『とある男の追憶 第3話 苦い記憶でさえ、今では甘い』
窓の外から差し込む太陽の光で目が覚める。
目の前に広がるのは無機質で真っ白な天井。
目覚まし時計が鳴るよりも先に目が覚めるだなんて、いつぶりだろうか?
本来の起床時刻まで、あと20分も残っている。
「……二度寝……するか」
大して働かない寝起きの思考力をフル回転させ、僕は欲望の要請に忠実に従い、毛布を被り直す。
『コンコンコンッ!』
それは、音は大きいのに、どうしてか気品を感じるノックだった。
「ニーヒールー!もう朝よ!」
ドアの向こうから優しい声が聞こえてくる。
「……ノナ、僕はもう少し寝ていたいんだ、ふぁぁ………だからあと1時間後にーーー」
目を閉じて欠伸をして、もう一度夢の世界に帰ろうとした、まさにその時。
『ガチャンッ』
無機質な音が、夢の世界への扉に鍵を閉めた。
安全地帯だと思っていた自分の部屋の鍵が、いとも容易く解錠されてしまった現実を受け止め、眠たい目をこすりながら起き上がり、不法侵入者に目を向ける。
「……いつの間に僕の部屋の合鍵を作ったんだ?」
不法侵入者は、我が物顔で部屋を歩き、ベッドのそばにまでやってきた。
「私の能力を忘れたの?私に開けられない鍵はないのよ〜」
上から見下ろしてくるノナの表情は、大人っぽい微笑みで、だが、どこか悪戯好きな子供っぽさも感じさせる、いつも通りの表情だった。
「……僕は寝るぞ。断固として寝るぞ」
毛布の一部を身体とベッドで挟み、もう片方の端を渾身の力で握りしめ、絶対に毛布を剥ぎ取られないように対策を取る。
前回は毛布を剥ぎ取られて寒さに負けた。一度毛布を剥ぎ取られ、外気の寒さに当てられると、突然眠気が消えていくのだから、人の身体の仕組みというのは面白いものだ。
だが、二度は繰り返さない。
「……あらあら。毛布を剥ぎ取られないように対策を取っているつもりかな?ホントに可愛いんだから!」
防御の仕方を変えた僕に対し、ノナも攻撃の仕方を変えてきた。
すなわち……ノナは白く長い髪をたなびかせながら、僕のベッドに飛び乗ってきた。
「はぁっ!?なんのつもりだ!?」
「え〜。ニヒルは二度寝をするんでしょ?なら、私も二度寝をすることにするよ。今ここで」
突然の事で動転して、思わず手放してしまった僕の毛布の端を掴み、ノナは僕のベッドに入ってくる。
花のような香りが脳を麻痺させる。ノナ自身もつい先程まで寝ていたようで、その時の温もりを微かに残っているパジャマが、身体に押し当てられる。
お日様のような暖かさと、綿の肌触り……そして、その向こうにある柔らかいーーー
「ちょっ!!?ち、痴女なのか!?」
「ハハハ。そういうのは一人前の男になってから言うべきじゃないのかな?
……それに、いやらしいのは私というよりも……コホン。君の息子さんは……随分と立派なのね」
うるさい。生理的反応だ。
「……分かったよ。起きるから……頼むからベッドから出てくれ。耐えられそうに無い」
「…………意気地なしだなぁ」
顔を真っ赤にしているであろう僕とは正反対に、ノナの顔は冷静沈着そのものだ。恥じらいや動揺を読み取ることは出来ない。きっと彼女からしてみれば、僕は手のかかる弟といった認識なのだろう。
……こっちがどんな感情を抱いているかなんて知りもせず……いや、むしろ知った上で、面白半分にからかっているのだ。
(全く、ノナには敵わないな)
そんな2人の劇場に乱入者が現れる。
『ゴンゴンゴン』
紅いパジャマに身を包んだ隣室の少年が、騒音に耐えかねてベッドから起き上がってきたらしく、睡眠を妨害された腹立たしさをありありと滲ませながら荒々しく扉をノックし、僕らが返事を返す前にズカズカと入ってくる。
「朝からバタバタとうるせぇぞ?俺の二度寝を邪魔しやがっーーーって、あぁ、そういう感じ?」
普段からその脳みそを使いやがれ、と思うくらいにこういう時だけ変な想像力を働かせた少年が、申し訳なさそうな目で僕らを見る。
固まっている僕とノナをよそに、オクトは数秒前に思いっきり開いたドアを、ゆっくりと閉めつつあった。ドアが閉まり切る前に誤解を解かなければ、今日の朝ごはんの時にデカやペンタらに何を言われるか……想像しただけでも恐ろしい。
