29
密室の先端部ごと、地下の暗闇へと落ちていったラウルを救うため、リアンたちは扉を蹴飛ばす勢いで出たものの、その先に続く階段は長かった。
降りて、踊り場で向きを変えてまた降りる。同じように下りて向きを変え、また降りる。階段は暗闇で、先頭で松明を掲げるリアンが居なければふと隣で怪物が吐息を漏らしても判らない。
その闇の中を駆け降りる。これは非常に危険だった。そもそも階段を暗闇のまま駆け降りるということからして、半分自殺行為だ。それがこの怪物どもの巣窟たる迷宮なのだから、これはもう冷静な判断から来たことではなかった。
事実、リアンは急いていた。駆け降りねばならない階段を崩して、砂礫にでもしてしまいたいほど苛立っている。悠長に階段を降りている間に、ラウルが死ぬかもしれないという危機感がリアンを焦らせていた。
「リアン、転ぶ!」
堪りかねてメイが背後で叫んだ。
最後尾で松明を掲げるシェラから見るに、確かに先頭のリアンの足取りは危ない。前傾姿勢で顔を突き出し、気ばかりが急いて足元を掬われる典型のような姿だ。それに引き換え、メイは闇の中を自分の庭のようにして進んでいる。
だからこの言葉は、リアンを案じてのことなのだろう。しかし、リアンは聞かなかった。幸い、転ぶことなく階段は終わった。
息が切れていた。神学者の老人は到底ついてこられないだろうと思ったので、犬を担ぐようにシェラが運んでやった。
重苦しい石の扉があった。
なんの躊躇もなく、リアンがそれを開けた。呼吸を整える暇すら惜しんでいた。
メイやシェラが止める間もなく、ゆっくりと開いた石の扉の隙間から、その奥の闇へ身を投じた。
(らしくない)
メイはそう思ったが、一面でそうでもないとも思った。
石橋を叩いて渡る慎重さはリアンの持ち味だが、それは自分と仲間の命を保証するという目的を持っている。なら、仲間の命が危機に瀕している今、石橋どころか朽ちかけの板橋ですら渡る気分なのだろう。
メイが続き、シェラ、続いて老人と扉を潜った時、勝手にその扉が閉まった。
同時に、溢れるほどの光が降り注いだ。
「くっ」
眩んだ。突然の光量に視界は失われ、平衡感覚も一瞬失った。
数秒、その環境の変化の適応に意識が割かれる。その空白。その間に、大きなものが上から落ちてきた。
額に手をかざして影を作って目を開ける。
そこに、上半身だけが人間の、怪物が居た。
「デカいじゃねえか」
リアンが剣を抜いた。同時にメイが跳んだ。言葉を交わす時間すら惜しんで、迷宮攻略の大詰めである、主との決戦が始まった。
メイの戦法、というよりもその思考法は常に単純勁烈であった。
害あるは殺め、益あるは佐く。そこにメイの美学を交え、それを唯一の思考法と判断基準にして世を泳いでいる。リアンと共に居るのも、この世慣れた男を補佐していけばそれだけ煩わしさがないという一点に尽きる。
この場合、つまり害を為す敵と相対した時の戦法も、単純そのもの。まず先手。なにを置いても先手である。相手が口を開くことも許さない。その反応、挙動、意識の先手を取る。
相手の姿と形を認識するや、メイは跳んだ。鹿のように柔らかくも弾力のある筋肉のメイは、その軽量な体を容易く宙に躍らせ、短剣を抜き放つと同時に振るった。
ネルレイニアは、いっぱいに開いた眼球でその動きを正確に捉え、ふと手をかざした。
風を遮るように、ごく気楽に。
ネルレイニアの腕が短剣によって裂けた。が、メイの跳躍力はその引っかかりによって上への進行力を失い、徐々に落下していく。
