『食物連鎖は恐ろしい』
『キシッ!!!』
空気を揺らす様な低く、大きな叫び声が響き、心臓を掴まれる様な不安を覚える。
(ッ!?コレ、ホントに命の危機かも!?)
こんな時に、能力が使えればーーー、
自分の心象世界内を探索することにより、自分の本体を危険に晒す事なく、声の主を観察することができただろうに。
(悔やんだところで、能力を使えないという結果は変わらないね。残念だけど、なんとか足掻くことにしよう。)
十字路の様になっている交差点の分岐点近くにて、息を潜めて洞窟の壁の僅かな窪みに身体を隠していると、徐々に足音が大きくなっていく。
『ドス、ドス、ドス』
(音から察するに、クロノス教授の世界にいたクマと同じくらいの大きさかな?アレは、クマというにはデカすぎたから別の生物種なのかもしれないけど。)
自分の隠れている壁のある通路から90度曲がった方向の通路の床の水溜りに反射して、『化け物』の身体が徐々に明らかになる。
「ッ!???」
危うく、声が漏れるところだった。
化け物は、8本脚だった。
楕円型の胴体に8本の脚と頭部がひとつ生えており、足の先端は鋭く尖っていて、その化け物が前に進むたびに、地面に穴を穿つ。
『脚の太い蜘蛛』という表現が適切だろう。そんな見た目だ。しかし、見知った蜘蛛とは異なる点が2つ。
まず『大きい』
今まで通ってきた通路の内、最も横幅の狭い通路であれば、その巨体で通行止め出来る位には大きい。しかし、狭い通路に引っ掛かるほどの大きさではない。
つまり、『程よい体格』という具合だ。
そしてもう一点が『身体の材質』
見たところ、化け物の身体は『石』で出来ていた。
僅かに黒みを帯びた石で出来ている脚は、周囲の洞窟の壁の岩よりも遥かに丈夫な様で、いとも容易く壁や床に穴を穿つ。
(『岩蜘蛛』と名付けることにしよう。
それにしても、こわいなぁ!何さ!?あの尖った脚先!!アレで刺されたら間違いなく死ぬ!
・・・『脳』と『心臓』と『魔臓』、、、『魔臓』は現時点では役立たずだから無視するとして、『脳』と『心臓』は絶対に守らなきゃ!
・・・観察するんだ。何か弱点は無いのか?)
『岩蜘蛛』が徐々にこちらの方に近付いてくる。
恐らく転んだ時の音を聞いて、この辺りに獲物がいると考えたのだろう。
走って逃げるか、息を潜めてやり過ごすか。
この辺りを縄張りとしているであろう化け物に、足の速さで勝つのは難しいだろうと考え、僕は息を止める。
『ドスドスドス』
心臓の音がうるさい。
『ドスドスドスドス』
心臓を止めたいと思ったのは、人生初めての事だった。
(はっ!?待てよ!
光るコケぐらいしか光源がない暗闇の中で生きてきたんだよね!?
なら、きっと『視力に頼らない』個体が生き残ったはず!)
セントは、昔読んだ生物の図鑑を思い出していた。
『ドスドスドスドス』
動物種の名前は思い出せないが、暗い洞窟で一生を過ごす『始まりの世界』に生息する動物は、目が見えない代わりに聴覚が過剰に発達するのだとか。
(まさかとは思うけど、心臓の音でバレたりしないよね!?)
『ドスドスドス・・・』
僕は息を止めながら、十字路の交差点の方を見る。
『岩蜘蛛』が無遠慮に交差点に侵入しーーーー、
『ガチャ』
石同士が擦れ合う、耳障りな音がした。
『岩蜘蛛』の頭は、真っ直ぐセントの方に向いていた。
(見過ごせ!見過ごせ!)
セントの祈りも虚しく、
『ドドドドドドドドッ!』
馬の如き猛スピードで、一直線にセントの方に向かってくる。
(どうしてバレた!?)
