111.赤い宴の主役
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『お集まりの皆さん、本日は誠にありがとうございます』
舞台上でスポットライトに照らされる、一人の初老の男性に注目が集まる。
彼の名前は、アンドレア・タルガ・フェンリル――――――フェンリルの現会長である。この場所に呼ばれた人間ならばそれを知らない者はいないだろう。
そして、その堂々とした立ち姿の背中の向こう側で、黒いベールを被っているシルエット。
フェンリルのエンブレムである狼の紋章が刻まれている。
『……なんて、堅苦しい言葉は抜きで行きましょう、ハッハッ。ここにいる全員の注目は、私ではなく彼女にあるのですから』
その一言に凄味があったのは、聴衆の錯覚ではない。汎用魔法の工夫が凝らされた投影技術により、気付けば眼前のカーテンはスクリーンとなり、アンドレア会長が呼んだ“彼女”の名前が映し出された。
――――――フェンリル・マリエッタGTS。
会場からどよめきと共に、拍手が沸き起こった。しかし肝心のベールはまだ脱がされていない。
シルエットの後ろ側からいつの間にか、赤髪の青年が舞台上に現れていた。
彼が口を開いて名前を名乗る前よりも早く、俺は驚いて息を吞んだ。
『こんばんは。開発ドライバーのフィーノ・コルサです』
一見人当たりの良さそうな雰囲気と、その妙に気取った表情。初めて会った時から変わっていない。
久しぶりだな、フィーノ。
『“フェンリル”と聞けば、人々はまず速さを思い浮かべます。グランプリで戦う、本物のレーシングマシンの速さを。次に、価値です。限られたごく一部の人にしか手に入らない価値』
語り口から自然と話に惹き込まれてしまう。それはフェンリルの持つ圧倒的なブランド力のオーラなのか、はたまたフィーノの才能なのか。
『しかし、我々はこのような問いを出しました。その速さと価値を、今まで手に入れたことのない人が手に入れたら、どれほど満たされるか。それがもし日常に――例えば毎日の通勤や休暇の家族旅行に――寄り添うクルマだったとしたら、どれほど素晴らしいことか』
彼の言葉から紡ぎ出される、スーパーカーの理想図のようなもの。俺が思い浮かべたそれは、どこかで見覚えのある姿形だった。
『その答えが、こちらです』
ベールの下に隠されていた彼女が、露わになった。
ティアルタ共和国のナショナルカラーであると同時に、それが紛れもなくフェンリルであることを一目で分からせる、高貴なイメージカラー。
美しさと気高さでコーティングされた赤を纏い、マリエッタGTSという名を与えられた、この舞台の主人公。それを目にした群衆からは、拍手が鳴り止まなかった。
『心臓部は新開発、3.9リッターのV8ツインターボ。最高出力は600馬力を発揮する紛れもないスーパーカーですが……その力に恐れおののく必要は無用です。扱いやすい7速のDCTと、今まで以上に洗練された制御システムの“コンポーレ”。まるでお気に入りのスニーカーのように、あなたの生活に溶け込むでしょう』
そのスペックを耳にして、やはり俺は既視感に襲われる。
もし、俺の予感が的中していれば。彼女はもう一つ、サプライズを用意しているはずだ。
『――そして、ティアルタの素晴らしい景色とも一体になれます』
フィーノが片手に握られたキーのボタンを押す。
するとかすかな音を立てながら、リアハッチがゆっくり開いた。しかしそれは荷物を収納するためではない。
ルーフがわずかに浮き上がっている。そのまま後ろへと下がっていき――――――会場が驚いている間に、流れる風のような2ドアクーペは、屋根のないスパイダーへと姿を変えていた。
『彼女とドライブに行き、港町の潮風を浴びれば、そこはまさに楽園です』
そう言うとフィーノはマリエッタGTSのドアを開け、上質なインテリアの運転席に腰を下ろした。
アンドレア会長がそれを見届けると、ゆっくりと頷いて、再び視線を会場へと向ける。
『それでは、乾杯いたしましょう。マリエッタGTSの完成を祝して……』
一瞬の静寂の後――――――
「乾杯!」
――――――ズバァァァアアアン!!!
