第八話 唯沢散華
家庭科準備室の窓から見える空が、いつの間にか夕色も消えて薄暗くなっていた。夜間照明が点灯した校庭では、運動部がトンボをかけて帰りじたくをしている。
学園祭の出し物を決定をする生徒HRを、放課後に一時間もやっていたため、さほど部室で話していないのに、柱の時計は夜の六時を回っていた。
そろそろ、今日の料理協賛部もお開きかと思ったところで、一樹が手を叩いた。
「そうだ、伝え忘れてた。演劇部の部長から、くるみと里美にも出演オファーがあったぞ。演劇部は学園祭で、体育館の舞台演劇だけでなく『ゲリラ寸劇』もやるらしいんだけどな」
「ゲリラ寸劇……ってことは、学校中を使って突発的にやるってことか?」
「ああ。学園祭で賑わってる廊下や校庭にいきなり現れて、回りの観客にも台本を配って、十分後に寸劇スタートだ。もちろん観客の飛び入りもアドリブも自由。面白そうだろ?」
これを面白いと思わない演劇人なんて、いるわけがない。
「それに、参加してくれって?」
「ああ。ゲリラ寸劇に遭遇したときだけでいいから、一般人じゃできない主役級の役柄をやって欲しいらしい。出演OKかどうかは、……二人とも聞かなくていいみたいだな」
想像しただけで演劇役者の血が、光って唸って輝き叫んでしまう。一樹の隣にいるクアッカワラビーもどきも、十万ボルトの電撃を放たんばかりにうずうずとしている。
「あの部長の策にはまるのはあれだけど、もちろんOKだよ。あの人のことだから、俺がヒロインの台本をたんまり用意してるだろうけど、どうせその頃には、ドレス着てプリンセスして、身も心も開き直って『女』になってるだろうし」
「私ももちろんOKだけどぉ、あの部長さん、人を演技に乗せる天才だから怖いなあ」
郷翔高校の演劇部は、全国高等学校演劇大会で過去三度も最優秀賞に選ばれたほどレベルが高く、有名な若手俳優も何人か在籍していたりする強豪部だ。
その演劇部で二年生ながら部長を務めるのは、伽藍敦志さんだ。
お堅い名字から想像できるとおり、『一樹君、大好きっ子ちゃん』な鋼の生徒会長、伽藍美翠さんの双子のお兄さんでもある。
兄のほうも妹に負けず劣らず強烈なキャラをしており、オールバックにした髪の下で、銀ぶち眼鏡ごしに睨みをきかせる白皙の容貌は、惚れ惚れしそうな歌舞伎顔だ。
いつも舞台に立っているような大げさな振る舞いで、どんな素人でも即興劇に引きこんでしまうほど、人を乗せるのがうまい。校庭の端で発声練習をすれば、なんの爆発だと運動部が振り返るほどの声量をしているため、変態演劇人として学校中にその名を文字通り轟かせていた。
「あの人、放課後にばったり会うと、きまって演技をしかけてくるんだよぉ? 『おお、ここにおりましたか王子! 反乱軍はすぐそこまでせまっております。どうか城へお戻りください』とかいってきて。それでいつも乗せられちゃって、演劇部の稽古場に連れこまれちゃうんだぁ」
「おい里美。『知らない大人』について行ったら駄目だと、いつもいってるだろう」
一樹が、小学生の娘を叱る父親の顔になっている。
「大丈夫だよぉ。いつも演劇部の人たちとひととおり演技して遊んだら、差し入れのお菓子を奪って帰ってくるから」
この部室の棚に、いつもたんまりとあるお菓子は、演劇部からの略奪品だったのか。
「あの人が私たちを演劇部に勧誘してくるのは、もう日課みたいなものだからねぇ。くるみ君なんて、廊下で会うたびに〝唯沢散華〟の名前を出されて口説かれてるもんね」
廊下で遭遇するたびに伽藍部長は、
「姫よ! 君ならば、君ならばあの唯沢散華とすら並び立てるというのに、なにゆえ『美貌』ではなく『美食』を磨いているのか!」
などと歌舞伎声を轟かせて、歌舞伎顔でひざまづいてくるのだ。
公衆の面前で上級生をひざまづかせているのは、男にプロポーズをされているようで恥ずかしいので、いい加減にやめてほしい。