肌に食い込んだ刃には毒が塗布されている。人間なら全身が痺れる類の毒だ。ネルレイニアは腕から滴る血の臭いを嗅いだ。
「
毒か。足りんなあ」
ちっ、と着地したメイが舌打ちをした。
そうだろう。人間や動物に対して有効でも、こんな異形の、しかも体格の大きな怪物に有効にさせるには毒の量が足りていない。
ネルレイニアは平気な顔で、右手を虚空へかざした。
すると、がしゃがしゃと耳に障る音がして視界の外から人骨がネルレイニアの手に群がった。
(なるほど)
と、先手を取るよりも分析に重きを置いているリアンは納得した。
この空間は、円筒状になっている。自然、横よりも縦に長い。見上げた天井は見えもせず、また、その光源がなんなのかは眩い光で見えないが、太陽のように降り注いで闇をなくしている。
周囲を見回せば、端の方に夥しい人骨が散らばっている。その人骨を、ネルレイニアは引き寄せているらしい。
やがて、槍が出来た。人骨の長いものを選んで繋ぎ合わせ、先端を指先でパキリと割って、鋭利な槍が出来た。
「どれ、このくらいか?」
ぶん、と槍を力任せに振るった。
二倍以上の体格の、しかも蜘蛛のように地を噛む脚で胴体を持ち上げているからその背丈は更に高い。その怪物の振るう長柄は、風圧だけでも転びそうになる。
リアンは避けた。剣を抜いたまま横っ走りに走って風圧を避けた。メイは屈んだ。槍が自分の体に触れない軌道であることを読んで、風圧に飛ばされないよう両手と足でしっかり地面を噛んだ。
「ご老、後ろに!」
シェラは盾を構えた。ネルレイニアの槍はその盾にも触れなかったが、その風の勢いを盾で殺して、この足腰の弱った老人が吹き飛ぶのを防いだ。
「む?」
怪訝そうに唸ったのはネルレイニアである。見ると、槍が折れていた。
「加減を間違ったか。脆いなあ」
人骨の槍は遠心力に耐えられず、中ほどからぺっきりと折れていて、その先端がブーメランのように回りながら壁に突き刺さった。
「ちぇりゃっ!」
ネルレイニアの側面に回ったリアンが打ち込んだ。
ネルレイニアの怪物の下半身は人の身長ほどもある。その上に人の上半身がある。当然、人型の怪物に打ち込むのとは勝手が違う。リアンはまずそこに戸惑ったが、こういう相手には脚を狙うのがいい。
ネルレイニアの脚は骨だ。道中で戦った骸骨にするのと同じ要領で、関節を狙って打ち込む。第一関節に、頭上に大きく振りかぶった剣を打ち込むが、刃先が少しめり込むだけで断てない。
「デカかさに比例して硬さも増してんのか?」
一撃離脱方式で、有効打にならないと見るやネルレイニアの脚を蹴ってめり込んだ剣を抜き、三歩退く。呆れたように呟いたのは距離を取ってからだ。
(しかも、意にも介してない)
舌打ちをしたくなる気分で思ったのは、ネルレイニアがリアンに視線もくれていないことだ。折れてしまった骨の槍を捨てて、新しい槍を部屋の隅の人骨を手繰り寄せて作っていた。
「ああ、その前に」
棘を抜くように、腕に引っかかったメイの短剣を抜く。
「ほう、四番目の勇者の短剣か。それはさぞ大切だろう。返すぞ」
ひゅっと、指の間に挟んで手を振ると同時に投げた。
「っ!」
短剣は、メイが投げるのとは比べ物にならない。さっと飛び退いて避けたが、外套が貫かれた。短剣はそのまま壁にぶつかったが、衝撃で壁が少し崩れた。
(おいおい、嘘だろう。火薬を激発させた銃弾かそれ以上だってのか?)
