採用と退職
仕事を辞めた。
今年の夏は酷暑だ。なのに、私はワイシャツと黒いスキニーを身に着け、日中の間ずっと近くの喫茶店に入り浸る。
コーヒー2杯でどうにか粘り、夕方に肉屋で買ったコロッケを公園のベンチで頬張り、実家に帰る。
母と妹には言葉少なめに応答して、着た服を自分で洗濯して明日に備える。
明日、向かうべき場所も待つ同僚もいないのに。
昔から秀才で通っていた。それと同時に「ズレている男の子」と言われ続けた。
勉強は苦でなかった。問題は決められた原則に従って解けば良いだけであり、嫌だ嫌だと騒ぐ同級生たちが理解できなかった。
「理系が好きそう」とよく言われるが、文系の成績も良く、その中でも国語の読解が得意だった。
登場人物の気持ちではなく登場人物がどう思っていると出題者が考慮しているか。それさえわかれば、何も問題はない。
しかし、生身の人間となると話は別だった。ディベートでは「正論だけど生理的にムカつく」とよく言われた。
読書感想文も作文も苦手だった。
「蜘蛛の糸」の感想文で「人間のエゴイズムと糸の耐性に相関関係はない」と書けば教員に呼び出された。
「走れメロス」の際に「こんな身勝手な兄を持ったら妹の心労はいかほどだろうか」と締めた時の国語の評定は、テストは90点を超えていたにもかかわらず「4」だった。
教師は私を疎み、女子からは気味悪がられ、同性からは蔑まれ続けた。
それでも、大切な母と妹との時間を有意義に過ごし、学校でも私用でもずっと制服で、社会人になってからは同じスーツを十四着買って毎日過ごした。
数学の得意な文系、という進路が一番偏差値を高くはじき出すため迷わず進んだ。
将来のことを考え司書資格を取った。教員免許も取る予定だったが、何度も教育実習でコミュニケーション能力不足と言われ結局無理だった。
どこの求人を探しても、面接までは必ず受かった。
面接官は私の仕事に対する姿勢に深く感動し、採用を決める。しかし、職場での人間関係が上手くいかない。三十二歳ともなると、もう仕事が決まらなくなってきた。
先月まで勤めた図書館では同僚の女性の一部から顰蹙を買った。
新聞の配架が間違っていたので先日分を直そうとすると、近くのカウンターの女性に咎められた。髪の長さは私とそう変わらず、眼鏡をかけている。
謝罪するとキンキンとした声が響いた。
「謝らなくてよいから、間違えた理由を説明してもらえませんか?」
説明するとこじれることは経験上、予測できていたが致し方無い。
間違っていたわけではなく前日分の間違いを直していたことを伝えるとものすごい声で喚かれた。言語になっておらず、大きな声で意味になっていない音がする。
厳重注意を受けた後、職場の女性で唯一いつも励ましてくれる重森さんが微笑んで声をかけた。
「瀬戸さんも悪気があったわけじゃないんですよ。気にしないでください」
その時私は、早くに夫を亡くした母の言葉を思い出した。
「そろそろ孫が見たい」
思わず知人に貰った名画座のチケットをポケットから取り出して見せた。
「え、私こういうのは……」
「あの、独り身ですか?」
重森さんはぼんやりと口を開けた。ショートカットに丸い顔が少しずつ紅潮する。
「いえ、交際を、結婚を前提に交際……いえ、気が進まなければ別に構わないんですけど……」
その後、私は再び呼び出され自己都合で退職となった。
「本当は懲戒解雇でもいいんですよ」
長い髪を縛った主任は、私を睨みつけた。
「解雇が妥当なら甘んじて受け入れます」
主任は黙って首を振ってからこう呟いた。
「もう、今日は帰ってください。後日、書類を郵送するのでそちらにご記入ください」
その後、実家では寝て起きるだけ、家族から何か聞かれたら「元気だよ」と繰り返す日々が続いている。
持たせてくれたお弁当を断った。本当は喫茶店から出ないためだったが嘘をついた。
「同僚とお昼に行くことにしたんだ」
「え、お兄ちゃんが?仕事の人と!?」
妹は驚きを隠せない。昔の記憶より老いてきた母は信じ切って微笑んでいる。普段私は嘘などつかない。疑う余地もないのだろう。
「図書館だから、女の人?良かったね、女子と上手くいかないって悩んでたじゃん。良かったぁ、楽しんでね」
女性とうまくいかないことは事実だが、悩んだ記憶もそんなことを言った記憶もない。しかし、曖昧に頷いて部屋に戻った。
背後からは、あの子がねぇ、いや、お兄ちゃんはスタイルも良いしいつかこうなると思ってたよ、そんな声がした。
胸部に微かな鈍痛が走る。
この感情を「後ろめたい」と言うのだろう。




