上げ、そのままソウマへ襲いかかる。
ソウマは半歩退いた。
刃を返し、胸元を斜めに切り裂く。
乾いた破砕音。
割れた胴体の奥に、黒いものが見えた。
糸だった。
細い糸が何本も絡まり、手足の内側へ伸びている。
その一本は背中の穴から外へ続き、床を伝って売り場の奥へ消えていた。
「……何だ、あれ」
レンが呟く。
ソウマの足元で影が揺れた。
黒い犬が身を沈める。
赤い眼が、床を這う糸を捉えた。
「ノクス」
ソウマが低く呼ぶ。
犬の輪郭が崩れた。
四肢が長く伸び、背が盛り上がる。
首元の古い金属の輪が軋んだ。
黒い身体が膨らんでいく。
毛が逆立つ。
いや、毛ではなかった。
一本一本が薄い煙のように揺らめき、その先端から黒い霞が流れ落ちている。
影の中から現れたのは、黒豹を思わせる巨大な獣だった。
肩は高く、四肢は長い。
黒い毛並みの先端は絶えず揺れ、周囲の闇へ溶け込んでいる。
顔の奥には、二つの赤い眼。
背中から伸びた鎖は、今もソウマの影へ繋がっていた。
レンは口を開けたまま、その姿を見上げた。
「……犬じゃねえじゃん」
「下がってろ」
ソウマが言った。
ノクスが駆ける。
黒い霞が床を滑った。
首のないマネキンへ飛びかかり、胸の裂け目に牙を突き立てる。
中から黒い糸が引きずり出された。
ノクスが頭を振る。
糸が千切れる。
マネキンが崩れ落ちた。
次の一体が商品棚を蹴り、ソウマへ飛びかかった。
刀が白い腕を断つ。
床へ落ちた腕が、指だけで這い始めた。
「気持ち悪っ!」
レンは慌てて足を引いた。
その脇を、別のマネキンが通り抜ける。
ノクスが追った。
巨大な前脚が白い胴体を叩き割る。
砕けた胸から黒い糸が飛び出した。
ソウマがその糸を断ち、ノクスは次の一体へ飛びかかる。
迷いがなかった。
刀が動くたび、人形の身体が崩れていく。
それを逃れて奥へ走るものは、ノクスが捕らえる。
レンには、二人の動きを目で追うのが精一杯だった。
ふと。
足元で小さな影が動いた。
子供用のマネキン。
他のものより低い姿勢で、商品棚の下をくぐってくる。
レンは気づいた。
だが、身体が動くより早かった。
硬い拳が右脇腹へめり込む。
「――っ!」
声が出ない。
古い傷に衝撃が走り、身体が浮いた。
床へ背中から叩きつけられる。
肺の空気が一気に抜けた。
「……っ、げほ……!」
息を吸おうとしても、うまく入らない。
喉だけがひゅっと鳴った。
マネキンが胸の上へ乗ってくる。
小さな白い手。
その指が、レンの口元へ伸びた。
左右の口角を掴まれる。
『笑ってください』
館内放送が流れた。
頬が無理やり持ち上げられる。
皮膚が引きつった。
「……や、め……」
レンは右手でマネキンの手首を掴んだ。
どくん。
腕の奥が脈打った。
指先が熱い。
皮膚の下に、黒い筋が浮かんだ。
爪が伸びる。
細く、鋭く。
白い手首へ食い込んだ。
樹脂が割れ、中から黒い糸が覗く。
その瞬間。
胸を強く掴まれたような感覚がした。
悲しい。
苦しい。
怖い。
知らない誰かの感情が、一度に流れ込んでくる。
レンのものではない。
それなのに、息が詰まるほど胸が苦しかった。
泣きたい。
怒りたい。
もう嫌だ。
そんな思いが次々に押し寄せる。
だが、そのどれもが途中で押し潰されていった。
悲しみの上に蓋がされる。
怒りが喉の奥へ押し込められる。
代わりに浮かび上がるのは、笑顔だった。
声が震えても、口角だけは上がっている。
涙が出ても、笑い続ける。
その苦しさが、レンの胸へ入り込んできた。
そして。
もっと触れたかった。
この奥にある感情を、すべて引きずり出したい。
自分の中へ取り込んでしまいたい。
どくん。
腹の底が大きく脈打つ。
黒い糸へ指が伸びた。
あと少し。
触れれば――。
「灰崎!」
刃が視界を横切った。
マネキンの頭部が落ちる。
白い身体から力が抜け、そのままレンの上へ倒れ込んだ。
「ぐっ……!」
胸が圧迫される。
次の瞬間、肩口を強く引かれた。
ノクスだった。
黒い牙でジャケットを咥え、レンごと後ろへ引きずる。
