06
魔法使いにしてみれば健脚と言っていいだろう。
運よく天気も崩れることはなく、初夏の日差しが降り注ぐ道を足で噛むように歩き、予定通り三日の行程で目的の村へと着いた。
(さあ、今日は眠ろう)
さすがに疲れていた。
歩くことも疲れていたが、この頭脳労働の専門家にとって最も難渋したのは常に回転し続ける頭脳を停止させ続ける作業だった。
歩く時に、頭脳は要らない。目的地に対しての余計な感情も展望も、精神を無駄に揺さぶるだけで利益などない。体力を無駄に使うのみだ。そうと知っていたから、ラウルは頭を真っ白にする作業を続けながら歩き通した。
そのことにも、智者だけに恐れはある。果たして三日もの間頭を使わずに元の頭脳を取り戻せるのか。自分のリズムは取り戻せるのか。少し不安だった。
とにかく宿を取って休みたかった。
路銀は、それこそ余るほどにある。
魔法協会は確かに資金援助が削られることを懸念してはいるが、人一人の路銀程度を捻出できないほど算術的思考に乏しいわけでもなく、与えられないほど吝嗇でも人でなしでもない。
安宿なら半年は逗留出来るだけの金は預かっている。
「部屋を貸していただきたいですが」
このリーマという村は、近頃迷宮が発見されたというので調査に遣わされた軍隊や冒険者で賑わい、俄か普請の宿も随分増えた。
客が多いから、その客の性質を見る目も自然と養われている。
宿の主人はラウルの体格の細さを見た。ついで、理知を弁えた者のみが持つ目の細さ、更に頬から顎に流れる線の細さを見た。
およそ長旅を為すような骨柄の逞しさはなく、その代わり頭の巡りが良い者の見本のような面持ちだった。
そのくせ、金を取り出して渡す仕草が丁寧で、主人はラウルを上客と見た。
「へいへい、何日でも」
愛想よく言って、二階の部屋を貸した。
宿は村らしく木造で、普請は新しい。村の賑わいに合わせて造られたものらしく、木材特有の香気が建物内に満ちていた。
体重を乗せても軋むことのない真新しい階段を登り、案内された部屋に入ると、四肢が溶けた。
荷物を下ろして寝台に倒れ込むと、そのまま眠った。
絹ではない。安宿らしい、木造寝台の硬さの伝わる寝具だったが野宿に比べれば天国のようで、ラウルは体が泥になったような感覚に陥った。
日暮れ頃、ドアを叩く音がして、ラウルは目が覚めた。昼前に着いてそれから眠りこけていたから、目を覚ますと意外な活力が体に満ちていることに気がついた。
扉を開けると、宿の主人が小腰を屈めていた。
「お客さん、お酒の用意も出来ますが給仕はご入用ですか?」
宿に客が止まった時に給仕というものの多くは食事や酒の世話をするということになるのだが、宿では私娼を抱えていることが多く、その流れでの売春を指す。
旅慣れていれば常識だが、ラウルには判らない。深く考えずに、
「不調法ですが、今夜くらいは頂戴します。強くないものを願います」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
少しして、食事が出た。
山菜を炒めたものや野花を和えたものなど簡素なものだったが、温かいというだけで嬉しかった。
「お邪魔します」
食事と一緒に娘もついてきた。
村育ちという具合に、発育も然程でなく純朴そうだったが、不意に流し目をすると見た目にそぐわない色気があって、客にも怖じないから意外に慣れているのだろう。
「ああ、どうも」
と、ラウルは食事と酒の世話をしてもらった。
ラウルは健啖家だから、その線の細さに似合わない食事量を収めた。出されたものでは足りず、給仕の娘に、
「この山のものはいい。同じものを二度ほど出してください。あと、川のものがあればそれも」
と、注文して呆れさせた。