リアンが呆れた。メイの外套は貫かれた場所が焦げている。空気を裂いた摩擦で刃先が熱せられたのだ。それほどの速度が出ていたのだ。
「仰々しい盾だ。これは、防げるか?」
が、ネルレイニアはもう狙いを変えている。シェラに向き直った。
くっと、銛でも突き刺すように逆手に持って振りかぶり、そのまま突く。骨の脚が微妙に動いて重心の高い上半身の体重移動に備えた。まるで、騎馬である。ただ一つ馬に跨る騎士と違うのは、馬の脚に当たるのがネルレイニア自身の脚だということである。
(そこが強みだが、弱みでもある筈だ)
咄嗟の事態に落馬しない代わりに、脚を一本でも奪ってしまえば重心を崩す筈だ。そこを狙う。
「くっ!」
一方、槍に備えて踏ん張ったシェラ。足位置は右足を前に、左足を後ろに。前方から勢いのある攻撃を受け止める時に、両足を広げると後ろに倒れやすい。前傾姿勢で両手に力を入れ、同じだけ足を踏ん張る。腰は低くして、シェラの体躯を盾で覆う。
「シェラっ!」
その小さな姿に、ネルレイニアの大きな体と手に持った鋭い槍の対比が、メイに無意味に叫ばせるほど無残だった。
凄まじい音がした。硬いものと同じく硬く細いものがぶつかる音。空気がひび割れたかとさえ思わせる異常な音は、硬質の残響を残しつつ一瞬で小さくなっていく。
遅れて、べき、となにかが折れる音。見ると、骨の槍の先端が割り折れて中空に舞っていた。
「ほほう、硬いわ」
ネルレイニアは平然と体勢を戻して称える余裕を見せたが、シェラはまだ息も吐けない。
数センチ、下がっていた。シェラの靴底が石の床を削って痕跡を刻んでいる。それでも盾は貫かれることなく、シェラは体勢を乱すことなく、全身の筋力と体重で耐えた。
反動のように、全身が汗で濡れている。滴り落ちた頃、ようやく筋肉を痺れさせるほどの衝撃が去り、盾に寄りかかりながら息を吐いた。
「じゃっ!」
その間、二度目のリアンの打ち込み。まったく同じ個所に同じ軌道で。一度めり込んだのだから二度目は更に深く。あわよくば脚を断ち切りたい。
しかし、通らない。いや、確かに二度目故に刃先は一度目よりも沈んだが、それでも尚断つことは出来ない。硬い音が響いて、その音が耳障りだと言わんばかりに、ネルレイニアがリアンを向いた。
「へ、ようやくこっちにも気がついたかい?」
その頃には、やはりリアンは離脱している。体を残せば、相手の体躯を考えれば蠅を払うような手つきでも充分弾き飛ばされることになる。その分だけ打ち込みは体重を乗せきれず軽くなっている筈だが、仕方がない。
致命の一撃どころか、六本のうちの一本を断つのみの作業なのだ。まだ、命を懸ける時ではない。
「心外な言い様だ。こちらはちゃんと、そなたら五人を弁えているつもりだ。久しぶりに迷宮を踏破し、私の前に立った勇敢で賢しいそなたらを、一人ずつ順番に倒そうというのだ。私なりの真剣だと受け取ってもらわねば悲しいな」
「怪物にしちゃ口が巧い。きっちり喋れるみたいだからこっちが一番気になってることに答えてもらおうか。ラウルをどうした」
「食ったとも。当然だろう。捧げられた供物に手をつけぬ道理があるか?」
嘘である。当のラウルはここより遥か頭上の穴の奥で拘束されている。
が、リアンたちにそれを確かめる術はない。予想していたことだが、それをこう簡単に断言されるとさすがに衝撃を隠せない。
(死んだ・・・・・・)
シェラは、顔の汗を手で拭いながら思った。あのラウルが死んだのか。少し前まで、明朗に理屈を舌に乗せて、時折場を弁えないようなことを喋っていたラウルが、もうこの世に居ないのか。
目の奥が熱くなった。危うく体から力が抜けそうになった。
(だが・・・・・・!)
