第十話 その手話の意味は?
美咲さんの話を要約すると、クラスに残っていた少数で相談した結果、二週間後の出し物コンペで勝つために、土曜休みである明日、朝十時から有志で集まることに決まったらしい。
そうして町の人気店を回って、スイーツのメニューや仮装の服などを吟味するのだそうだ。
その美咲さん率いる食べ歩き選抜メンバーとして、参加して欲しいとのことだった。
大勢で出かけるとはいえ、美咲さんと人気店を見て回るデートもどきができるのだ。
そんな素敵イベントを断るわけがない。セリヌンティウスの元へ急ぐメロスのごとく、川が氾濫して橋が流されていようと、山賊に襲われようと駆けつけてやる。
一樹が二人分まとめて了承を伝えた。
「そうやってみんなで、なにか一つのことに向けて準備するのって楽しいよな。あしたは実家の喫茶店の手伝いもないし、俺はもちろん参加できるぞ。くるみも、俺が抱きかかえてでも連れてくるから問題ない」
とりあえず、公衆の面前でお姫様抱っこはやめてくれ。一樹ならやりかねないのが怖い。
ようやく蒸らしが終わり、一樹が茶漉しでハーブを取り除きながら、透明ガラスでできた三つのティーカップに褐色の液体を注いでいく。
完成した一樹特製ハーブティーが、三人の前に置かれた。
「さあ、飲みなよ。心も身体もあたたまって、間違いなく落ち着けるはずだぞ。効果最優先で、かなり風味が相反する調合を試してみたから、味は期待するなよ?」
同じく混乱している宮原と同時に、ティーカップに飛びついた。空いた左手でカップの取っ手をつかみ、口をつけてほどよく冷めているのを舌で確認してから、喉奥に勢いよく流しこむ。
ジャーマンカモミールとレモングラスが主体のハーブティーだとわかったが、リンゴのようなまろやかさと爽やかな柑橘系の風味に、雑多な香りがぎっしりと混在していて、他のハーブの種類が判別できないほどだ。
パレードように煌びやかな香りの洪水が、脳の毛細血管の隅々まで浸透してきて、即効性の薬かと思うほど心の波が穏やかになっていく。
味は期待するなといわれたが、この『いかにも効きそうな良薬』といった強烈な風味と、はっきりと体感できる鎮静感は、かなり癖になる。
ネット販売すれば口コミで評判が広がって、間違いなく馬鹿売れするだろう。
平静を取り戻すと、美咲さんと指を絡め合わせて手をつないでいる現実を、より一層リアルに感じた。胸の奥がキュウッとしぼられ、今さらながらに耳たぶまでとろけてしまう。
「そっか……。これを飲んだら、心が落ち着いちゃうんだね」
ティーカップを右手で持ち上げた美咲さんが、ふいに横を向いて視線を合わせてきて、ドキリとする。その白い頬はいつの間にか、混乱とは違った色で紅潮していた。赤ぶち眼鏡越しの大きな瞳が、名残惜しそうに憂いを帯びている。
――へ? 美咲さん、無意識に手をつないでたんじゃないの?
別れの挨拶をするように、美咲さんが最後に二人の手をギュッと強く絡みあわせてから、指をほどいた。服毒する薄幸の姫のような意を決した表情で、ティーカップを両手で持ち上げ、琥珀色の液体を一息に飲み干していく。
空になったカップを口から離した美咲さんが、桜色の唇から熱い吐息をこぼした。
「すごい香りだけど、不思議と美味しいね。……あ、ほんとに……心が落ち着いてきた……」
色褪せていた瞳に凜とした光が灯り、うつろだった視点がみるみる定まっていく。縮こまっていた背筋がしゃんと伸びて、たおやかな花が満開になるように存在感が膨らんでいく。
顔から外した赤ぶち眼鏡を畳んで、腰に巻かれたケースに収納したときにはもう、圧倒的火力の美人お姉さんキャラである、普段の美咲さんに戻っていた。
机に正座している状況に失笑した美咲さんが、スカートの下からのぞく膝小僧を揃えて、両手で身体を浮かせて調理台から飛び降りる。
「ご迷惑をおかけしました。うん。もう大丈夫」
美咲さんは上履きを履き直すと、照れ隠しなのかくるりと一周ターンした。
「佐伯君、いつもありがとうね。このハーブティーもそうだけど、HRの最後もフォローしてもらっちゃったし。『私の事情』を知ってて助けてくれる人がいると、ほんとに救われるわ」
「礼なんていらないさ。委員長に人望があるからこそ、みんな進んで手助けしてるんだからな。遠慮なく、もっと面倒かけてやれよ。かえってクラスのやつらも喜ぶと思うぞ」
確かに、もっと駄目駄目なお姫様と化したならば、近衛隊長の御劔さやかさんなんかは、目をきらきらとさせて忠義を尽くしそうだ。
「それから、四組の宮原里美ちゃんだよね。初対面なのに驚かせちゃってごめんね。こんな可愛い子を怯えさせるなんて、悪いお姉さんだよね。私は二組の皆川美咲。よろしくね」
美咲さんが小首を傾げて、宮原に微笑みかけた。肩からあふれた髪房が銀艶をきらめかせ、すべての者を甘やかすあたたかい『お姉さんオーラ』が、ハーブの香りに乗って拡散する。
