89.峠のバッドエンド
私は妙な胸騒ぎで目を覚ました。
気付いたらウラクのイライザ350の車内にいて、困惑しているうちに徐々に記憶が戻ってくる。
「お、起きたのか」
ウラクは寝ていなかったらしい。
「私……寝てたの?」
「ああ。一応レイに返そうともしたが、流れでこっちに押し付けやがって」
「そっか、迷惑かけてごめんね。ありがと」
と言って私はレイのZに帰ろうとするが、なぜか不安を感じて車から降りられずにいた。
「そういえばあいつ、今どこなんだ?」
「え?」
ウラクの質問の意図が、よくわからない。
「どういうこと?」
「さっき、レイのZが頂上の方に走ってくエンジン音が聴こえたんだ」
「それ……本当?」
「レイから何も聞いてないのか? こんな真夜中にどこ行ってんだ……」
さっきからずっと感じていた不安の正体に気付く。
バクバク鳴っている心臓がうるさい。私は我慢できずに口を開いた。
「追いかけよう」
「……そうだな」
てっきり反対されるか怪訝な目で見られると思っていたが、ウラクは提案を受け入れてイライザのエンジンをかけた――――音がしない。
「どうしたの?」
「なんでだ? かからねえ……バッテリーか?」
「えっ、昼間は問題なく走ってたよね? そんなことってある?」
「ないはずだぜ、よほどの事がなけりゃ」
それからしばらく悪戦苦闘していたが、原因は分からないらしい。
「くっそ、お手上げだ」
私はいても立ってもいられず、ウラクの車を飛び出した。
「レイ……!」
「待て、エルマ! 峠の頂上まで足で行く気か!?」
ウラクの静止を無視し、満月に照らされた芝生を全力で走る。
ここから頂上まで何キロあるかも分からないが、そんなことを考えるほどの余裕はなかった。
走る。
息が切れるが、ただただ必死で走る。
しかし私の身体は予想以上に貧弱で、会場を出る前には足が痛み始めていた。
「ねぇ、どうしたの……?」
呼び止められて振り返ると、どこかで見覚えのあるショートヘアの走り屋が立っていた。
――――思い出した。名前は知らないが、“青龍”の称号を持つ青いシェデムの乗り手。
「かなり急いでいるように見えるけど、よかったら……送ってあげようか?」
ああ、まさに救いの手を差し伸べる女神のようだ。
私は呼吸も整わないまま頷いた。
「じゃあ話は後で。ほら、乗って」
言われるがまま助手席に乗り込んだ。
肌触りの良い純正シートが優しく私の身体をホールドする。
「目的地は……?」
「峠の、頂上」
「……分かった」
4ローターペリポートの攻撃的なエンジン音が響く。
やはり“青龍”の名にふさわしいレスポンスだが、内装は意外にも快適だ。
内張りやエアコン、ラジオまで残してある。
「別に言いたくなかったらいいけど、どうしてこんな時間に上まで?」
彼女はかなり攻めた走りで峠を登りながらも、涼しい顔で尋ねてきた。
「レイが――――えっと、私の友達が、急にいなくなって……」
「レイ? ……あの子か」
「知ってるんですか!?」
予想外だった。
「何か月か前に峠に来て……少し話した。知り合いからもよく名前を聞く」
考えてみれば当然か。
レイみたいな走り屋なら、会話にも上がるだろう。それほどまでの実力者だから。
嬉しいはずなのに、どこか飲み込めない気分だ。
レイが私から離れていってしまうような――――
ふと目を上げると、ヘアピンが間近に迫っていた。
下はもちろん崖。目の前のガードレールはボロボロだ。
「ひゃっ!?」
思わず声を上げるが、彼女は何の気なしにヘアピンを曲がった。
何が起きたのか分からない。
「……そんなに攻めてないんだけど」
「嘘!?」
暗さと道幅の狭さも相まって、コーナリングの一つ一つがまるで幻覚のように見える。
常に瞬間移動しながら曲がっているような、不思議な感覚。
「この程度で怖がってると、レイの助手席で気を失ったりしない……?」
意表を突かれたのとレイの名前を出されたので、私は思わず必死になる。
「レイはもっと慎重に走るもん!」
「そう……じゃあ、あの子はきっと、君を乗せているときに本気で走ったことがないんだ」
言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
たしかにそうかもしれない。公式レースはもちろん、走り屋とのバトルでも、私を隣に乗せて臨むことはない。
私は、レイの本当の走りを知らない――――?
「……そろそろ着くよ」
思っていたよりずっと早く頂上に着きそうだ。
最後のコーナーを抜けても暗闇しか見えず、いつの間にか月が隠れていることに気付く。
左のドアウィンドウから赤いフェアレディZが見えた。
「レイ!」
急にいなくなったことは後で問い詰めればいい。
ひとまず私は安心して、シェデムの助手席シートに深くもたれて深呼吸した。
そのとき、運転席の彼女の表情が曇った。
「幽霊……」
睨んでいる方向を探すと、Zの横にもう一台車が見えた。
白いエネシス。エンブレムが赤いからタイプXだ。
そして乗り手の幽霊――――“白虎”のエネシスで間違いない。
姿は見えないが、レイと幽霊の話し声がうっすら聞こえる。
「よかった……」
シートベルトを外してシェデムから降りようとするが、
「待って」
運転席側からドアロックをかけられた。
「えっ?」
私が訊くのとほぼ同時に――――
パァン!!
閃光と破裂音が空気を裂いた。
それまで死角にいたレイの姿が視界に入る。
彼は眠るように、地面に横たわっていた。