しかし、こういう時に萎えたら終わりである。もう二度と立ち上がれない。哀惜も後悔も今ではない。そんなものは生還すれば幾らでも味わえる。今はただ、ラウルのためにこの怪物を倒さねば。
「・・・・・・そうかい。じゃあ殺さないとな。その腹を捌いてももうラウルは帰らないが、お前を殺して遺物を持ち帰らないと、あいつは浮かばれねえもんな」
「うん・・・・・・?」
リアンの言い様にネルレイニアが首を傾げた時、その視界の外でメイが跳んだ。
ネルレイニアの側面から、脚を蹴って一気に顔の高さまで。
しかし、ネルレイニアの反応は早い。上半身をぐっと回して、先端の折れた槍でメイを突く。
メイは驚いた。まさか視界の外からの奇襲を察知され、されたばかりか反撃まで受けようとは夢にも思っていなかった。
しかし、その後の機転と判断が、この娘の常人ならざる才と能を示していた。
ばっと外套を脱いで目の前に広げ、自分の姿を覆う。ネルレイニアは突くべき目標を見失った。外套の中心を貫いてみたが、既にメイは落下を始めている。頭上を掠めた槍に見向きもせず、落ちながら短剣を投げた。
顔を狙ったが、角度が悪い。槍を持った腕に食い込んだ。これにも毒を塗っているが、やはりまだ量が足りていない。
しかし、注意は逸れた。リアンはその隙にまた側面へ回り込んで、今度は渾身で打ち込んだ。
ばき、と凄まじい音がした。頑丈な骨の脚は、関節から先が落ちた。
「ほう、やるわ。ふむ、ちとバランスが悪いな」
六本の脚で体重を支えていたところの一本が失ったのだから、左右の平衡が不均等になった。ネルレイニアは失った右の真ん中の脚と対になる左の脚に手を構え、
「む」
と、叩き割った。
「な・・・・・・」
呆気に取られたのはリアンである。苦労してようやく叩き割った六本のうちの一本。その成果の見合わなさにも呆れたが、まさかもう一本を気軽に本人が割ってしまうとは。
「よしよし、まだこちらのがいい。武器も出来たわ」
くるくる、と自分の手で圧し折った脚を回した。
「今度は受けられるか?」
脚を逆手に持った。鋭い先端は、槍と同じだった。それを、またもシェラに向けて突いた。
今度は横ではなく斜め。地を叩くようにして、振りかぶった拳が落ちてくる。シェラは雨や陽を除けるように盾をかざさねばならない。
「ぐっ・・・・・・っ!」
高い音はしなかった。硬い音もなかった。代わりに、がす、と空気の抜けるような音。
盾は、見事に貫かれていた。
「シェラ・・・・・・」
メイが太腿の辺りの鞘から新しい短剣を抜こうとして、一瞬止まった。
盾をその長細い形に貫いた骨の脚は、瞬時に身を捻ったシェラの横腹を裂きながら、地面に突き刺さっていた。生きている。シェラの筋力は盾の重さもそれを貫いた衝撃にも耐えた。
「物の方が耐えきれなんだか。まあ、しばし横になっておれ。少し休んだらまた立ち向かうがいい」
すっと、脚から手を離す。そのままもう片方の手でシェラを叩けば、カエルを潰すよりも容易にシェラは肉塊に変わっていただろう。
暑いほどの光を遮ったネルレイニアの影が、シェラの頭上より消えた。
「く、ぐ・・・・・・っ!」
一方、シェラは衝撃と痛みで悶絶している。また呼吸が再開されず、血の溢れるわき腹を抑えた。
致命傷ではない。内臓も、おそらく痛めてはいないだろう。止血さえすれば助かる傷であった。
「さて、次はどちらからだ?」
微笑むネルレイニアを見て、リアンは冷静に分析した。
(ダメだな、こいつは)
味方の戦力で、攻撃力と呼べるのは自分の剣とメイの短剣と毒くらいだ。もしネルレイニアを倒したければ、心臓か頭にリアンの剣を突き立てればいい。生物と同じなら、それで死ぬ筈だ。
