101.帰り道は全速力で
信号待ち。ギアをニュートラルに入れ、本能に任せてアクセルを吹かす。
溶けそうなほど気持ち良い。
全身が快楽で満たされている。俺は今この瞬間、世界で一番幸せだ。
信号が緑になり、ハイウェイへの入り口を塞ぐ障壁はなくなった。それに俺が気付くよりも早く、無意識のうちにフェアレディZが止まった世界を再び動かす。
一度加速したらもう、その勢いは衰えない。リアタイヤから少し煙をばたつかせながら、撃ち出された弾丸のように突き進んでいく。
シフトアップ。2速へ。
高回転の限界まで回っていたエンジンが沈んでいき、更なる速度を帯びて再び唸る。
俺の脳は遊園地のフリーフォールに乗ったときのように、興奮と重力加速度が混ざってぐちゃぐちゃにされる。
シフトアップ。3速へ。
地の底から湧き上がってくる途方もないトルク。ギアを一段上げるたびに、別次元の速さが襲い掛かりどんどん俺を蝕んでいく。
シフトアップ。4速へ。
加速が止まらない。周りの景色が徐々に歪んでいく。
ああ、また回転が上がる。警鐘を鳴らすように脈を打ち続ける心臓が痛い。苦しい。気持ち良い。
シフトアップ、5速。
夢の中で空を飛んでいるような、無尽蔵に湧いてくる幸福感。
何? ――――――そうか、分かった。どうやら空気の流れが若干乱れているらしい。
コンテナを開けたときに確認したダメージのせいだろう。Zに傷をつけた幽霊が、俺のこの快感を不完全なものにしてしまった傷が、たまらなく憎い。
シフトアップ。
好きだ。
このフェアレディZが、好きだ。
唯一無二のエンジンから車内に滔々と流れ込む、気高い神獣の咆哮のような音。情熱的な赤で彩られた、美しく可憐なボディーの形。運転を重ねるごとに俺を包み込んでくれる安心感。アウトインアウトを完璧にトレースする素直な性格。激しく荒々しい加速。人間の力ではどうあがいても到達できないスピードの領域にある、一筋の光。それを手にすることができる、圧倒的な最高速。
もう離したくない。
*
家に寄らず、そのままガレージの方まで運転していった。
幸いにもまだ日は高い。これなら午後をフルに使って修復に充てることができる。
ガレージの自動ドアは閉まっていた。仕方なく、一旦敷地内にZを停める。
中に入るためのカードキーはタッフィ555の車内に置いてきてしまった。
誰かしらいるだろうし、開けてもらおう。
ガレージに呼び鈴代わりのボタンはあるが――基本的には作業の音などがうるさくて気付いてもらえない。
俺は停めたZのエンジンをもう一度掛け、その場でアクセルを何回か吹かした。
これが一番確実なやり方のはず。
ほどなくしてヘインズさんが出迎えてくれた。
「おっ、おかえりレイナーデ。ついにZが到着したんだね。待っててくれ、すぐ開けるから」
指示通りにバックし、俺に割り当てられた5番リフトの上に慎重に乗せてエンジンを切った。
リフトの周りに用意されている工具一式と計測機器類も、俺が自由に使っていいらしい。なんて器の広い職場なのだろうか。
「改めて、これが俺のマシン……“朱雀”フェアレディZです」
俺が紹介すると、ヘインズさんは無言で力強く頷きながら拍手をした。
それにつられて近くにいた野次馬――もといメカニックたちも歓声を上げた。
「……かなり戦いの数を重ねてきたんだな。一度、リフレッシュさせてあげるといい」
と、遠回しに傷を指摘される。やはりお見通しか。
「もちろんそのつもりです」
リアバンパーは今度交換しよう。この世界にZのためのパーツがなくとも、案外何とかなることはジルペインで学んだ。
するとまず修復するべきなのは、ドアの後ろの方の擦り傷だ。
水道水で柔らかい布を濡らし、ボディーを綺麗にする。
ボディー表面の汚れや埃などを落とさないと、砂利などで逆に傷が付いてしまうことに繋がる。
こうしてフェアレディZと真っ直ぐ向き合って作業するのは久々だ。Zと一緒に何かをするだけで、なんでも楽しくなってしまう。
まずはコンパウンドで磨き、消せる傷を消そう。
なるべく力を入れず、優しく磨く。コンパウンドは傷を埋めるパテとは違い、削り取って目立たなくするだけにすぎない。
大体こんなものか。
さらに粒子が細かいコンパウンドで、繰り返し磨く。
もう充分だろう。
最後にウエスで拭き取り、塗装面を確認する。
遠くから見れば、さっきと比べてマシになっているのは明らかだ。
次は耐水サンドペーパーを使って、傷の中のサビや汚れを取る。
これが残っていると塗料の乗りが悪くなってしまう。
終わったら、シリコンオフという脱脂剤を吹いてワックスや油分などを落とさなければならない。
下準備として大切な工程だ。
「ヘインズさん、シリコンオフってあります?」
「えっと……あっちの、あそこ」
「どこ?」
「あれ。あれの中」
「あ、あれ?」
「そこじゃない。あそこ」
「あー。あざっす」
塗装ブースのような区画の棚に、ケミカル類が並んでいた。
シリコンオフを片手に取る。せっかくだしパテとタッチアップペン、それからマスキングテープも持っていこう。
Zのところに戻り、リフトの横にある散らかった台の上を一度整理して、作業を再開した。
傷の周囲にシリコンオフを吹き付け、タオルで拭き取る。
そうしたらマスキングテープを傷に沿って上下に貼り――――――
*
「――――――レイ、そろそろ夜ごはんのじゅんびしないとだよ」
「えっ?」
振り返ると、いつの間にかシビくんがリフトに寄りかかって立っていた。
どうやら俺は文字通り時間を忘れて作業に没頭していたらしい。黒い空は星々に埋め尽くされ、日没の余韻すらも消えていた。
「ほら、はやくかえろう」
「駄目だ。まだZが……」
ここで手を止める訳にはいかない。
順調に修復できているとはいえ完全に直ってはいないし、まだ仕上げが済んでいない。Zを残して帰るなんて、そんな――――――
「れいぞうこの中、どうなってるかおぼえてる?」
――――――背筋が凍った。
「……やばい。急いで帰るぞ」
手に持っていた道具を台の上に置き、Zをキーで施錠してすぐさま帰り支度を整える。
一刻も早く家に帰って、エルマの気を引かないようにこっそり食材消費メニューを作らなければ。
犬に変化して先に走っていったシビくんを追い、俺も走る。
「ヘインズさん、お先に失礼します!」
「ん?ああ、レイナーデ。お疲れ様」
そして俺とシビくんは、Zにも負けないほどのスピードで家に帰った。