床を擦り、脇腹へ痛みが走った。
「……っ、痛ぇ……!」
数歩離れたところで、ノクスがレンを放す。
すぐに身を翻し、倒れたマネキンへ飛びかかった。
牙が白い胸を砕く。
中から黒い糸が引きずり出された。
ソウマの刀が落ちる。
糸が断たれた。
マネキンは、ようやく動かなくなった。
残った人形も、ソウマとノクスが次々に倒していく。
最後の一体が崩れ落ちると、売り場には静けさだけが残った。
レンは床へ手をつき、荒い息を繰り返した。
右手を見る。
普通の指だった。
爪の隙間には、白い樹脂の破片が挟まっている。
「……何だよ」
自分でも、何に向けた言葉なのか分からなかった。
マネキンの手首を掴んだ。
そこまでは覚えている。
その後は。
知らない感情が流れ込んできた。
胸が苦しくなって。
何かが、欲しくなった。
レンは指を開いた。
その時。
頬に、冷たいものが触れた。
刀だった。
切っ先が喉元へ向けられている。
「……は?」
顔を上げる。
ソウマが立っていた。
視線はレンの右手へ向けられている。
いつもの無愛想な表情。
だが、その目は先ほどとは違っていた。
レンの背中を、冷たいものが走る。
この男は、今すぐにでも自分を斬れる。
そう思わせるほどの殺気だった。
横から低い唸り声が響く。
「グルル……」
ノクスが牙を剥いていた。
赤い眼がレンを捉えている。
その四肢は、いつでも飛びかかれるように深く沈んでいた。
レンは唾を飲み込んだ。
「……何で、俺に」
ソウマは答えなかった。
「灰崎」
低い声。
「何をしようとした」
「……何って」
レンは言葉を詰まらせた。
右手へ視線を落とす。
普通の指。
普通の爪。
「俺、何か……」
そこまで言って、止まった。
黒い糸。
押し寄せてきた感情。
それを、自分の中へ取り込みたかった。
その感覚が、まだ残っている。
「……分かんねえ」
ソウマの目が細くなる。
「覚えていないのか」
「……全部じゃねえよ」
レンは喉元の刃を見る。
「でも、俺……何か喰ったのか?」
ソウマは答えなかった。
その沈黙が怖かった。
「おい……」
「次は斬る」
静かな声だった。
レンの喉が詰まった。
「……俺をかよ」
返事はない。
刀の切っ先も動かない。
レンはソウマの目を見た。
その奥にあるものが、ただの警戒ではない気がした。
もっと深い。
何かを憎んでいるような。
けれど、レンには分からない。
分かったのは、この男が本気だということだけだった。
手のひらに汗が滲む。
怖い。
正直、逃げたい。
それでも。
レンは奥歯を噛み締めた。
「……まだ俺は人間だろ」
ソウマの眉が僅かに動く。
「何が起きたか分かんねえけど、今は普通だろ」
レンは喉元の刃を睨んだ。
「だったら、そんなもん向けんなよ」
ソウマは何も言わなかった。
数秒。
刀を握る指に力が入る。
レンの呼吸が止まった。
やがて。
刃が下がる。
鞘へ収まった。
カチン。
レンは詰めていた息を吐いた。
ノクスはまだ唸っていたが、ソウマが一度視線を向けると、ゆっくり牙を収めた。
レンは床へ片膝をついたまま、ソウマを見上げる。
「……お前さ」
声が少し掠れた。
「そんなに俺が嫌いかよ」
ソウマは答えなかった。
その視線が、売り場の奥へ向く。
レンもそちらを見た。
床に散らばったマネキンの残骸。
砕けた胸の奥で、黒い糸が一本動いた。
ゆっくりと引かれ、割れた胴体から抜け出す。
床を這い、倒れた棚の下を通っていく。
その先。
停止したエスカレーターの手すりへ絡みつき、上階へ引き込まれていた。
ノクスが顔を上げる。
赤い眼が、糸の消えた先を捉えた。
「追うぞ」
ソウマが歩き出す。
「……おい、ちょっと待てって」
レンは脇腹を押さえながら立ち上がった。
ソウマはエスカレーターの前で足を止めている。
「動けるか」
「……動けるよ」
レンは数歩進んだ。
脇腹が痛む。
思わず顔が歪んだ。
ソウマはその様子を見ていた。
「無理ならここで待て」
「は?」
「上はもっと危険だ」
レンは口を開いた。