宮原を覆っていた人見知りバリアが、薄氷のごとく呆気なく割れた音がした。
小動物もどきのあどけない顔が、とたんに興味津々と光り輝く。
「ふわあ……。急にやさしそうなお姉さんになったぁ。美咲お姉さんって呼んでもいい?」
抱っこをせがむように、宮原が短い両手をうずうずと伸ばす。
「もちろんいいよ。じゃ、私は里美ちゃんって呼ぶね。――うわっ、身体軽いっ、可愛い~」
宮原を抱き締めた美咲さんが、小学生チックな身体を調理台から持ち上げた。福引きで当たった巨大なぬいぐるみをめでるように、頬と胸をぎゅっと押しつけて美貌をとろけさせる。
その豊かな膨らみの柔らかさを顔中で堪能しつつ、お姉さんオーラの揺りかごに包まれている宮原は、そのまま『おねむ』になりそうな顔で幼児帰りしていた。
もの凄くうらやましいが、もし美咲さんにあんな熱烈な抱擁をされたら、比喩でなく心が天へ召されてしまうだろう。
「佐伯君から色々聞いてるけど、里美ちゃんも睦月君たちと同じ元演劇部で、佐伯君の幼馴染みなんだよね?」
「うん。あと、一樹の彼女もやってるよぉ」
美咲さんが、笑顔のまま固まった。巨大ぬいぐるみを調理台に下ろして、一樹を見る。
冗談にしか思えないが、一樹と宮原が昔からずっと交際しているのは本当の話だ。
「佐伯君、さすがに犯罪は駄目でしょう」
「委員長まで、お約束なつっこみはやめてくれ。こいつは、これでも同い年だ。それに彼女というより、家族といったほうが近い関係だ。兄妹じゃなく、父と娘の関係に近いな」
「親子でつき合ってたら、なおさら犯罪じゃない」
美咲さんに冗談交じりに笑われて、さすがの一樹も片手で顔を覆って懊悩した。
「一樹は料理もうまいしぃ、なにやっても『器用大金持ち』だから、とりあえず捕まえておけば、思う存分ぐうたらできそうだよねぇ。もしふられても、慰謝料たんまりふんだくれそうだから、やっぱりぐうたらできるしぃ」
「とまあ、こんな感じで一生ついてきそうなやつなんだよ。普通の彼氏彼女とは違うけど、俺たちはこんな関係が気に入ってる」
一樹が宮原の頭や顎を撫でると、小動物もどきが調理台で丸まって、心地よさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
くすくすと笑っていた美咲さんが、不意打ちのようにこちらを向いた。
「さあて。む・つ・き・く・る・み・く・ん?」
腰に両手を当てて、いたずらをした弟を叱るように、にこやかな顔でのぞきこんでくる。
椅子に座ったまま、垂直ジャンプしてしまった。
――うわあ。間違いなく怒ってるっ!
「ごめんね。いつも睦月君を弟みたいにからかってたから、さすがに怒っちゃったのかな? でもみんなの前で、あんなふうに仕返ししちゃうのは、お姉さん感心しないな」
「し、仕返ししたわけじゃないんだ! 教室でもいった通り、思ってたことがつい口に出ちゃっただけで――」
また、やってしまった!
慌てて両手で口を押さえたが、美咲さんは赤いショートネクタイが乗った豊かな胸をふんすと反らして、平然としていた。
「このお姉さんに、同じ技は二度と通用しません」
美咲さんは聖闘士だった。
これはもう、茶化したりごまかしたりしては駄目だろう。というより、美咲さんに心から謝りたくてしかたがなかった。
「あの……みんなの前で、色々とデリカシーのない発言してごめん。本気で反省してる」
立ち上がるのも仰々しいので、椅子に座ったまま両膝を揃えて深々と頭を下げる。判決を受けるように、ゆっくりと頭を上げると、美咲さんが満面の笑みを浮かべていた。
「うんっ。よろしい返事です。お姉さんはとても寛大なので、睦月君の写真を撮らせてくれれば許してあげます」
「俺の写真?」
「うん。クラスのみんなの写真を集めてるんだけど、睦月君の写真だけまだないの。ほら睦月君、写真撮られるのが苦手だとかで、スマホを向けるといつも逃げちゃうでしょ?」
写真を撮られたくなかったのは、鏡を見るのが苦手だったのと同じ理由だ。
写真を見て自分の姿を客観視するのが嫌だったせいだが、己の女顔ぶりをまざまざと知らされた今となっては、逃げるのも馬鹿馬鹿しい。
「もう色々と悟りを開いたから、写真くらいどうぞ。煮るなり焼くなり、好きなように撮ってよ」
許可を出すと、すかさず美咲さんがスマホを取り出した。そのまま、『いいねー娘さん。凄くいいよ! じゃ、一枚脱いでみよっか』などとのたまわれて連写されそうな勢いだったが、
唐突に、美咲さんが隣の席に座ってきて、どきりとした。自撮りモードに切り替えたスマホを掲げて、縦長の狭い撮影範囲に二人が収まるよう、思いっきり肩を寄せてくる。
――えええ!? 写真って、ツーショットを撮るんですか!?