だが、果たしてそれが可能かどうか。敵は大きいからおそらく剣を根元まで突き刺さねば心臓には届くまい。そこまで接近出来て、且つ、突き立てる猶予を稼げるかどうか。敵は視界の外からのメイの奇襲に対応するほどの反応である。
不可能だと、リアンは結論をつけた。これ以上戦えば、シェラがそうなったように継続戦闘が不可能な傷を与えられ、終いには全滅するだろう。
「メイ!」
手でメイを呼び、シェラを背後に移動する。
「ここまでだ。爺を連れて撤退しな。シェラ、動けるようになったらその後を追え。いいな?」
「あんたは?」
「迷宮の主人がさ、据え膳に登った贄をそのまま逃がす道理もあるめえ。食い止める役が要るだろう」
「死ぬね」
「ああ、死ぬな。けどしょうがねえよ。俺がラウルを誘ったんだ。しかも死なせないから、とまで気安く言っちまった。そのラウルを死なせた以上、仇を討てないんなら屍を並べるしかしようがあるまいよ」
理屈である。しかしリアンのいつもの明瞭で冷たい理屈から言えば、死人にどんな義理を通しても、それは生きている者の自己満足でしかない。メイが言うと、
「まあそう痛いところを突いてくれるな。男がな、自分の言葉を軽いと言われる以上の辱めはない。俺の言葉を軽くしないためには、その言葉に命や心を懸けるしかねえ。
どのみち、誰かが死に残らなきゃならないんなら、俺が適任ってそれだけのことだ」
「だって、あんた、あんなに・・・・・・」
「まあそうだ。死ぬのは嫌だ。絶対に嫌さ。今でも吐き気がするし、お前らのどっちかに押し付けて逃げられるんなら、是非ともそうしたいね。でもさ、それじゃダメなんだ。ダメなんだよ。命として助かっても、人間として死んでる。
どっちが好いって話じゃなく、どっちが嫌かって話だ。だから、この話は終わりだ。向こうはちゃんと別れまで待ってくれてるみたいだし、振り切って行きな」
生き残れば、敵の強さや生態を伝えられれば、必ず打倒する知恵と手段を編み出す筈だ。
「それが人間の強さだ。改めて挑んで、俺やラウルの仇を討て。そうして世界から神秘を剥ぐんだ。隅々まで人間が踏破するんだ。この世に人間の命と未来を脅かすものを許しちゃならねえ」
ぐっとネルレイニアに向けて剣を構えた。
その時ふと、ネルレイニアが首を傾げた。
「変わった色をしていると思ったら、そうか、そなたは異界の魂か」
「へえ。まだ生きてる肉を越しても、それが見えるのか」
「格別に目がいいわけではないがな。見分けるには骨がある。酔狂なことだ。死のあの感覚を知って尚、生きようと思えるのか」
「てめえも知ってるのか。あの暗く冷たい感触を、自分が外からゆっくり剥がれていく感覚を。それでよく人を殺せるもんだ」
べっと、リアンは唾を吐いた。
「こちらの台詞だな。それでよく、誰かのために死のうなどと思えるものだ。そういう心根を、私はむかし、知っていた、ような・・・・・・」
遠くを見るようなうつろな目は、ラウルを話した時と同じである。
リアンには訝しいが、隙と言えばこれ以上の隙はなかった。
「行け」
小声で背後へ命じる。ついでに懐から紙束を渡す。これまでの迷宮の全てが記してある。
「いや、私は、ここでいい」
よろよろと立ち上がったシェラが、ようやく剣を抜いた。
「おい」
「いや、供をさせてくれ。逃がすために代わりに立つなら私の役だが、この体では果たせない。ならせめて、二人で逝こう」
「三人で行けよ。そこまでお前の性癖に付き合えねえぞ」
「いや、付き合ってもらう。稼げていた数秒を取りこぼすのは、お前の本意ではあるまい」
火急の場に議論は意味がない。また、それを許すゆとりもない。リアンはこれ以上抗弁したところでこの頑固な女の意思を変ずることは出来ないと見て、黙った
そんな様子に興醒めしたように息を吐いたのはネルレイニアであった。