視界の中で『岩蜘蛛』の占める面積が凄まじい勢いで増えていく。
セントは、考えるよりも先に、走り出していた。
(あの『岩蜘蛛』の走るスピードだと、僕が全力で走ってようやく同じくらいだ!向こうの体力が少ない事を祈るしかないけど、過酷な世界で生き続けている化け物が、そんな弱点を残しているとは思えない!
なんとか、工夫して逃げないと!)
セントは、下向きの通路を飛び越え、コケのせいでバランスを崩しかけながらも逃げ続け、右側に比較的狭い通路を見つけ、本能的に曲がりーーー、
(ッ!!!ハァァァッ!???)
思わず心の中で不満を叫んでしまう。
100メートルほど先まで、『脇道』が無いのだ。
思わず20メートル程進んでしまったところで気付いた為、急いで来た道を戻ろうとするがーーー、先程セントが曲がった曲がり角から、『岩蜘蛛』がこちらに向かってくるところだった。
(クソッ!遅すぎた!どうする!?
・・・ん?『岩蜘蛛』の様子がおかしいぞ?)
『ドス、ドス、ドス』
先程まで、尖った脚を壁や天井や床に刺し続けながら、高速で追いかけて続けていた『岩蜘蛛』が、今度は体勢を変え、ゆっくりと進んで来ていた。
楕円形の身体を器用に傾ける事で、来た道を殆ど完全に封鎖しながら、
ゆっくりと、ゆっくりと、じわりじわりと近付いてくる。
その歩みの『のろまさ』に薄気味悪さを感じながらも、セントは走り続ける事にした。
(?どうしたんだ!?体力が尽きたのか!?なら好都合!この隙に距離を稼ごう!)
『ザッザッザッ!』
「ッ!」
セントは、突如走るのをやめ、膝から地面に立ち尽くす。
「ーーー、そんな、、、、、。」
『この道は先へ続くと思っていた』
『だが、それは間違いだった。』
目の前に広がるのは、上が下に貫くように広がる直径50メートル程の円柱状の空間。
妖しげに光るコケの壁は、どこまでも下に続いていた。
『奈落』、そう例えるのがしっくりと来る。
底の見えない大穴。飛び込んだならば、死は免れない。
後ろを向く。
『ドス、ドス、ドス』
あと15メートル。
セントは、ようやく理解した。
恐らくは、自分ほどの知性を持っていないだろうと心の底で見下していた『怪物』は、過酷な自然の中で生き残るのに充分な知性を持っていたことを。
『先が奈落に繋がるこの道にヒトが入った時点で、追い詰めることに成功したということを』
『岩蜘蛛』の顔から、表情を読み解くことは出来ない。
だからこそ、恐怖を感じる。
『僕が・・・死ぬ?』
『岩蜘蛛』は、歩みの速度を変えない。
『まるで、蝶が蜘蛛に喰われるように?』
『ドス、ドス、ドス』
あと12メートル。
『逃げ道は、、、』
憎たらしい事に、『岩蜘蛛』の『楕円型』の胴体と洞窟の壁の間には、殆ど隙間が無い。
・・・いや、大半の洞窟で、道を塞ぐ事のできる『楕円型』の『岩蜘蛛』だけが生き残ったのだろう。
円盤型や、直方体型なら、洞窟の形によっては入ることができず、追い詰められない。
その反面、楕円型ならば、身体の傾け具合によって、様々な広さの穴を塞ぐ事が出来る。
セントは、自然の生存選択の合理性に嘆息し、恐怖し、絶望した。
『ドス、ドス、ドス』
『なんとか交渉ーーーー、
・・・ああ、僕はなんて愚かなんだろうか。
つい先程まで、知性が無いだろうと見下していた存在に、『交渉の余地』を求めているだなんて』
あと10メートル。
目の前の怪物は、きっと僕の事を『ヒト』だなんて、いちいち考えていないだろう。
ただただ、淡々と、エサを食べようとしているだけだ。
『僕がエサ?』
『岩蜘蛛』の恐ろしい口が、『ガチガチ』と鳴る。
ヨダレのような物を垂らしながら、ゆっくりと近付いて来る。
あと9メートル。
『コレは、悪い夢だ。』
セントは、無意識に、
『自分の心象世界』に逃げ込もうとしていた。
『ああ、能力も使えないんだった。』
『岩蜘蛛』は、近付いて来る。
無機質に、残酷に、無感情に。
(きっと、『楽に殺してやる』だなんて、考えていないだろう。
僕はどんな殺され方をするのだろう?
