第十一話 待ち合わせ
昨夜は、美咲さんの言動が気になって一睡もできないかと思ったが、あまりの衝撃で脳内のWindowsが10から『Me』にまでバージョンダウンしていたせいで、ベッドに入って三秒で意識が強制終了してしまった。
目覚ましの音すら聞き逃す熟睡ぶりだったため、気づくともう朝の九時を回っていた。
悠長におめかししている暇などない。歯を磨いて顔を洗って最低限の身だしなみを整えて、ゼリー飲料を一気飲みしただけで朝食をすませて、玄関へと猛ダッシュしたところで、
「ちょっと待ちなよ、くるみ」と背中に声をかけられた。
振り向くと、二人姉弟の姉である睦月楓が腰まで伸びた髪をなでつけて、大きなあくびをしていた。
上向いた天然のつけ睫毛。その下できらめく切れ長の力強い目。眠そうに涙を滲ませていてもなお崩れない、一切の無駄な要素を削ぎ取ったように引き締まった顔の作り。ぶかぶかのパジャマを着ていてもわかる、すらりと均整のとれたアスリート体型。
郷翔高校の二年生であるこの姉は、けっして美人ではないが、身にまとった空気で否応なしに人を惹きつける、一樹と同じタイプの恵まれた人種だ。
昔から男女を問わずもてまくっていたため、小中高と一緒だった学校では姉宛のラブレターを、合わせて五十通は受け取ったことがある。
――ちなみに、
「この手紙、姉さんに渡せばいいんだよね?」と上級生の男子におそるおそる聞いたときに、
「い、いや。くるみ君への手紙なんだ」
と恥ずかしそうに返答されたことも、十回くらいあったりしたのは秘密だ。
「今日は夕方から寒くなるみたいだから、そんな薄いジャケットじゃ風邪ひくよ。こっちのパーカーを着ていきなよ。ほらほら、脱いで脱いで」
有無をいわさず薄手のジャケットをはぎ取った姉が、もっていた白いパーカーを、象牙色のカットソーの上に羽織らせてきた。
この姉はいつも、なにか理由をつけては人にさわりたがる。まるで中年上司のセクハラだ。
しなやかな指で首筋や肩をさわさわと撫でられると、いたずら好きな女豹にもてあそばれる生肉になった気分になる。今にも『いただきます』とかじりつかれそうな悪寒がして、水に濡れたチワワのようにぶるぶると身体を暴れさせて、天敵の腕を引きはがした。
「だから、弟へのおさわりは禁止だって、いつもいってるだろ。で、この服、姉さんが買ってきてくれたの? 俺が着ていいの?」
「もちろん。きのう夕方に母さんと駅前を歩いてたときに、『くるみにぴったりな服』を見つけて、衝動買いしちゃったんだからさ。母さんと私からのプレゼントだよ」
試しに袖を通してみると、ふわふわとした生地の手触りが心地よく、分厚い服なのに重さを感じないほどに軽い。明らかに安物とは違う高級な質感だ。
「ただのパーカーなのに、結構いい生地使ってるね。これ高かったんじゃないの?」
「うんにゃ。売れ残りのセール品だったから安かったよ。遠慮なく着倒しても大丈夫」
セール品の安物とはいえ、誰かにプレゼントをもらえると嬉しいものだ。
「ありがと、姉さん。この服気に入ったから、母さんにもお礼をいっておいて」
愛想笑い程度に頬を緩ませたつもりだったが、弟離れしていない姉にはクリティカルだったようで、「ぐっはあ」と奇声をあげた女豹がパジャマ姿を身悶えさせる。
腰を落とした姉が、ビーチフラッグに飛びつかんとする選手のごとく狙いを定めてきた。
ちゅ×る詰め合わせセットを持たされて、サファリパークに放り出されたような危険を感じる。
「ステイステイ、弟へのおさわり禁止! というか待ち合わせに遅れるから、姉さんに抱きつかれてる暇なんてないんだけど!」
がるるると威嚇すると、姉が正気に戻ってポンと手を打った。
「ああ、そういえば今日はデートだったもんね。そりゃ、遅れちゃ大変だ」
「だーかーらー。昨日もいった通りデートじゃなくて、クラスの数人で集まって学園祭のために市場調査するだけだってば」
本日の予定は家族にも伝えてあるが、夕べからあれだけポンコツ挙動不審者になっていては、街へ出かけるメンバーの中に好きな人がいるのもバレバレだ。
腕を組んだ姉が、感慨深そうにうなずく。
「うんうん。やっとくるみにも、『一樹君以外の男』ができたんだね。お姉ちゃん嬉しいよ。もう思う存分、あたって砕け散って千の風になって吹きわたってきなよ」
「男ができるわけないし彼女もできてないし、そもそもデートでもなんでもないんだから、むやみやたらに砕け散る必要もないよ!」
これ以上姉と喋っていると、延々と姉弟漫才をしそうなので、そそくさと家を出た。
自宅と高校があるこの神柳町は、国から環境実験として浄化モデル地区に指定された水郷の町だ。ゴミ捨てに関する罰則がかなり厳しいため、道にはほとんどゴミが落ちておらず、面積の三割を占める河川や池の水も、釣った魚がなんの問題もなく食べられるほど澄んでいる。
景観条例による建築規制が厳しいせいでマンションも少なく、河川や街路樹に挟まれた日本家屋が整然と立ち並ぶ町並みは、自然と共存する古都に紛れこんだようだった。
だがそんな風情ある町並みも、自宅から駅へと歩いて行くと、都心へ向かう列車から見る景色のように、急速に都会へと変わる。
名古屋まで急行二十分で行ける神柳駅は、その周辺地域だけは建築規制が緩いため、都会の繁華街を切り取ったように、背の高いファッションビルが立ち並んでいるのだ。
広い歩道を吹き抜けてきた木枯らしに、ひやりと耳たぶを撫でられた。
背筋が震えて反射的にパーカーのフードをかぶったが、サイズが大きすぎて前がよく見えない。ふと、ショーウインドーに映る姿を確認してみて、
――顎が落ちてしまった。
いかにも男目を惹きそうな少女が映っているのは、もう諦めているのでまあいい。問題は、そのさらさらとしたショートヘアを覆い隠すフードに、三角形の突起がついていたことだ。
頭を動かすたびに可愛らしく揺れる二つの飾り布は、
――どう見ても猫耳だった。
ほら、『くるみにぴったりな服』でしょ?