ちなみに唯沢散華とは、演劇界で孤高のごとく扱われている天才演劇役者のことだ。
多くの謎に包まれた役者であり、わかっているのは、九歳から演劇活動を始めた同い年の少年で、間違いなく天賦の才をもった子役であることくらい。
写真はNGで宣伝ポスターにも名前しか書かれておらず、大のマスコミ嫌い。おまけに所属事務所の力も強いため、一夜にしてネットで映像が拡散するこの時代だというのに、隠し撮りのぼやけた写真が数枚存在する程度で、その姿は一般人にはほとんど知られていない。
だがひとたび彼の舞台を見たならば、その鮮烈な姿は、どれほど高画質な映像よりあざやかに脳裏へ刻まれてしまうだろう。
なにを隠そう、一樹に誘われる前から演劇に興味があったのは、小学五年生の頃に母に連れられて鑑賞した舞台演劇で、唯沢散華の演技を見てしまったからなのだ。
線の細い子供だというのに、同じ舞台に立つどんな大男より存在感があり、歩いているだけで、その指先の演技すら見逃すまいと視線を惹き寄せられてしまう。少年らしい凜とした声色は、どんなに小さく発しても舞台音楽をかきわけて響き、やはりその吐息すら聞き逃すまいと、耳をそばだててしまう。
恋とも違う未知の感情を鷲づかみにされ、胸の奥が熱くたぎってたまらなくなった。
演技をしたことすらないのに、いつか彼と同じ舞台で戦友として並び立ちたいと、心が焦がれるほどに切願してしまった。
恋や友情などとは別の次元で、唯沢散華の存在すべてに一目惚れしてしまったのだ。
そんな孤高の天才子役だった彼は、大御所俳優や世界的な舞台監督にすら一目置かれていたが、中学に入ると勉学が忙しくなったのか、ぱったりと舞台に出演しなくなってしまった。
「そういえば、くるみ。中学の演劇大会の楽屋で、唯沢散華に口説かれてたよな」
一樹の言葉で、一年以上前の楽屋の光景が鮮烈に蘇り、顔と心が熱くなった。
全国中等部演劇大会の決勝で特別審査員を務めていたのが、誰あろう唯沢散華だったのだ。
最優秀賞を始めとして数々の賞を総なめにした我が校だったが、唯沢散華からは、
「この場で伝えることは、なにもないよ」
とドライなコメントをされたので、てっきり天才演劇役者様には響かなかったのだと気落ちしてしまった。
だが、改変『十二夜』のラストで着ていたドレスを肩口まで脱いだところで、その唯沢散華が楽屋に飛びこんできたのだ。
ドレスの胸元をはだけさせて恥じらうヴァイオラに構わず、彼は繊細だが存在感の塊のような細腕で、腰を思いっきり抱き寄せてきた。
凜々しい少年顔を十センチの距離まで近づけられ、すべての観客を虜にする蠱惑的な声で熱烈にまくし立てられた。
「先ほどは、冷たい態度を取ってすまなかったね。どうしても、君に直接伝えたかったんだ。僕は生涯舞台の上で競い合える、伴侶のような役者を探していたんだ。ライバルなんて無粋な関係じゃない。共に舞台人生を歩んで、どこまでも並び立てる伴侶だ。――やっと見つけたよ。それが君なんだ! ……ん? 君は男なのか。まあ男女の違いなど些細な問題だ。舞台で添い遂げるのに、なんの支障もない。僕は今でこそ休業中の身だけれど、いつか必ず舞台に戻ってみせる。そのときにはぜひ、僕の舞台人生のパートナーになって欲しい」
どんな歴戦の名俳優ですら自身の演技に引きこめる天才役者に、ここまで熱いプロポーズもどきをされて、惑わされない人間なんていないだろう。
しかも彼は、小学生の頃に存在ごと一目惚れしてしまった相手なのだ。
気がつくと、可憐な女声を作って了承していた。
「はい。私でよければ、末永くよろしくお願いします」
そのときの逸話は、演劇雑誌にも面白おかしく書かれてしまったため、演劇関係者の間では有名な笑い話となっている。
伽藍部長が『君ならば唯沢散華と並び立てる』と常々煽ってくるのは、そんな理由からなのだ。
新キャラが続々出てきて申し訳ありません。書いているうちに、竹の子のようにポコポコと生まれてくるものですから……。