・・・四肢を切られる?腹を切られる?
・・・おじさんの死体みたいに?)
セントは、先ほど聞いた悍ましい音を思い出し、自分の身体があの恐ろしい虫に喰われる状況を想像し、抑えきれない恐怖に襲われる。
歯がガチガチと鳴る。
『岩蜘蛛』は止まらない。
あと8メートル程。
「・・・・・・ハハ、ハハハッ!!」
笑うことしか出来なかった。
(真正面から、『岩蜘蛛』と壁の隙間を潜り抜けて逃げるのは不可能。
・・・なら、、、しょうがないね。)
セントは『岩蜘蛛』に向かって、精一杯意地悪な笑顔を浮かべて、言い放った。
「腹が減っているのかい?
・・・いい事を教えてあげるよ。
人間は、意地悪なんだよ。
虫風情が思っているよりも、ずっとね」
いつぞや、世界一性格の悪い天使が言ったように、悪意の詰まった悪辣なセリフを吐き捨てる。
「このまま喰われるくらいなら、、、」
「 『もう少しの間、空腹に苦しめ!』 」
セントは精一杯の啖呵を切りながら、底の見えない深淵に飛び込んだ。
(あの状態だったら、生存確率は0%だった。それに比べれば、この穴の底は希望に満ち溢れているだろうさ。もしかしたら、湖みたいになっているかもしれない。
・・・この僅かな可能性に賭けよう。)
身体のバランスが取れない。
空に投げられたハンマーのように、クルクルクル、と回り続ける。
景色は殆ど変わらないが、目に映る壁の明るさが、チカチカチカ、と目まぐるしく変わる事から考えて、かなりの速さで回転しているようだ。
脳が揺れる。
人生2回目の高所自由落下。
ただし、今回は命の保証は無い。
(あぁ、能力が使えたらなぁ。
・・・使えても意味ないか。
シスター、神父様、村のみんな、アレス、アイシア、ウリエラにオーラにソニアに、先生方、、、そして、、、セレス。
もし生き残ることが出来たら、、、、、、
ああ、どうして、僕はセレスに告白しなかったんだろう!やり残したことが沢山ある!こんなところで死にたく無い!!!)
ようやく自分の心の底に芽吹いていた恋心が湧き上がって来る。
藁にもすがる願い事を、風切り音が無惨に切り裂く。
(どうして明日があるって思ってたんだろう?そんな保証、、、何処にも無いじゃ無いか!!!!!!!!!
あぁ、今までの人生を考えれば考えるほど、悔いしか残らない!
死ぬ瞬間っていうのはッ!!!
もっと満足感のある物じゃ無いのか!?)
一体この世の中で、どれだけの生物種が後悔なく死ぬことが出来るというのだろうか?