「ちょっと待て、オクト、これは誤解でーーー」
誤解を解こうと声を上げるが、ノナは声を意図的に震わせながら、年相応の少女らしくか細い声を上げる
「……オクト、ニヒルを起こしに来たら……ニヒルがっ!……」
それはさながら暴漢に襲われた乙女のような言い方だった。
「誤解を生む言い方をしないでくれ!嘘泣きもやめてくれ!君が泣いているのなんて見た事ないぞ!?『ニヒルがっ』の続きを誤魔化さないで言ってくれ!」
必死の弁明を受けてなお、赤髪の友人は頭をかき、天井を見上げてから、まるで哀れな獣を見下ろすような目で、
「……ニヒル、あんまこういうこと言いたくねぇけどな」
「……なんだよ、オクト」
「ちゃんと同意をとってからにしろよ?」
「……」
判決は下ったようだ。どうやら僕は有罪らしい。
なるほど。ノナはいつだって正義だ。
彼女の振る舞いの全てを、この世界が正当化する。
これはいつものことだ。
……判決に納得がいかない。上告することにしよう。
僕はおもむろに立ち上がり、赤髪赤眼の友人目掛けて直進し、拳を振りかぶる。
拳が彼の顔のあった場所に辿り着く頃には、彼の身体は紅い粒子の集合体になっており、僕の拳はその実体を捉えられず空振りに終わる。
「オイオイ!?藪から棒になんだよ!?」
「藪蛇って知ってるか?お前は突いちゃいけないものを突いたんだ!」
「……ニヒルだってっ!……」
「ノナ!僕が一体何を突いたって言うんだ!?」
「……ニヒル、お前、デリカシーねぇな」
「ッ〜〜!!!!」
お前だけには言われたくない。
その言葉を飲み込むことができた僕は、きっと大人なのだろう。
……そして、嘘泣きをしながら、僕の心を揺さぶる微笑みを浮かべているノナは、もっと大人なのだろう。
オクト、お前はガキだ。マセガキだ。
ーーーーーーーーーーー
しぶしぶと二度寝を諦め、パジャマから着替えて、毎朝の健康診断を終え、食事の席につく。
子供達は皆手を合わせて食材への感謝を述べ、談笑しながら食事をとる。
いつもならば、なんてことはない食事の時間。
ただ、今日ばかりは平和に食事をとることは出来なそうだった。
メニューはトーストとコーンスープ。
……そして、僕もノナもオクトも大っ嫌いなピーマン付きのサラダ。
皿の上にピーマンが乗っているのを見た時に、ノナがほんの少し眉を顰める。
いつも微笑んでいる彼女がここまで分かりやすく嫌悪感を表情に出すのは珍しい。
彼女にも年相応に苦手なものがあるということなのだろう。
向かい側の席に座っているノナの、そんな珍しい嫌悪の表情を見て、どういうわけかその表情にも惹かれる自分に若干の嫌悪感を覚える。
(嫌そうな顔も、可愛いな……)
ぼんやりとそんなことを考えながら、牛乳を飲みーーー、
「ねぇねぇ!ニヒル先輩!ノナ先輩とヤったの!?」
「ブフッ!!!」
突然、■■色の髪と眼を持った女子が、瞳をキラキラと輝かせながら長机の右斜め前の席から話しかけてくる。
飲みかけていた牛乳を吹きかけるが、なんとか堪えられたのは奇跡だろう。
『ブフーッ』
左斜め前の席から左の席に向かって牛乳の矢が放たれ、僕の左に座っていたオクトの顔が牛乳に呑まれる。
やはり、僕は堪えられたが、デカは堪えきれなかったようだ。
「ッ!?おいおい!!デカ!牛乳吹くんならニヒルの方向いて吹けよぉ!俺が巻き込まれんのは理不尽だろうがッ!?」
僕は左側の席に座るオクトの方を向いて座り直し、厚顔無恥にも程がある大根役者に向かって呪詛を込めた声で、
「何が理不尽だっ!主犯はお前だろうがっ!どうせお前が漏らしたんだろ!オクト!」
「漏らした、ってことはやっぱりホント!?」
今の僕から見て右斜め後ろの方から聞こえてくるペンタの声は、先ほどよりもはるかに明るい声だった。
「ケホッケホッ!ちょっと!?聞いてないのだけれど!?お姉様!?今の話!本当なの!?」
右斜め前からのデカの視線が痛い。つくづく思うが、デカのシスコン度合いは年々酷くなっている気がする。今だって、姉を襲った獣を軽蔑するような視線を僕に向けている。
……デカ、僕は無実なんだ。そんな目を向けないでくれ。
……おいオクト、笑うんじゃない!殴るぞ!
