126.目に映る幸せ
「魔法性健忘……」
聞いたことのない病名だった。レイのいない部屋で、ソレント先生はゆっくりと説明してくれた。
「許容量を超えた強い波長に曝露したことが原因で、記憶に障害が起きる疾患です。もっとも、魔法使いが発症する場合がほとんどなので、彼のようなケースはかなり稀ですが……」
「え……どういうこと?レイは車の魔法使いです!」
何かの間違いだろう。レイは魔法使いだ。だから去年のシーズン序盤は、まだ未熟な魔法を制御しきれずに、フェアレディZと共鳴してスーパーチャージャーが動作不良を起こすこともあった。だけど、だんだん感覚を掴んできて、最終戦の予選では逆に不調のスーパーチャージャーを自らカットして最高速を伸ばしてた。
ようやくわかってきたって、話してくれたのに。
「魔法使い……?そんなはずは……汎用魔法と勘違いされているとか」
「違います!だって、何の細工もしてないエンジンを、自分で……!」
ああ、ダメだ。言っていることが支離滅裂になってしまう。レイのことになると、いつもいつも伝えたいことが記憶の中からどんどん出てきて、言葉が追い付かない。
「精密検査も行いましたが、彼の波長と共鳴するものはこの世界に存在しません。検査結果は先ほど――」
レイは、魔法使いじゃない。少なくとも彼の言うところによると、それが事実らしかった。つまり私の勘違い?ずっとレイの近くにいて、ずっと支えてずっと支えられてたのに、何も知らなかった。
私はこれまで、何を見てきたんだろう?
*
「ここが、俺の家……?」
「うん。……私たちが住んでる家って言った方が正しいかな」
レイはあたりをきょろきょろ見回しながら、一歩ずつ部屋に上がった。玄関にきっちり揃えて置かれた一足の靴のせいで、なんだか他人が訪ねてきてるような気がして寂しい。レイがいつも履いてるお気に入りのスニーカーなのに。
妙にかしこまった様子でソファーに座っているレイの横に、私も腰を下ろした。
「コーヒー淹れようか?」
「ごめん。遠慮しとく。苦手だから」
疲れきった表情を見てつい癖で聞いちゃったけど、今のレイはコーヒーが苦手らしい。不思議だ。Zのドリンクホルダーにいつも缶コーヒーが収まってたのが、遠い昔のように感じる。
「一旦、整理させてほしい」
そう言って、レイは大きく息を吐いた。
「俺はプロのレーシングドライバーで、君は俺の専属メカニック兼レースエンジニア。で、このアパートで同棲している。……でも恋人ではない」
「あっ……いや、うん。恋人じゃないよ」
もう、急になんてことを言い出すのか。咄嗟に何か言おうと思っても何も浮かばない。
――そんなことを考えてる場合じゃなかった。それにどう間違ったとしても、記憶を失って混乱してる人に変な気持ちを抱くのは能天気もいいところだ。
「それで、俺はプライベーターのレーシングチームに所属している」
「うん。スクーデリア・ヴェント」
私から伝えられたことを自分で反芻して、レイはじっくり考え込み――小さく首を左右に振った。
「やっぱ、都合が良すぎる。こんな俺の夢が全部叶ったどころか、望んだ覚えのない幸せまでおまけ付きなんて、夢だとしても出来すぎぐらいだ。一生に一回レベルの超激レア明晰夢だよ」
そしてまた、否定した。記憶を失ったレイには、目の前の現実が幸福に映っているようだった。あまりにも幸福すぎて、病院を出てから何回も何回も、この現実を夢だと結論付けようとしてる。
まあ、確かにいつも幸せそうに生きてたけど。
「望んだ覚えのない幸せ、か……」
「ああ。こんな美少女の幼馴染、俺なんかが望めば身の程を知れって話だ」
世界が、止まったような気がした。
「な、び……びしょ……なに?」
言葉が出ない。唇が震える。瞬きが止まらない。
「美・少・女。美しい、少女!……どっちかっつったら美しいよりかわいい寄りだけど」
「え……なに、何、かわ……かわいいって」
全身が暑い。と同時に寒いような気もする。心臓が脈打ちすぎて痛い。急に何を言い出すんだ。私のことを、私のことをかわいいって――――――
「照れてるのもかわいいぞ。……せっかくの夢だし、起きるまでとことん遊び倒すか」
思考がまともに働かない私を横目に、レイは勢いよくソファーから立ち上がった。
大きく伸びをして私の方に手を差し出す。
「この世界を案内してくれないかな、美少女さん」
「あ、あの……その呼び方、やめて……」
「怒られちゃった。ごめんね、えっと……エルマ」
違う違う違う。私が耐えられないから。
*
「ギアボックスも使い物にならないな。……グルヴェイグで新調するしかない」
彼女はボールペンを執拗に5回ほどノックした後、1から6までの数とR、Fの文字を乱雑にメモした。
睨むように顔を上げ、彼に問う。
「ギア比は?」
彼は不自然な苦笑いを作り、視線をあてもなく逃がした。
「……知らないんだな?」
「ごめん。しらない」
彼女は呆れたようにため息をついて、ペンをまた何度かノックした。
「なら組むまでだ」
「いや……!」
頭を抱えて思案する彼女を、彼が静止した。
「ボクが調べるよ。できるだけ元の状態に近づけたいんだ。だから……」
彼女はまた何か言いたげな目で彼を見たが、思い直したように一瞬だけ目を閉じた。
まあ、いいだろう。声には出さずともそう伝わった。
「なら早く調べろ。時間がないんだろう?」
彼はただ頷いて、走ってその場を去って行った。
残された彼女だけの空間は、しばらくしてまた溶接の音に満たされた。