自然の世界にあるのは『不本意な死』のみ。
普通の生き物が死ぬときは、人生を振り返ったりすることなど無い。
明日の事をぼんやりと考えながら、あるいは、未来の事さえ考えることなく、今を生きることに全力でーーー、
ーーーそして死ぬ時は『一瞬』で終わる。永劫に続くと思っていた日常が、突如終わりを迎える。
『死』を客観視し、死ぬ時期を自分の都合で決められるのは、一部の傲慢な生き物だけだ。
セントは、諦めながら、死の瞬間を待った。
『身体が、とんでもない力で引っ張られた、天井に向かって吹っ飛ばされるかと思った。』
『天井に向かって投げ出されるかと思いきや、すぐに地面に向かって引っ張られる』
『上下に、高速で、小刻みに揺さぶられる、身体の中身が外に飛び出そうだった』
『やがて、揺れは収まる』
「・・・おぇっ!・・・もしかして、僕、生き残った?」
閉じた目を開きたくなかった。
もしかしたら、自分は既に死んだのかもしれない。自分が死んだことに気付いていないのかもしれない。
目を開けたら、不都合な事実が明るみになってしまう気がしたのだ。
『足が残っているか、手で触って確認しようとした』
『・・・手が動かない』
『足を動かそうとした』
『・・・足も動かない』
『精一杯、息を吸おうとした』
『吸えた、普通に』
『目を開けた』
「・・・成る程ね。そういうことだったんだね。
これがもしも『物語』とかなら、
『語り部』は、きっと、こんな感じで語るんだろうなぁ。」
《 『良い知らせと悪い知らせがある。
まず良い知らせ、だね。
君は、100メートルほどの落下を、なんとか生き残りました!
では、悪い知らせの番です。
状況は、全く好転していない!!!』 》
セントは、深淵へ続く垂直の大穴の中間部で、ユラユラと揺れていた。
自分の腕ほどの太さで、強力な粘度を持つ糸。
それが織り成す幾何学模様の『ナワバリ』
セントは、『蜘蛛の巣』に引っ掛かったのだ。
全く、自然の知恵には恐れ入る。
『岩蜘蛛』が、焦らなかった理由は、エサが大穴に飛び込むことなどないだろう、という『慢心』などではなく、、、
例えセントが死ぬ覚悟を持って飛び込んだとしても、その先にはエサを捕らえる『巣』が仕掛けられているという『万全の準備』の存在にあったという訳だ。
『岩蜘蛛』がナワバリとするこの一帯に入り込んだ時点で、『蜘蛛の巣』に至るのは必然だったのだろう。
(何もかも、お見通しってわけか。)
薄暗い天井の方から、壁を伝いながら、巨大な『岩蜘蛛』がゆっくりと降りて来る所だった。
セントは迫り来る死を眺めながら、生き延びるために思考を駆り立てる。
(諦めるな、僕!考えろ!考えるんだ!
仮説を立てろ!
・・・もしかしたら、こんな暗所で常日頃から生活しているんだから、あの蜘蛛は視力じゃなくて、聴力に頼って索敵しているんじゃないか!?今までのところ、あの蜘蛛にしろ、他の動物にしろ、『叫び声』をあげたことはなかった!!
コレは心に引っ掛かる!
今まですれ違ったであろうこの世界のどの野生の生物も『率先して音を発しない』だなんて、おかしい!求愛行動の一環として泣き声を出す生物種が、1匹も見当たらないのには、何か理由があるはず!!
『唯一の例外』は、あの『岩蜘蛛』!
あの『岩蜘蛛』は、僕を追いかけている間、足音を隠そうとさえしなかった!
コレってつまり、『岩蜘蛛』は、『音を出しても構わないと思っている』ということだよね!?ってことは、もしかしたら『岩蜘蛛』はこの辺り一体の生態系の頂点に立っているのかもしれない!
そうすれば『岩蜘蛛』以外が音を出さない事実に納得がいく!
つまり、動物達が音を出さない理由は、例えば、
『音を出したら『岩蜘蛛』に見つかるから』とかなんじゃないのか!?
なら、逆に『大きな音』には慣れていないんじゃないか?
この仮説が正しいかはわからないけど、試してみる価値はある!このまま無抵抗で死ぬよりはマシだ!)