母と姉のにこやかな声が聞こえた気がした。
「……やりやがったな。あのおちゃらけ家族」
前から歩いて来たOL集団にクスクスと笑われてしまい、頬が熱くなる。
こんな情けない姿を美咲さんに見られたくはないが、今から家に戻る時間などない。フードを首の後ろに折りこんで猫耳が見えないようにして、待ち合わせ場所へ急ぐことにした。
駅前広場に到着して街灯時計を見ると、まだ九時四十五分だった。
早歩きしただけで、なんとか間に合ってほっと息をつく。
今日は土曜日なこともあり、町一番の待ち合わせ場所である駅前広場は、色とりどりの秋服を着た若者たちで混雑していた。
そんな人混みの中でも、本日の食べ歩き選抜メンバーである女子二人の姿は、華やいで見えたのですぐわかった。
美咲さんは、白い総レースのブラウスに生成りのニットカーディガンを羽織っていた。
厚手の赤いフレアスカートから膝小僧がちょこんと覗いており、素足には白いショートソックスと黒いローファーを履いている。
美咲さんの私服を見たのは、今日が初めてだった。その女子大生に間違われそうな大人びた装いに視線が釘付けになり、早くも胸が高鳴ってしまう。
そんな楚々とした美人さんを周囲が放っておくはずもなく、男たちが今にも声をかけようとそわそわしているが、隣で御劔さやかさんが守護しているせいで近づけないでいた。
アイボリーのブラウスに黒いショートパンツと白いスニーカーといった、快活な女子高生らしい格好の御劔さんは、なぜかスポーツチャンバラで使うウレタン製の刀を帯剣していた。
御劔さんは幼い頃から真剣を使った居合術を習っているそうで、女子の中でも低めの身長で、長いウレタン刀を帯剣した勇ましい姿は、もう完全に『女、高杉晋作』だ。
今にも抜刀せんばかりに構えているのは、柔らかい安全な剣のはずなのに、不用意に近づくと巻き藁のごとく三等分されてしまいそうな迫力がある。
そんな御劔さんに気圧されて、人混みに奇妙な空間ができていた。
さすがは、姫を守る近衛隊長さんだ。
だけど、もう大丈夫。
待ち合わせの相手が来たとわかれば、不届き者たちも退散するだろう。
気配を自在に操るのは、演劇役者の得意分野だ。
「――おはよう! 美咲さん、御劔さん。二人とも早いね」
周囲にもわかるように存在感を膨らませて、腹式呼吸で凜とした声を作って挨拶した。『観客』たちの印象に残るように、あえて満面の笑みを浮かべて大げさに手を振ってみせる。
ざわめきが広がったので、これで『男』の連れが来たのだとわかってもらえたはずだ。
舌打ちしているだろう不届き者たちを、ふふんと鼻で笑って自慢気に見回してやる。
――が、男たちは、美咲さんに匹敵する並外れた美少女でも登場したかのように、惚けた顔で固まっていた。
見間違いかとパチパチとまばたきして確認してみたが、それがウインクにでも見えたのか、視線が合った男たちが、フリーダムガン×ムのハイマットフルバーストにロックオンされた雑魚キャラのように、真っ赤な顔になって次々と撃墜されていく。
ちょっと、みなさん。なんで、その反応?