反論しようとして、止まる。
さっきまで刀を向けられていた。
今度は置いていこうとしている。
何を考えているのか、まるで分からない。
「……行く」
短く答えた。
ソウマはそれ以上何も言わず、エスカレーターへ足を掛けた。
レンも後へ続く。
◇
エスカレーターは停止していた。
足を踏み出すたび、金属製の段が小さく鳴る。
ノクスが先頭を進み、ソウマがその後に続く。
レンは最後尾だった。
上階へ向かうほど、館内の空気が冷たくなっていく。
二階。
三階。
どの売り場にも、人の姿はなかった。
時折、どこからともなく笑い声が聞こえた。
女の声。
男の声。
子供の声。
レンは足を止めた。
ソウマが振り返る。
レンの視線は、暗い上階へ向けられていた。
「……あれも、元は人間なんだよな」
ソウマは何も言わなかった。
ただ、腰の刀へ一度目を落とした。
レンはその横顔を見る。
さっきの戦闘を思い出す。
迷いなく振るわれた刀。
次々に崩れていくマネキン。
そして、自分の喉へ向けられた切っ先。
「……お前」
ソウマが視線を向ける。
「何人くらい斬ってきたんだよ」
足音が止まった。
ソウマはしばらくレンを見ていた。
その目には、いつもの冷たさがあった。
だが、何かを言いかけたようにも見えた。
結局、口は開かなかった。
先へ進む。
レンはそれ以上、聞けなかった。
四階。
子供服売り場の前を通りかかった時だった。
ノクスが足を止めた。
床に、小さな靴が落ちていた。
赤いスニーカー。
片方だけ。
踵の布が少し破れている。
レンはそれを見下ろした。
しばらく動かなかった。
ソウマが足を止める。
レンは屈み、靴を拾い上げた。
掌に収まるほど小さかった。
その時。
『笑ってください』
館内放送が流れた。
明るい女性の声。
『笑ってください』
ノイズが混ざる。
その奥から、別の声が聞こえた。
『……たすけて』
レンの指が止まった。
小さな声。
『おかあさん……』
拾った靴を握る指に、力が入る。
レンは五階へ続く階段を見上げた。
唇が僅かに開く。
だが、何も言わなかった。
ソウマはその横顔を見た。
それからノクスへ視線を向ける。
黒い獣が、低く身を沈めた。
「行くぞ」
ソウマが先に階段を上った。
レンは赤い靴を持ったまま、その後に続いた。
◇
五階の防火扉の前で、ノクスが止まった。
扉の向こうから、何人もの笑い声が聞こえる。
大人。
子供。
まるで、楽しそうな食事会が開かれているようだった。
レンは右手首を見た。
マネキンを掴んだ時の感覚が、まだ残っている。
自分の意思とは関係なく伸びた爪。
胸へ流れ込んできた、知らない誰かの感情。
ソウマの刀。
レンは胸ポケットからネクタイを取り出した。
右手首へ巻く。
一周。
二周。
結ぼうとして、指が止まった。
うまくいかない。
ソウマが横目で見る。
「何をしている」
「……気休め」
レンはネクタイを引っ張った。
結び目が緩む。
「くそ……」
ソウマが手を伸ばした。
ネクタイの端を取り、手早く巻き直す。
きつく結ぶ。
「……痛ぇよ」
「動くな」
ソウマは結び目を確かめ、手を離した。
レンは右手首を見る。
きつく巻かれた黒い布。
これで止まるとは思わない。
それでも。
何もしないよりはましだった。
ソウマが防火扉へ手を掛ける。
「開けるぞ」
レンは頷いた。
二人で押す。
扉が重々しく開いた。
広い飲食フロア。
非常灯に照らされたテーブル。
倒れた椅子。
割れた食器。
その中央に、八人が座っていた。
大人が六人。
子供が二人。
皿には何も載っていない。
それでも全員がフォークを持ち、空の皿から何かを掬う動作を繰り返していた。
「おいしいね」
女性が言った。
「おいしいね」
隣の男が答える。
「たのしいね」
子供が言う。
「たのしいね」
もう一人の子供が返す。
レンは立ち止まった。
全員が笑っていた。
頬には、涙の跡が残っている。
レンの手の中で、赤いスニーカーが小さく軋んだ。
その音に反応したように。
八人が、同時に顔を上げた。