セントは視力を尽くして叫ぶ。
「 誰でも良いからぁ、
助けてぇ!!!!!!! 」
精一杯のヘルプコールが大穴中に響き渡る。
その大声が響いた途端、岩蜘蛛はブルブルと震え出し、ゆっくりと降りてきたのを引き返して、大急ぎで天井の方へ戻って行く。
「アレ?もしかして、成功した?」
とりあえず、九死に一生、、、
いや、九十九死に一生を得た、と安堵しかけたその瞬間、、、、
『世界が揺れた』
引っ掛かっている背中側、すなわち大穴の底の方から、明らかに桁違いの振動音が聞こえて来る。
『ゴガン、ゴガン、ゴガン』
まるで、壁に大きな杭を撃ち込み続けるような耐え難い騒音が聞こえて来る。
そして、その騒音がゆっくりと、着実に近付いて来る。
セントは、ようやく悟る。
『岩蜘蛛』が我が物顔で足音を立てていたのは、先ほどの細い通路の中でのみだった。
この大穴、、、いや、重力の方向が変われば『太すぎる通路』になるのだろうか?とにかく、この『大通り』では、腹から糸を吐きながら『静かに』降りてきていた。
・・・『どうして?』
まるで、『何か』を警戒しているようなーーーー、
『ゴガン、ゴガン、ゴガン』
傲慢不遜な足音が、明瞭に答えを告げていた。
『岩蜘蛛』が逃げ回るような『バケモノ』が、この大通りに生息している、これが答えだ。
かろうじて僅かに動く頭をを、自分の背中側、すなわち穴の底へ向けてみる。
底の方から威風堂々と登ってきているのは、お伽噺の挿絵でしか見た事のない『龍種』の様な生き物だった。
毒々しい黄色の鱗がコケの光を反射し、ギラギラと妖しく光る。
この狭い通路では飛ぶ必要が無いからか、『ドラゴン』の象徴的な部位でもある『翼』は付いておらず、灰色の鋭い爪が付いた5本指の手が、壁に突き刺さる。
不揃いな20本以上の大きな牙をガチガチと鳴らしながら、バケモノは迫って来る。
全長はーーー、15メートル位だろうか。
もはや、巨人の国に迷い込んだ小人の気分だった。
『カタカタカタカタ』
この世界中で小石が転がり始めた。
『ゴゴゴ』
『重力の向きが変わり始める』
『ガタンッ』
今までは、『底の見えない大穴』だったものが、半径50メートル程の『大洞窟』に変わった。
とはいえ、既に蜘蛛の巣に固定されたセントにとっては、殆ど何も変わらない。
ーーー強いて言えば、歩きやすくなったようで、『ドラゴンもどき』の足音の鳴る間隔が短くなったことくらいだろうか。
セントに出来ることは、もはやヤケクソになりながら、大声で叫び、助けを求める事だけだった。
「誰か!!助けて下さいッ!!!」
助けが来る可能性なんて限りなくゼロに近いことは承知の上で、セントは叫び続ける。
「誰かーーー、」
再び叫ぼうとした時だった。
「アレ〜?人の声がする?」
何処かから、イマイチ危機感に欠ける声が聞こえた。
「ッ!?」
まさか本当に人からの返事が返って来るとは思ってもいなかったため、セントは驚いてしまう。
「どなたか存じ上げませんが、助けて下さい!!」
「え〜〜〜、人助けは命令されてないんだけどな〜。」
そう言いながら、『大通り』の側面の小さな洞窟から、人が歩いて出てきた。
出てきた人物を見て、セントの脳内に疑問符が浮かぶ。
何もかもが奇妙だった。
まず、服装。
幾つもの器具が取り付けられた、見た事のない服だった。
見る人が見れば『パワードスーツのようだ』と言うであろう服を着ながら、出てきた人物は、
『8歳程の子供』のような見た目だった。
僅かに赤みを帯びた黒髪と、同じく僅かに赤みを帯びた黒眼を持った子供だった。
セントは、出てきた人物が自分よりも弱そうなのを見て僅かにガッカリしながらも、叫ぶ。
「頼むよ!お礼は出来る限りするから!糸を切る物か何かを貸してくれないか!?」