その代わりのように酒は少量。娘が恭しいほどに丁寧な手つきで杯に注ぐが、ラウルはそれを飲むというよりは舐めるように含む。三度ほどするともう杯を置いて、じっとにごり酒の表面を眺めている。
なにやら思案している様子で、娘は声を掛けそびれたまま随分経ったが、とうとうラウルの手を取った。
「はい?」
同時に立ち上がり、寝台に誘う。
先に娘が衣服を寛げ、寝台に横になった。
ラウルはなにを思ったのか、ああ、と合点して、
「俺は充分眠りました。出掛けますから、戻るまででよければどうぞ遠慮なく」
夜露を避けるための外套を手に取って部屋を出てしまった。
世慣れしていないためなのか。娘の体調が良くないと思ったのか。ラウルには娘の行動の意図を測り兼ねたようだった。
呆然としたのは娘である。すぐに我に返って追いかけたが、既にラウルは宿を出るところだった。慌てて主人を呼んで経緯を話すが、まさか女に手をつけないことを理由に背中を追いかけるわけにもいくまい。
「なんとも面白い客が来たもんだ」
主人はそう言って苦笑した。
通りへ出た。
田舎の村に夜の闇が満ちていたが、辻の家の軒先に灯りが下がっていたため、難渋するというほどでもない。それに、民家の灯は落ちていたが目指す酒場の灯は煌々と照って路上に漏れている。
それを目指して歩けばよかった。
酒場は二軒あった。うちの一軒はにわか普請だから、出入りの人間が多くなったから急ごしらえに造ったものだろう。少し狭いようで、客席も店内に収まりきらず路上に椅子と机を出していた。
ラウルは古い造りの酒場を選び、店内に入った。
勿論酒を飲むためではない。娘に酌をしてもらって、杯を舐めただけでもう酒に懲りている。話を聞くために来た。
「初めての土地に来たら、出来るだけ馴染んでおくのがいい」
旅慣れた先輩の助言だった。
馴染むには酒の席が一番だという。土地の特徴や所縁などを知り、風俗を学び感性に慣れる。そうして人と馴染めば、困った時に手を差し伸べる者が出来てくる。
ラウルはそれを忠実に守ったが、酒の席で下戸ほど面倒なものはない。ラウルは嚢中から一杯か二杯の酒を奢ってやったから邪険にもされなかったが、声を掛けた客は一様に迷惑そうな顔をした。
糞真面目で諧謔を解せず、おまけに下戸では酒場の空気を悪くするだけである。店内の客の半分ほどに声を掛けたところで店に頭を下げられて追い出された。
「迷惑だったのか」
ラウルはぽつり、と呟いた。何故迷惑だと思われたのか、真剣に考え込んだ。
軒先で立ち止まって考え込むラウルを、店員が蠅でも払う手つきで追い立てる。
得られた情報は多かった。
ラウルは追い出された理由こそ判らなかったが、村の起こりや風俗などはある程度知れたため、満足して宿に戻った。
酒場から客に頼まれた小僧がその後を尾けて、宿に入るところまでを見て引き返していったのだが、無論気づかない。
宿に戻ると、宛がった娘の戸惑いを聞いていた店主が、
「女はお嫌いですか?」
と、訊いてきた。
「いえ、嫌いではないです。なかなか、考えていることが自分と違う点が著しく、面白いですから」
また、質問の意図をはき違えた返答であったが、その素朴な答えが店主の気に入るところだったらしく、これは差し入れです、とチーズを包んで渡してくれた。
ラウルはよく判らなかったが、くれるというものを断るほど擦れてはいない。礼を言って受け取って、部屋に引き取った。
眠る前に、聞き取ったものをメモにしておかねばならない。油皿の灯を点し、荷物の中から森で拾った平たい木片に鉛筆で書き込んでいく。
夜中までその作業を続け、時折貰ったチーズを千切って口に運んだ。全て書き留めて鉛筆を置くと灯を消してベッドに潜り込んだ。
一日目から精力的な男である。夢も見ずに眠った。