「なんだ、逃げるのか」
つまらん、と手に持った脚を投げ出して、くいと右手の人差し指を動かした。
ごご、となにか重たい物が動く音がした。見ると、奥側の左右の壁が動いていた。中から、獣人や動く骸骨が出てきた。
「死に残るなら生半な試練ではくだるまい。これらを退ければ止めをくれてやろう」
足音だけで、気が遠くなる。二十か三十か、それほどの数の敵が手に武器を持って陣形を作るように囲んだ。
「リアン!」
「・・・・・・まあ、そんなに変わらねえよ。先が判ってるなら誰を相手にしても些末事さ。それより早く行きな。デカいのならいざ知らず、こいつらは追っかけてくるかもしれねえぞ。さすがに抜かれた奴の始末は俺らでも請け負えねえ」
リアンとシェラは入口を背にする形で共に剣を構えた。こうとなれば、五感に触れる者を片っ端から斬り倒していくよりない。
メイは走った。神学者の老人の襟を引っ掴むようにして駆けていった。
「さて、健闘を祈るぞ。無事に阻めるか無事に逃げ遂せるか。まあ然して興味もないが」
ネルレイニアは数歩、退いたようだ。言葉通り、その後はこの敵の群れに任せるようだ。
「しかしいつ見ても、強く賢く勇ましい者が、無残な死骸に成り果てる様は物悲しい。世界は理で組み上がるわけではないことを思い知らせるわ」
「言うじゃねえか。ならその理不尽を自分の手で取り払おうとは思わねえのか」
「怪物になにを言うか。たとえその理不尽に疲れ果てた身でも、最早人でないこの身は世に理不尽を撒く化身よ。それを打ち倒してこそ、人間であろう」
「こりゃまた、反論しようもねえ」
ぐっと、ネルレイニアの身が一瞬沈んだ。と見るや、残像さえも霞むほどにその体が浮き上がり、入ってきた壁の穴へと消えた。
「あんなところで高みの見物か。口でどうこう言っても、やはり怪物には違いない」
会話の内容はうまく理解出来ていないが、シェラが唾を吐くように毒づいた。
「理不尽に疲れ果てた身、か・・・・・・なんのことだ?」
一瞬、ネルレイニアの言動に引っかかるもののあったリアンであるが、そんな考察を許す場面ではない。打ちかかってきた獣人の頭を、シェラが横殴りに斬り倒し、
「悠長すぎる」
と、叱った。
その動いた隙に回り込んだ敵がシェラを襲おうとしたが、気を取り直したリアンに胸を一突きにされて転がった。
「悪いね。ところで、死に臨んでにわかに感慨が起こって、そいつを詩に残したり、なんてのは昔俺の居た世界の英雄がよくやったところなんだが、なにか思うところはあるか?」
「死にそうになってから考えよう。まだ手も足も動く。それまでは働いてみよう」
「いい返事だ。俺も見習おう。生憎死ぬ寸前で弄ばれても介錯は出来かねるぜ」
「すぐ殺したくなるくらいには歯向かってみせるさ」
「気丈だな」
感心するような声を投げたのは、ネルレイニアだった。
「その明瞭さは好みだ。短慮は好かんが、それは表裏一体か。お前が死ぬ時は、私がきちりと殺そう。安心して死力を揮え」
「小細工を考えるなよ、リアン。こうとなったら死に物狂い以外に方はない」
「どうあっても俺に格好をつけさせてはくれんらしいね。つくづくいい女だよ、お前は」
目の前に打ちかかった。ここからは会話など到底出来ないだろう。おそらくは別離の言葉になる筈だったが、勇ましくはあっても物悲しさはなかった。そのことが、リアンの心境を救った。
死を拒むリアンの心が、この期に及んでも萎えなかったのはシェラの勇ましさのおかげであろう。それが一時的な昂奮によるもの、脳内のアドレナリン分泌による高揚に過ぎないことは判っているが、それでも、随分とありがたかった。
(疲れてもこの気持ちを保てればいいが、まあ、今はそれも他人事だな)
とにかくも、五感に触れた者に剣を振った。