子供にもすがる思いで、頼みこむ。
「でも、命令されてないし、、、。」
子供は、何やら迷っているようだった。
「君の上司がどんな人なのか知らないけど、間違いなく僕を助けた方が喜ばれるよ!!!」
セントは咄嗟の判断で出まかせを言った。
「ホント〜?」
「ホント!!命を賭けてもいい!ホントのホント!」
(このままだと、どうせ死んじゃうし、命を賭けても状況は変わらないし)
「そんなに言うなら、ホントなんだろうね〜。わかったよ」
スタスタスタ、子供はこちらの方に歩いてきてーーー、
巣の隙間をくぐり抜けて、セントの後方ーー、つまり『ドラゴンもどき』の闊歩している方へ向かって進む。
「ちょっと!?助けてよ!?」
「え?どういうこと?」
糸に捕らわれた身体をくねらせ、頭を動かして後ろの方を向くと、子供は首を傾げていた。
『何を言っているのかわからない』と言った様子だ。
「いやいやいや!助けてくれる流れじゃないの!?」
「流れって何??」
「要は、僕を助けてくれるんじゃないの?ってこと!!」
「だから助けようとしてるじゃん。どういうこと?」
「いや、だから、この糸を切ってよ!」
「あとでで良くない?」
「よくない!あのバケモノが来たら殺されちゃうよ!」
子供はさらに首を傾げ、若干苛立っている様子で、大声で言った。
「だ〜か〜ら〜!糸を切るのはアレを倒した後でいいでしょ〜!!?」
耳を疑う。スタスタスタ、と歩く子供は、まるで自分が負ける訳がないと心の底から思っているようだ。
その立ち振る舞いは、セントにある人物のことを想起させた。
威風堂々たる『世界最強の天使』を。
自身の力への自負による、絶対強者たる余裕。
その余裕は、まるでリグドシア王子のようでもあった。
その子供はゆっくりと黄色い『ドラゴンもどき』に近付き、
『ドラゴンもどき』もヨダレを垂らしながら子供に近付き、
『ドラゴンもどき』が、逃げる気のない子供に対し、目に見える速度で腕を振り上げ、すぐさま振り下げる。
遠くから見ている分には、目で追うことができるが、あの巨体の目の前に立っていたならば、凄まじい速度に見えるはずだ。
『バシュッ!』
『ドラゴンもどき』の大きな腕が、子供の身体に凄まじい勢いで叩きつけられ、子供の手前で止まる。
(え?)
セントは目の前の景色を疑った。
『子供は片手でドラゴンもどきの腕を止めていた』
そしてーーー、
『ドシュッ』
子供は、自分の腕を、ドラゴンもどきの手のひらに突き刺した。
『バチュッ』
湿り気を帯びた、おぞましい音が響いた。
ドラゴンもどきの腕は、付け根から『引っこ抜かれて』いた。
『切られていた』のではない。
肩の方に痛ましく残り続ける攻撃の痕跡は、
ドラゴンもどきの強靭な筋繊維を横向きに切り裂いたような断面ではなかった。
まるで『力任せ』に引き抜いたように、千切れた血管や筋繊維が、不揃いに震えている。
戦闘の経験や、生物の筋肉に関する知見が浅いセントであっても、その異常さは理解できた。
糸状のものを張力で引き千切るのに必要な力は、側面から刃物で切断するのに必要な力とは比べ物にならないほど大きい。
子供は持ち上げていたドラゴンもどきの腕だった肉を乱暴に壁に放り投げ、、、それにより大地が少し揺れた。
ドラゴンもどきは、本能的な恐怖を感じたのか、全力で回れ右をして、脱走し始める。
『アハハッ!』
子供の無邪気で、残酷な笑い声が響いた。
子供からの嘲笑をよそに、ドラゴンもどきは逃げ続け、戻って来ることはなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
子供は、床に付けられた蜘蛛の巣の糸を引っ張る。
「え?」
