4.前世:フェアレディZにありがとう
視界が開けるより早く、鋭いエンジン音が耳に突き刺さった。
「え?」
驚いて目を開けると、そこは楽園だった。
目の前を走り去るレーシングカーの数々が、サーキット中を埋め尽くす官能的な音楽が、観客席を湧き立てる熱狂が、そのすべてが俺を飲み込む。
いつのまにやら涙は引っ込んでいた。
「うわあ、速い!」
隣の閻魔も、猛スピードでコース上を駆ける多数のレーシングカーに目を輝かせていた。
「これって俺が8才になる誕生日の何日か前に見に行ったSUPER GTだろ?」
「えっと……うん、その通り。よく覚えてるね」
手に持つノートで確認した閻魔は、俺の記憶力に感心する。
俺がこの光景を忘れるはずがない。
人生で初めて、生でレースを見た日。
俺はありえない速度でコーナーを走り抜けるレーシングカーの存在感に圧倒され、一日にしてレースの虜になった。
「これ、スーパーGTっていうの?」
珍しく閻魔のほうから質問してきた。
「うん。簡単に言えば、日本で一番人気があるレースカテゴリー」
「へえ……」
そういえば閻魔はレース観戦に行ったことがあるのだろうかと思ったが、知る由もない霊界のことをあれこれ考えるのはやめよう。
ここは三重県、鈴鹿サーキット。
日本有数の国際レーシングコースで、かの有名なF1の日本グランプリにもここが使われている。
俺は8才の誕生日プレゼントとして母に連れられ、初めてサーキットを訪れたのだ。当時は困惑してたけど、目的地が分かった時には大はしゃぎしたっけ……。
そんなことを考えながらぼーっと最終コーナーを眺めていた俺は、気づけばシケインで前の車を軽々と追い抜いた1台のフェアレディZから目が離せなくなっていた。
あのZにだけ、なぜか親近感が湧いてくる。
そうだ、そういえばあのZに乗っているのは――
「シケインで空凪のZがNSXを華麗にオーバーテイク! 今シーズンは勢いがついてますねー」
「空凪選手ももうベテランですからね。安定した走りを見せています」
実況解説がすべてを物語ってくれた。
「えっ!? いま空凪って……」
驚いて俺を見上げる閻魔。
「亡くなった父の弟――つまり俺の叔父は、この頃はプロのレーサーとして活躍していたはずだ」
「あ、そうなんだ!」
閻魔の反応になぜか既視感を覚える。
そういえば今頃同じ話を母から聞かせられている当時の俺も、こんなリアクションしたような。
仕事上、今は何年かに一回しか会えない叔父のことなので忘れかけていたが、思えば俺がレーサーになるきっかけも叔父のおかげだったな……。
子供のころにこれといって好きなものがなかった俺は、ヒーローやら電車やらサッカーやらに没頭するクラスメートを見て、なんとなく疎外感を感じていた。
俺は何をしているときが楽しいんだろう?
世の中のいろいろなものがつまらなく感じ始めた俺に、母が叔父を紹介してくれた。
プロのレーシングドライバーで、笑顔がどことなく父に似ていて、車が何よりも大好きで。
人生をこれ以上ないほどに楽しく生きている叔父の姿を見て、漠然と「こんな大人になれたらいいな」と子供心ながら強く願ったのは今でもはっきりと覚えている。
同時にレースの世界にもどんどんのめりこんでいった俺は、テレビで様々なレースを見て世界の広さを思い知った。
サーキットを誰よりも速く走るレースだけではなかった。
舗装されていない田舎道を猛スピードで走り抜けるレースもあれば、崖っぷちの山を登るレースもある。
たった400メートルの直線に全てを懸けるレースもある。
それらすべてに共通するのは、誰もが全力で勝負していることだった。
車をいじるメカニックも、支援するスポンサーも、もちろん運転するドライバーも。
己のすべてを打ち込んで勝負していた。
テレビに映る彼らの熱い背中は、まだ小学生だった俺にさえまぶしい希望を与えてくれた。
そして、叔父もその中の一人であることがたまらなく嬉しかった。
「そろそろ次に行こう」
と閻魔が言った。
気づけば、視界が霞んで消え始めている。
俺はたった今目の前を過ぎ去った、叔父が運転するフェアレディZに向かって小さく呟いた。
「ありがとう」