フィーノによって火を入れられたエンジンの鋭い始動音が、会場全体に響き渡った。
まるで、名前を呼ばれたおてんば娘の元気な返事のように。
かくして、豪華なビュッフェパーティーが始まった。
「うわあ、何あれ美味しそう!見てくる!」
気付いた時にはもう既に、お皿を片手に持ったエルマに先を行かれていた。
「待って!……お酒は飲んじゃダメだよ!」
返事が返ってこないが、まあ、大丈夫だろう。この世界の飲酒解禁年齢は18歳で統一されているので、まだ飲むことはできない。それ以前に俺は帰り道も運転しなければならないのだが。
というか、車で来た参加者はかなり多かったはずだ。もしかしてノンアルコールのドリンクも用意されていたり……?
いや、あったとしても飲むかどうかは別問題だ。正直に言うと、ああいうものを美味しく嗜む自信はない。やはりコーヒーが至高。
そもそもここに飲みに来たわけではない。料理を楽しもう。
「君がレイナーデ・ウィロー、で間違いないかな……?」
妙に聞いたことのあるような声に話しかけられ、振り返る。
「君の話を聞いて、ずっと直接会いたいと思っていたんだ」
そこに立っていたのは――――――
「……ジーク、さん!?」
整えられたあご髭に、優しそうな笑顔。ジークベルト・ステイン、その人だった。
クラス1規格に合わせて開発されたフェンリルのマシンを操り、グランプリ・ワンの舞台で毎戦のように熱い優勝争いを繰り広げる、正真正銘のトップドライバー。特に勢いの乗ったシーズンでは圧倒的な速さを魅せ、そのままタイトルを2年連続でかっさらっていった衝撃は記憶に新しい。
「ずっと、見てました……!特にあの3年前のカノムグランプリは凄かったです!寮の友達と一緒にリアルタイムで夜遅くに観てて、それで――」
「まあまあレイ、落ち着いて」
いつの間にかフィーノが俺の横にいた。ようやく我に返る。
「ああ、フィーノ……?久しぶり」
フィーノとジークさん――普段は呼び捨てにしていたが、本人を前にするとそうも行かない――が、知り合いなのか?
いや、確かにフェンリルの開発テストドライバーならば知り合いにはなれるかもしれない。しかし、畑違いの市販車部門とレース部門の二人が、そこまで親しげに……?
「いきなり話しかけてしまってすまないね。フィーノが君を紹介してくれたんだ」
「そう、僕がね。改めて、こちらはフェンリルのジークベルト・ステイン。レイはジークのファンだし、まあそこはいいか。そしてこちらがレイナーデ・ウィロー。……でもジークもレイのレースを観てるから、あえて言うこともないや」
「嘘……俺の、レースを!?」
フィーノの言葉をうまく理解できない。それはつまり、俺が参戦しているティアルタ・クラス2選手権をチェックしているということだろうか。
「ああ。この前の開幕戦で、初めて君のレースを生で観ることができたんだよ。良い走りだ。このまま行けば、グランプリだってそう遠くない」
「グランプリ……本当ですか……?」
「君なら大丈夫だ。……あと、そこまで硬くなる必要はないよ、カテゴリーは違えど同じドライバーなんだから。これからも仲良くしていこうじゃないか」
そう言われて差し出された右手を、俺はしっかり握り返す。
「よろしく、レイナーデ」
「……こちらこそよろしく、ジーク」
その後エルマも合流して、会話は大いに弾んだ。
グランプリのこと、フェンリルのこと、スクーデリア・ヴェントのこと、それから美味しいワインやパンの店、最近増えている高級車の盗難の話、とある自動車メーカー2社の合併の噂、などなど。
そういえばジークはここにいるのに、あの人は見ていないような。