ゆっくりと、糸を引っ張り続ける。
セントの身体は、蜘蛛の巣と共に、ゆっくりと地面に向かって引っ張られる。
あの子供は、下ろしてくれようとしているのかも知れないが、頭上、つまり天井に付けられた蜘蛛の巣の糸が『ブチブチッ』と恐ろしい音を立て始めた事で、セントは我に帰る。
「ちょっーーー」
ちょっと待って、と言おうとしたところで、
『ブチッ!』
とうとう、完全に糸が、天井から外れる音が聞こえた。
「ッ!?うわっ!!」
セントは、地面に向かって自由落下の速度でーーー、いや、蜘蛛の糸で引っ張られているので、もっと速く、地面に向かって引き寄せられーーー。
『ボフン』
地面に集まっていた蜘蛛の糸の束の上に落ちた。
その衝撃で、セントの意識は闇に沈むのだった。
ーーーーーーーーーーーーーー
『パチパチパチパチ』
火花が散り、木が割れる音が聞こえる。
(アレ?僕は確かーーー、蜘蛛の巣から落とされてーーー、)
目を開くが、視界がぼやけている。
数秒待つと、ようやくピントが合いはじめた。
どうやら僕は地面に寝転がっていたようで、上半身を起こすと、足元の方で焚き火が燃えていた。
焚き火の向かい側には、先程ドラゴンもどきを蹂躙した子供が、血塗れの身体をなんとも思っていない様子で、あぐらをかいて座っていた。
『パチパチッ』
焚き火の音が、巨大なトンネル状の空間に広がる。
これだけの物置を立てていながら、野生の動物が襲ってこないということは、それだけこの子供の『食物連鎖』のピラミッドにおける身分が高いということなのだろう。
ようやく思考が回り始める。
「・・・助けてくれたんだよね?」
状況を鑑みるに、それ以外にこの状況を説明する事は難しい。
「うん!そうだよ!」
ドラゴンの返り血が乾き始め、髪や目の色ばかりでなく、肌の色までも深く暗い赤色に染まった子供が、明るく返事をする。
目の前で無邪気な返事をする子供が、先程の出来事を引き起こしたとは、到底考えられない。
・・・いや、記憶はその事実を認めているのだ。先程、ドラゴンもどきの腕を力任せに引き千切ったのは、間違いなく目の前の子供なのだ。
しかし、感情的には、、、常識的には、とても信じられる事実では無かった。
「・・・ねぇ、恩人にこんなこと言うのもアレなんだけどさ、こんな所に寝っ転がっていたら、重力の向きが変わった時にどうするつもりだったの?」
少し責める口調になってしまった気がする。
この大洞窟で、もしも重力の向きが変わったら・・・。
筒が転がるように回転する分には、ダメージは小さいかもしれない。ゴロゴロと転がるだけだ。
だが、もしも筒が『立てられる』ような方向になれば、現在の大洞窟は、途端に奈落に続く大穴のようになるわけであり、その場合は、数百メートルを壁に沿って落下することになる。・・・想像するだけでも震えてしまう。
「・・・考えもしなかったなぁ!お兄さん、頭良いね!」
子供は、気にしていない様子で、明るく笑う。
「・・・・・・。
と、とりあえず!側面の細い穴に移動して、話はそれからにしよう。構わない?」
「うん!いいよ!」
ーーーーーーーーーーーーーーー
ようやく、回転しても落下しにくい、先の少し曲がった行き止まりを見つけ、床にすわって、一息つく。
「何よりも先に・・・。ありがとうね。さっき君が助けてくれなかったら、僕は今頃死んでたよ。」
「間違い無いね!お兄さん、運が良いよ。」
「僕の名前は、センティア。セント、って呼んでくれると嬉しいな。
・・・君の名前を聞いても良いかな?」
子供は、初めて話し相手を見つけたかのように、嬉しそうに笑うと、太陽のような明るい声で、自分の名前を言った。
「僕の名前は、ケトラシア!
ケトラシア=レジア=ザクロ!