華やかな役者オーラを出し過ぎたのかもしれない。反省して、気配を萎ませた。
あらためて待ち合わせ相手を見たところで、ぎょっとなる。
美咲さんが、腰につけた眼鏡ケースのボタンに手をそえて、ガンマンのごとく構えていたのだ。紅潮していく頬の上で、澄んだ大きな瞳が揺れ乱れている。
お互いに、夕べの一件を思い出しているのがわかって、こちらの顔面まで加熱していく。
『愛してます』のハンドサイン。『私もだよ、睦月君』という返事。
またも『委員長さんモード』におなり遊ばされるかと危ぶんだが、美咲さんは、ふっと息をつくと眼鏡ケースから手を放した。胸元まで伸びる黒髪に手櫛を入れて、さらさらと銀艶を散らしながら、白いレースで飾られたブラウスの豊かな膨らみを反らして強がってみせる。
「お、おはよう、睦月君。……甘いわね。そんな可愛い格好してきて、動揺させようとしても無駄よ。睦月君の可愛さには、もう慣れっこなんだから。このお姉さんに、同じ技は二度と通用しないといったでしょう?」
いえ美咲さん、今変身しそうでしたよね? それと、可愛いは余分です。
「おはよ、睦月君。……なんだいその格好は。どこまで可愛いアピールすれば気がすむんだよ。姉御だけじゃなく、あたしまで誘惑するつもりかい?」
御劔さんがショートボブの髪を揺らして、ジト目で見てくる。
「急いでたから、適当な服着てきただけなんだけど。十分、男らしい格好でしょ?」
パーカーの猫耳は隠しているので、問題ないはずだ。
大慌てで選んだ他の服は、オーバーサイズな象牙色のカットソーに、ぴったりとした黒いスキニーパンツと、余所行きの白スニーカーという、何の変哲もない格好である。
両こぶしを構えて『男らしさ』を、えいえいむんと強調してみせるが、パーカーが大きすぎるため、あまった袖口が手の平まで覆った萌え袖になり、どう見ても『あざと可愛いポーズ』となってしまう。
パーカーがはだけて両肩がずりさがってきたので身じろぎすると、さらさらとしたショートヘアに大きなフードが、ぽふりとかぶさった。
露わになってしまった猫耳が、へにょりと垂れ下がって、さらに可愛らしさ強調してしまう。
布端があたったせいでうるうるとなった瞳を、「あうう」と上目遣いにして猫耳を揺らし、目深にかぶったフード越しに、おそるおそる御劔さんの反応を確認してみた。
「だー、あざとすぎるわ! なんでパーカーに猫耳までついてんだよ! 過剰武装だよ、協定違反だよ!」
「こ、このパーカーは姉に騙されて、着させられたまま出てきちゃっただけで……」
「だいたいなんで、そんなぴっちりとしたパンツはいてるの? 脚も細いし、お尻の形も可愛いし。エロい、エロいよ、くるみ子」
誰が『くるみ子』ですか。
「睦月君、顔の作りは滅茶苦茶恵まれてんだから、もっと大人系の服で固めれば、佐伯君の三分の一くらいには『格好いい』方向へもっていけるはずなんだよね。古着屋の娘としては、納得いかないコーデだなー」
御劔さんの家は、三階建ての衣料量販店ほどもある大きな古着屋を営んでいる。最近では、質のいい古生地をリサイクルしたオリジナル服が、ネット通販で飛ぶように売れているらしい。
これからみんなで最初に見て回るのも、その『御劔古着店』の予定なのだ。
スタイリスト顔になった御劔さんが、パーカーの袖をまくってきたり、裾を縛ってラインを整えてみたりと試行錯誤しているが、すぐに降参してしまう。
「駄目だこりゃ。どうやっても『可愛く』にしかならねー」
「人の顔を『駄目だこりゃ』とか、いわないで」
「つーか、なんで男なのに、こんないい匂いしてんだよ。……もの凄く今さらだけど、睦月君って、ほんとに男だよね? なにか特殊な事情がある、女の子だったりとか……」
カットソーの襟ぐりまで引っ張ってきて、いぶかしげに御劔さんが覗きこんでくる。
「ほんとに今さらなにいってるの、御劔さん。……ていうか、シャツが伸びるから服の中覗くのやめて」
間違いなく男なので、胸板を見られても全然まったく恥ずかしくはない。
が、覗いていた御劔さんのほうが、とんでもない無垢ななにかを見てしまったかのように、口をあわあわと震わせて頬を染めてしまった。
「こ、これは駄目だよ、睦月君! いくら胸がないからって、ブラくらいしないとっ」
「いや、男がブラジャーつけてたら、もっと駄目でしょう!」
スパーンと小気味いい音がしたので見ると、呆れ顔でウレタン刀を引き抜いた美咲さんが、御劔さんの頭に豪快な突っこみを入れたところだった。
さすが美咲どん。見事なチェストでごわす。
「いくら睦月君が可愛すぎるからって、暴走しすぎでしょう。さやかまで『夏樹』みたいな、セクハラ親父になってどうするのよ」
「うええ、やめてよ姉御。あんな女好きの変態と一緒にするなよぉ」
美咲さんと御劔さんは、知らない人の名前でなにやら盛り上がっている。
「で、さやか。睦月君のお胸は……どんな感じだったの?」
はーい、そこのお姉様がた。背中を向けて、人の胸板について内緒話をしないでください。
現在、多忙により更新停止中。
なんとか投稿再開できるよう試行錯誤中です(2021/8/3現在)。





