6.前世:フェアレディZにはじめまして
視界が開けた先は、段ボールが積まれたアパートだった。
見慣れた室内に一通り目を向けてから、例のごとく閻魔に確認する。
「ここ俺の家じゃん。しかも兄貴いるし」
室内では兄貴がテーブルでカップラーメンを食べていた。
「そうだね」
と閻魔が答える。
「段ボールが積まれてるってことは……兄貴がこのアパートから引っ越す日?」
「正解!」
このアパートは俺が21歳で死ぬまで住んでいた建物だ。
引っ越ししてここに住み始めたのが中学を卒業した年の春だから――6年間も住んでいたことになる。
卒業してから宣言通り高校に行かなかった俺は、実家で自宅警備員のように引きこもって勉強するつもりだった。
だが、俺より一年先に卒業した兄貴は難関公立高校に見事合格したので、高校から近い場所に部屋を借りてそこに移り住むこととなった。
そこで俺は高校をあきらめてまで独学で勉強することを選んだのだから少しでも落ち着いて勉強したいと思い、いっしょに兄貴が住んでる部屋に住ませてもらうことになったのである。
生活費は母が出してくれることになっていた。
曰く、「学費がかからなくて助かったしお返ししなきゃ」とか。
俺がやりたいことをいつも快くサポートしてくれる母には頭が上がらない。
兄貴も兄貴で、無理を言って住ませてもらった寛大さにいつも感謝している。
いろいろ大変な高校生活を送る兄貴にとって、ニート同然で引きこもる俺は邪魔者以外の何者でもなかったはずだ。
本人は話し相手がいなくて退屈だったから助かったと言って歓迎してくれたが。
今日は兄貴が大学の寮へ移り住む日だから、おそらくは大学の春休みだろう。
俺はこのアパートに残って暮らすから、お互いにとっては別れの日だ。
実は兄貴は今年の春に大学2年になる。
本当ならもう1年早く、つまり大学入学と同時に寮へ移る予定だったのだが、キリが悪いからといってわざわざ俺のために1年間待ってくれたのである。
兄貴は俺の1つ上だ。
その兄貴が今年で19になる。
つまり俺はこの年に、晴れて18歳になったわけだ。
俺の誕生日が3月。
今日は春休みだろうから、時系列で言えばこの日は俺が18の誕生日を迎えてからわずか数週間後。
急にドアが開いて、当時の俺がどこからか帰ってきた。
その手には何か握られている。
「ん、澪か。おかえり」
聞きなれた兄貴の声。
「ついに俺も、免許とったんだ! どうよ!」
テーブルで座っている兄貴に、ついさっき人生最高の瞬間を迎えたばかりの当時の俺が運転免許証を見せつけていた。
「やったじゃん。おめでとう」
兄貴の落ち着いた声が俺を祝ってくれた。
「そこにお前の分もお湯入れてあるからな。祝杯といこうか」
俺は免許証を丁寧に財布にしまってから、兄貴といっしょにカップラーメンを食べ始めた。
俺は幸せそうに昼食を食べる兄弟を眺めながら閻魔に言った。
「懐かしいなぁ……このとき以上に嬉しいことはなかったよ」
だが、返事が返ってこなかった。
「あれ? 閻魔?」
「ん、何?」
振り返るといなかったはずの閻魔はいつも通りそこに浮いていた。
「あ、ごめんごめん。ちょっと魔界から連絡が。気にしなくていいよ」
罪を裁いてる途中でも連絡はできるのか。
そんなことを考えていると、免許を取ったばかりの俺が兄貴としゃべっていた。
「兄貴、午後はなんか予定ある?」
「大学寮の下見に行こうかと」
「そっか、兄貴引っ越すのか」
「お前この段ボールの山が目に入らんのか」
「電車で行くの?」
「そうだけど?」
「ふふふ……その言葉、待ってた」
「どうした澪」
「俺の車で送ってやるよ」
そういえば免許取得後、調子に乗って車も買っちゃったんだっけ。
今となっては懐かしい、兄貴との思い出を眺めながらそんなことを考えていた。
「え、お前もう車買ったの?」
「おう」
「ちょっと待て免許取ったのいつだよ」
「さっき」
「正確に」
「30分前」
「じゃあ車買ったのいつだよ」
「10分前」
「どう頑張ったって無理だろ」
「それが、この空凪澪にかかればできるんだなー」
そういえばこの時は、兄貴にどうやって俺が速攻で車買ったか教えなかったな。
手順は簡単。
まずインターネットで手頃な中古車を探して買う。
今どきの中古車販売サイトは全国にいろいろな支店があるので、一番近い店で納車してもらう。
免許取得の当日に納車をお願いしたらあとは免許を取って、そのまま取り立てホヤホヤの免許を片手に納車するだけ。
車を受けとるときにはしっかり免許を持っているから、普通に乗って帰れる。
ただこの方法には欠点がひとつあって、それは免許試験に合格しなかったら終わりということ。
まあ当時の俺はまさか自分が免許試験に落ちるとなんてこれっぽっちも思ってなかったんだろうけど。
幸い免許は無事に手に入れて、車で家まで帰ってきたというわけだ。
そんな思い出を空想してると、兄貴と俺が出発するらしいので玄関までついていった。
「これが俺の愛車」
兄貴に自慢する俺が立っているのは駐車場だ。
思えば兄貴は俺のために、わざわざ駐車場付きのアパートを借りたのかも。
ここの駐車場は一応住民が自由に使えるものではあるが、誰にも言わないでこっそりゲットした愛車を堂々と駐車場に止めた当時の俺はかなり図々しいと言わざるを得ない。
「お前にこんな車買う金あったの?」
と兄貴が俺に聞いている。
もちろん俺が買ったのはスポーツカーだった。
それも、ただのスポーツカーじゃない。
日産フェアレディZ。
このときには既に引退していた叔父がかつてプロとして活躍してた時代に、日本各地のサーキットを駆け巡ったあのフェアレディZ。
幼かった俺の目に鮮烈に焼き付いているその曲線的なラインは、俺の中で半ば伝説と化していた。
最初の車を探していた当時の俺には、Z以外考えられなかった。
「こんなの買っちゃって……後悔しない?」
車にあまり詳しくない兄貴の目にも、これが高価な車の類であることは明らかだった。
だが俺は、頑張ってアルバイトで稼いだ金を貯金したかいがあったと思う。
なんてったって憧れのマイカー。
「わりと状態のいい中古があったからさ」
と兄貴に説明しておく。
俺が買ったのは新車価格でいうと400万円近くする車。
怪しい仕事に手をつけたと勘違いされても困る。
「ほら、さっさと寮行こうよ!」
「わかったわかった」
早く車に乗りたい俺に催促されるような形で、二人は出かけて行った。
「すごく幸せそうな顔してたね」
と閻魔が言った。
当たり前だ。このとき以上に嬉しかったことはない。
「次、行こうか」
白くぼやける視界の中でも、真っ赤なフェアレディZは煌々と輝いていた。