よろしくね、セント!」
小さな少年の明るい自己紹介が響くのとーーーーー、
ーーーーーーーーーーーーーーーー
入学祝いに、お母様から貰った『目覚ましの鈴』が涼しげな音を立て、その音と窓から差し込む太陽の光で目を覚ます。
「・・・もう朝ですの?もう少し微睡みたい所ですわね・・・。」
『コスモス』の一限が始まるまで、あと1時間ほど残っている。
淑女たるもの、その程度の余裕を見て、悠然と行動するべきだと思って、昨夜『目覚ましの鈴』の鳴る時刻を決めたが、睡魔に抗うというのはなかなかどうして思っていたよりも難しい。
『カタカタ』
まだ朝早いというのに、隣の部屋からはドタバタと忙し無い音が微かに聞こえてくる。
「・・・こんな朝早くの時間に暴れるとは品がありませんわね。まず間違いなくアレスでしょうね・・・セントはあまり暴れなそうですし」
しかし、この部屋の防音性は大丈夫なのだろうか、と心配になってしまう。
(いや、別に聞かれて困るような音を出すつもりもないのですから、問題は無いのでしょうけど、年頃の乙女のプライバシーというものが・・・。
お父様に頼んで業者に防音材を付けて貰った方が良いかもしれませんわ。)
瞼を軽く擦りながら隣の方を向くと、何よりも睡眠が好きなセレスが小さな寝息を立てて寝ている。
「・・・私ももう少し・・・。」
睡魔に勝ちを譲ることに決めて、ベッドに沈み込み、再び毛布を被ろうとした時ーーー、
『カンカンカンッ!』
金属で出来た出入口の扉の方から、ノックをする音が聞こえた。
(奇妙ですわね?こんな朝早くに。いくらなんでも非常識では無いかしら?)
心地よい二度寝を妨げられた事に少しばかり腹を立てながら考える。
(・・・それに、ノックの音。まるで金属同士がぶつかる様な音でしたわ。人の手でノックしたとして、あんな音が鳴るのかしら?)
訝しみつつも、ベッドに残りたがる身体を必死に起こし、出入口に向かう。
「はい?なんでしょうか?」
扉を開けてみると、そこにいたのはアレスでもセントでも無く、銀色の鎧を着た兵士だった。頭全体を兜で覆っているため、顔は見えない。
「初めまして。コスモス治安維持局のエギナと申します。セレスさんでよろしいでしょうか?」
「いえ、私はアイシア=ド=ジオードですわ。セレスはまだ寝ていますの。
言伝があるのでしたらあとで伝えておきましょうか?」
すると兵士は自分の手を、自分の頭のほうに持っていき、
『カチャリ』
金属製の籠手とヘルムが擦れる音が鳴る。
「あーーーーー、えーっとですね、伝言頼む前に1つ質問してもいいですかね?」
「ええ、構いませんわ。」
「アイシアさんって、隣の部屋のセンティア君の知り合いでしょうか?」
「・・・そうですけど・・・。彼にも伝言がありますの?」
「いえいえ!・・・なるほど、そうですかそうですかぁ!・・・」
兵士は、安堵した様子だった。
(なんでしょうか?少し不穏な空気を感じますわ。)
本能が警告している。拭えない違和感を感じる。
「・・・あのー、用事が無いようでしたら、もうよろしいでしょうか?」
この会話は早く切り上げたほうがいい気がした。
「・・・ええ!そうですね。まだ朝早いですもんね!」
急に兵士の口調が軽いものに変わる。まるで、これが素であるかのように。
そう、、、まるで『化けの皮が剥がれた』ように。
『ゴッ!!!』
鈍い音が鳴った。アイシアの脳が揺れる。頭に激痛が走るよりも先に、、、なす術もなく、アイシアの意識は闇に落ちる。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーー気を失ったアイシアが床に倒れ込むのと、
全身を鎧で包んだ『自称』コスモス治安維持局所属の男が、兜の中で笑顔を浮かべるのは、同時だった。