長机を挟んで向かい側の席、今の僕から見て右側の方から透き通るような声が飛んでくる。
「デカ。私がニヒルと寝ていたら嫌?」
ノナ!9歳の子供らに変なことを吹き込むんじゃない!
「イヤ!加えるなら、お姉様があの男を科名じゃなくて名前で呼ぶのもイヤ!」
「あぁっ!!?言われてみたら、確かに!!この前までケイアスっていうふうに科名で呼んでたのに!!ねぇねぇ!これって2人の関係が進歩したっていうこと!?ねぇ!そういうこと!?」
「あぁ。ペンタの言う通りだ。ノナは今日、ニヒルのベッドで寝ていたんだぜ!?」
「キャーー!!!」
ペンタが顔を真っ赤にし、デカが顔を真っ青にする。
「ペンタ!恋愛脳も大概にしてくれ!
オクト!嘘を吹き込むな!
デカはナイフを下ろせ!話せばわかる!」
「ハハハ、修羅場だねぇ〜」
「ノナは優雅に牛乳なんか飲んでないで誤解を解く努力をしてくれ!」
「ねぇ!ニヒル先輩!ノナ先輩のこと『優雅』って言った!?今言ったよね!?これって恋をしているってこと!?」
「ああぁぁぉぁもうっ!食事の時くらい静かにしてくれっ!!!」
「アレ?ニヒル先輩、全然食べてないじゃん!」
「食べる暇がないんだッ!ペンタ!君のせいだぞ!」
「ご馳走様でした!」
いつの間にかノナの皿の上は空っぽになっており、まるで勝ち逃げするかのように席を立つ。
「ノナっ!?爆弾を残して君だけ逃げるのか!?」
咎める僕の声を聞いて、ノナはゆっくりと振り返る。
そこに浮かぶのは、いつも通りの微笑み……いや、心なしか、いつもよりも輝いて見える。
……そんなに僕が慌てふためくのが面白いのか?
「ハハハ。残したのは爆弾だけじゃないよ〜〜」
「はぁ?………ん?」
……おかしい。
……ピーマン、こんなにあったっけか?
記憶と現実が一致しない。
次の瞬間、点と点が線でつながる。
「んっ!?まさかっ!ノナっ!僕の皿にピーマンをッ!?」
「お野菜を食べないと身体に悪いからみんなちゃんと食べるのよ〜〜」
「「「はーーい!!!」」」
一体どの口がそんなセリフを吐いているのだろうか?
ノナは僕から見て右の方へと歩きながら、周囲の子供たちに優しく注意をする。
ノナは食堂の出口でもう一度振り返り、透き通るような白い瞳が僕を見つめ返しーーー、
「ふふふっ」
思わず見惚れる微笑みを向けてくる。
「ッ!」
胸が痛い。
追いかけたいが、食べ終えていないのに席から離れることは禁止されているのでノナを追いかけることはできない。
「……一体いつの間にッ……」
「ん〜?ニヒル先輩がオクト先輩のほう向いた時に移してたよ〜」
「見てたなら、なんで教えてくれなかったんだ!?ペンタ!」
「ハハハ!だってその方が面白いでしょ?」
「……どうして僕の周りの女子はみんなしてこうも…………ん?」
おかしい。
またピーマンの量が増えている。
最初の3倍になっている。
左を見る。
オクトが手を合わせて笑っている。
「ごちそーさん」
「オクトッ!!お前ッ!!!」
「カカカ!みんな残さず食うんだぞ〜」
「「「はーーい!」」」
オクトはすぐさま立ち上がり、僕の攻撃の射程圏内から逃れる。
「あぁ、もうっ……あの野郎……」
「ねぇねぇ、ニヒル先輩?」
「……なんだよ。ペンタ」
「この際、3倍も4倍も変わらないんじゃない?」
「……………いいさ。貰ってあげるよ」
「わーい!デカは押し付けないの?」
「私はもう食べ終えたわ。ご馳走さま」
「あ!ちょっと〜!ご馳走様でした〜!」
ペンタは、すぐさまピーマンを僕の皿に移すと、去り行くデカを追いかけていく。
「…………あぁ、ピーマンが……こんなに……」
黒髪黒眼の少年がため息をつくのと、
それを遠くから見ていた白髪白眼の少女が嬉しそうに笑うのは、
同時だった。
 




