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耳に棲む

作者: 魚津 游

 久しぶりに晴れた5月、ロックダウン中の各国でも1日1度の運動は許されているとTwitterで目にしたわたしは散歩に出ることにした。

 通りの店はみなシャッターを下ろしていて、ひっそりとしているが運動中の町民はいく人か見かけた。互いに距離を取りながらすれ違う。みな、鼻から下を布で覆っている。どうやらマスク替わりのようだ。


 規則正しく去っていく足音を聞きながらわたしはなんとなく川沿いを南下して海に向かって開く河口に向かってみる。

 海から風が吹く時間で、塩分を含んだべたつく風が髪を巻き上げた。


 道々、鳥の声が耳につく。Webの記事で人間の活動量が減って騒音が減った海外で鳥がよく鳴くようになったとか、ビーチで絶滅危惧種の海亀が大繁殖しているとか、そんな話を聞いたことを思い出した。


 そういったわけで少し期待しながら河口を見下ろす橋の上までやって来たのだが、あいにく小さなかにも魚もおらず水面は前みた通りに淀んで泡立っているだけだった。

 どうせこんなもの、と思ったもののふと下まで降りる階段が目に入る。

いつもなら億劫で通り過ぎるのだが、近頃は引きこもってばかりで体を動かすことに飢えていたせいか、ちょっといってみようか、という気になった。

 わたしは階段を降りて水面から膝の高さほど上にある通路に身をかがめた。光の加減が変わって川底を見透かすことができる。黒っぽい魚の影を見つけてさらに身をかがめたところで、ぱしゃんと波が打ち付けて顔にしぶきがかかった。びっくりして体を起こし、慌てて袖で顔を拭った。

 そんなに波があるようには思われなかったのだが。

 磯臭い水が気持ち悪くなり、わたしはとっとと家に帰ることにした。しぶきが髪に染みたせいか、しばらく匂いは取れなかった。


 翌日は曇り空だった。起き上がったところで


 わぁん


 と耳鳴りがした。音の聞こえ方もおかしくて、どうも水の膜が張ったような感じである。おまけに頭痛もして来た。

 中耳炎であろうと思われたが、症状を調べるうちに突発性難聴、という病名が登場して途端に恐ろしくなってくる。病院に行くべきか相談しようと、専用の相談窓口の番号に連絡したが一向につながらない。おそらく疫病を心配する人々の対応で手が回らないのであろう。


 散々迷ったが耳鼻科に行けるなら行くのが良いという結論に達した。

 近場の耳鼻科、高評価で検索して候補を絞り込むと、少し歩いたところに本日営業中という耳鼻科を見つけた。人の少ない午前中に行くべし、ということで平熱であることだけ確かめて早速出かける。

 が、ドアを開けた瞬間及び腰になった。ツンと鼻にくる消毒液の匂い。受付は昭和の時代かと見まごうもので(昭和は生きていない、イメージの問題である)、ふっくらした受付係が席に付いている。

 目があってしかも笑いかけられた以上は入るしかない。覚悟を決めて足を踏み入れる。

 通された待合室の合皮製の黒い椅子は箸が破れて詰め物が飛び出していて先客はおらず、すぐに自分の番になった。


 老年の医師は素早く症状を聞いて、耳腔にひんやりする器具とライトを当てつつ覗き込む。


 ははぁ、これは大変な中耳炎ですね。鼓膜を切ります。


 と宣言されて、小心者かつプライドの高い私は内心動揺しおののきながらも咄嗟に


 あ、はい。


 と頷いてしまった。

 医者は飲み込みの良い患者で感心である、というように頷きながら何やら耳に突っ込み…障子に穴を開けたような音がして、同時にぴちっと頭の側でなにかが跳ねたように思われた。


 はい、切りましたよ。


 この処置の速さが高評価の要因なのだろうか。

 これでもう終わったであろうと思いそんなことを考えていたら次の処置が控えていた。水を抜くためといわれ、鼻と耳に管を突っ込まれて空気を通す。大風が吹き荒れるようなごごごごご、という音がした。

 あらぬところに外気を吹き込まれるのはなんとも嫌な経験である。


 その後、早口な受付係に薬と処置方法を教えられ、会計を済ませて病院を出たところでようやく肩から力が抜けた。

 医者からは明日、また来るようにといわれている。耳に器具を突っ込まれたくはないがなにしろ鼓膜に穴を空けたのでは来ざるを得まい。ということでしばらく通院することとなった。


 耳からはまだ水が抜け切っておらず、ジメジメとして気持ちが悪い。目薬のような容器に入った薬を2つほど耳に入れて時間を置いては拭き取る、という教えられた処置も面倒だ。早く治ることを期待しながらその日は眠りについた。


 翌朝、医師のところに赴くと老医師は変わりはないかと尋ねながら昨日と同じように耳を覗き込む。が、


 うん?


 といって手を止めた。


 なにかありましたか。


 と聞くと、鼓膜がふさがって来ているようだが早すぎるというようなことをぶつぶついう。

 どういうことだろうか、と悩んでいるうちに


 あなた、最近海やなんかへ行きましたか。


 と聞かれたので訝しみつつも一昨日の散歩のことを話した。


 ははぁ、なるほど。


 といって医師はひとり納得したように頷き、処置室の奥に控えていたいかにもベテランという風情の看護師になにか書きつけたメモを渡す。看護師はあら、珍しいという顔つきでこちらに一瞥いちべつをくれると奥の部屋に消えた。


 昔はよくあることでしたけどね。海が静かになってまた出て来たのかもしらんですね。

 さて、××と水を抜く必要があるのでもう一回切りますよ。


 といって医師はわたしに頭を動かさぬよう申し付ける。

 いまなんて、と聞き返したわたしの声は戻ってきた看護婦が扉を閉める音にかき消された。老医師は動くべからずといいながら昨日と同じく鼓膜に穴を開ける。が、今日はそれだけでは終わらず耳に何かを押し当てた。筒のように思われる。

 すると、耳の奥でなにかがつつっと動き…くらりと頭の平衡感覚が狂う。


 はい、処置はおしまいですよ。


 気づくと処置は終わったようで、医師の声がよく聞こえた。水の膜のような耳の異物感がだいぶ薄れている。


 久しぶりにやりましたがちゃんと取れましたのでね。昨日いった通り寝る前の薬を忘れないようにしてください。明日また、いらっしゃい。


 はぁ。


 なにが久しぶりなのか。問いたかったがせっかちな老医師はすでに背を向けていて、わたしはすごすごと退散した。去り際に器具ががちゃがちゃと置かれた台の上に奇妙な巻貝があるのを目にした。

 うすい茶色でカタツムリの殻に似ている。穴のふちが少しだけ濡れているようにみえた。


 その後も通院を続ける間、何度か医師にあれはなんだったのか、問おうと思ったのだが、いつも医師は忙しくなく、看護師はタイミングが悪かった。まごまごしている間にわたしの耳は完治してしまい、問う機会は失われた。


 だが治ったいまもあの河口には近づかないようにしている。


人の移動が減って世の中が静かになると動物が活発に動き回るそうで、人間てお邪魔だったんですね、そうですよね、申し訳ありません。と思っています。

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