肩に美咲さんの柔らかいナニカが、むにゅりとあたり、肌の熱が感じられるほど頬と頬が接近する。艶やかな黒髪がさらさらと流れてくると、ハーブの香りに混じって美咲さんの甘い匂いまで漂ってきて、もうなにもかもどうにでもな~れ~と踊りたくなる気分になってくる。
ばくばくと暴れ回る心臓が、煮るなり焼くなり好きなように調理されてしまい、顔のパーツがキュビスムで表現されたように曲がってしまう。
「もう、睦月君? 変顔はやめて普通にしなさい」
「ひゃ、ひゃいっ」
やばい。このままでは、『無防備な女の子顔』で撮られてしまう。
演劇部時代に宣伝写真をよく撮られていたので、写真用の表情くらい作れる。せめてもの抵抗に、できる限り男らしい顔になるよう表情筋を引き締める。
カシャリとシャッターが押された。
美咲さんの柔らかな身体が離れると、ようやく呼吸ができるようになる。
スマホの画面を二人で確認してみた。
サインを作った片手を頬に寄せて微笑む美咲さんは、普段通りの美しさで写っており、三千ピースのパズルにされても一晩で作ってしまいそうなほど、圧倒的なまでに麗しい。
だがその隣で、仲むつまじそうに寄り添う人物がおかしい。
なぜか男子のブレザーを着ているショートヘアの少女が、長い睫毛の下でくりくりとした瞳を輝かせて、むやみやたらに愛嬌を振りまいている。
どう客観的に見ても、美咲さんにもひけを取らない可憐な美少女だ。
あれれ? おかしいぞ。男女でツーショットを撮ったはずなのに、百合百合してるカップルが写ってる……。なにか事件かな?
かなり『変顔』になってしまったので、撮り直しを要求したかったが、美咲さんは大満足なようだった。
「うわー。睦月君、写真写りいいね。もとの可愛さがそのまま出てるっ」
エルサ並みに、ありのままの姿を見せていたようだ。
こんなに接近するツーショットを、他の男子とも撮っていたのかと嫉妬しそうになったが、美咲さんがフリックしているスマホの写真フォルダには、女子との可愛らしい写真が並ぶだけだった。
みんなの写真を集めてるって、やっぱり女子だけでしたか。そして、女子カテゴリーに入れられてるわけですね。
はいはい、はううはうう。
ため息をつきつつも、写真の中の美咲さんがやっている、親指と人差し指と小指を立てるハンドサインが気になった。
「美咲さん。この指の形、もしかして意味知っててやってる?」
「さあ、知らない。HRの睦月君が可愛かったから、まねしただけ」
鏡を確認しながら、やけくそでやっていた百面相を見られていたようで、赤面してしまう。
アメリカ手話の有名な指の形なので、美咲さんも当然知っていると思っていた。
「ねえねえ、どんな意味なの? お姉さんにも教えて欲しいなー」
美咲さんが右手でそのサインを作り、人差し指と小指をウサギの耳のように動かして微笑みかけてくる。面と向かってサインを送られていては、その意味を教えられるわけがない。
「さ、さあ。どういう意味だっただろう……」
ごまかしてしまうと、ふふっと笑った美咲さんが立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ帰るね。睦月君、佐伯君、またね。あしたの朝十時に、駅前広場集合でよろしくね。――里美ちゃんも、またねー」
美咲さんが手を振ると、一樹が敬礼気味に片手を上げて、宮原が両手をぶんぶんと振った。
宮原のまねをしたいくらい名残惜しかったが、その中間の挨拶を返しておく。
扉を横に滑らせた美咲さんが、廊下に一歩出てから振り返った。
「あ、最後に睦月君にも、一緒にやって欲しいなー」
またも同じハンドサインを向けられて、心臓がどきりとはねた。
美咲さんが意味を知らないなら好都合だ。ごくりと唾を飲みこみ、同じ指の形をまねて、その意味をこっそりと伝えるように、四月からずっと好きだった女性へと向ける。
それを見た美咲さんが、心の花が満開になるのがわかるほど、嬉しそうに目を細めた。
扉を閉める寸前に、とんでもない爆弾を放りこんでくる。
「ありがと。……私もだよ、睦月君」
ぴしゃりと扉が閉まり、廊下をスキップする足音が遠ざかっていく。
今度こそ本当に、呼吸が止まった。
やっぱり美咲さんも、指の形の意味を知っていたのだ。
酸欠と動揺で頭の中がぐらぐらと回り、なにも考えられなくなる。時間まで静止してしまったようで、一樹と宮原が両頬をピタピタと叩いてくるが、まるで意識が戻らない。
親指と人差し指と小指を立てた、アメリカ手話の意味は、
――『愛してます』だ。
これでようやく、一日目が終了です。
以降は、物語も面白さも加速させる予定です。





